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3-4|武者小路千家歴代|御家元|武者小路千家|官休庵|三千家

更新日:11月4日

三千家



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■ 武者小路千家|官休庵 ■

武者小路千家|歴代御家元一覧






❚ 宗守

武者小路千家の家元は代々「宗守」の名を襲名する慣わしになっています。

これは、千家の家元制度の中でも特に 「家元が茶道の根本精神を継承し、次代へとつなぐ」 という役割を重視したものといえます。



「宗守」の名は、一翁宗守(1605-1676)の参禅の師、大徳寺第百八十五世/玉舟宗和尚(1600-1668)の命名で、四百年の間、絶えることなく千利休の道統と血統を伝え、当代に至ります。

また、その折同時に示された「宗屋」の名は代々後嗣に継がれ、「宗安」は隠居後の号となっています。











❚ 武者小路千家|歴代御家元一覧

三千家では千宗易利休(1522-1591)を開祖(初代)とし息子の少庵宗淳(1546-1614)を二代、孫の咄々斎元伯宗旦(1578-1658)を千家三代として三千家の初代御家元は四代(初代)から数える習わしになっています。



■ 武者小路千家|四代|御家元 ■

似休斎 一翁宗守

~じきゅうさい・いちおうそうしゅ~

慶長十年(1605年) ― 延宝四年(1676年)

七十二歳



千家三代/咄々斎元伯宗旦の次男として生まれる。幼少期に父のもとを離れ、福島正則の孫で塗師の吉岡与三右衛門の婿養子となり、塗師として「吉文字屋甚右衛門」を名乗るが、商いを好まず慶安三年(1650年)に養家を譲り千家に復帰。 父没後、寛文六年(1666年)より讃岐高松藩初代藩主/松平頼重のもとで茶頭として出仕。 晩年には京都武者小路小川に茶室「官休庵」を建立し、武者小路千家の基盤を確立。 異母兄弟には表千家四代/逢源斎江岑宗左、裏千家四代/臘月庵仙叟宗室がおり、三千家の誕生につながった。参禅した大徳寺百八十五世/玉舟宗璠和尚の命により「宗守」の名を得る。 号「一翁」「似休斎」は利休への追慕と茶道精神の継承を示す。





■ 武者小路千家|五代|御家元 ■

許由斎 文叔宗守

~きょゆうさい・ぶんしゅくそうしゅ~

明暦四年(1658年) ― 宝永五年(1708年)

五十一歳



武者小路千家四代/似休齋一翁宗守の子として生まれ、父の死去に伴い宗守を襲名し、武者小路千家五代家元を継承。 讃岐高松藩松平家に茶頭として仕え、歴代の中でも地味な人物とされるが、茶道具の鑑識に優れ、公家・近衛家が収集した茶杓や茶器に極書を加えた記録が残る。 茶の教えとして「茶を点てるは心の業にてあれば、心は張りて、業は和やかにするが良し」と記され、心と所作の調和を重んじる。





■ 武者小路千家|六代|御家元 ■

静々斎 真伯宗守

~せいせいさい・しんぱくそうしゅ~

元禄六年(1693年) ― 延享二年(1745年)

五十三歳



武者小路千家五代/許由斎文叔宗守の子として生まれ、十五歳で家元を継承。 讃岐高松藩/松平家に茶頭として仕え、江戸中期の社会変革期において新しい茶の湯の形式を整える。 また書に優れ、中国伝来の明朝体で漢詩や唐様文字の一行物を遺し、芸術家肌の才を示している。





■ 武者小路千家|七代|御家元 ■

直斎 堅叟宗守

~じきさい・けんそうそうしゅ~

享保十年(1725年) ― 天明二年(1782年)

五十八歳



九条家家臣であった嵯峨家の出身で、武者小路千家六代/静々斎真伯宗守の養子として武者小路千家を継承。 延享二年(1745年)に家元を嗣ぎ、讃岐高松藩松平家の茶頭として仕える。 表千家七代/如心斎天然宗左、裏千家八代/又玄斎一燈宗室らとともに家元制度を整備し、「七事式」を制定するなど、「武者小路千家中興の祖」として名高い。





■ 武者小路千家|八代|御家元 ■

一啜斎 休翁宗守

~いっとつさい・きゅうおうそうしゅ~

宝暦十三年(1763年) ― 天保九年(1838年)

七十六歳



川越兵庫頭の子として生まれ、武者小路千家七代/直斎堅叟宗守の養子となり武者小路千家八代を継承。 養父に師事して茶の道を学び、讃岐高松藩/松平家の茶頭として活躍。 特に越前松平家七代/松平治郷(不昧)から厚い信頼を受ける。 天明八年(1788年)の天明の大火で官休庵の一方庵・弘道庵が焼失した後、一方庵を復興し、四畳半茶室として改装、枡床や中柱、台目切りを付して「半宝庵」と改名。





■ 武者小路千家|九代|御家元 ■

好々斎 仁翁宗守

~こうこうさい・にんおうそうしゅ~

寛政七年(1795年) ― 天保六年(1835年)

四十一歳



裏千家九代/不見斎石翁宗室の三男として生まれ、武者小路千家八代/一啜斎休翁宗守の養子となり家元を継承。 兄に裏千家十代/認徳斎柏叟宗室を持ち、幼少より茶の湯を学ぶ。 讃岐高松藩/松平家の茶頭を務め、諸侯の茶の湯を指導するなど、その才能をもって茶匠として名を高めたが、天保六年(1835)、わずか四十一歳で没した。短い生涯ながら御好み道具も多く、「樂亀香合」「桜蒔絵中棗」などが伝わるほか、自作の楽焼・瀬戸焼なども残されている。温厚で誠実な人柄を偲ばせる作風から、後世「仁翁」の号にふさわしい茶人として敬慕されている。





■ 武者小路千家|十代|御家元 ■

以心斎 全道宗守

~いしんさい・ぜんどうそうしゅ~

文政十三年(1830年) ― 明治二十四年(1891年)

六十二歳



久田家七代/皓々斎宗也の三男として生まれ、表千家十代/吸江斎祥翁宗左を兄に持つ。 武者小路千家九代/好々斎仁翁宗守の早世により養子となり、武者小路千家十代家元を継承。 幼くして茶の湯を修めるも、天然痘により失明し、以後は養母宗栄や木津宗詮らの助力を得て家を支えた。 のちに兄・表千家十代/吸江斎祥翁宗左の次男を養子に迎えて家督を譲り、「宗安」と号して隠棲。





■ 武者小路千家|十一代|御家元 ■

一指斎 一叟宗守

~いっしさい・いっそうそうしゅ~

嘉永元年(1848年) ― 明治三十一年(1898年)

五十一歳



表千家十代/吸江斎祥翁宗左の次男として生まれる。 先代の武者小路千家十代/以心斎全道宗守が失明による隠居に伴い武者小路千家の養子となり武者小路千家十一代を継承。 嘉永七年(1854年)、京都の半分を焼き尽くすという「京都大火」」に見舞われ、その後幕末維新の混乱の時代に入るという大変困難な時代に遭遇。復興は極めて困難であったが、明治十四年(1881年)には茶室や露地の一部を再興し、明治中期以降の茶道復興の素地を構築。





■ 武者小路千家|十二代|御家元 ■

愈好斎 聴松宗守

~ゆこうさい・ちょうしょうそうしゅ~

明治二十二年(1889年) ― 昭和二十八年(1953年)

六十五歳



表千家十代/吸江斎祥翁宗左の三男・久田家十代/玄乗斎宗悦の三男として生まれる。 武者小路千家十一代一/指斎一叟宗守に養子入りし、武者小路千家十二代を継承。 幼くして養父を失い、表千家に引き取られて惺斎らに学ぶ。 第三高等学校、東京帝国大学を卒業後、武者小路千家を再興。





■ 武者小路千家|十三代|御家元 ■

有隣斎 徳翁宗守

~うりんさい・とくおうそうしゅ~

大正元年(1913年) ― 平成十一年(1999年)

八十六歳



京都帝国大学国史学科を卒業後、武者小路千家十二代/愈好斎聴松宗守の娘・千澄子と結婚し婿養子として武者小路千家十三代家元を継承。 学識豊かな茶人として知られ、昭和三十九年には日本初の茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校。翌年「財団法人官休庵」を設立。





■ 武者小路千家|十四代|御家元 ■

不徹斎 宗守

~ふてっさい・そうしゅ~

昭和二十年(1945年) ― 年(年)

―歳



武者小路千家十三代/有隣斎徳翁宗守の長男として京都に生まれる。 慶應義塾大学大学院で美学美術史を修めたのち、父のもとで茶の湯を研鑽し昭和六十四年(1989年)に武者小路千家十四代家元を継承。 欧米や中国などで講演や献茶式を行い、平成六年(1987年)にはローマ教皇ヨハネ・パウロ二世に謁見し、日本文化としての茶道を紹介した。 平成九年(1990年)に京都府文化功労賞、平成二十四年に京都市文化功労者を受賞。





■ 武者小路千家|十五代|当代|御家元 ■

随縁斎 宗屋

~ずいえんさい・そうおく~

昭和五十年(1975年) ― 年(年)

―歳



武者小路千家十四代/不徹斎宗守の長男として生まれ、平成十五年(2003年)に後嗣号「宗屋」を襲名。 同年、大徳寺にて大徳寺五百二十世/福富雪底老師より「隨縁斎」の斎号を授与。 日本美術から現代アートまで幅広い造詣を持ち、平成十九年(2007年)に現代的立礼卓「天遊卓」を好むなど、新時代の茶の湯のかたちを追求。 平成二十年(2008年)には文化庁文化交流使として渡米し、ニューヨークを拠点に茶の湯文化の国際的普及に尽力。











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