6-2|官休庵とは|茶室|武者小路千家|官休庵|三千家
- ewatanabe1952

- 2023年8月27日
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更新日:2 日前
三千家

■ 武者小路千家|官休庵 ■
官休庵とは?
❚ 茶室 ―官休庵―
武者小路千家を表すもう一つの呼称に、庵号である「官休庵(かんきゅうあん)」があります。
「官休庵」とは、武者小路千家を象徴する茶室の庵号であり、今日では武者小路千家の屋敷全体や組織全体を指す名称としても用いられています。
この「官休庵」は、千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の孫・千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の次男であり、武者小路千家初代となった武者小路千家四代/似休齋一翁宗守の好みによるものと伝えられています。
宗旦が生涯を在野に過ごしたのに対し、武者小路千家四代/似休齋一翁宗守は高松藩に茶頭として仕え、寛文七年(1667年)に七十五歳で官を辞しました。その際、茶の湯に専心する決意の象徴として「官休」と号したのがこの茶室の名の由来とされます。
官休庵はこれまで幾度も焼失し、そのたびに再興を重ねてきました。安永・天明・嘉永の火災を経て、明治十四年(1881年)には丹波から移築された写しが建てられましたが、老朽化のため大正十五年(1926年)に武者小路千家十二代/愈好斎聴松宗守(1889-1953)によって再建され、今日の姿となりました。
❚ 官休庵の構造と意匠
今日の官休庵は、入母屋造り・柿葺きの出庇を備えた一畳台目の茶室です。
点前座の畳と客座の畳の間には幅約十五cmの半板を入れ、亭主と客の間にほどよい距離感を生み出しています。
これは利休の一畳半や宗旦の一畳半、裏千家「今日庵」に通じる理念を踏まえつつも、武者小路千家四代/似休齋一翁宗守独自の工夫を示す構成です。
炉は向切りとされ、下座床を設けた二畳敷の空間に仕上げられています。床柱には杉の柾目材を八角に削り磨いたものを用い、床框には桧の磨き丸太を据えるなど、清らかで均整のとれた造りです。
茶道口の踏込には半畳分の板畳を敷き、天井は白竹竿縁の蒲天井と掛込天井を組み合わせ、細部にまで変化を持たせています。
床の向かいには下地窓、躙口の上には連子窓、点前座の脇には風炉先窓を設け、採光を抑えつつも明暗の妙を活かした侘びの趣を感じさせます。
点前座の横には水屋洞庫があり、高齢の亭主でも使いやすいように工夫されています。
内部は竹簀子の流しと棚が設けられ、杉板戸二枚をはめ込んだ実用的な構えです。
また前庭には、鎌倉時代(1185-1333)の四方仏の蹲踞が置かれ、武者小路千家四代/似休齋一翁宗守ゆかりの品として伝えられています。
こうした細やかな意匠は、限られた一畳台目の中に機能と侘びを凝縮し、主客が心を交わすための空間として完成されています。
❚ 庵号 ―官休庵―
「官休庵」という庵号の由来については、今日においても確かな史料は残されていませんが、安永三年(1774年)に茶室を建造した際に父の宗旦に名を授けられたと伝わります。
同年、武者小路千家四代/似休齋一翁宗守の「百年忌」の際に大徳寺三百九十世/眞巌宗乗(1721-1801)和尚により、記された頌には、次のような一節が残されています。
「古人云官因老病休 翁者蓋因茶休也歟」 訳)昔の人は、官職を老いや病のために退いたというが、翁(宗守)は茶の湯に専念するために官(茶道指南)を辞めたのであろう
この解釈によれば、「官休庵」の名は「官職を辞して茶の湯に生きる」ことを意味し、茶道が単なる嗜みではなく、生き方そのものとして位置づけられたことを表していると考えられる。
❙ 官休庵の象徴性
官休庵は、武者小路千家の精神と伝統を象徴する茶室として、創建以来その形を受け継いできました。
武者小路千家四代/似休齋一翁宗守の工夫した構成は今日までほとんど変わらず、宗旦・利休から伝わる侘びの理念を忠実に体現しています。
時代を超えて再建を繰り返しながらも、官休庵は常に茶の湯の原点に立ち返る空間として、京都・武者小路千家の中枢に静かに息づいています。


