千宗易利休|利休年表
- ewatanabe1952

- 2023年4月20日
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抛筌斎 千宗易 利休

利休年表
❚ 目次
00歳~19歳
20歳~39歳
40歳~59歳
60歳~69歳
最終年
没後
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❚ 0歳~19歳
1522年 (大永二年)
0歳 和泉国(大坂)、堺の今市町にて、「納屋衆*」と呼ばれる商人階級の家に、父・田中与兵衛*と母・月岑妙珎*の子として生まれる。 幼名は与四郎。
1535年 (天文四年)
14歳 4月28日付の『念仏差帳日記*』に、「堺・念仏寺の築地修理に銭一貫文を寄進」として「与四郎殿 せん」の名が見られる。これが歴史史料上に現れる千利休の初出とされる。
1537年 (天文六年)
16歳 『松屋会記*』の9月13日の条に、「京都の与四郎」が奈良の塗師・松屋久政*を朝会に招いた旨の記述がある。しかしこの「与四郎」が利休か否かは疑問である。
1538年 (天文七年)
17歳 この年より、茶匠・北向道陳*のもとで茶の湯を学び始める。
1540年 (天文九年)
19歳 この頃より、北向道陳を介して武野紹鷗*に師事し、本格的に茶を学び始める。 また同年、父・田中与兵衛が没する。
❚ 20歳~39歳
1544年 (天文十三年)
23歳 天文二十一年(1552年)2月27日付の『松屋会記』に、「堺・千宗易」が、奈良・称名寺の住職・恵遵房と、奈良の塗師である松屋久政を招き、一会を催した旨の記録がある。 これが「宗易(千利休)」という名が確実に初見する歴史史料とされている。
1545年 (天文十四年)
24歳 この頃までに大徳寺の大林宗套*(あるいは笑嶺宗訢*)より『抛筌斎利休宗易居士』の居士号*を与えられたのではないかと考えられている。(※諸説あり)。
1546年 (天文十五年)
25歳 長男の千道安*が誕生。 また後に養子となる千少庵*が誕生。(※後妻・千宗恩*の連れ子で千家二代)
1560年 (永禄三年)
39歳 この頃に山上宗二*を弟子に迎え入れたとされる。
❚ 40歳~59歳
1562年 (永禄五年)
41歳 1月18日 師である北向道陳が死去。 11月26日 塗師・松屋久政を訪れ「松屋三名物*」を拝見。
1565年 (永禄八年)
44歳 1月29日 武将・松永久秀*は大和国の多聞山城の茶に利休を招き、天下一の名物と称された「九十九髪茄子の茶入*」を用いる。
1572年 (元亀三年)
51歳 12月8日 大坂/堺の南宗寺*にて兄(異母兄弟)・千康隆*とともに父・田中与兵衛の三十三回忌の法要を営む。
1573年 (天正元年)
52歳 9月15日 古渓宗陳の京都・大徳寺入寺に奉加として「利休銭百貫文」、「宗及五十寛文」、「宗巴十寛文」「利休内寛文」を寄進。 11月23日 天下人・織田信長が京都・妙覚寺において堺衆を招いておこなわれた茶会にて薄茶を点て振舞う。
1574年 (天正二年)
53歳 この頃、織田信長の茶頭*となり、今井宗久*、津田宗及*と共に「天下の三宗匠*」と称される。 またこの頃より「抛筌斎*」の斎号を用いる。 3月24日 織田信長が京都・相国寺において堺衆を招いておこなわれた茶会にて特別に『千鳥の香炉*』を拝見。 3月27日 織田信長の奈良下向に供奉し、奈良・正倉院の名香「蘭奢待*」の切取を拝見。 4月3日 織田信長、京都・相国寺に利休と今井宗久を招き「初花肩衝茶入*」を披露。 また織田信長は利休と今井宗久*の2人名だけが名物香炉を所持していたために正倉院名物の名香「蘭奢待」を下賜。
1575年 (天正三年)
54歳 9月16日 織田信長の越前出陣に際し鉄砲弾千個を贈り、返礼の黒印状を遣わされる。
1576年 (天正四三年)
55歳 この頃、六女・亀と義息である千少庵が結婚。
1577年 (天正五年)
56歳 妻・宝心妙樹が死去。
1578年 (天正六年)
57歳 この年に後の千家三代となる孫の千元伯宗旦が誕生。 またこの頃に後妻・千宗恩と再婚。
❚ 60歳~69歳
1582年 (天正十年)
61歳 この頃に京都・山崎の妙喜庵*内に二畳茶室『待庵(国宝)*』を建造。 6月21日 織田信長が本能寺の変にて自刃。
1583年 (天正十一年)
62歳 5月24日 『津田宗及茶湯日記』の天正11年5月24日の条には、太閤・豊臣秀吉の催した坂本城朝会の中に『茶堂宗易』と見え、この頃までには豊臣秀吉の『茶頭』になっていたと考えられる。 11月29日 参禅の師である笑嶺宗訢が死去。
1584年 (天正十二年)
63歳 10月15日 『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』が当代の大茶の湯者を大阪城に集めた茶会において茶頭を努める。
1585年 (天正十三年)
64歳 この頃より千少庵にかわり大徳寺門前の屋敷に居を構え、この屋敷内に四畳半茶室「不審庵*」を建立。(※諸説あり) 9月下旬 古渓宗陳(あるいは大林宗套)が選定の『利休居士』号を第百六代天皇・正親町天皇より勅賜される。 また同月、古渓宗陳より『利休居士号賀頌』を贈られる。 10月7日 京都御所において豊臣秀吉が正親町天皇に茶を献じ、利休も後見役として仕え、天皇還御後に親王や公家衆に台子の茶の湯を献じている。 また同日「利休居士 宗易(花押)」と署名した御所会記を春屋宗園*に送り、奉仕の茶会記録を古渓宗陳に書き贈っている。 12月20日 豊臣秀吉は大阪城内の「黄金の茶室*」を毛利輝元*の使者であった小早川隆景*に見せ利休に茶を振舞わせた。
1586年 (天正十四年)
65歳 1月6日 年頭の参内において豊臣秀吉は黄金茶室を禁中に移し茶会を行い、その際、利休が茶頭をつとめる。 10月13日 『松屋会記』によると奈良の中坊源吾の朝会において「宗易形ノ茶ワン」と記される。おそらくこれが「樂茶碗(長次郎茶碗)」の初見とされる。 10月23日 大和郡山の尾崎嘉助の茶会において「今ヤキ茶ワン」と記述あり。
1587年 (天正十五年)
66歳 この年の3月頃までに「京都・聚楽第*」の北東角(現:京都市葭屋町通元誓願寺下ル)に位置する場所に「聚楽屋敷(通称:利休屋敷)」を構え、邸内には書院他に「四畳半」、「一畳台目」の茶室が作られたと伝えられている。 またこの書院は色付九間書院と呼ばれ、今日の表千家にある茶室『残月亭*』のもとになったと伝えられている。 9月15日 弟の千宗把に「北野大茶の湯」への参会のため、堺衆の上洛を促す書状を送る。 10月1日 京都・北野天満宮において、「北野大茶の湯」が開催。 利休は豊臣秀吉が所持する名物茶器にて一席を設ける。 10月12日 細川三斎*、古田織部*と共に「聚楽第」に神谷宗堪*を招き茶会を催す。
1588年 (天正十六年)
67歳 1月7日 聚楽屋敷の四畳半茶室にて催した朝会に前田利家を含む17名を招く。 9月4日豊臣秀吉の怒りに触れ、筑前大宰府へ流罪となった古渓宗陳の送別茶会を聚楽屋敷にて催す。
1589年 (天正十七年)
68歳 この年あたりに大徳寺山門の修築を開始したとされる。 1月 亡き父母他の追善供養のため大徳寺・聚光院に永代供養料「米七石(およそ1,000㎏)」を寄進し、併せて千家の菩提寺と定める。 7月16日 利休の尽力により古渓宗陳の流罪赦免となる。 12月5日 修復を寄進した大徳寺三門「金毛閣*」が完成。同時に三門の楼上に「利休の木像」が安置され、落慶法要を営む。 12月8日 父・田中与兵衛の五十回忌法要を営む。
1590年 (天正十八年)
69歳 4月11日 高弟の山上宗二が豊臣秀吉の怒りに触れ、相州小田原にて処刑される。 6月20日 豊臣秀吉の小田原攻めに同行した際、伊豆韮山の竹で「園城寺*」・「よなが*」・「尺八*」の花入を削り、その内の「園城寺」に、「武蔵鐙の文*」の書状を添えて古田織部に送る。 8月17日 最晩年の茶会記である『利休百会記』の記述をはじめる。
❚ 最終年 1591年 (天正十九年) 70歳
1月18日
南方録*によると三女・三、六女・亀を除くいずれかの息女が自害。
1月20日
この頃より大徳寺山門の楼上に安置された「利休の木像」が問題となる。
1月22日
「利休の木像」の件に付き、不謹慎であるとの弾劾が行われ利休は春屋宗園を訪ねて相談し帰宅。 同日、所持の「狂言袴茶碗・引来鞘*」を進上する旨の「書状(引木鞘の文)*」を認め、「狂言袴茶碗・引来鞘」と共に細川三斎に贈る。 同日、利休最大の理解者であった、豊臣秀長が死去。
2月4日
自身の茶と共にあゆみ大切に保持していた秘蔵の「橋立の茶壷*」と「書状(横雲の文)*」を認め大徳寺・聚光院に預け、「御渡しなさるまじく候(決して他人に渡さぬようお願いします)」と伝えている。
2月14日
豊臣秀吉より大坂/堺への蟄居が命じられる。 その際、淀の渡しから堺の津へと戻る際に細川三斎と古田織部の二名が淀の船着場にて見送りに赴く。 同日、細川三斎と古田織部が見送りをしてくれた御礼を伝えてもらうように依頼した「書状」を細川家家老の松井康之宛に贈る。
2月15日
自身を心配し「消息」を使者に届けさせた芝山監物*に返礼の「書状」を認め贈る。
2月16日
豊臣秀吉より、切腹の申し渡しが下る
2月24日
死を覚悟し、千家の家督相続から縁戚の者への自身の財産処分などを認めた「書状(末期の文)*」を認める。
2月25日
大徳寺山門の「利休の木像」が一条戻橋に磔刑に処せられる。
2月26日
蟄居先の大坂・堺から京都の聚楽屋敷に戻どされる。
2月28日
朝、孫の千宗旦へ「辞世の偈*」と「和歌」を認めた後、聚楽第にて切腹し生涯を閉じる。 ※切腹にあたっては『[刀鍛冶]粟田口吉光(生没年不詳)』作の『短刀「吉光」』が用いられたという。鎌倉時代の刀工、粟田口吉光の脇差。宗家に伝わり、家元のみが見られるものだという。
自刃後
長男・千道安は飛騨高山の金森長近*の元へ、養嗣子の千少庵は会津の蒲生氏郷*の元へ預けられる。
❚ 没後
1594年 (文禄三年)
11月13日 徳川家康と蒲生氏郷により千少庵の赦免を豊臣秀吉に懇願。 両名の署名入りの「連署状(少庵召出状)*」にて千少庵は京都に戻り、千家を再興することとなる。
1614年 (慶長十九年)
千少庵が没し、息子の千宗旦が千家の家督を相続。
1646年 (正保三年)
千宗旦の隠居に伴い。三男の表千家四代/江岑宗左が千家の家督を相続し、表千家*の基礎を固める。
1653年 (承応二年)
千宗旦、再び隠居(又隠居)して、もとの隠居の二畳を「今日庵*」と命名し、又隠居の家に四畳半を建てて「又隠」と命名。 四男の裏千家四代/仙叟宗室は、「今日庵」を継承して、裏千家*の基礎を固めた。
― (―年)
次男の武者小路千家四代/一翁宗守*は一時期、千家を離れ、塗師の吉岡家に養子に入っていたが兄弟の勧めにより千家に戻り、武者小路に千家を興す。 千家三代/千宗旦の三人の子供(利休の曾孫)がそれぞれ千家を継承し、表千家、裏千家、武者小路千家を開祖し三千家が誕生し現在に至る。
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