10-4|利休七哲|第10回 ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
- ewatanabe1952

- 2024年7月26日
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更新日:11月22日
全10回 抛筌斎 千宗易 利休

■ 第10回 ゆかりの人々 ■
利休七哲
❚ 利休七哲とは
利休七哲とは、千利休*に深く師事し、その茶の湯の精神を学んだ七人の大名・武将を指す呼称です。
彼らは、茶の湯の理念を武家社会に浸透させた功績を持ち、後世の茶道史において特に重要な存在とされています。
なお、利休七哲という名称は利休の存命中に用いられていたものではなく、後世の茶書や記録によって整理された歴史的概念です。
この名称の初見は松屋久重*が編纂した『茶道四祖伝書**』において「七人衆」として「蒲生氏郷」「細川忠興」「芝山監物」「高山南坊」「牧村兵部」「古田織部」「前田利長」、の名が挙げられたことに遡ります。
さらに、寛文三年(1663年)表千家四代/江岑宗左 *によって記された『江岑夏書**』では、「利休弟子七人衆」として、「前田利長」に代わり「瀬田掃部」が加えられました。
その後の茶書では、「有馬豊氏」や「金森長近」などが名を連ねることもありますが、一貫して「蒲生氏郷」と「細川忠興」の二人は常に含まれています。
今日の一般的な認識では『江岑夏書』に記された以下の七人が「利休七哲」として広く知られています。
蒲生氏郷
細川忠興 (三斎)
芝山宗綱 (監物)
高山南坊 (右近)
牧村利貞 (兵部)
古田重然 (織部)
瀬田掃部
これらの人物は、単なる利休の弟子という枠を超え、いずれも政治・軍事・文化の各方面で大きな足跡を残しています。
彼らの存在によって、茶の湯は戦国から江戸初期の武家社会に深く根を下ろし、茶道の発展に重要な役割を果たしました。
以下では、「利休七哲」と称されるこれら七人の武将たちについて個別にご紹介します。
※なお、「蒲生氏郷」「細川忠興」「芝山監物」については、前項「利休三門衆」にて解説しています。
❚ 高山南坊 (右近)
読 み : たかやま・みなみのぼう (うこん)
生 年 :
職 位 :
。
❚ 牧村利貞 (兵部)
読 み : まきむら・としさだ (ひょうぶ)
生 年 :
職 位 :
。
❚ 古田重然 (織部)

読 み : ふるた・しげなり (おりべ)
生 年 : 天文十二年(1543年)-慶長二十年(1615年)六月十一日|七十三歳。
職 位 : 武将|織部流開祖
戦国時代後期から江戸時代初期にかけての武将。
千利休の弟子として利休七哲に数えられ、千利休が豊臣秀吉の怒りをかい、堺に蟄居**を命じられた際、豊臣秀吉の権威を恐れず細川忠興と共に淀の船着場まで見送りに行っている。
千利休亡きあとは、織部流**の武家茶道を確立し、茶の湯名人として天下の茶人になり、またその作意は織部好みとよばれ、茶室に興福寺「八窓庵**」、藪内家「燕庵**」などがあり、織部焼**、織部灯籠などにその名をとどめている。
❚ 瀬田正忠 (掃部)
読 み : せた・まさただ (かもん)
生 年 : 天文十七年(1548年)-文禄四年(1595年)八月十日|四十八歳
職 位 :武将
戦国時代の武将で、豊臣秀吉*に仕える。通称清右衛門。
官位に由来する「瀬田掃部」という名で知られる。茶人であり、千利休の高弟。
また茶杓削りの名手で、多くの茶杓が今日まで伝えられている。
文禄四年(1595年)に、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられた豊臣秀次*と共に処刑される。
❚ △前田利長
読 み : まえだ・としなが
生 年 : 永禄五年(1562年)一月十二日-慶長十九年(1614年)五月二十日|五十三歳
職 位 : 武将
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、初代加賀藩主。
父と共に織田信長*に仕え、その後豊臣秀吉に仕える。
文禄二年(1593年)十月、前田利長の邸宅にて茶会を開き、徳川家康*を招く。
❚ △有馬豊氏
読 み : ありま・とよじ
生 年 : 永禄十二年(1569年)五月三日-寛永十九年(1642年)九月三十日|七十四歳
職 位 : 武将
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、初めは豊臣秀吉に仕える。
秀吉の死後、徳川家康に仕え家康の養女・連姫*を妻とする。
茶人としても有名で、千利休の高弟であり利休七哲の一人で徳川家康から燕脂屋肩衝の茶入を贈られている。
❚ △金森長近
読 み : かなもり・ながちか
生 年 : 大永四年(1524年)-慶長十三年(1608年)八月十二日
職 位 : 茶人
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、茶人。
織田家に仕官して織田信長に仕え、その後、豊臣秀吉に仕える。
千利休や古田織部らに茶の湯をならい、茶の道においては孫の金森宗和*によって金森家の茶道は大成を成し遂げます。
❚ 利休の高弟一覧
利休三門衆 | 利休七哲 | 利休十哲 | |
蒲生氏郷 | 〇 | 〇 | 〇 |
細川忠興 (三斎) | 〇 | 〇 | 〇 |
芝山宗綱 (監物) | 〇 | 〇 | 〇 |
高山南坊 (右近) | 〇 | 〇 | |
牧村利貞 (兵部) | 〇 | 〇 | |
古田重然 (織部) | 〇 | 〇 | |
瀬田掃部 | 〇 | 〇 | |
前田利長 | △ | ||
有馬豊氏 | △ | ||
金森長近 | △ | ||
織田長益 (有楽斎) | 〇 | ||
千紹安 (道安) | 〇 | ||
荒木村重 (道薫) | 〇 |
❚ 門弟たちが支えた利休の茶の湯
利休七哲は、後世の文献によって体系化された利休門下の精鋭たちです。
彼らの存在を通じて、茶の湯は武家の精神文化としても成熟を遂げていきました。
千利休の教えが一時的な流行に終わることなく、時代を超えて受け継がれる道となったのは、こうした優れた門弟たちの力があってこそと言えるでしょう。
❚ 次回は・・・
次回の「10-5|利休十哲|10.利休ゆかりの人々」では、利休の門弟の中でも特に重視された10人とその経歴や利休との関係を深く掘り下げ、どのように茶の湯の発展に寄与したかをご紹介します。
登場人物
千利休|せん・りきゅう
……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年
松屋久重|まつや・ひさしげ
……… 年
江岑宗左|こうしん・そうさ
……… 年
豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし
……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年
豊臣秀次|とよとみ・ひでつぐ
……… 年
織田信長|おだ・のぶなが
……… 年
徳川家康|とくがわ・いえやす
……… 年
連姫|れんひめ
……… 年
金森宗和|かなもり・そうわ
……… 年
用語解説
茶道四祖伝書|さどうしそでんしょ
……… 松屋久重によって編まれた利休、織部、三斎、遠州の四大茶人の記録書。
江岑夏書|こうしんげがき
……… 1663年、父・千宗旦から聞いた話を表千家四代/江岑宗左が書き留めた聞書。
蟄居|ちっきょ
……… 。
織部流|おりべりゅう
……… 。
八窓庵|はっそうあん
……… 。
燕庵|えんなん
……… 。
織部焼|おりべやき
……… 。

