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8-1|利休の茶道具|第8回 利休の茶道具|千宗易利休|抛筌斎
利休は茶道具においても華美を排し、機能美を追求した造形を重視しました。「利休形」や「樂焼」はその象徴であり、竹花入や茶杓の自作、見立道具の活用を通して、茶の湯に新たな価値観をもたらしました。彼の道具哲学は、現代の日本文化にも深く影響を与えています。


9-1|利休の茶室|第9回 利休の茶室|千宗易利休|抛筌斎
利休が創出した「草庵茶室」は、それまでの書院茶湯とは異なり、狭小空間と質素な設えの中に精神性を凝縮した設計思想が特徴です。躙り口や露地、点光を活かす窓など、機能性と美意識を融合させたその構造は、日本建築や文化全体にも大きな影響を与え続けています。


9-2|国宝「待庵」|第9回 利休の茶室|千宗易利休|抛筌斎
日本最古の茶室として知られる「待庵」は、利休が携わった唯一の現存遺構であり、草庵茶室の原型として国宝に指定されています。二畳隅炉、躙り口、土壁など、すべてが「わび茶」の思想を象徴する設計で、現代建築にも通じる合理性と精神性を兼ね備えた空間です。


9-3|黄金の茶室|第9回 利休の茶室|千宗易利休|抛筌斎
黄金の茶室は、豊臣秀吉が権力の象徴として設けた豪奢な茶室で、三畳の組立式構造に金箔を施した空間でした。質素を重んじる千利休とは相容れない設計ながら、利休の関与も指摘されており、茶の湯の多様性や政治的側面を象徴する存在です。


10-1|利休の師|第10回 ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
千利休が大成した茶の湯の背景には、三人の師から受けた深い影響がありました。北向道陳からは書院茶の礼法を、武野紹鷗からは侘び茶の美意識を、古渓宗陳からは禅の精神を学び、それらを独自に融合・発展させたのが利休のわび茶です。三人の師の存在は、利休を語るうえで欠かせない重要な要素といえるでしょう。


10-2|天下三宗匠|第10回 ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
「天下三宗匠」とは、千利休・今井宗久・津田宗及の三人を指し、信長や秀吉のもとで茶の湯を支えた重要人物たちです。それぞれが異なる茶風をもちながら、時代と共に茶道を発展させ、特に北野大茶湯などの公的茶会では中心的な役割を果たしました。利休と並び称される理由を探ります。


10-3|利休三門衆|第10回 ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
千利休の門弟の中でも特に信頼を寄せられた三人の武将、蒲生氏郷・細川忠興(三斎)・芝山宗綱。彼らは「利休三門衆」と呼ばれ、戦国の世にあって利休の茶の湯を学び、武家文化の中にその精神を浸透させました。茶の湯が政治と文化の両面に影響を与えたその背景には、彼らのような存在があったのです。


10-4|利休七哲|第10回 ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
利休七哲とは、千利休に深く師事した七人の大名・武将を指す後世の呼称で、茶書『茶道四祖伝書』や『江岑夏書』に基づき伝えられています。彼らは武将でありながら茶の湯を深く学び、利休の精神を実践。武家社会に茶道を広める契機となりました。利休没後もその教えを継ぎ、後世の茶の湯文化に大きな影響を残しました。


10-5|利休十哲|第10回 ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
「利休十哲」とは、千利休に師事した十人の武将・茶人を指す後世の呼称で、「利休七哲」に加えて織田有楽斎、千道安、荒木村重の三名を含みます。彼らは、戦乱の世にありながら利休の茶の精神に深く傾倒し、それぞれの地位や人生を通じてその教えを実践し伝えました。


利休年表|わび茶の大成と茶の湯に生きた生涯|千宗易利休|抛筌斎|資料(PDF)無料ダウンロード
堺に生まれた千利休は、北向道陳や武野紹鷗に師事し、やがて織田信長や豊臣秀吉に仕えた天下の茶頭として名を馳せます。秀吉との対立から切腹を命じられた利休の生涯は、茶の湯を極めた精神と信念に貫かれていました。本ページでは、そんな千利休の70年の歩みを、年齢別に史料をもとに詳細にたどります。


0-1|三千家とは|三人の息子と三千家の役割|茶道辞典
茶道辞典 ■ 三千家 ■ 三千家とは ❚ 三千家とは? 三千家とは、千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の教えを継承する「表千家」、「裏千家」、「武者小路千家」の3つの流派を合わせた総称で、今日の茶道において学ぶ人々にとって重要な基盤となっています。 各流派では点前や作法をはじめ、道具の種類や扱い方にも違いがあり、それぞれの流派が千利休の茶道を継承しつつ、それぞれ独自の茶風と特色を代々育んできました。 ❚ 三千家の成り立ち 千家開祖/千宗易利休の孫にあたる千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の四人の息子のうち、勘当された長男を除く三人がそれぞれ独自の茶の湯の形を育み、各家(流派)を興しました。 長男 ▶閑翁宗拙(1592-1652)・・・父宗旦より勘当 次男 ▶似休齋一翁宗守(1605-1676)・・・武者小路千家 三男 ▶逢源斎江岑宗左(1613-1672)・・・表千家 四男 ▶臘月庵仙叟宗室(1622-1697)・・・裏千家 ■ 長男|堺千家 ■ 閑翁宗拙 ~かんおうそうしゅつ~ 文禄元年(1592年) ― 承


1-1|表千家とは|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 表千家とは ❚ 表千家とは 表千家とは千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の孫・千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の四人の息子の内、三男である 表千家四代/逢源斎江岑宗左 によって興された茶道の流派で裏千家、武者小路千家と並び「三千家」の一つとして知られています。 宗旦の息子 長男 ▶閑翁宗拙(1592-1652)・・・父宗旦より勘当 次男 ▶似休齋一翁宗守(1605-1676)・・・武者小路千家四代御家元 三男 ▶逢源斎江岑宗左(1613-1672)・・・表千家四代御家元 四男 ▶臘月庵仙叟宗室(1622-1697)・・・裏千家四代御家元 表千家四代/逢源斎江岑宗左が 千家の家督を継いで以来、代々の家元が利休の教えを守りながら新たな工夫を加え、今日に至るまで茶道界の中心的な存在として確立されてきました。 わび茶の精神を根本としながらも、洗練された美意識と格式を兼ね備えることが、表千家の大きな特徴です。 ❚ 表千家の由来 表千家の呼び名は江戸時代(1603-1868)初期から自然と定


1-2|不審庵とは|茶室|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 不審庵とは ❚ 茶室 ―不審庵― 表千家を象徴するもう一つの呼称に、庵号である「不審庵~ふしんあん~」があります。 「不審庵」とは、表千家を代表する茶室の庵号であり、今日では表千家の屋敷全体や組織全体を指す名称としても用いられています。 不審庵の名は千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の時代からすでに使われており、千家開祖/千宗易利休が大徳寺門前の屋敷に建てた四畳半の茶室に額が掲げられていました。他にも「不審庵」と称する四畳半の茶室がいくつかあったと伝わります。 千家開祖/千宗易利休の子である千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)は千家を再興し、利休の大坂屋敷にあった茶室を再現した「深三畳台目」に「不審庵」の名を付けたとされます(諸説あり)。 さらに、孫・千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)は父・千家二代/千少庵宗淳の没後、祖父・千家開祖/千宗易利休所持の障子や躙口の戸などの古材を用いて「床なしの一畳半」を建て、「不審庵」と称しました。 この千家三代/咄々斎元伯宗旦の不審庵は、息子・表千家四代/


1-3|表千家の資格|相伝|許状|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 相伝 ❚ 許状とは 茶道において、「許状」とは、稽古の各段階ごとに学ぶことが許可される「許し状」のことを指します。これは、修道の証明書や免許のようなものではなく、習得した課目に応じて次の段階へ進むことを許されるものです。 許状とは単なる修了証やライセンス(免許)ではなく、茶道の奥義へと進むための指標となります。 また、千家においては、許状に関する呼称が異なり、表千家では「相伝」、裏千家、武者小路千家では「許状」と呼ばれ、それぞれの流派において独自の許状体系が確立されています。 表千家の免状は、「相伝」と呼ばれ、師事する先生を通じて不審庵への「入門」を許された門弟には、その修業課程に応じ相伝を授与されます。 相伝の種類には、「習事」「飾物」「茶通箱」「唐物」「台天目」「盆点」があり、「盆点」の上位には、夫人の最高位となる「乱飾」、さらにその上には、家元後継者をはじめわずかの男子高弟にのみ許される「皆伝」があります。 ❙ 相伝 表千家に資格制度は存在せず相伝は、一般的に、以下のような流れで相伝が与えられます。


★1-4|表千家の茶室|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 茶室 ❚ 茶室 ~不審庵~ ❚ 茶室 ~残月亭~ ❚ 茶室 ~点雪堂|祖堂~ ❚ 茶室 ~半古張の席~ ❚ 茶室 ~松風楼~


1-5|表千家の施設|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 施設案内 ❚ 表千家 [所 在 地] 〒602-0072 京都市上京区寺之内通堀川東入百々町536 [連 絡 先] TEL 075-432-2195 (事務局代表) [公式 HP] http://www.omotesenke.jp/ ❚ 表千家茶道会館 [所 在 地] 〒602-0005 京都府京都市上京区妙顕寺前町515-3 [連 絡 先] ― [公式 HP] ― ❚ 表千家会館 [所 在 地] 〒602-0072 京都府京都市上京区百々町536 [連 絡 先] ― [公式 HP] ― ❚ 表千家同門会本部・不審庵事務局 [所 在 地] 〒602-0072 京都府京都市上京区百々町536 表千家会館内 [連 絡 先] 075-432-2195 [公式 HP] ― ❚ 表千家北山会館 表千家北山会館は、流派を超えて茶道を学ぶ方はもちろんのこと、一般の誰もが気軽に茶の湯に触れることのできる文化会館として、平成六年(1994年)に開館。 平成八年(1996年)からは毎年秋の恒例行事として「特別展」と「茶の湯文化にふれる


1-4|表千家歴代|御家元|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 表千家|歴代御家元 ❚宗左 表千家の家元は表千家四代/逢源斎江岑宗左の諱である「宗左」を代々襲名し、隠居後は千家三代/咄々斎元伯宗旦の諱である「宗旦」を名乗る慣わしになっています。 また次代の家元(若宗匠)は「宗員」と名乗っています。 この名跡の継承は、表千家の格式と伝統を象徴する重要な要素となっています。 ❚ 表千家|歴代御家元一覧 三千家では千宗易利休(1522-1591)を開祖(初代)とし息子の少庵宗淳(1546-1614)を二代、孫の咄々斎元伯宗旦(1578-1658)を千家三代として三千家の初代御家元は四代(初代)から数える習わしになっています。 ■ 表千家|四代|御家元 ■ 逢源斎 江岑宗左 ~ほうげんさい・こうしんそうさ~ 慶長十八年(1613年) ― 寛文十二年(1672年) 六十歳 千家三代/咄々斎元伯宗旦の三男として生まれ、表千家を創建。 三千家のひとつとして表千家の基盤を築き、武家茶に精通。 多くの聞書や茶会記を著し、利休・元伯の茶の系譜を後世に伝える。 長く子に恵まれなかったために縁戚の久田


1-7|表千家年表|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 表千家|年表 ❚ 表千家|年表 1613年 (慶長五年) 表千家四代/逢源斎江岑宗左生まれる★ 1614年 (慶長十八年) 十月十日 千家二代/少庵宗淳死去▼ 1633年 (寛永十年) 千家三代/咄々斎元伯宗旦が一畳台目の茶室「不審庵」を建立。 1646年 (正保三年) 千家三代/咄々斎元伯宗旦が隠居、裏手の屋敷(今日庵)に移り住む▼ 表千家四代/逢源斎江岑宗左が家督を継承▲ 1647年 (正保四年) 千家三代/咄々斎元伯宗旦が茶室「不審庵」を三畳台目に建て替える 1650年 (慶安三年) 表千家五代/随流斎良休宗左生まれる★ 1658年 (年) 十一月十九日 千家三代/咄々斎元伯宗旦死去▼ 1663年 (寛文三年) 夏頃 表千家四代/逢源斎江岑宗左による茶書「江岑夏書」が成立。 1672年 (寛文十二年) 表千家四代/逢源斎江岑宗左死去▼ 1678年 (延宝六年) 表千家六代/覚々斎原叟宗左生まれる★ 1691年 (元禄四年) 七月十九日 表千家五代/随流斎良休宗左死去▼ 1705年 (宝永二年) 表千家七代/如



