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4-1|表千家のあゆみ|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 表千家のあゆみ ❚ 表千家とは 表千家とは千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の孫・千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の四人の息子の内、三男である 表千家四代/逢源斎江岑宗左 によって興された茶道の流派で裏千家、武者小路千家と並び「三千家」の一つとして知られています。 宗旦の息子 長男 ▶閑翁宗拙(1592-1652)・・・父宗旦より勘当 次男 ▶似休齋一翁宗守(1605-1676)・・・武者小路千家四代御家元 三男 ▶逢源斎江岑宗左(1613-1672)・・・表千家四代御家元 四男 ▶臘月庵仙叟宗室(1622-1697)・・・裏千家四代御家元 表千家四代/逢源斎江岑宗左が 千家の家督を継いで以来、代々の家元が利休の教えを守りながら新たな工夫を加え、今日に至るまで茶道界の中心的な存在として確立されてきました。 わび茶の精神を根本としながらも、洗練された美意識と格式を兼ね備えることが、表千家の大きな特徴です。 ❚ 表千家の由来 表千家の呼び名は江戸時代(1603-1868)初期から自然


4-2|不審庵とは|茶室|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 不審庵とは ❚ 茶室 ―不審庵― 表千家を象徴するもう一つの呼称に、庵号である「不審庵(ふしんあん)」があります。 「不審庵」とは、表千家を代表する茶室の庵号であり、今日では表千家の屋敷全体や組織全体を指す名称としても用いられています。 不審庵の名は千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の時代からすでに使われており、利休が大徳寺門前の屋敷に建てた四畳半の茶室に額が掲げられていました。利休には他にも「不審庵」と称する四畳半の茶室がいくつかあったと伝わります。 利休の子である千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)は千家を再興し、利休の大坂屋敷にあった茶室を再現した「深三畳台目」に「不審庵」の名を付けたとされます(諸説あり)。 さらに、利休の孫・千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)は父・少庵の没後、利休所持の障子や躙口の戸などの古材を用いて「床なしの一畳半」を建て、「不審庵」と称しました。 この宗旦の不審庵は、息子・表千家四代/逢源斎江岑宗左に受け継がれますが、正保三年(1646年)にこれを畳み、新たに


4-3|相伝|資格|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 相伝 ❚ 許状とは 茶道において、「許状」とは、稽古の各段階ごとに学ぶことが許可される「許し状」のことを指します。これは、修道の証明書や免許のようなものではなく、習得した課目に応じて次の段階へ進むことを許されるものです。 許状とは単なる修了証やライセンス(免許)ではなく、茶道の奥義へと進むための指標となります。 また、千家においては、許状に関する呼称が異なり、表千家では「相伝」、裏千家、武者小路千家では「許状」と呼ばれ、それぞれの流派において独自の許状体系が確立されています。 表千家の免状は、「相伝」と呼ばれ、師事する先生を通じて不審庵への「入門」を許された門弟には、その修業課程に応じ相伝を授与されます。 相伝の種類には、「習事」「飾物」「茶通箱」「唐物」「台天目」「盆点」があり、「盆点」の上位には、夫人の最高位となる「乱飾」、さらにその上には、家元後継者をはじめわずかの男子高弟にのみ許される「皆伝」があります。 ❙ 相伝 表千家に資格制度は存在せず相伝は、一般的に、以下のような流れで相伝が与えられます。


4-4|表千家歴代|御家元|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 表千家歴代 ❚宗左 表千家の家元は表千家四代/逢源斎江岑宗左の諱である「宗左」を代々襲名し、隠居後は千家三代/咄々斎元伯宗旦の諱である「宗旦」を名乗る慣わしになっています。 また次代の家元(若宗匠)は「宗員」と名乗っています。 この名跡の継承は、表千家の格式と伝統を象徴する重要な要素となっています。 ❚ 表千家歴代家元 三千家では千宗易利休(1522-1591)を開祖(初代)とし息子の少庵宗淳(1546-1614)を二代、孫の咄々斎元伯宗旦(1578-1658)を千家三代として三千家の初代御家元は四代(初代)から数える習わしになっています。 ■ 表千家|四代|御家元 ■ 逢源斎 江岑宗左 ~ほうげんさい・こうしんそうさ~ 慶長十八年(1613年) ― 寛文十二年(1672年) / 六十歳 千家三代/咄々斎元伯宗旦の三男として生まれ、表千家を創建。 三千家のひとつとして表千家の基盤を築き、武家茶に精通。多くの聞書や茶会記を著し、利休・元伯の茶の系譜を後世に伝える。 長く子に恵まれなかったために縁戚の久田家より表千家五


4-5|表千家年表|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 表千家年表 ❚ 千家年表 1522年 (大永二年) 大坂・堺にて田中与四郎(千家開祖/千宗易利休)生まれる★ 1546年 (天文十五年) 千家二代/ 少庵宗淳生まれる★(母は利休の後妻となる宗恩。) 1576年 (天正四年) 千家二代/ 少庵宗淳が 千家開祖/千宗易利休の娘・亀と結婚。利休の養子となる 1578年 (天正六年) 千家三代/咄々斎元伯宗旦生まれる★ 1582年 (天正十年) 千家開祖/千宗易利休は豊臣秀吉の命により、京都・山崎に茶室「待庵」を創建 1585年 (天正十三年) 千家開祖/千宗易利休は豊臣秀吉の禁中茶会に参し、正親町天皇から「利休」の居士号を 勅賜される 1587年 (天正十五年) 千家開祖/千宗易利休が豊臣秀吉の命により、京都・北野神社にて「北野大茶湯」を開催 1589年 (天正十七年) 千家開祖/千宗易利休の寄進により大徳寺/金毛閣が落成 1591年 (天正十九年) 豊臣秀吉の怒りにふれ千家開祖/千宗易利休が自害▼ 千家二代/ 少庵宗淳 は会津黒川城主の蒲生氏郷の下で蟄居となる 159


5-1|裏千家のあゆみ|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 裏千家のあゆみ ❚ 裏千家とは 裏千家とは、千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の孫・千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の四人の息子の内、四男である裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622-1697)によって興された茶道の流派で表千家、武者小路千家と並び「三千家」の一つとして知られています。 宗旦の息子 長男 ▶ 閑翁宗拙(1592-1652)・・・父宗旦より勘当 次男 ▶ 似休齋一翁宗守(1605-1676)・・・武者小路千家四代御家元 三男 ▶ 逢源斎江岑宗左(1613-1672)・・・表千家四代御家元 四男 ▶ 臘月庵仙叟宗室(1622-1697)・・・裏千家四代御家元 臘月庵仙叟宗室が千家の道統を受け継ぎ、独自の工夫を加えながら発展を遂げ、表千家、武者小路千家を含めた三千家の中でもいち早く門戸を広げ、茶道の普及と近代化に対応した流派です。 近年の裏千家では、十五代御家元の鵬雲斎汎叟宗室が掲げた「一碗からピースフルネスを」という理念を掲げ、茶道を通じて平和の大切さを伝える活動を積極


5-2|今日庵とは|茶室|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 今日庵とは ❚ 茶室 ―今日庵― 裏千家を表すもう一つの呼称に、庵号である「今日庵(こんにちあん))」があります。 「今日庵」とは、裏千家を象徴する茶室の庵号であり、今日では裏千家の屋敷全体や組織全体を指す名称としても用いられています。 今日庵は、 千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658) の隠居所として建てられた茶室です。 現在の「今日庵」は、昭和五年(1930年)の火災によって焼失しましたが、その後すぐに旧構を踏襲して再建され、今日の姿に至っています。 ❚ 今日庵の変革 「今日庵」は京都の裏千家に現存し、「又隠」とともに裏千家の中心をなす重要な茶室です。 その創建は、千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の孫である千宗旦によるものと伝えられています。 宗旦は利休の侘びをさらに深め、利休の茶を忠実に継承した人物であり、その境地を表現した一畳半は利休が提唱した茶の湯のすべてを体現する場とされています。 この一畳半は、家督を継いだ 表千家四代/逢源斎江岑宗左 によって一度畳まれましたが、宗旦は隠居の際に再び


5-3|許状|資格|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 許状 ❚ 許状とは 茶道において、「許状」とは、稽古の各段階ごとに学ぶことが許可される「許し状」のことを指します。これは、修道の証明書や免許のようなものではなく、習得した課目に応じて次の段階へ進むことを許されるものです。 許状は単なる修了証やライセンス(免許)ではなく、茶道の奥義へと進むための指標となります。また、千家においては、許状に関する呼称が異なり、表千家では「相伝」、裏千家、武者小路千家では「許状」と呼ばれ、それぞれの流派において独自の許状体系が確立されています。 裏千家では、許状の他に平成十二年(2000年)の改定により、「資格」制度が整備されました。 これにより、許状の取得が単なる技術習得の証明にとどまらず、社会的な評価としての意味も持つようになりました。就職活動や履歴書に記載することが可能となり、茶道が単なる趣味ではなく、文化活動や礼儀作法の修得として認識されるようになっています。 裏千家の「資格」には初級、中級、上級、講師、専任講師、助教授に分かれています。 ❙ 許状と資格...


5-4|裏千家歴代|御家元|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 裏千家歴代 ❚ 宗室 裏千家の家元は代々「宗室(そうしつ)」 の名を襲名する慣わしになっています。 また隠居後の名として「玄室(げんしつ)」「大宗匠(だいそうしょう)」「大宗匠(おおそうしょう)」の名が見られます。 この名跡の継承は、裏千家の格式と伝統を象徴する重要な要素となっています。。 ❚ 裏千家歴代家元 三千家では千宗易利休(1522-1591)を開祖(初代)とし息子の少庵宗淳(1546-1614)を二代、孫の咄々斎元伯宗旦(1578-1658)を千家三代として三千家の初代御家元は四代(初代)から数える習わしになっています。 ■ 裏千家|四代|御家元 ■ 臘月斎 仙叟宗室 ~ろうげつさい・せんそうそうしつ~ 元和八年(1622年) ― 元禄十年(1697年) / 七十六歳 千家三代/元伯宗旦の四男として生まれ、裏千家を創建。 三千家のひとつとして裏千家の基礎を確立し、今日庵・又隠・寒雲亭などの茶室とともに侘び茶の境地を継承。 加賀前田家に茶具奉行として仕え、大樋焼や茶釜の普及に貢献。 利休御祖堂を建て、利休百


5-5|裏千家年表|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 裏千家年表 ❚ 千家年表 1522年 (大永二年) 大坂・堺にて田中与四郎(千家開祖/千宗易利休)生まれる★ 1546年 (天文十五年) 千家二代/ 少庵宗淳生まれる★(母は利休の後妻となる宗恩。) 1576年 (天正四年) 千家二代/ 少庵宗淳が 千家開祖/千宗易利休の娘・亀と結婚。利休の養子となる 1578年 (天正六年) 千家三代/咄々斎元伯宗旦生まれる★ 1582年 (天正十年) 千家開祖/千宗易利休は豊臣秀吉の命により、京都・山崎に茶室「待庵」を創建 1585年 (天正十三年) 千家開祖/千宗易利休は豊臣秀吉の禁中茶会に参し、正親町天皇から「利休」の居士号を 勅賜される 1587年 (天正十五年) 千家開祖/千宗易利休が豊臣秀吉の命により、京都・北野神社にて「北野大茶湯」を開催 1589年 (天正十七年) 千家開祖/千宗易利休の寄進により大徳寺/金毛閣が落成 1591年 (天正十九年) 豊臣秀吉の怒りにふれ千家開祖/千宗易利休が自害▼ 千家二代/ 少庵宗淳 は会津黒川城主の蒲生氏郷の下で蟄居となる 159


6-1|武者小路千家のあゆみ|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 武者小路千家のあゆみ ❚ 武者小路千家とは 武者小路千家とは、千利休(1522-1591)の孫にあたる千宗旦(1578-1658)の四人の息子の内の次男である武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676)によって興された茶道の流派で表千家、裏千家と並び「三千家」の一つとして知られています。 宗旦の息子 長男 ▶ 閑翁宗拙(1592-1652)・・・父宗旦より勘当 次男 ▶ 似休齋一翁宗守(1605-1676)・・・武者小路千家四代御家元 三男 ▶ 逢源斎江岑宗左(1613-1672)・・・表千家四代御家元 四男 ▶ 臘月庵仙叟宗室(1622-1697)・・・裏千家四代御家元 武者小路千家は、表千家や裏千家に比べて規模は小さいものの、質素・簡素を旨とする茶道の在り方を貫き、独自の発展を遂げてきました。 権威や形式にとらわれず、日常生活の中で茶の湯を実践することを重んじており、「静寂と調和」の精神を大切にしています。その教えは国内外に広まり、茶道の普及と文化の継承に努めています。...


6-2|官休庵とは|茶室|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 官休庵とは? ❚ 茶室 ―官休庵― 武者小路千家を表すもう一つの呼称に、庵号である「官休庵(かんきゅうあん)」があります。 「官休庵」とは、武者小路千家を象徴する茶室の庵号であり、今日では武者小路千家の屋敷全体や組織全体を指す名称としても用いられています。 この「官休庵」は、 千家開祖/千宗易利休(1522-1591) の孫・ 千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658) の次男であり、武者小路千家初代となった 武者小路千家四代/似休齋一翁宗守 の好みによるものと伝えられています。 宗旦が生涯を在野に過ごしたのに対し、武者小路千家四代/似休齋一翁宗守は高松藩に茶頭として仕え、寛文七年(1667年)に七十五歳で官を辞しました。その際、茶の湯に専心する決意の象徴として「官休」と号したのがこの茶室の名の由来とされます。 官休庵はこれまで幾度も焼失し、そのたびに再興を重ねてきました。安永・天明・嘉永の火災を経て、明治十四年(1881年)には丹波から移築された写しが建てられましたが、老朽化のため大正十五年(1926年


6-3|許状|資格|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 許状 ❚ 許状とは 茶道において、「許状」とは、稽古の各段階ごとに学ぶことが許可される「許し状」のことを指します。これは、修道の証明書や免許のようなものではなく、習得した課目に応じて次の段階へ進むことが許されるものです。 許状は単なる修了証やライセンス(免許)ではなく、茶道の奥義へと進むための指標となります。また、千家においては、許状に関する呼称が異なり、表千家では「相伝」、裏千家・武者小路千家では「許状」と呼ばれ、それぞれの流派において独自の体系が確立されています。 武者小路千家では、許状の取得を通じて教授や正教授の資格を得ることができます。 許状の種類は以下の通りに分かれており、裏千家と共通する部分も多いですが、名称や修道の流れには武者小路千家ならではの特徴があります。 ❙許状 的伝 小習Ⅰ(長緒、盆香合) 小習Ⅱ(入子調、台調) 小習Ⅲ(壺飾、軸飾) 唐物 茶通箱 台天目 盆点 教授 相伝 皆伝 武者小路千家では、小習までのお稽古を通じて、武者小路千家の茶道の基礎を学びます。...


6-4|武者小路千家歴代|御家元|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 武者小路千家歴代 ❚ 宗守 武者小路千家の家元は代々「宗守」の名を襲名する慣わしになっています。 これは、千家の家元制度の中でも特に 「家元が茶道の根本精神を継承し、次代へとつなぐ」 という役割を重視したものといえます。 「宗守」の名は、一翁宗守(1605-1676)の参禅の師、大徳寺第百八十五世/玉舟宗和尚(1600-1668)の命名で、四百年の間、絶えることなく千利休の道統と血統を伝え、当代に至ります。 また、その折同時に示された「宗屋」の名は代々後嗣に継がれ、「宗安」は隠居後の号となっています。 ❚ 武者小路千家歴代 三千家では千宗易利休(1522-1591)を開祖(初代)とし息子の少庵宗淳(1546-1614)を二代、孫の咄々斎元伯宗旦(1578-1658)を千家三代として三千家の初代御家元は四代(初代)から数える習わしになっています。 ■ 武者小路千家|四代|御家元 ■ 似休斎 一翁宗守 ~じきゅうさい・いちおうそうしゅ~ 慶長十年(1605年) ― 延宝四年(1676年) / 七十二歳...


6-5|武者小路千家年表|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 武者小路千家年表 ❚ 千家年表 1522年 (大永二年) 大坂・堺にて田中与四郎(千家開祖/千宗易利休)生まれる★ 1546年 (天文十五年) 千家二代/ 少庵宗淳生まれる★(母は利休の後妻となる宗恩。) 1576年 (天正四年) 千家二代/ 少庵宗淳が 千家開祖/千宗易利休の娘・亀と結婚。利休の養子となる 1578年 (天正六年) 千家三代/咄々斎元伯宗旦生まれる★ 1582年 (天正十年) 千家開祖/千宗易利休は豊臣秀吉の命により、京都・山崎に茶室「待庵」を創建 1585年 (天正十三年) 千家開祖/千宗易利休は豊臣秀吉の禁中茶会に参し、正親町天皇から「利休」の居士号を 勅賜される 1587年 (天正十五年) 千家開祖/千宗易利休が豊臣秀吉の命により、京都・北野神社にて「北野大茶湯」を開催 1589年 (天正十七年) 千家開祖/千宗易利休の寄進により大徳寺/金毛閣が落成 1591年 (天正十九年) 豊臣秀吉の怒りにふれ千家開祖/千宗易利休が自害▼ 千家二代/ 少庵宗淳 は会津黒川城主の蒲生氏郷の下で蟄居と


1-1|利休の祖|01.利休の出自|千宗易利休|抛筌斎
千利休の祖先は、果たして本当に将軍家に仕えた名家だったのか——?
祖父・田中千阿弥とされる人物には複数の伝承が残る一方で、その多くは裏付けを欠き、矛盾も含まれています。
姓の由来、同朋衆との関係、記録上の空白——今なお多くの謎に包まれた利休の出自を、現存する史料をもとに読み解いていきます。


1-2|利休の出自|01.利休の出自|千宗易利休|抛筌斎
利休の「家族」は、なぜこれほど多くの人物と縁を持ったのか?
先妻・後妻それぞれとの間に多数の子をもうけ、商家や僧侶、茶人と広く婚姻関係を築いた利休。さらに、連れ子である少庵を養子に迎えた背景には、家の継承と思想の伝承という戦略が見え隠れします。
千家の礎を築いた“家族構成”を紐解きます。


1-3|利休の師|01.利休の出自|千宗易利休|抛筌斎
利休に師はいたのか? もしそうなら、誰が彼の「茶」と「こころ」を育てたのか?
堺の豪商・武野紹鷗から「侘び」を学び、大徳寺の禅僧たちから精神的な軸を得た利休。複数の師の存在が、利休の思想を深め、多層的な茶の湯を形づくっていきます。
その師弟関係の中に、利休という存在の核が見えてきます。