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1-2|不審庵とは|茶室|表千家|不審庵|三千家

三千家



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■ 表千家|不審庵 ■

不審庵とは






❚ 茶室 ―不審庵―

表千家を象徴するもう一つの呼称に、庵号である「不審庵~ふしんあん~」があります。

「不審庵」とは、表千家を代表する茶室の庵号であり、今日では表千家の屋敷全体や組織全体を指す名称としても用いられています。



不審庵の名は千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の時代からすでに使われており、千家開祖/千宗易利休が大徳寺門前の屋敷に建てた四畳半の茶室に額が掲げられていました。他にも「不審庵」と称する四畳半の茶室がいくつかあったと伝わります。



千家開祖/千宗易利休の子である千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)は千家を再興し、利休の大坂屋敷にあった茶室を再現した「深三畳台目」に「不審庵」の名を付けたとされます(諸説あり)。 さらに、孫・千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)は父・千家二代/千少庵宗淳の没後、祖父・千家開祖/千宗易利休所持の障子や躙口の戸などの古材を用いて「床なしの一畳半」を建て、「不審庵」と称しました。



この千家三代/咄々斎元伯宗旦の不審庵は、息子・表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)に受け継がれるが、正保三年(1646年)にこれを畳み、新たに平三畳台目の茶室を建てます。 これが、現在まで伝わる表千家の平三畳台目「不審庵」の始まりとなっています。










❚ 不審庵の変革

表千家四代/逢源斎江岑宗左が建てた「不審庵」は、もとは表千家の茶室「残月亭」の南側に接して建てられており、間の狭い部分に水屋を設けたため、茶道口が点前座の風炉先側に開くという、やや変則的な構えとなっています。



この不審庵は天明八年(1788年)の「天明の大火」で焼失しましたがその後再興され、「残月亭」の南側から離れ独立した建物となりました。

さらに明治三十九年(1907年)にも焼失しましたが、大正二年(1913年)に忠実に旧構を踏襲して再建され、今日の姿に至っています。



不審庵の内部は、横に長い三畳台目で躙口を右隅に、正面に床の間、その隣に給仕口を配しています。床柱には赤松皮付丸太、相手柱にはあて丸太、床框には筋入の北山丸太を用い、全体が質素で端正な千家流の意匠で統一されています。


点前座は三種の異なる天井が交わる中心に赤松の中柱を据え、袖壁に横竹を入れ下部を吹き抜けにしています。客座側には利休流の二重棚が設けられ、台目構えの典型を示します。茶道口は風炉先側にあり、勝手付には板畳を入れて点前座にゆとりをもたせた構造です。また千家三代/咄々斎元伯宗旦の助言により採用された「釣襖」もこの席ならではの特徴となっています。



点前座の二方の壁にはくの字の腰板が張られ、後方上部に下地窓を設け、光を抑えた侘びの空間を形成しています。客座天井の突上窓も印象的で空間に静かな奥行をもたらします。



客座と点前座の間の小壁には、祖父・千家開祖/千宗易利休の参禅の師である大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)筆の「不審菴」の扁額が掲げられています。











❚ 庵号 ―不審庵―

​茶室「不審庵」の庵号は千家開祖/千宗易利休の参禅の師である大徳寺百十七世/古渓宗陳から賜った禅語に由来したといわれています。


「不審花開今日春~ふしんはなひらくこんにちのはる~」 ―現代訳― 疑問を持つことで悟りの花が開き、今日もまた新たな春を迎える

この禅語は、「探究する姿勢の大切さ」や「学び続ける心」を示しており、千家開祖/千宗易利休の求道心と深く結びついています。











❙ まとめ

不審庵は千家開祖/千宗易利休以来の侘びの精神を色濃く伝える茶室として、幾度の焼失と再建を経ながらも、今日まで表千家の中心にあり続けてきました。

その静謐で端正な佇まいは今も京都・表千家の敷地内に現存し、茶道の理念と伝統を体現する象徴的な存在として今日も多くの茶人に敬われています。











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