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9-3|黄金の茶室|09.利休の茶室|千宗易利休|抛筌斎

全10回 抛筌斎 千宗易 利休



千利休の人物イラストと掛物「利休の茶室」を組み合わせた、移動可能な黄金の茶室と政治的演出の背景を解説する冒頭画像。


利休の茶室

― 黄金の茶室 ―






❚ 利休のアンガーマネジメント

「黄金の茶室」とは豊臣秀吉*が自身の権勢を象徴するために設計を命じた極めて豪奢な組立式茶室です。



平三畳の間取りで構成され、解体・搬送が可能な構造を持ち、天正十四年(1586年)には御所に運ばれ、百六代天皇/正親町天皇*に披露された記録が残っています。



この豪華な茶室の存在は、「わび茶**」を極めた千利休*の美学とは対極にあるものであるが、当時の利休がこの設計に関与していなかったとは考えられず、利休の葛藤が伺える。



しかし一方で茶の湯における「美」の多様性を象徴する存在とも言えます。







❚ 秀吉と黄金の茶室

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豊臣秀吉は茶の湯を政治の手段として巧みに用いた人物であり、「黄金の茶室」はその象徴的事例とされています。



百六代天皇/正親町天皇への参内に際して黄金の茶室を携えて臨んだという逸話からも、豊臣秀吉がいかに茶を外交・権威の演出に利用したかがうかがえます。



この華美な空間は、豊臣秀吉の――権力の美――を象徴する一方で、――わび・さび**――を重視する利休の茶とは明らかに異なる方向性を持っていました。











❚ 利休と黄金の茶室

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黄金に輝く茶室は、できる限り無駄を排し、簡素な美を追求する利休の「わび茶」の精神とは、根本的に相容れないものでした。



利休の茶の湯は、華美を排除し、徹底した簡素と精神性を重んじたものであり、黄金に彩られた茶室の設計に関与することには、大きな葛藤があったと推察されます。



設計への関与を示す明確な史料は残されていませんが、当時の状況から見て、豊臣秀吉の命による茶室の設計に利休が全く関わらなかったとは考えにくく、何らかの形で携わっていた可能性が高いとされています。



この「黄金の茶室」は、秀吉が志向した――華麗なる茶の湯――と、利休が追求した――わび茶――との間にある美意識の大きな隔たりを象徴する存在となりました。



その価値観の違いは、両者の関係に次第に影を落とし、最終的には利休の死に至る背景の一端をなしたと考えられています。








 


 

❚ ​黄金の茶室の再現

​黄金の茶室はその後、歴史の中で失われましたが、以下のように近年になっていくつかの再現が試みられています。


■ 名古屋城 (名古屋市) ――

1993年:名古屋城本丸御殿の復元プロジェクトの一環として再現


■ 大阪城 (大阪市) ――

2011年:大阪城天守閣に再現モデルを展示


■ MOA美術館 (静岡県熱海市)――

2015年:桃山時代の技法を用いて復元



いずれも史料をもとに可能な限り当時の姿を再現したものとされ、今日においても黄金の茶室の存在感と歴史的意義を伝えています。

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❚ ​美の追求と対立

黄金の茶室は、豊臣秀吉が茶の湯を政治的手段として用い、――権力と美の融合――を体現した象徴的な空間とされていますが、現存はしておらず、記録のみにその姿を残しています。



その豪奢な設えは、利休が追求した「わび茶」の簡素で静謐な美とは根本的に相容れず、両者の間に明確な美意識の対立を生じさせました。



当時においては、こうした価値観の違いが融和することはなく、むしろ対立として現れ、利休の死にも影を落とした要因の一つとされています。



今日では、この美意識の対立が、結果として茶の湯に多様な価値をもたらし、日本文化の幅広い美の在り方を示す一端であったと考えることができるのではないでしょうか。











❚ 次回は・・・

次回の「10-1|利休の師|10.利休ゆかりの人々」では、千利休に茶の湯の基礎を伝えた師たち――に焦点を当て、彼らの教えがどのように利休の茶風の形成に影響を与えたのかを探っていきます。











登場人物


  • 千利休|せん・りきゅう

……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年


  • 正親町天皇

……… 。


  • 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし

……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年









  

用語解説


  • わび茶

……… 。


  • わび・さび|わび・さび

……… 。



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商品カテゴリー
茶道具|中古道具市
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