5-2|今日庵とは|茶室|裏千家|今日庵|三千家
- ewatanabe1952

- 2023年9月26日
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三千家

■ 裏千家|今日庵 ■
今日庵とは
❚ 茶室 ―今日庵―
裏千家を表すもう一つの呼称に、庵号である「今日庵(こんにちあん))」があります。 「今日庵」とは、裏千家を象徴する茶室の庵号であり、今日では裏千家の屋敷全体や組織全体を指す名称としても用いられています。
今日庵は、千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の隠居所として建てられた茶室です。
現在の「今日庵」は、昭和五年(1930年)の火災によって焼失しましたが、その後すぐに旧構を踏襲して再建され、今日の姿に至っています。
❚ 今日庵の変革
「今日庵」は京都の裏千家に現存し、「又隠」とともに裏千家の中心をなす重要な茶室です。
その創建は、千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の孫である千宗旦によるものと伝えられています。
宗旦は利休の侘びをさらに深め、利休の茶を忠実に継承した人物であり、その境地を表現した一畳半は利休が提唱した茶の湯のすべてを体現する場とされています。
この一畳半は、家督を継いだ表千家四代/逢源斎江岑宗左によって一度畳まれましたが、宗旦は隠居の際に再び二畳敷の今日庵を創建。
炉は向切りの一畳台目に向板を設け、全体を二畳敷としてまとめています。向板の前隅には中柱を立て、その柱に袖壁を添えて向板まわりの空間を囲うように構成されています。
中柱には丸太を用い、腰張には反古紙が貼られています。
これは「一畳半は狭か面白候」とした利休の考えを受け継ぎながらも、向板と中柱・袖壁による新たな構成で、宗旦独自の工夫が見られます。
床を省き壁床としつつも、向板を加えることで空間にほどよい広がりを持たせ、機能性と美しさを兼ね備えた意匠となっています。
また、点前座の脇には小型の水屋棚を思わせる水屋洞庫が設けられ、亭主は座したまま諸道具を一時的に収納できるようになっています。
二畳という限られた空間の中に多様な要素を凝縮し、わずか一坪足らずながらも、濃密で深い侘びの趣を感じさせる茶室に仕上がっています。
天明の大火で焼失しましたが、又隠の再建から遅れて文化四年(1807年)に今日庵も再興されました。
昭和五十一年(1976年)三月、今日庵を含む又隠、寒雲亭などの茶室群が「重要文化財」に指定されています。
❚ 庵号 ―今日庵―
茶室「今日庵」の庵号は「今この瞬間を大切に生きる」 という禅の教えから名付けられたといわれています。
ある日「今日庵」の席開きを迎えた際、千宗旦の参禅の師である大徳寺百七十世/清巌宗渭(1588-1661)和尚を招きました。
しかし刻限を過ぎても和尚は現れず千宗旦は所用があるためやむなく「明日おいでください」という伝言を弟子に残し、その場を離れました。
ところが、その数刻後に和尚が来席し、茶室の腰張に以下の言葉を貼り付けて帰ったといいます。
「懈怠比丘不期明日」 訳)遅刻するような怠け者の僧である私は、明日の事はお約束しかねます
この言葉を見た千宗旦は、「一寸先は分からぬ人生に、明日の約束を求めた自分の驕り」と猛省し、直ちに大徳寺へ向かい、和尚に詫びました。
その際、千宗旦は次の歌を詠み、感謝の意を表しました。
「今日今日といいてその日を暮らしぬる、明日のいのちはとにもかくにも」 訳)明日の命もわからないのに、大切な今日をおろそかに暮らしているのは愚かなことでした。
宗旦はこの禅の教えを深く深く心に刻み、自身の茶室に「今日庵」と名付けたと伝えられています。
❙今日庵の象徴性
今日庵は、裏千家の家元を象徴する茶席であるとともに、裏千家全体を包括する象徴的な存在でもあります。
宗旦の侘びの思想は、今日庵を通じて後世の茶人たちに受け継がれ、その構成や意匠の一つひとつに、利休以来の精神が息づいています。
わずか二畳敷の空間の中に、茶道の理念と人生観が凝縮された今日庵は、まさに「今を生きる」心を象徴する茶室といえるでしょう。
その姿は今も京都・裏千家の敷地内に現存し、茶の湯の本質を伝える永遠の庵として、静かにその歴史を刻み続けています。


