1-1|利休の祖|01.利休の出自|千宗易利休|抛筌斎
- ewatanabe1952

- 2023年6月25日
- 読了時間: 6分
更新日:10月14日
全10回 抛筌斎 千宗易 利休

利休の出自
― 利休の祖 ―
❚ 利休のルーツを辿る
千利休*の出自や生涯に関する記録は、時代を経て多くの文献や資料によって伝えられてきましたが、その内容には諸説あり、異同も見られます。
とくに茶道各流派により、その解釈や伝承にも違いがあります。
本サイトでは、主に茶道関係の伝書・古文書・研究書などを参考に、広く知られる説をもとに管理者個人の見解を交えて構成しております。
学術的・歴史的な検証を目的としたものではなく、茶道文化への理解を深める一助としてお読みいただければ幸いです。
なお、より詳しい検証や正確な情報をお求めの際は、原典資料や各流派の公式文献ならびにご自身の先生のご意見をご参照くださいますようお願いいたします。
本ページの内容は、利休および茶道に関わる先人の営みに対して敬意をもって記述しております。
また、今後の研究や資料に基づき、随時見直し・修正を行う可能性があることをあらかじめご了承願います。
史実には複数の説が存在することをご理解のうえ、ご参照くださいますようお願い申し上げます。
❚ 利休の出自にまつわる史料と謎

本記事では、利休の出自についてご紹介します。
その中でも特に、利休の「祖父」および「父」とされる人物の伝承と史料を読み解くことで、千家の系譜がいかに語られてきたかを辿ります。
複数の記録に残る伝承にはさまざまな矛盾も多く、利休の出自に関しては今なお続く、歴史のミステリーとされています。
❚ 利休の祖をめぐる伝承

利休の祖父は田中千阿弥**といい、千家の家譜『千家系譜**』によれば
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―原文― 「里見太郎義俊二男、田中五郎末孫、生国城州、東山慈照院義政公同朋相勤」 ―現代訳― 里見太郎義俊*の次男、田中五郎*の末裔。生まれは城州**。 東山**の慈照院**におられた足利義政*公に仕え、同朋衆**として勤めた。
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とされている。
また表千家四代・逢源斎江岑宗左**による『千利休由緒書**』には
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―原文― 「利休先祖之儀ハ、代々足利公方家ニ而御同朋ニ而御座候。先祖より田中氏に而御座候。就中、利休祖父ハ田中千阿弥〔初メ専阿弥ト号ス、太祖ハ里見太郎義俊二男、田中義清と申末孫也と云、〕と申候而、東山公方慈照院義政公の御同朋ニ而御座候、(中略)千阿弥発心致し泉州堺江閑居仕候、其子与兵衛ハ田中之名字を改メ父之名ノ千を取り苗字ニ致し、与兵衛と申候而堺之今市町ニ而商家ニ罷成候、其子千与四郎と申候而今市町ニ而商売仕候所茶道ヲ好キ候。」 ―現代訳― 「利休の先祖は代々足利公方家の同朋衆であり、田中氏を称していた。 特に、利休の祖父は田中千阿弥(初めは専阿弥と号しており、遠祖は里見太郎義俊の二男、田中義清の末孫)であり、東山公方・慈照院義政公の同朋衆であった。 (中略) 千阿弥は出家して泉州**・堺へ閑居**。 その子与兵衛は田中の名字を改め、父の名の「千」の一字を取って「千」を性とし、堺の今市町**で商家を営んだ。 その子・千与四郎**が今市町で商売をしながら茶道を好んだ」
❞
と記されている。
なお田中千阿弥の在世期間に関しては七回忌供養の際に「宗易**」の偈がみられ、その偈を利休が賦したことから天文十年(1541)前後までの在世が知られる。
❚ 史料にみる不合理
しかし前項の『千利休由緒書』の記述には以下の不合理を呈する事柄もうまれている。
当時『阿弥号**』は宗門徒**に広く用いられており、必ずしも同朋衆に結びつくものではない
『千利休由緒書』は表千家四代/逢源斎江岑宗左の書であり、他に裏付けとなる史料が存在しない。
室町幕府八代将軍/足利義政*の同朋衆であった史料が無い。
時代の齟齬**から田中千阿弥は祖父ではなく曾祖父になる。
山上宗二*の『山上宗二記**』には利休のことを『田中宗易』、利休の長男を『田中紹安(後の道安)』と記しており利休の晩年に至っても姓としては「田中」の方が通っていたと考えられ、父の代に「田中」姓を「千」姓に代えたとの説は疑問視され「千」は田中家の屋号ではないかという見解もある。
千家は朝鮮系の家ではないかという説もあるが、仮に帰化人*であったとしても豊臣秀吉***の朝鮮出兵**の際に息子の千少庵宗淳***が「千」姓に戻すのは不自然とされる。
以上のように『千家系譜』『千利休由緒書』以外に確固たる史料が存在しないため、利休の出自については未解明の部分が多く、歴史的なミステリーとして残されている。
❚ 堺の町人としての実像

利休の父は田中与兵衛*とされ、大坂・堺の今市町で商家を営んだ人物とされています。
父・田中与兵衛は天文九年(1540年)、に没し、その三十三回忌法要が大徳寺百七世/笑嶺宗訢*を導師として大坂・堺の南宗寺**において催されている。
❚ 未解の系譜が語る、利休という存在の深み
このように祖父・田中千阿弥、父・田中与兵衛ともに現存する歴史史料が限られ、利休の出自については、『千家系譜』『千利休由緒書』をもとに多くの説が流布していますが、確実な裏付けを持つ史料が乏しいのが実情で今後の歴史研究の進展が待たれるミステリーとなっている。
姓の由来や血統、同朋衆としての関与など、多くの点で疑問が残されており、今なお研究の進展が求められる歴史的課題のひとつです。
しかし、その出自をめぐる不確かさもまた、千利休という人物の奥深さを物語る一端といえるでしょう。
❚ 次回は…
次回は「1-2|利休の出自|01.利休の出自」と題し、千利休の幼少期から青年期にかけての歩みに焦点を当て、どのような環境と出会いが千利休の茶の湯観を育んだのかを辿っていきます。
登場人物
千宗易(利休)
……… 千家の始祖であり、茶の湯を精神性の芸道へと昇華させた人物。
田中千阿弥(道悦)
……… 利休の祖父または曾祖父とされる人物。足利義政の同朋衆であったと伝えられるが、史料的裏付けには疑問が残る。
田中与兵衛(一忠了専)
……… 利休の父。堺の商人であり、「千」姓の由来に関わるとされる人物。
山上宗二
……… 利休の弟子であり、彼の記録『山上宗二記』は利休研究の重要資料のひとつ。
笑嶺宗訢
……… 大徳寺百七世。利休の父・与兵衛の三十三回忌を導師として務めた。
用語解説
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同朋衆
……… 主に室町幕府に仕えた芸能・美術に通じた職能者集団。書画、茶の湯などに関与。
阿弥号
……… 宗門徒が仏道に帰依する際に用いた名前の末尾。芸道にも関係する場合がある。
今市町
……… 堺の町名。商業の中心地の一つで、千家が拠点を構えたとされる。
諡号(しごう)
……… 死後に贈られる仏教的な称号。与兵衛は「一忠了専」の諡を持つ。
偈(げ)
……… 仏教における詩偈。供養の際に詠まれる。
