4-2|不審庵とは|茶室|表千家|不審庵|三千家
- ewatanabe1952

- 2023年10月27日
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三千家

■ 表千家|不審庵 ■
不審庵とは
❚ 茶室 ―不審庵―
表千家を象徴するもう一つの呼称に、庵号である「不審庵(ふしんあん)」があります。
「不審庵」とは、表千家を代表する茶室の庵号であり、今日では表千家の屋敷全体や組織全体を指す名称としても用いられています。
不審庵の名は千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の時代からすでに使われており、利休が大徳寺門前の屋敷に建てた四畳半の茶室に額が掲げられていました。利休には他にも「不審庵」と称する四畳半の茶室がいくつかあったと伝わります。
利休の子である千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)は千家を再興し、利休の大坂屋敷にあった茶室を再現した「深三畳台目」に「不審庵」の名を付けたとされます(諸説あり)。 さらに、利休の孫・千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)は父・少庵の没後、利休所持の障子や躙口の戸などの古材を用いて「床なしの一畳半」を建て、「不審庵」と称しました。
この宗旦の不審庵は、息子・表千家四代/逢源斎江岑宗左に受け継がれますが、正保三年(1646年)にこれを畳み、新たに平三畳台目の茶室を建てました。 これが、現在まで伝わる表千家の平三畳台目「不審庵」の始まりとなっています。
❚ 不審庵の変革
表千家四代/逢源斎江岑宗左が建てた不審庵は、もとは表千家の茶室「残月亭」の南側に接して建てられていました。間の狭い部分に水屋を設けたため、茶道口は点前座の風炉先側に開くという、やや変則的な構えとなっています。
表千家四代/逢源斎江岑宗左の不審庵は天明八年(1788年)の「天明の大火」まで存続し、その後焼失と再興を経て、「残月亭」の南側から離れ独立した建物となりました。
明治三十九年(1907年)にも焼失しましたが、大正二年(1913年)に忠実に旧構を踏襲して再建され、今日の姿に至っています。
不審庵の内部は、横に長い三畳台目で構成されています。躙口は右隅にあり、正面に床の間、その隣に給仕口が設けられています。赤松皮付丸太の床柱、あて丸太の相手柱、節入り北山丸太の床框など、全体が主張を抑えた千家流の端正な造りです。
点前座は三種の異なる天井が交わる中心に赤松の中柱を据え、袖壁に横竹を入れ下部を吹き抜けにしています。さらに、客座側には利休流の二重棚が設けられ、台目構えの典型が再現されています。茶道口は風炉先側に設けられ、勝手付には板畳を入れて点前座にゆとりをもたせた構造です。千家三代/咄々斎元伯宗旦の助言により採用された「釣襖」もこの席ならではの特徴となっています。
点前座の二方の壁にはくの字の腰板が張られ、後方上部に下地窓を開けています。織部好みのように多くの窓を設けることなく、光を抑えた侘びの空間を形成しています。客座天井の突上窓も印象的です。
客座と点前座の間の小壁には、利休の参禅の師である大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)筆の「不審菴」の扁額が掲げられています。
❚ 庵号 ―不審庵―
茶室「不審庵」の庵号は千利休の参禅の師である古渓宗陳に庵号を求めた際に示された禅語に由来したといわれています。
「不審花開今日春(ふしんはなひらくこんにちのはる)」 (疑問を持つことで悟りの花が開き、今日もまた新たな春を迎える)
この禅語は、茶道における「学び続ける心」や「探究する姿勢の大切さ」を示しており、千利休の求道心と深く結びついています。
❙ 不審庵の象徴性
不審菴は表千家の家元を代表する茶席であり、同時に表千家全体を象徴する総称でもあります。
利休は大徳寺門前の少庵の家に入り、最初に四畳半の座敷を造り、後に一畳半の小座敷を建てました。この一畳半の寸法をもとに、少庵は現在の家元の所在地である本法寺前に不審菴を営み、利休所持の障子やくぐり戸を用いたと伝わります。 宗旦の助言を得た江岑はこの不審庵を約十年余り所持したのち、現在の平三畳台目へと改めました。
このように、不審庵は利休以来の侘びの精神を色濃く伝える茶室として、時代ごとの焼失や再建を経ながらも、今日まで表千家の中心にあり続けています。
その姿は今も京都・表千家の敷地内に現存し、茶道の理念と伝統を体現する象徴的な存在となっています。


