10-3|利休三門衆|10.利休ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
- ewatanabe1952

- 2023年4月26日
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全10回 抛筌斎 千宗易 利休

利休ゆかりの人々
― 利休三門衆 ―
❚ 利休三門衆とは
利休三門衆とは、千利休*の門弟の中でも、特に重んじられた三人の高弟を指す呼称です。
彼らは千利休のの茶の湯を学び、その精神を戦国の世において実践し、広める役割を果たしました。
茶人であると同時に武将としても名を馳せた彼らの存在は、茶の湯が武家社会に深く浸透していく契機となりました。
❚ 蒲生氏郷
読 み : がもう・うじさと
生 年 : 弘治二年(1556年)-文禄四年(1595年)|三十九歳
職 位 : 武将
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した大名。茶号は「松寿軒」。
織田信長*に早くから仕え、織田信長の娘・冬姫*を正室として迎えるほどの信任を得る。
「本能寺の変**」の後は、豊臣秀吉*に従い、「賤ヶ岳の戦い**」、「小牧・長久手の戦い**」などに従軍。
武将としての才覚とともに、教養・美意識に優れ、茶の湯・連歌・書などの文化面にも深く関わった数少ない文化武将のひとりです。
❚ 細川忠興(三斎)

読 み : ほそかわ・ただおき・さんさい
生 年 : 永禄6年(1563年)-正保三年(1646年)
職 位 : 大名|豊前小倉藩初代藩主|三斎流開祖
幼少より武芸と学問を修め、明智光秀*の娘・玉(細川ガラシャ)*と政略結婚。
「本能寺の変」の後は、豊臣秀吉に従い、「関ヶ原の戦い**」後は徳川家康*の信任を得て、豊前小倉39万石に封じられ、のち熊本54万石へ加増。
晩年は家督を子の細川忠利*に譲り、三斎と号して茶と文化に専念。
❚ 芝山宗綱 (監物)
読 み : しばやま・むねつな (けんもつ)
生 年 : 生没享年不詳
職 位 : 武将
安土桃山時代の武将で、初めは織田信長に仕え後に豊臣秀吉に従う。
千利休に茶道を学び、蒲生氏郷、細川忠興と共に茶湯に優れた人物として利休門三人衆に数えられた武将の一人。
天正九年(1581)には津田宗及*や山上宗二*らを招いて茶会を行なっている。
千利休から長次郎作の黒楽茶碗「雁取」**を贈られるなど、利休とは懇意であった。
❚ 利休の高弟一覧
利休三門衆 | 利休七哲 | 利休十哲 | |
蒲生氏郷 | 〇 | 〇 | 〇 |
細川忠興 (三斎) | 〇 | 〇 | 〇 |
芝山宗綱 (監物) | 〇 | 〇 | 〇 |
高山南坊 (右近) | 〇 | 〇 | |
牧村利貞 (兵部) | 〇 | 〇 | |
古田重然 (織部) | 〇 | 〇 | |
瀬田掃部 | 〇 | 〇 | |
前田利長 | △ | ||
有馬豊氏 | △ | ||
金森長近 | △ | ||
織田長益 (有楽斎) | 〇 | ||
千紹安 (道安) | 〇 | ||
荒木村重 (道薫) | 〇 |
❚ 武士階級への橋渡し
利休三門衆は、茶の湯の精神を実生活に取り入れた実践者であり、利休の教えを広めた重要な人物です。
彼らの存在は、茶の湯が武士階級の文化へと定着していく礎となり、後の茶道発展においても無視できない影響を及ぼしました。
❚ 次回は・・・
次回の「10-4|利休七哲|10.利休ゆかりの人々」では、利休の門弟の中でも特に重視された7人とその経歴や利休との関係を深く掘り下げ、どのように茶の湯の発展に寄与したかをご紹介します。
登場人物
千利休|せん・りきゅう
……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年
織田信長|おだ・のぶなが
……… 。
冬姫|ふゆひめ
……… 。
豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし
……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年
明智光秀|あけち・みつひで
……… 。
細川ガラシャ|ほそかわ・がらしゃ
……… 。
徳川家康|とくがわ・いえやす
……… 。
細川忠利|ほそかわ・ただとし
……… 。
津田宗及|つだ・そうきゅう
……… 。
山上宗二|やまのうえ・そうじ
……… 。
長次郎|ちょうじろう
……… 。
用語解説
本能寺の変|ほんのうじのへん
……… 。
賤ヶ岳の戦い|しずがたけのたたかい
……… 。
小牧・長久手の戦い|こまきながくてのたたかい
……… 。
関ヶ原の戦い|せきがはらのたたかい
……… 。
雁取|がんどり
……… 樂家初代/長次郎作の黒樂茶碗で、千利休が芝山宗綱に与えたとされる名碗。サンリツ服部美術館蔵
