10-5|利休十哲|10.利休ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
- ewatanabe1952

- 2023年4月24日
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全10回 抛筌斎 千宗易 利休

ゆかりの人々
― 利休十哲 ―
❚ 利休十哲とは
利休十哲とは、千利休*に師事した武将や茶人のうち、特に深く関わったとされる十人を指す呼称で、寛政年間(1789年~1801年)にまとめられた『古今茶人系譜**』にその名が初めて見られます。
利休十哲は、前項にて紹介した利休七哲**の七人に、新しく三名の高弟を加えた十名の構成となっています。
以下では、追加された三名についてご紹介します。
❚ 織田長益 (有楽斎)

読 み : おだ・ながます (うらくさい)
生 年 : 天文十六年(1547年)-元和七年(1621年)十二月十三日|七十五歳
職 位 : 織田信長*の弟|茶人
織田信長の十三歳年下の弟であり、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。
千利休に茶道を学び、利休七哲(十哲とも)の一人で、本能寺の変の後、剃髪して有楽斎と称し茶道「有楽流*」を創始。
京都・建仁寺の正伝院に茶室「如庵(国宝)**」を建てる。
如庵は現在、愛知県犬山市の有楽苑に移されています。
❚ 千紹安 (道安)
読 み : せん・しょうあん (どうあん)
生 年 : 天文十五年(1546年)-慶長十二年(1607年)二月十七日|六十二歳
職 位 : 千利休の長男|茶人
千利休の長男で、安土桃山時代から江戸前期の茶人。
父・利休とともに茶頭**として豊臣秀吉*に仕える。
利休の死後は、京都を離れるが文禄三年(1594年)に徳川家康*や前田利家*の計らいにより堺に戻ったのち「堺千家**」を再興。
しかし、道安には跡継ぎがなく、道安の死去と共にこの堺千家は断絶する。
❚ 荒木村重 (道薫)
読 み : あらき・むらしげ (どうくん)
生 年 : 天文四年(1535年)-天正十四年(1586年)五月四日|五十二歳
職 位 : 茶人
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、茶人。
初めは池田氏、さらに三好氏に属し、天正一年(1573年)に織田信長に仕える。
織田信長の死後は、茶の道で豊臣秀吉に仕え、そこで茶人「道薫」として復帰。
❚ 利休の高弟一覧
利休三門衆 | 利休七哲 | 利休十哲 | |
蒲生氏郷 | 〇 | 〇 | 〇 |
細川忠興 (三斎) | 〇 | 〇 | 〇 |
芝山宗綱 (監物) | 〇 | 〇 | 〇 |
高山南坊 (右近) | 〇 | 〇 | |
牧村利貞 (兵部) | 〇 | 〇 | |
古田重然 (織部) | 〇 | 〇 | |
瀬田掃部 | 〇 | 〇 | |
前田利長 | △ | ||
有馬豊氏 | △ | ||
金森長近 | △ | ||
織田長益 (有楽斎) | 〇 | ||
千紹安 (道安) | 〇 | ||
荒木村重 (道薫) | 〇 |
❚ 利休十哲の意義とその影響
利休十哲とは、千利休の教えを受け、その精神をそれぞれの立場で体現した武将や茶人たちの代表的存在です。
武力と美、政治と精神性が交錯した戦国の世において、利休の茶の湯は彼らの生き方に深く影響を与え、のちの茶道文化の発展にも大きな役割を果たしました。
とりわけ追加された三名は、利休との深い関わりだけでなく、それぞれの人生の背景がいかに茶の湯と結びついたかを知るうえでも、非常に重要な存在と言えるでしょう。
❚ 次回は・・・
次回の「利休年表|千利休」では、これまで学んできた千利休の生涯を年表形式で整理し、時代ごとの出来事や転機を追いながら、千利休の全体像をご紹介していきます。
登場人物
千利休|せん・りきゅう
……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年
織田信長|おだ・のぶなが
……… 年
豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし
……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年
徳川家康|とくがわ・いえやす
……… 年
前田利家|まえだ・としいえ
……… 年
用語解説
古今茶人系譜|ここんちゃじんけいふ
……… 。
利休七哲|りきゅうしちてつ
……… 。
有楽流|うらくりゅう
……… 織田有楽斎が創始した茶の流派。
如庵|じょあん
……… 織田有楽斎が建てた茶室。国宝。
茶頭|ちゃがしら
……… 。
堺千家|さかいせんけ
……… 千家の内、千紹安 (道安)による一系。その後断絶。
