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7-2|一首 ~ 十九首|07.利休百首|千宗易利休
1首から19首では、茶の湯を学ぶ上での基本的な心構えや稽古の姿勢、道具との向き合い方が詠まれています。茶の湯の修練において大切な“初学の精神”を、利休は一首一首に込めました。
各首には、それぞれの意味や背景を丁寧に解説していますので、日々の稽古の指針としてお役立てください。


7-3|二十首 ~ 三十九首|07.利休百首|千宗易利休|抛筌斎
20首から39首では、茶室の設えや点前における動作、道具の扱いなど、日々の稽古に欠かせない所作の心得が詠まれています。見落としがちな細部にこそ茶人の姿勢が表れます。
各首の和歌に込められた教えを、現代の視点から読み解いた解説を添えてご紹介します。


7-4|四十首 ~ 五十九首|07.利休百首|千宗易利休|抛筌斎
40首から59首では、四季に応じた茶会の設えや、亭主としての心配り、そして「わび」の美意識が語られています。自然と人とが調和する空間に利休の感性が宿り、一首一首にその静かな眼差しが映し出されています。
すべての首に対し、現代の稽古やもてなしに通じる解説を付しています。


7-5|六十首 ~ 七十九首|07.利休百首|千宗易利休|抛筌斎
60首から79首では、師弟関係の在り方や技術と精神の修練、設えの美意識といった茶人の覚悟が詠まれています。道具の取り合わせに込められた心配りから、日々の稽古を支える審美眼の重要性が浮かび上がります。
各首に沿った解説を通じて、利休の教えが現代にどう生きるかを紐解いていきます。


7-6|八十首 ~ 百二首|07.利休百首|千宗易利休|抛筌斎
80首から102首には、利休が晩年に至って到達した哲学的な境地が表現されています。生と死、自然との一体感、そして静寂のなかに見出される美。茶の湯を超えて人生そのものに通じる言葉が、深く穏やかに語りかけてきます。
それぞれの首について、思想的背景をふまえた解説を添えてご紹介しています。


7-7|利休百首全首一覧|07.利休百首|千宗易利休|抛筌斎
『利休百首』全102首を一覧形式で掲載したページです。茶の湯における基本の心得から精神の深奥に至るまで、千利休の教えが三十一文字に凝縮されています。各首の意味や背景を丁寧に解説した5回構成の記事と併せてご活用ください。全首一覧と解説を収めた資料PDFは無料でダウンロードいただけます。


8-1|利休の茶道具|08.利休の茶道具|千宗易利休|抛筌斎
利休は茶道具においても華美を排し、機能美を追求した造形を重視しました。「利休形」や「樂焼」はその象徴であり、竹花入や茶杓の自作、見立道具の活用を通して、茶の湯に新たな価値観をもたらしました。彼の道具哲学は、現代の日本文化にも深く影響を与えています。


9-1|利休の茶室|09.利休の茶室|千宗易利休|抛筌斎
利休が創出した「草庵茶室」は、それまでの書院茶湯とは異なり、狭小空間と質素な設えの中に精神性を凝縮した設計思想が特徴です。躙り口や露地、点光を活かす窓など、機能性と美意識を融合させたその構造は、日本建築や文化全体にも大きな影響を与え続けています。


9-2|国宝「待庵」|09.利休の茶室|千宗易利休|抛筌斎
日本最古の茶室として知られる「待庵」は、利休が携わった唯一の現存遺構であり、草庵茶室の原型として国宝に指定されています。二畳隅炉、躙り口、土壁など、すべてが「わび茶」の思想を象徴する設計で、現代建築にも通じる合理性と精神性を兼ね備えた空間です。


9-3|黄金の茶室|09.利休の茶室|千宗易利休|抛筌斎
黄金の茶室は、豊臣秀吉が権力の象徴として設けた豪奢な茶室で、三畳の組立式構造に金箔を施した空間でした。質素を重んじる千利休とは相容れない設計ながら、利休の関与も指摘されており、茶の湯の多様性や政治的側面を象徴する存在です。


10-1|利休の師|10.利休ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
千利休が大成した茶の湯の背景には、三人の師から受けた深い影響がありました。北向道陳からは書院茶の礼法を、武野紹鷗からは侘び茶の美意識を、古渓宗陳からは禅の精神を学び、それらを独自に融合・発展させたのが利休のわび茶です。三人の師の存在は、利休を語るうえで欠かせない重要な要素といえるでしょう。


10-2|天下三宗匠|10.利休ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
「天下三宗匠」とは、千利休・今井宗久・津田宗及の三人を指し、信長や秀吉のもとで茶の湯を支えた重要人物たちです。それぞれが異なる茶風をもちながら、時代と共に茶道を発展させ、特に北野大茶湯などの公的茶会では中心的な役割を果たしました。利休と並び称される理由を探ります。


10-3|利休三門衆|10.利休ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
千利休の門弟の中でも特に信頼を寄せられた三人の武将、蒲生氏郷・細川忠興(三斎)・芝山宗綱。彼らは「利休三門衆」と呼ばれ、戦国の世にあって利休の茶の湯を学び、武家文化の中にその精神を浸透させました。茶の湯が政治と文化の両面に影響を与えたその背景には、彼らのような存在があったのです。


10-4|利休七哲|10.利休ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
利休七哲とは、千利休に深く師事した七人の大名・武将を指す後世の呼称で、茶書『茶道四祖伝書』や『江岑夏書』に基づき伝えられています。彼らは武将でありながら茶の湯を深く学び、利休の精神を実践。武家社会に茶道を広める契機となりました。利休没後もその教えを継ぎ、後世の茶の湯文化に大きな影響を残しました。


10-5|利休十哲|10.利休ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
「利休十哲」とは、千利休に師事した十人の武将・茶人を指す後世の呼称で、「利休七哲」に加えて織田有楽斎、千道安、荒木村重の三名を含みます。彼らは、戦乱の世にありながら利休の茶の精神に深く傾倒し、それぞれの地位や人生を通じてその教えを実践し伝えました。


千宗易利休|利休年表
堺に生まれた千利休は、北向道陳や武野紹鷗に師事し、やがて織田信長や豊臣秀吉に仕えた天下の茶頭として名を馳せます。秀吉との対立から切腹を命じられた利休の生涯は、茶の湯を極めた精神と信念に貫かれていました。本ページでは、そんな千利休の70年の歩みを、年齢別に史料をもとに詳細にたどります。


1-1|茶のはじまりを辿る ~茶は命の薬草?~|第1回 茶のはじまり|紀元前|茶道の歴史
「茶の起源は薬だった?」——本記事では、茶道の原点を神話の時代にまで遡り、その歴史的背景を紹介。
古代中国の神農大帝が命を懸けて発見した“茶”という植物。
それが後に私たちの身近な嗜好品へと変わるまでの過程を、丁寧にひもときます。
茶道を学ぶすべての人に贈る「起源」の物語です。


1-2|茶の登場 ~正史が語る最古の一服~|第1回 茶のはじまり|紀元前|茶道の歴史
「茶が初めて記録に登場した瞬間」とはいつか?
本記事では、漢代の文学作品『僮約』に記された“荼”という言葉に注目し、日常生活に根づいた茶文化の原点を紹介します。
茶が薬草から商品、そして文化へと変化していく流れを辿ることで、現代へ続く茶道の土台が見えてきます。