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  • 0-4|千家三代|咄々斎|元伯宗旦|1578-1658|千家|人物名鑑

    人物名鑑 ■ 千家 ■ 三代|咄々斎|元伯宗旦|1578-1658 ❚ 花押|署名 ❚ 出自 [父]千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)の長男としてうまれる。 母は[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休(1522-1591)の六女・亀(生没享年不詳)。 ※一説には叔父にあたる千道安紹安(1546-1607)の子ではないかという異説も伝えられている。 その出自には諸説あるものの、[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の流れを汲む千家の後継者として、茶の湯の発展に大きく寄与することとなる。 ​ 生 没 享 年 生年:天正六年(1578年) 没年:万治元年(1658年) 十二月十九日 享年:八十一歳 出 生 父:千家二代/千少庵宗淳 母:[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の六女・亀 名 幼名:修理 名:宗旦 一字名: 旦 通称:詫び宗旦 / 乞食宗旦 号: 咄々斎 / 咄斎 / 元叔 / 宗旦 / 寒雲 / 隠翁 / 元伯 ​兄 弟 弟(次男):山科宗甫(生年不詳-1666) 室 先妻:不明(生没年不詳) 後妻:宗見(生没年不詳) ​子 先妻 長男:閑翁宗拙(1592-1652) 次男:武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676) 後妻 三男:表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672) 四男:裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622-1697) 長女:くれ(久田家二代/受得斎宗利(1610-1685)の室) ❚ 師事|門下 師事 茶道 [父]千家二代/千少庵宗淳(1546-1614) 参禅 大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611) 大徳寺百四十七世/玉室宗珀(1572-1641) 門下|宗旦四天王 茶匠:宗偏流開祖/山田宗徧(1627-1708) 茶人:杉木普斎(1628-1706) 茶匠:庸軒流開祖/藤村庸軒(1613-1699) 茶人:久須見疎安(1636-1728) 茶匠:松尾流開祖/松尾楽只斎宗二(1677-1752) 茶人:三宅寄斎亡羊(1580-1649) 門下 千家十職:飛来家初代/飛来一閑(1578-1657) 茶人:久須美疎安(1636-1728) 茶人:銭屋宗徳(生年不詳-1683) ❚ 生涯・事績 [祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の意により、天正十六年(1588年)、十歳の頃より大徳寺へ入門。 大徳寺百十一世/春屋宗園の元で修業を開始し、大徳寺三玄院に住し、喝食となり、仏門の道を歩むこととなる。 ​※大徳寺に入った経緯については[父]千家二代/千少庵宗淳が[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の後妻の子であったことから、家督争いを避けるための処置であったとも伝えられる。諸説あり。 その後、得度して「蔵主」に昇るが、文禄三年(1594年)、千家の再興を果たした[父]千家二代/千少庵宗淳の強い希望により還俗し帰家。この頃、[長男]閑翁宗拙と[次男]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守を授かっている​​。 ​ 慶長五年(1600年)の頃に[父]千家二代/千少庵宗淳の隠居に伴い千家の家督を継承。 [父]千家二代/千少庵宗淳の後見のもと、千家の道統を守りながら[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休が完成させたわび茶の精神の普及、発展に努める。 天正十九年(1591年)、[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休が[関白]豊臣秀吉(1537-1598)の命によって切腹を強いられたことを深く受け、千家三代/咄々斎元伯宗旦は生涯にわたり政治との関わりを避け、いかなる仕官の誘いもすべて断り続けた。 千家三代/咄々斎元伯宗旦の茶は清貧高潔の境地に達した「侘び茶」であり、その質素で質実な生活から、後世には「詫び宗旦」「乞食宗旦」と称されるようになる。 しかし一方で、自身の息子達の将来については深く考え、大名家への仕官に奔走。 これにより千家の茶道は大名家との結びつきを深め、次第にその基盤を確立していくこととなる。 長男  ▶閑翁宗拙・・・ 加賀/前田家に仕官 次男  ▶似休齋一翁宗守・・・ 高松/高松家に仕官 三男  ▶逢源斎江岑宗左・・・ 紀州/徳川家に仕官 四男  ▶臘月庵仙叟宗室・・・ 加賀/前田家に仕官 これらの仕官により千家の茶道は各地に広まり、武家文化との交流を通じて茶の湯の発展に大きな役割を果たすこととなる。 千家三代/咄々斎元伯宗旦は生涯をかけて​千家の復興と茶道の道統の確立に尽力し、その精神は子孫へと受け継がれ、後の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の基盤を築く礎となった。 ❚ 号 慶長五年(1580年)、[父]千家二代/千少庵宗淳より家督を継承したことに伴い、大徳寺百十一世/春屋宗園より、「元叔」の道号を授かる。 また慶長十三年(1588年)に[塗師]松屋源三郎久重(1567-1652)を招いた茶会にて大徳寺百十一世/春屋宗園から授与された道号が床掛物であったと伝えられている。 ​ ❚ 元伯宗旦文章 「元伯宗旦文書」とは表千家に伝わる千家三代/咄々斎元伯宗旦自筆の手紙で、その大部分が千家の家督を相続した[三男]表千家四代/逢源斎江岑宗左に宛てた文書である。 ​ 千家三代/咄々斎元伯宗旦は生涯にわたりいかなる仕官にも就かず、質素な暮らしの中で[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休のわび茶の精神を継承した茶人として知られています。 しかし、この「元伯宗旦文書」の存在によって、千家三代/咄々斎元伯宗旦が単なる茶の湯の継承者にとどまらず、家族の将来を案じて息子たちを大名家に仕官させるために奔走していた父親としての一面が明らかとなる。 ​ 文書には[後妻]宗見をはじめ、[長男]閑翁宗拙、[次男]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守、[三男]表千家四代/逢源斎江岑宗左、[四男]裏千家四代/臘月庵仙叟宗室といった家族に関する記述が多く見られる。 また千家三代/咄々斎元伯宗旦が実に幅広い茶の湯の交流をもっていたことなどが窺え、江戸時代(1603-1868)前期における茶の湯の在り方を知るうえで極めて重要な史料とされている。 ​ この文章は昭和四十六年(1971年)、「茶と美舎」より「不審庵伝来/元伯宗旦文書」として初めて公表され、その後、平成十九年(2007年)には千宗左監修/千宗員編「新編 元伯宗旦文書」(不審菴文庫刊)として再編集・刊行され、その史料的価値がさらに広く知られるようになりました。 ​ ​この文書の存在により、千家三代/咄々斎元伯宗旦という人物が、単なる茶の湯の名匠ではなく、家族や門弟を支えながら茶の湯の発展に尽力した茶人であったことを再認識することができる。 ❚ 茶杓絵賛 千家三代/咄々斎元伯宗旦は多くの絵賛を残していますが、その中でも特に名高いのの一つに八十歳を迎えた明暦三年(1657年)に茶杓の絵とともに、自ら詠んだ狂歌を賛として記した「茶杓絵賛」があります。これは、自作の茶杓の絵に自ら詠んだ狂歌を添えたもので、茶人としての深い省察が込められています。 この茶杓には五七五七七の和歌形式で詠まれており各句の一音目をつなげると 「チヤシヤク(茶杓)」の語が浮かび上がるという、「折句」と呼ばれる言葉遊びの技巧が用いられています。 ​ チヲハナレ ヤツノトシヨリ シナライテ ヤトセニナレト クラカリハヤミ 「クラカリハヤミ(暗がりは闇)」という部分に注目することができます。 「暗がり」と「闇」は同義であるが「闇」は仏教的な意味合いで「迷い」や「無明」を現します。 すなわちこの歌には チヲハナレ ヤツノトシヨリ シナライテ ヤトセニナレト クラカリハヤミ ―現代訳― 「乳離れをして八歳から茶の湯の道に入り、八十歳になった今なお、なおも道を極めることはできず、迷いの中を探り続けている」 という、千家三代/咄々斎元伯宗旦の茶道に対する深い探求心と、終生学び続ける姿勢を表されていると解釈される。 さらに、茶杓にはこの讃とは別に次のような言葉が添えられています。 ​ 「鸚鵡呼貧者与茶不能喫」 ―現代訳― 鸚鵡、貧者を呼ぶ。茶を与うるも喫することあたわず これは、仏典の故事に由来する言葉であり、「どれほど尊い教えを説いても、それを受け入れる者がいなければ意味をなさない」ということを示唆しています。 千家三代/咄々斎元伯宗旦は、この言葉を通じて、茶の湯の精神を伝え広めることの難しさや、真の理解者を得ることの尊さを語っていると考えられる。 ​ 「茶杓絵賛」は、千家三代/咄々斎元伯宗旦の茶道に対する謙虚な姿勢と、生涯をかけて精進し続けた作品であり、茶人の心境を示す貴重な遺品 であるといえる。 ❚ 三千家の誕生 千家三代/咄々斎元伯宗旦は先妻との間に二子、後妻との間に二子の息子をもうけました。 このうち[長男]閑翁宗拙を除く三人の息子が、それぞれ千家を興し、今日に続く「三千家」の基礎を築くことになる。 ​ 三男:表千家四代/逢源斎江岑宗左  ▶表千家/不審庵を継承 四男:裏千家四代/臘月庵仙叟宗室  ▶裏千家/今日庵を興す 次男:武者小路千家四代/似休齋一翁宗守  ▶武者小路千家/官休庵を興す この分立によって、「表千家」「裏千家」「武者小路千家」 の三家が成立し、後世「三千家」と称されるようになる。 なお、三千家では「開祖」「二代」「三代」を以下とし、四代目から代数を数えはじめることとなります。 ​ 千家開祖  ▶抛筌斎千宗易(利休) 千家二代  ▶千少庵宗淳 千家三代  ▶咄々斎元伯宗旦 ❚まとめ 千家三代/咄々斎元伯宗旦の生涯をたどると、茶の湯とは何かを改めて考えさせられます。 政治や権勢から距離を置き、質素な暮らしの中でわびの心を追い求めたその姿勢は、まさに茶道の本質を体現していたといえるでしょう。 その一方で、家族を思い、千家の未来を託すために奔走した父としての一面にも、人間としての温かさが感じられます。こうした生き方があったからこそ、今日の三千家が存在し、私たちは今なお利休以来の精神に触れることができるのです。 静けさの中に真を見いだした宗旦の心は、時代を越えて茶の湯に生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。彼の歩みを知ることは、単なる歴史の理解にとどまらず、茶道が本来もつ「人を磨く道」としての意味を再確認することにつながるでしょう。

  • ★0-5|千家年表|千家三代のあゆみ|千家|茶道辞典

    茶道辞典 ■ 千家 ■ 千家|年表 ❚ 千家|年表 1522年 (大永二年) 大坂・堺にて田中与四郎(千家開祖/千宗易利休)生まれる★ 1546年 (天文十五年) 千家二代/少庵宗淳生まれる★(母は利休の後妻となる宗恩。) 1576年 (天正四年) 千家二代/少庵宗淳が千家開祖/千宗易利休の娘・亀と結婚。利休の養子となる 1578年 (天正六年) 千家三代/咄々斎元伯宗旦生まれる★ 1582年 (天正十年) 千家開祖/千宗易利休は豊臣秀吉の命により、京都・山崎に茶室「待庵」を創建 1585年 (天正十三年) 千家開祖/千宗易利休は豊臣秀吉の禁中茶会に参し、正親町天皇から「利休」の居士号を勅賜される 1587年 (天正十五年) 千家開祖/千宗易利休が豊臣秀吉の命により、京都・北野神社にて「北野大茶湯」を開催 1589年 (天正十七年) 千家開祖/千宗易利休の寄進により大徳寺/金毛閣が落成 1591年 (天正十九年) 豊臣秀吉の怒りにふれ千家開祖/千宗易利休が自害▼ 千家二代/少庵宗淳は会津黒川城主の蒲生氏郷の下で蟄居となる 1594年 (文禄三年) 千家二代/少庵宗淳が赦免され千家の復興に尽力 千家三代/咄々斎元伯宗旦は還俗 1600年 (慶長五年) 千家二代/少庵宗淳が隠居▼ 千家三代/咄々斎元伯宗旦が家督を継承▲

  • ★0-6|千家とゆかりの人々|千家|人物名鑑

    茶道辞典 ■ 千家 ■ ゆかりの人々 ❚ ゆかりの人々 村田珠光 武野紹鴎 神谷宗湛 津田宗及 今井宗久 織田信長 豊臣秀吉 大徳寺関係 ■ 堺千家 ■ 千道安 紹安 ~せんどうあん・しょうあん~ 天文十五年(1546年) ― 慶長十二年(1607年) 六十一歳 堺千家/千道安紹安は、千家開祖/抛筌斎千宗易利休と先妻の宝心妙樹(生没年不詳)の長男として生まれる。[母]宝心妙樹が亡くなり、[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休が[養母]宗恩(?-1600)と再婚すると徐々に確執が生まれ、一度千家を離れるが後に和解。 しかし後世「剛の道安」と「柔の少庵」と称されるように[養母]宗恩の連れ子である同い年の[義弟]千家二代/千少庵宗淳とは折り合いがつかず、生涯茶会においても同席をすることもなかったと伝わっています。 千家開祖/抛筌斎千宗易利休没後は本家の堺千家を継承。しかし堺千家/千道安紹安の没後に堺千家は途絶えることとなり、堺千家の系譜は一代で終わることとなる。 ■ 千少庵宗淳の次男 ■ 山科宗甫 ~やましな・そうほ~ 生年不詳 ― 寛文六年(1666年) 享年不詳 [父]千家二代/千少庵宗淳の次男で[兄]千家三代/咄々斎元伯宗旦宗旦の弟。

  • 村田珠光|1423-1502|千家ゆかりの人々|人物名鑑

    人物名鑑 ■ 千家ゆかりの人々 ■ 村田珠光|1423-1502 ❚ 花押|署名 ❚ 出自 [父]千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)の長男としてうまれる。 母は[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休(1522-1591)の六女・亀(生没享年不詳)。 ※一説には叔父にあたる千道安紹安(1546-1607)の子ではないかという異説も伝えられている。 その出自には諸説あるものの、[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の流れを汲む千家の後継者として、茶の湯の発展に大きく寄与することとなる。 ​ 生 没 享 年 生年:天正六年(1578年) 没年:万治元年(1658年) 十二月十九日 享年:八十一歳 出 生 父:千家二代/千少庵宗淳 母:[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の六女・亀 名 幼名:修理 名:宗旦 一字名: 旦 通称:詫び宗旦 / 乞食宗旦 号: 咄々斎 / 咄斎 / 元叔 / 宗旦 / 寒雲 / 隠翁 / 元伯 ​兄 弟 弟(次男):山科宗甫(生年不詳-1666) 室 先妻:不明(生没年不詳) 後妻:宗見(生没年不詳) ​子 先妻 長男:閑翁宗拙(1592-1652) 次男:武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676) 後妻 三男:表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672) 四男:裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622-1697) 長女:くれ(久田家二代/受得斎宗利(1610-1685)の室) ❚ 師事|門下 師事 ) 門下|宗旦四天王 ) 門下 ) ❚ 生涯・事績 。 ❚ 号 。 ❚ 元伯宗旦文章 。 ❚ 茶杓絵賛 。 ❚ 三千家の誕生 。 ❚まとめ 。 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

  • 1-1|利休の祖|第1回 利休の出自|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第1回 利休の出自 ■ 利休の祖 ❚ 利休のルーツを辿る 千利休*の出自や生涯に関する記録は、時代を経て多くの文献や資料によって伝えられてきましたが、その内容には諸説あり、異同も見られます。 とくに茶道各流派により、その解釈や伝承にも違いがあります。 本サイトでは、主に茶道関係の伝書・古文書・研究書などを参考に、広く知られる説をもとに管理者個人の見解を交えて構成しております。 学術的・歴史的な検証を目的としたものではなく、茶道文化への理解を深める一助としてお読みいただければ幸いです。 なお、より詳しい検証や正確な情報をお求めの際は、原典資料や各流派の公式文献ならびにご自身の先生のご意見をご参照くださいますようお願いいたします。 本ページの内容は、利休および茶道に関わる先人の営みに対して敬意をもって記述しております。 また、今後の研究や資料に基づき、随時見直し・修正を行う可能性があることをあらかじめご了承願います。 史実には複数の説が存在することをご理解のうえ、ご参照くださいますようお願い申し上げます。 ❚ 利休の出自にまつわる史料と謎 本記事では、利休の出自についてご紹介します。 その中でも特に、利休の「祖父」および「父」とされる人物の伝承と史料を読み解くことで、千家の系譜がいかに語られてきたかを辿ります。 複数の記録に残る伝承にはさまざまな矛盾も多く、利休の出自に関しては今なお続く、歴史のミステリーとされています。 ❚ 利休の祖をめぐる伝承 利休の祖父は 田中千阿弥** といい、千家の家譜 『千家系譜**』 によれば ❝ ―原文― 「里見太郎義俊二男、田中五郎末孫、生国城州、東山慈照院義政公同朋相勤」 ―現代訳― 里見太郎義俊*の次男、田中五郎*の末裔。生まれは城州**。 東山**の慈照院**におられた足利義政*公に仕え、同朋衆**として勤めた。 ❞ とされている。 また 表千家四代・逢源斎江岑宗左** による 『千利休由緒書**』 には ❝ ―原文― 「利休先祖之儀ハ、代々足利公方家ニ而御同朋ニ而御座候。先祖より田中氏に而御座候。就中、利休祖父ハ田中千阿弥〔初メ専阿弥ト号ス、太祖ハ里見太郎義俊二男、田中義清と申末孫也と云、〕と申候而、東山公方慈照院義政公の御同朋ニ而御座候、(中略)千阿弥発心致し泉州堺江閑居仕候、其子与兵衛ハ田中之名字を改メ父之名ノ千を取り苗字ニ致し、与兵衛と申候而堺之今市町ニ而商家ニ罷成候、其子千与四郎と申候而今市町ニ而商売仕候所茶道ヲ好キ候。」 ―現代訳― ​「利休の先祖は代々足利公方家の同朋衆であり、田中氏を称していた。 特に、利休の祖父は田中千阿弥(初めは専阿弥と号しており、遠祖は里見太郎義俊の二男、田中義清の末孫)であり、東山公方・慈照院義政公の同朋衆であった。 (中略) 千阿弥は出家して泉州**・堺へ閑居**。 その子与兵衛は田中の名字を改め、父の名の「千」の一字を取って「千」を性とし、堺の今市町**で商家を営んだ。 その子・千与四郎**が今市町で商売をしながら茶道を好んだ」 ❞ と記されている。 なお田中千阿弥の在世期間に関しては七回忌供養の際に 「宗易**」 の 偈 がみられ、その偈を利休が賦したことから天文十年(1541)前後までの在世が知られる。 ❚ 史料にみる不合理 しかし前項の『千利休由緒書』の 記述には以下の不合理を呈する事柄もうまれている 。 当時 『阿弥号**』 は 宗門徒** に広く用いられており、必ずしも 同朋衆に 結びつくものではない 『千利休由緒書』は表千家四代/逢源斎江岑宗左の書であり、他に裏付けとなる史料が存在しない。 室町幕府八代将軍/足利義政* の同朋衆であった史料が無い。 時代の 齟齬** から田中千阿弥は祖父ではなく曾祖父になる。 山上宗二* の 『山上宗二記**』 には利休のことを 『田中宗易』、利休の長男を『田中紹安(後の道安)』と記しており利休の晩年に至っても姓としては「 田中」の方が通っていたと考えられ、父の代に「田中」姓を「千」姓に代えたとの説は疑問視され「千」は田中家の屋号ではないかという見解もある。 千家は朝鮮系の家ではないかという説もあるが、仮に 帰化人* であったとしても 豊臣秀吉*** の 朝鮮出兵** の際に息子の 千少庵宗淳*** が「千」姓に戻すのは不自然とされる。 以上のように『千家系譜』『千利休由緒書』以外に確固たる史料が存在しないため、利休の出自については未解明の部分が多く、歴史的なミステリーとして残されている。​ ​ ❚ 堺の町人としての実像 利休の父は 田中与兵衛* とされ、大坂・堺の今市町で商家を営んだ人物とされています。 父・田中与兵衛は天文九年(1540年)、に没し、その三十三回忌法要が 大徳寺百七世/笑嶺宗訢* を導師として大坂・堺の 南宗寺** において催されている。 ​ ❚ 未解の系譜が語る、利休という存在の深み このように祖父・田中千阿弥、父・田中与兵衛ともに現存する歴史史料が限られ、利休の出自については、『千家系譜』『千利休由緒書』をもとに多くの説が流布していますが、確実な裏付けを持つ史料が乏しいのが実情で今後の歴史研究の進展が待たれるミステリーとなっている。 姓の由来や血統、同朋衆としての関与など、多くの点で疑問が残されており、今なお研究の進展が求められる歴史的課題のひとつです。 しかし、その出自をめぐる不確かさもまた、千利休という人物の奥深さを物語る一端といえるでしょう。 ❚ 次回は… 次回は「1-2|利休の出自|01.利休の出自」と題し、千利休の幼少期から青年期にかけての歩みに焦点を当て、どのような環境と出会いが千利休の茶の湯観を育んだのかを辿っていきます。 登場人物 千宗易(利休) ……… 千家の始祖であり、茶の湯を精神性の芸道へと昇華させた人物。 田中千阿弥(道悦) ……… 利休の祖父または曾祖父とされる人物。足利義政の同朋衆であったと伝えられるが、史料的裏付けには疑問が残る。 田中与兵衛(一忠了専) ……… 利休の父。堺の商人であり、「千」姓の由来に関わるとされる人物。 山上宗二 ……… 利休の弟子であり、彼の記録『山上宗二記』は利休研究の重要資料のひとつ。 笑嶺宗訢 ……… 大徳寺百七世。利休の父・与兵衛の三十三回忌を導師として務めた。 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 同朋衆 ……… 主に室町幕府に仕えた芸能・美術に通じた職能者集団。書画、茶の湯などに関与。 阿弥号 ……… 宗門徒が仏道に帰依する際に用いた名前の末尾。芸道にも関係する場合がある。 今市町 ……… 堺の町名。商業の中心地の一つで、千家が拠点を構えたとされる。 諡号(しごう) ……… 死後に贈られる仏教的な称号。与兵衛は「一忠了専」の諡を持つ。 偈(げ) ……… 仏教における詩偈。供養の際に詠まれる。

  • 1-2|利休の出自|第1回 利休の出自|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第1回 利休の出自 ■ 利休の出自 ❚ 利休の出生と家系 千利休* は、 田中千阿弥 の孫であり、父:田中与兵衛と母:月岑妙珎の子として大坂・堺に生まれました。 前記事にて紹介したように千家の出自は不明な点が多いものの、堺の町人階級に生まれた利休は、後に天下人たちと並び立つ ――大茶人―― として歴史に名を残すこととなります。 ❚ 生没年 生年:大永二年(1522年) 没年:天正十九年(1591年) 二月二十八日 享年:七十歳 ❚ 出生 祖父:田中千阿弥 ……… 道悦|生没享年不詳  父:田中与兵衛 ……… 一忠了専|生年不詳―1540年    母:月岑妙珎 ……… 生没享年不詳 ❚ 名 本姓:田中 幼名:与四郎 法名** :宗易 一字:易  号:抛筌斎 居士号** :利休 ❚ 兄弟 兄:康隆 ―――異母兄弟 ……… 生没享年不詳 弟:千宗把 ……… 奈良屋|生没享年不詳 弟:水落宗恵 ……… 生没享年不詳 妹:千宗円 ――― 久田家元祖/久田実房* の室 ……… 生没享年不詳 ❚ 室 先妻:宝心妙樹 ……… 生年不詳―1577年 後妻:千宗恩 ……… 生年不詳―1600年 ❚ 子 (先妻) 長男:千道安 ……… 眠翁|1546年―1607年 長女:不明 ――― 千紹二 の室 ……… 生没享年不詳 次女:不明 ――― 万代屋宗安 の室 ……… 生没享年不詳 三女:三 ――― 石橋良叱 の室 ……… 生没享年不詳 四女:吟 ――― 円乗坊宗円 の室 ……… 生没享年不詳 五女:不明 ――― 魚屋与兵衛 の室 ……… 生没享年不詳 六女:亀 ―――[養子] 千少庵宗淳の室 ……… 喜室宗桂信女|生年不詳―1587年 ❚ 子 (後妻) 次男:宗林 ……… 生没享年不詳 三男:宗幻 ……… 生没享年不詳​​ ❚ 養嗣子 養子:千少庵宗淳 ―――[後妻] 千宗恩の連れ子 ……… 千家二代|1546年―1614年 ❚ 堺の町人から「茶の家」へ 利休の出自は堺の町人でありながら、代々の家族関係には商人・僧侶・茶人との広い結びつきが見られます。 複数の子女が各界の人物と婚姻し、また後妻の連れ子を養子とするなど、千家の拡張と存続のための家族構成が巧みに築かれいました。 その背景には、利休がただの茶人ではなく「家」を育み、思想を継承させる人物であったという一面が見えてきます。 ❚ 次回は… 次回は「1-3|利休の師|01.利休の出自」と題し、千利休に多大な影響を与えた師たちに注目し、利休がどのように茶の湯の精神を深めていったのかを探っていきます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 久田実房 ……… 千紹二 ……… 万代屋宗安 ……… 石橋良叱 ……… 円乗坊宗円 ……… 魚屋与兵衛 ……… 用語解説 法名 ……… 居士号 ……… 仏教的な称号で、在家の信者が受けるもの。利休は「利休居士」として知られる。 久田家 ………

  • 1-3|利休の師|第1回 利休の出自|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第1回 利休の出自 ■ 利休の師 ❚ 多様な師との出会いが育んだ茶の道 千利休* が生涯にわたり学びを受けた師は、 ――茶の湯―― と ―― 参禅** ―― の両面にわたります。 利休は一人の師に限定されることなく、茶道・禅・芸術的教養において複数の人物から影響を受けており、それぞれが利休の思想と美意識の形成に深く寄与しました。 ❚ 茶の湯大成へ道 茶道:北向道陳|1504年―1562年 ……… 利休の最初の茶の湯の師とされ、教養人として堺町衆の文化的中心にいた人物。 教養・文芸・作法など、茶道を広く町人文化として定着させる基盤を示しました。 茶道:武野紹鷗|1502年―1555年 ……… 堺の町人でありながら、 村田珠光* の流れをくむ茶の湯を継承し、 「わび**」 の精神を深めた人物。 利休にとって最も大きな茶の湯の師とされています。 ❚ 茶の湯のこころ 参禅: 大徳寺** 九十世|大林宗套|1480年―1568年 ……… 利休の初期の 参禅 の師。 仏教的な死生観と「無常」の教えを通して、静寂の中に真理を求める心を利休に示しました。 参禅:大徳寺百七世|笑嶺宗訢|1490年―1568年 ……… 大林宗套に続き、利休が深く参じた 禅僧** 。 禅の理を日常に見出す心法は、利休の ――日常を茶に昇華する―― 思想に強く影響を与えたとされます。 参禅:大徳寺百十七世|古渓宗陳|1532年―1597年 ……… 利休の晩年に参じた師であり、利休に最も影響を与えた禅僧の一人。 ❚ 利休の茶風を形づくったもの 利休の茶の湯は、師匠たちとの関わりの中で構築された学びの総体といえます。 武野紹鷗に学んだ ――わび―― 北向道陳から得た ――町人文化の教養―― 大徳寺の禅僧から授かった ――無常と静寂―― これらの教えが利休の思想の礎をなしました。 単なる作法ではなく、精神の在り方としての茶の湯は、こうした多様な師の存在によって鍛えられたのです。 ❚ 次回は…… 次回は「1-4. 利休の門下|01.利休の出自」と題し、千利休の教えを受け継いだ門弟たちに焦点を当て、彼らがどのように利休の茶の湯を継承し、後世へと広めていったのかを紹介していきます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 村田珠光 ……… 用語解説 参禅 ……… わび ……… 大徳寺 ……… 禅僧 ………

  • 1-4|利休の門下|第1回 利休の出自|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第1回 利休の出自 ■ 利休の門下 ❚ 多様な門弟が支えた利休の茶の湯 千利休* のまわりには、利休の茶の湯に共鳴し、深く学び、またその思想を次世代へと伝えた多くの人物が存在しました。 利休が築いた ―― わび茶** ―― の世界は、決して一人の手によって完結したものではなく、弟子や門人、ゆかりのある武将・商人・僧侶たちの手によって支えられ、広まり、深められていきました。 本記事では、 「利休三門衆**」 、 「利休七哲**」 、 「利休十哲**」 などの 高弟** をはじめ、後の流派を築いた茶人や文化人、さらに利休と政治的に関わりのあった人物に至るまで、多様な背景をもつ利休の門下とその影響を受けた人々をご紹介します。 ❚ 利休の高弟 山上宗二 ……… 豪商|茶人|1544年―1590年 豊臣秀次 ……… 武将|1568年―1595年 木村重茲 ……… 武将|生年不詳―1595年 豊臣秀吉 ……… 太閤・関白|1536年―1598年 ❚ 利休の高弟一覧 利休三門衆 利休七哲 利休十哲 蒲生氏郷 〇 〇 〇 細川忠興 (三斎) 〇 〇 〇 芝山宗綱 (監物) 〇 〇 〇 高山南坊 (右近) 〇 〇 牧村利貞 (兵部) 〇 〇 古田重然 (織部) 〇 〇 瀬田掃部 〇 〇 前田利長 △ 有馬豊氏 △ 金森長近 △ 織田長益 (有楽斎) 〇 千紹安 (道安) 〇 荒木村重 (道薫) 〇 ❚ 利休三門衆 細川(三斎)忠興 ……… 武将|利休門三人衆|利休七哲|肥後細川家初代|1563年―1646年 芝山(監物)宗綱 ……… 武将|利休門三人衆|利休七哲|生没享年不詳 蒲生氏郷 ……… 武将|利休門三人衆|利休七哲|1556年―1595年 ❚ 利休七哲 古田(織部)重然 ……… 大名|利休七哲|1544年―1615年 瀬田(掃部)正忠 ……… 武将|利休七哲|1548年―1595年 高山(右近)重友 ……… 武将|利休七哲|1552年―1615年 牧村(兵部)利貞 ……… 武将|利休七哲|1546年―1593年 ❚ 利休十哲 荒木村重 ……… 大名|利休十哲|1535年―1586年 織田(有楽斎)長益 ……… 大名|利休十哲| 有楽流** 開祖|1548年―1622年 ❚ 利休の門下 神谷宗堪 ……… 商人|茶人|1551年―1635年 藪内(剣仲)紹智 ……… 茶匠| 藪内流** 開祖|1536年―1627年 南坊宗啓 ……… 僧|茶人|生没享年不詳 ❚ その他 田中長次郎 ……… 記三 ……… 甫竹 ……… 与二郎 ……… 西村道仁 ……… ❚ 門弟たちが築いた「利休の遺産」 利休の門下には、武将から商人、僧侶に至るまで、実に多様な人々が名を連ねています。 彼らはそれぞれの立場で利休の教えを受け継ぎ、後の茶道流派の礎となり、日本文化全体に影響を与えました。 利休は単なる一個人ではなく、「思想」として多くの人の中に息づき、伝播していったのです。 ❚ 次回は… 次回は「2-1|生い立ち|02.利休の生涯」と題し、千利休の幼少期から青年期に至るまでの生い立ちをたどり、大坂・堺という都市の環境や家族背景が、利休の美意識と茶の湯にどのような影響を与えたのかを紐解いていきます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 用語解説 わび茶 ……… 利休三門衆 ……… 利休が特に重んじた三人の武将門弟。   利休七哲 ……… 利休の思想を最も深く理解したとされる七人の武将。   利休十哲 ……… 後世に利休門下とされる10人の代表格。   有楽流 ……… 織田有楽斎を開祖とする茶道流派。   藪内流 ……… 藪内紹智を祖とする京の茶道流派。千家と並ぶ古流。

  • 2-1|利休の生い立ち|第2回 利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第2回 利休の生涯 ■ 生い立ち ❚ 激動の時代に生きた茶人の歩み 「利休の生涯」では、 千利休* の生涯を辿り、茶道を大成しながらも自刃に至ったその激動の人生をご紹介します。 利休は、戦国の混乱期にあっても茶の湯に独自の美意識を見出し、 「わび茶**」 として文化の頂点へと昇華させました。 織田信長* ・ 豊臣秀吉* という二人の天下人に仕えながらも、最期には秀吉の命により自刃。 ——―その結末には今も多くの謎が残されています。 しかし、豊臣秀吉との確執によって自害へと追い込まれ、その最期は今日も多くの謎に包まれています。 利休の生い立ちから歩んだ生涯を紐解くことで、茶の湯がいかにして日本文化の核となったかを読み解く手がかりが得られるでしょう。 ❚ 生い立ちと茶の道へ 利休は大永二年(1522年)、 大坂・堺** の「商家(屋号「魚屋」)」に生まれました。 父は 納屋衆(倉庫業)** を営む 田中与兵衛(一忠了専)* 、母は 月岑妙珎* 。 幼名は与四郎、本姓は田中。 天文四年(1535年)、堺の鎮守である 「大念仏寺**」 の築地修理に関する 「大念仏寺念仏頭人差帳**」 の寄進者の中に― 今市町 与次郎殿せん― と記されており、すでに十四歳にして堺の町衆社会における活動の記憶が確認できる。 ​ 十七歳の頃、堺の茶匠・ 北向道陳* の門を叩き茶の湯を学びはじめ、まもなく堺の茶の第一人者であった 武野紹鷗* の門人となりました。 また茶の湯と並行して、利休は禅にも深く帰依することになります。 大徳寺九十世/大林宗套* 、 大徳寺百七世/笑嶺宗訢* に参じて禅旨を学び、二十歳前後には出家して「宗易」の 法名** を授かりました。 ❚ 利休の名は―― 法名「宗易」の初見は天文十三年(1544年)二月の 「千宗易会**」 と 「松屋会記**」 に記されています。 しかし「松屋会記」は後世の編集によるものであり、しかも現存するのは転写本であるためその確実性には疑問が残り、確実な証拠としては慎重に扱う必要があります。 また「宗易」の教授者としては大徳寺九十世/大林宗套および大徳寺百七世/笑嶺宗訢の両者があげられるが詳細は不詳。 ​ ❚ 堺の町と茶文化 当時の堺は「町人の都」として全盛を極めており、国際貿易と文化が栄え、町全体が――茶の湯――を楽しむ風土を形成していました。 堺衆の中の代表的な茶人としては 津田宗達* と 津田宗及* の父子をはじめ利休の師である武野紹鷗の娘婿である 今井宗久* らとともに茶人「宗易」の名も並び称される存在となっていきます。 ​ 利休は、商家の出身でありながらも、茶の湯の探求と革新に努め、やがて後世に語り継がれる大茶人へと成長していくこととなる。 ❚ 堺の町が育んだ才と信仰 利休は商家の子として堺に生まれ、茶の湯と禅に出会いながら、町人文化の中でその才を開花させていきました。 そして堺の町全体が育んだ茶の湯文化のなかで、利休は師の教えを受けつつ自らの美意識を研ぎ澄まし、やがて一時代を築く大茶人としての道を歩み始めることとなります。 ❚ 次回は… 次回は「2-2|信長と利休|02.利休の生涯」と題し、織田信長との出会いが利休に与えた影響と、両者の関係性について紹介していきます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 織田信長|おだ・のぶなが ……… 。 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 田中与兵衛(一忠了専) ……… 。 月岑妙珎| ……… 北向道陳|きたむきどうちん ……… 。 武野紹鷗|たけの・じょうおう ……… 大林宗套|だいりん・そうとう ……… 笑嶺宗訢|しょうれい・そうきん ……… 津田宗達|つだ・そうたつ ……… 津田宗及|つだ・そうぎゅう ……… 今井宗久|いまい・そうきゅう ……… 用語解説 わび茶|わびちゃ ……… 大坂・堺|おおさか・さかい 納屋衆|なやしゅう ……… 倉庫業・荷扱いなどを担った堺の有力町人層。商人階級の中核を担った。 大念仏寺| ……… 大念仏寺念仏頭人差帳| ……… 堺の町民が記録された寄進帳。利休の活動の初出史料の一つ。 千宗易会| ……… 松屋会記|まつやかいき ……… 茶会記録の一種。利休や当時の茶人たちの活動が記録される。

  • 2-2|信長と利休|第2回 利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第2回 利休の生涯 ■ 信長と利休 ❚ 信長と利休 元亀四年(1573年)、 織田信長* は 室町幕府** 十五代将軍/ 足利義昭* を追放し、室町幕府を滅ぼし織田政権を確立。 同年、織田信長は再 上洛** の際に堺の掌握を図り、堺の町衆たちには大きな動揺が走ることとなります。 この時、 今井宗久* はいち早く織田信長に帰属し、織田政権の信任を得ることに成功しました。 しかし一方で、堺衆の中にはこれに反発する動きも見られ、町全体が揺れ動く局面となりました。 織田信長が今井宗久を召した背景には、今井宗久が所持していた 名物** 茶入 「紹鴎茄子**」 の存在があったと考えられます。 織田信長はこの茶入を通じて、自らの権威を茶の湯の世界にも示し、茶の湯を政治的象徴として活用しようとした意図があったと推察されます。 ​ 堺の有力茶人であった 津田宗及* に前後して 千利休** も織田信長の茶匠として召し抱えられ、こうして三名は 「天下の三宗匠**」 と呼ばれることとなります。 ❚ 天下三宗匠の茶人 織田信長の茶の湯には京都の茶人であった 不住庵梅雪* らも参仕していたが今井宗久、津田宗及、千利休の三名は特に優遇されました。 三宗匠は茶の湯を ――武家の権威を象徴する文化―― として発展させ、織田信長の統治と権威づけに貢献する役割を果たすこととなります。 利休はこの時期に茶の湯をさらに研ぎ澄まし、政治と文化の狭間で重要な役割を担うようになります。 織田信長との出会いは、その後の 豊臣秀吉* のもとで 「わび茶**」 の完成へとつながる大きな一歩となります。 ❚ 不審庵と宗恩・少庵の上洛 利休は天正八年(1580年)、 京都・紫野** の 臨済宗** 大徳寺** 門前に屋敷を構え、後妻の 千宗恩* とその連れ子である 千少庵宗淳* を上洛させます。 この屋敷には、四畳半の座敷を設け、そこに 『不審庵**』 の額を掲げたといわれています。 この「不審庵」こそが、のちの千家の根幹となる茶室の原型であり、利休の茶の思想が空間として体現されたものとされています。 ❚ 大茶人へのはじまり 織田信長のもとで利休は、茶の湯を文化と権威の象徴として扱われる中、天下三宗匠の一人として確固たる地位を築きました。 この時期に茶の湯の形式は洗練され、後の「わび茶」完成の礎が築かれていきます。 織田信長の死を迎えてもなお、利休の道は豊臣秀吉のもとで続いていくこととなります。 ❚ 次回は・・・ 次回の「2-3|秀吉との対立|02.利休の生涯」では、豊臣秀吉との親交や仕官後の動向をたどりながら、利休が政権の中枢でどのように茶の湯を実践し、その中でどんな思想を貫いたのかを見ていきます。 登場人物 織田信長|おだ・のぶなが ……… 。 足利義昭|あしかが・よしまさ ……… 今井宗久| ……… 。 津田宗及| ……… 。 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 不住庵梅雪| ……… 。 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 千宗恩| ……… 。 千少庵宗淳| ……… 。 用語解説 室町幕府| ……… 。 上洛| ……… 京都へ上ること。 名物| ……… 。 紹鷗茄子茶入 ……… 武野紹鷗ゆかりの名物茶器。織田信長が入手を望んだ。 天下三宗匠| ……… 信長に重用された三人の茶人。今井宗久・津田宗及・千宗易を指す。 わび茶| ……… 。 京都紫野| ……… 。 臨済宗|りんざいしゅう ……… 。 大徳寺|だいとくじ ……… 。 不審庵|ふしんあん ……… 。

  • 2-3|秀吉と利休|第2回 利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第2回 利休の生涯 ■ 秀吉と利休 ❚ 秀吉と利休 天正十年(1582)の 「本能寺の変**」 により 織田信長* が没すると 千利休* は新たに台頭した 豊臣秀吉* に仕えることになります。 以後、利休は 茶頭 および側近として秀吉政権の 中枢* に深く関与していきます。 同年、織田信長の百日忌 法要** が 大徳寺百十七世/古渓宗陳* によって営まれた際、利休は 山上宗二* 、 博多屋宗寿* らを伴い、 施主** を努めています。 この時期からすでに秀吉政権の象徴的存在としての地位を築きはじめたといえます。 ​ ❚ 聚楽第と地位 利休は豊臣秀吉の側近として 聚楽第** 内に屋敷を構え、築庭にも関与します。 その功績により利休は異例ともいえる 三千石** の 禄** を賜り、名実ともに ――天下一の茶人―― として厚遇を受ける存在となります。 茶人が武士を超える影響力を持つという異例の立場を利休は体現していくこととなります。 ❚ 禁中茶会と利休居士 天正十三年(1585年)、豊臣秀吉が 関白** に就任するにあたり、 禁中(皇室)** にて 拝賀** の茶会が催され、利休はこの 「禁中茶会**」 に参仕します。 この際、 百六代天皇/正親町天皇* より 『利休居士』 の 居士号*** を賜ったことで、――利休――の名は公家社会にも知られることとなり、名実ともに茶の湯の頂点へとも登り詰めることとなります。 これは豊臣秀吉の天下統一とともに利休が茶の湯の世界において絶対的な地位を確立した出来事となりました。 ❚ 利休の役割 利休は、茶人としての役割を超えて、政務の裏側を支える側近的存在でもありました。 利休の重用ぶりは、豊臣秀吉の弟である 豊臣秀長* を凌ぐものであり、大阪城を訪れた 大友宗麟* が豊臣秀長に対して政務について尋ねた際、豊臣秀長は以下のように語ったとされます。 ❞ 「公儀の話は私(秀長)に、内輪の話は利休にするように」 ❝ この逸話は利休は単なる茶匠にとどまらず、豊臣秀吉の政治・文化政策にも深く関与するとともに豊臣秀吉の内面や私的領域にも深く関わる存在であったことを象徴しています。 ❚ 権力を持った利休 秀吉のもとで、利休は単なる茶人ではなく、文化政策・外交儀礼・精神的支柱の役割まで担う存在として重用されました。 その名声は武士や公家をも超える影響力を持ち、茶の湯が政治と結びつく時代の象徴的な存在となったのです。 利休が確立した茶の美学は、秀吉の天下統一の文化的側面を支え、 「わび茶**」 完成へと大きく近づいていきました。 ❚ 次回は・・・ 次回の「2-4|秀吉との対立|02.利休の生涯」では、秀吉との関係が徐々に変化していく中で、利休が政治的な立場や思想においていかに葛藤し、最終的にどのような決断を迫られたのか、その背景を詳しく探っていきます。 登場人物 織田信長| ……… 。 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 古渓宗陳| (1532–1597):大徳寺百十七世。信長の百日忌法要を導師として修した。 山上宗二| (1544–1590):利休の高弟。法要にも同行した忠実な門人。 博多屋宗寿| (1570–1659):利休に同行した博多の商人。 正親町天皇(1517–1593)| ……… 。:利休に「居士号」を授与した天皇。 豊臣秀長(1540–1591)| 秀吉の弟。利休を政務と内政の橋渡し役と認識していた。 大友宗麟| ……… 。 用語解説 本能寺の変| ……… 1582年、明智光秀により信長が討たれた事件。日本史の大転換点。 茶頭| ……… 。 中枢| ……… 。 法要| ……… 。 施主| ……… 。 聚楽第|じゅらくだい ……… 秀吉が築いた京都の大邸宅・政庁。利休もその整備に関与。 三千石| ……… 。 禄| ……… 。 関白| ……… 。 禁中| ……… 。 参賀| ……… 。 禁中茶会 ……… 。朝廷内で催された茶会。格式と政治儀礼が融合した重要な行事。 居士号| ……… 。仏教で在家信者に与えられる称号。「利休居士」は名誉ある公称。 わび茶| ……… 。 ​ ​​​

  • 2-4|秀吉との対立|第2回 利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第2回 利休の生涯 ■ 秀吉との対立 ❚ 秀吉との対立 天正十五年(1587年)、 豊臣秀吉* は京都・ 北野天満宮** にて 「北野大茶湯**」 を盛大に催し、 千利休* はその主管を努めました。 しかしこの頃から利休と豊臣秀吉との関係には徐々に亀裂が生じることとなり、後ろ盾であった 豊臣秀長* の死後は、利休の影響力は急速に衰えるようになります。 天正十九年(1591年)、ついに利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れ、大坂・堺への 蟄居** 処分を命じられます。 (※罪因については次項にて詳述します) ❚ 助命嘆願と切腹命令 利休の堺への蟄居に際し、 前田家初代/前田利家* をはじめとする多くの有力大名や門弟たちは 赦免** を嘆願します。 特に利休の高弟であった 古田織部* や 細川三斎* らは奔走ましたが豊臣秀吉の意思は固く、赦されることはありませんでした。 その後、利休は京都へ呼び戻され、 聚楽第** の屋敷で切腹を命じられます。 この際、豊臣秀吉は多くの門弟たちによる利休奪還の恐れを警戒し、 上杉影勝* の軍勢に屋敷を取り囲ませたという。 ❚ 一条戻橋の光景 ​ 利休の最期は単なる処刑では終わらず、利休の首は京都・ 一条戻橋** にて 梟首** され、さらにその首は賜死の一因となった 大徳寺*** の 金毛閣*** の 三門** に設置された「利休像」に踏ませる形で晒されたたという。 ​この処遇は、利休の存在がいかに秀吉の権威を脅かすものとなっていたか、またそれを排除するための強烈な――見せしめ――として、歴史に記される出来事となりました。 こうして、茶道史において最も大きな影響を与えた千利休の生涯は閉じることとなるが、その精神と 「わび茶**」 の理念は、利休の弟子たちによって脈々と受け継がれ現在に至る。 ❚ 大きすぎた権力 「わび茶」を完成させ、茶の湯を一つの美学として昇華させた千利休は、やがてその精神性ゆえに権力と衝突し、壮絶な最期を迎えることとなります。 その死は、文化と政治が深く絡み合う 戦国時代** の特異な構造を象徴しています。 しかし利休の精神と茶の湯の理念は、子や弟子たちによりその後も力強く受け継がれていくこととなります。 ❚ 次回は・・・ 次回の「2-5|居士号|02.利休の生涯」では、利休が授けられた「居士号」について、その仏教的意義や当時の社会的意味を踏まえて考察し、利休が精神的にどのような境地に至っていたのかをご紹介します。 登場人物 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 豊臣秀長| ……… (1540–1591):秀吉の弟。利休の最大の後ろ盾であった。 前田利家| ……… (1539–1599):加賀藩主。利休の助命を嘆願した大名の一人。 古田織部| ……… (1544–1615):利休七哲の一人。利休の死後、その精神を受け継いだ。 細川三斎| ……… (1563–1646):同じく利休七哲の一人。のちに利休の追善に努める。 上杉景勝| ……… (1556–1623):五大老の一人。利休邸包囲の命を受けたとされる。 用語解説 北野天満宮 ……… 。 北野大茶湯 1587年に秀吉が開催した大規模な茶会。利休が主管。 蟄居|ちっきょ ……… 家から出ることを禁じる謹慎処分。利休は堺に籠居を命じられた。 赦免| ……… 一条戻橋| ……… 梟首|きょうしゅ ……… さらし首。見せしめとして行われる処刑の一形態。 大徳寺 ……… 。 金毛閣 ……… 。 山門 ……… 。 金毛閣 ……… 。 山門 ……… 。 わび茶 ……… 。 戦国時代 ……… 。

  • 2-5|居士号|第2回 利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第2回 利休の生涯 ■ 居士号 ❚ 居士号「利休」の由来 一般的に広く知られる「 千利休* 」の名は――利休居士――という 居士号** に由来します。 これは天正十三年(1585年)、 豊臣秀吉* が 関白** に就任した際に催された 「禁中茶会**」 において、町人の身分では参仕できないために 百六代天皇/正親町天皇* から 勅謚** として賜ったものとされています。 しかしこの由来には後世の説明に基づく曖昧さが残り、さまざまな史料を検証すると時代的に合わない点が多く見受けられます。 ❚ 異説の存在 慶長四年(1599)、利休の子である 千少庵宗淳* が 大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞* に「利休」号の解議を求めた記録では ​ ❝ 「先皇正親町院、忝(かたじけな)くも利休居士の号を賜う」 ❞ ​ との返答があり、これが現在の通説とされています。 一方で慶長十年(1605年)、利休の長男である 千道安* が 大徳寺百十一世/春屋宗園* に同様の解議を求めたところ ❝ 「「利休」号は「宗易禅人の雅称」であり、先師である 大徳寺九十世/大林宗套* が授けた」 ❞ とされ、以下の 偈頌** を賦して授けたと伝えています。 ❝ ​『参得宗門老古錐/平生受用截流機/全無伎倆白頭日/飽対青山呼枕児』 訳)……… 宗門に参得せる 老古錐 /平生受用す、 截流** せつるの機/全く伎倆無し、 白頭** の日/全く伎倆(技量)無し、白頭の日/青山に対するに飽あいて 枕児** を呼ぶ ❞ ​ この 遺偈** の意味は―― 悟りをえた者もなお悟りを求める境地―― を示し、千利休が禅と茶の湯を融合させた思想を象徴するものとされる。 ​​ ❚ 矛盾 ところがこの説によると「利休」号は大徳寺九十世/大林宗套より授けられたことになるが、大徳寺九十世/大林宗套は「禁中茶会」の十七年前の永禄十一年(1568年)に没していることから、「禁中茶会」が開催された天正十三年(1585年)とは十七年の隔たりがある。 このことから、従来の通説と整合しない点が生じる。 ​ 仮に大徳寺九十世/大林宗套が「利休」の号を授けたとすれば幼名「与四郎」と称した天文四年(1535年)から天文十三年(1544年)以前にはすでに 「宗易**」 と号し、さらにその時点で「利休」の名も授かっていた可能性がある。 ​​​ また「禁中茶会」二年前の天正十一年(1583年)、 大徳寺百十七世/古渓宗陳* によって描かれた「肖像画 ( 正木美術館** 蔵)」に ――利休宗易禅人―― の名が記されており、これは「利休」の名が「禁中茶会」以前にすでに確立していたことを示唆する。 ただし、当時の利休は大徳寺百十七世/古渓宗陳と深い交流を持っていたため「利休」の号を大徳寺九十世/大林宗套が授けたという説には不自然な点が残る。 ​​ さらに 『利休書状**』 には天正十三年(1585年)以前に「利休」という署名がみられないことから、天正十三年(1585年)の「居士号」 勅諡の 際に大徳寺百十七世/古渓宗陳が急遽撰し授けたものではないかとする見方もある。 ​ いずれにせよ「利休」の名は娩年の頃の名であり、生涯のほとんどは「宗易」と名乗っている。 ❚ 君の名は 「利休」の名の起源にはいくつかの説があり、現在も決定的とはいえません。 「宗易」として活動していた時間が圧倒的に長く、「利休」の名は晩年に限定的に使われた宗教的 尊号** だったとも考えられます。 いずれの説にせよ、その名は後世に わび茶** の象徴として定着し、「千利休」として歴史に刻まれることとなりました。 ❚ 次回は・・・ 次回の「2-6|利休の罪 (壱)|02.利休の生涯」では、利休に下されたとされる「罪」とは何であったのか、それがどのような経緯で形成されたのか、史料をもとに多角的に検証していきます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 正親町天皇| ……… (1517–1593):第106代天皇。秀吉の関白就任に際し、利休に居士号を下賜したとされる。 千少庵 ……… (1546–1614):利休の女婿・高弟。晩年に千家を再興。 仙嶽宗洞| ……… 。 千道安| ……… (1546–1607):利休の長男。父の遺名を継承するも、一時不遇をかこつ。 春屋宗園| ……… 大林宗套| ……… (1480–1568):大徳寺90世。利休の参禅の師であり、「利休」の名を授けたとの説もある。 古渓宗陳| ……… (1532–1597):大徳寺117世。利休の最晩年の師であり、肖像画や居士号の伝承に関与。 用語解説 居士号|こじごう ……… 仏門に帰依した在家信者に与えられる尊称。 関白| ……… 禁中茶会 ……… 勅諡|ちょくし ……… 天皇から与えられる名誉称号。 偈頌|げじゅ ……… 禅宗で用いられる漢詩形式の詩句、師が弟子に送ることもある。 老古錐| ……… 截流| ……… 白頭| ……… 枕児| ……… 宗易| ……… 正木美術館| ……… 利休書状| ……… 尊号| ……… わび茶| ……… ​​​

  • 2-6|利休の罪因 ~木像の安置~|第2回 利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第2回 利休の生涯 ■ 利休の罪因 ~木像の安置~ ❚ 利休の罪とは何だったのか? 千利休 の死罪は茶道史上最大の事件の一つとして知られています。 利休の罪因についてはさまざまな要因を考察することができるが、直接的な罪状としては史料に基づき以下の二点が考えられる。 (壱).『 大徳寺**三門**(金毛閣**) に自らの木像を安置した件』 (弐).『茶器売買にかかわる不正 (売僧の嫌疑) 』 しかしながら、これらの罪が 切腹** という極刑に値するかについては疑問の余地があり、その他の政治的要因が絡んでいた可能性も指摘されている。 本項では、まず第一の罪因として語られる「(壱).大徳寺三門(金毛閣)に自らの木像を安置した件」の問題を詳しく見ていきます。 ❚ (壱).大徳寺三門(金毛閣)に自らの木像を安置した件 大徳寺三門(金毛閣)の 楼上** に利休像が安置され、これが豊臣秀吉の怒りを買う決定的な要因になったと考えられています。 大徳寺三門(金毛閣)は 豊臣秀吉* をはじめ天皇、 公家** 、大名などが訪れる場所であり、利休像が祀られた三門には本来、仏像や高僧像を納める格式高い場とされています。 その場所に在世中の俗人の像が安置されることは極めて異例なことで、この行為が豊臣秀吉の強い不興を買ったとされていまる。 ❚ 誰が利休像を安置したのか 大徳寺三門(金毛閣)の改修に際し、資金を提供した利休に対し、その恩義に報いるかたちで、 大徳寺百十七世/古渓宗陳* が楼上に安置したとされています。 ❚ 史料から読み解く秀吉の怒り➀ 伊達家** の家臣であった 鈴木新兵衛* は京都・ 一条戻橋** に 梟首** された首を目にし、その旨を国元の 家老** / 石母田景頼* に充てた書状に次のように記している。 ​ ❞ 「茶の湯天下一宗易(利休)、無道の刷い年月連続のうえ、御追放。行方なく候。しかるところに、右の宗易、その身の形を木像にて作り立て、紫野大徳寺に納められ候を、殿下様(秀吉)より召し上され、聚楽の大門もどり橋と申し候ところに、張付けにかけさせられ候。木像の八付、誠に誠に前代未聞の由し、京中において申すことに候。見物の貴賤、際限なく候。右八付の脇に色々の科ども遊ばされ、御札を相立てられ候。おもしろき御文言、あげて計うべからず候。」 訳) 直接の罪状は自身の木像。その木像は秀吉の命により磔にされた。 その他の罪状の逐一が、その脇の高札**に面白おかしく列挙されていた。 ❝ この記録から、利休の木像が磔にされ、罪状が高札に滑稽な文面で列記されたという異例の処分がなされたことがわかります。 ❚ 史料から読み解く秀吉の怒り➁ 公家の 勧修寺晴豊 が記した日記 『晴豊公記』 には次のような記述がある。 ​ ❝ 「大徳寺山門に利休木像つくり、せきだという金剛はかせ、杖つかせ、造り置き候こと、曲事なり。その子細、茶の湯道具新物ども、くわんたいにとりかわし申したるとのことなり」 訳) 木像に雪駄**をはかせ、そのうえ杖までつかせるとは、いかにも俗人をあしらったもので、とても聖なる大徳寺の山門に安置するにはふさわしくない。なにより大徳寺の山門といえば、関白秀吉をはじめ、天皇、公家・諸大名など、歴々の衆が訪れるところであるから、まさしく適正性を欠いた行為と見ざるをえない。 ❞ ​ このことから、利休の木像の安置が、豊臣秀吉にとって極めて不敬であったと見なされたことがわかる。 またこの行為は 朝廷** や公家からも問題視された可能性も考察できる。 ❚ なぜ切腹へ至ったのか 大徳寺山門に自身の木像を安置した行為は、宗教的・形式的な面で ――越権行為**―― とされ、豊臣秀吉の怒りを買いました。 とはいえ、これは本来、死罪に値するものではなく、あくまで ――表向きの罪―― に過ぎなかったとする見方もあります。 当時の利休は政権中枢に近く、大名たちの信望を集める存在でもあり、その影響力が秀吉にとって脅威と映った可能性が指摘されています。 また、切腹は武士に科される刑であり、茶人である利休にこの命が下されたことは、異例の判断であり謎を残します。 利休の死は単なる宗教的不敬ではなく、政治的・経済的な背景が複雑に絡んだ末の処断だったと考えられます。 ❚ 次回は・・・ 次回の「2-7|利休の罪 (弐)|02.利休の生涯」では、利休に下されたとされるもう一つの「罪」とは何であったのか、それがどのような経緯で形成されたのか、史料をもとに多角的に検証していきます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 古渓宗陳| ……… (1532–1597):大徳寺117世。利休の最晩年の師であり、肖像画や居士号の伝承に関与。 鈴木新兵衛| ……… (?–?):伊達家家臣。利休の木像の処遇について現地で報告。 石母田景頼| ……… (1559–1625):伊達家家老。新兵衛の報告を受けた人物。 勧修寺晴豊| ……… (1544–1603):公家。『晴豊公記』にて利休事件の記録を残す。 用語解説 大徳寺| ……… 三門| ……… 金毛閣| ……… 京都の禅寺・大徳寺にある名高い山門。高僧の像を安置する場。 切腹 ……… 公家 ……… 一条戻橋 ……… 梟首|きょうしゅ ……… 首をさらす刑罰。秀吉が利休の首を戻橋に晒した。 家老| ……… 高札|こうさつ ……… 罪状などを記した掲示板。利休の木像の脇に設置された。 晴豊公記 ……… 雪駄|せった ……… 茶人や僧が履く履物。木像に履かせたことで俗人性を強調。 朝廷 ……… 越権行為 ………

  • 2-7|利休の罪因 ~売僧の嫌疑~|第2回 利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第2回 利休の生涯 ■ 利休の罪因 ~売僧の嫌疑~ ❚ 利休の罪とは何だったのか? 千利休* の死罪は茶道史上最大の事件の一つとして知られています。 利休の罪因についてはさまざまな要因を考察することができるが、直接的な罪状としては史料に基づき以下の二点が考えられる。 (壱).『 大徳寺**三門**(金毛閣**) に自らの木像を安置した件』 (弐).『茶器売買にかかわる不正 (売僧の嫌疑) 』 しかしながら、これらの罪が 切腹** という極刑に値するかについては疑問の余地があり、その他の政治的要因が絡んでいた可能性も指摘されている。 本項では、第二の罪因として語られる「(弐).茶器売買にかかわる不正」の問題を詳しく見ていきます。 ❚ (弐).茶器売買にかかわる不正の件 利休が切腹を命じられた罪因として、もうひとつ挙げられるのが『茶器売買にかかわる不正』です。 これは 樂焼(長次郎焼)** をはじめとする利休自らが企画や制作した茶道具を自身の立場を利用し高値で取引し、その収益を得ていたという行為。 その行為が 豊臣秀吉* の怒りを買う要因のひとつであったとされる。 ❚ 史料から読み解く秀吉の怒り➀ この一件についても以下の2つの史料よりその史実の存在を裏付けることができる。 ■ その1 ――――― 公家** の 勧修寺晴豊* が記した日記 『晴豊公記**』 には次のように記されている。 ❝ 「その仔細は茶湯道具の新物などをも緩怠**に取換はし」 訳) その仔細 ** は、茶湯道具の新物などをも不正に取引したことにある。 ❝ ​ ■ その2 ――――― 興福寺** ・ 多聞院** の住職/ 多聞院英俊* の日記 『多聞院日記**』 の天正十九年(1591)二月二十八日の条には次のように記されている。 ​ ❝ 「スキ者の宗益 今暁切腹り了ンヌト。近年新儀ノ道具ドモ用意シテ 高値二売ル。マイスの頂上ナリトテ 以テノ外。関白殿御立腹」 ――数寄者**の宗易**、今暁**腹切りおわんぬと。近年新儀の道具ども用意して高値にて売る。売僧**の頂上なりとて、以ての外、関白殿**立腹―― 訳) 数寄者の宗易、今暁、腹切り終えたり。近年、新儀の道具を用意し、高値にて売る。売僧**の極みなりとして、関白殿、激怒せらる。 ❞ ​ 以上の2つの史料には共通して ――茶器(茶道具)の不正売買―― について問題視されていたことが記されています。 ❚ 単なる――売買――ではすまない恐怖 前項で述べた茶器の不正売買において問題とされたのは、単に高額での取引そのものであったとは以下のことからも考えられない。 ❝ 高値であっても、利休が売る茶器であれば確実に売れるという――絶対的な信頼性――が確立していたこと 門弟たちを通じて、利休が独占的ともいえる販売体制を築いていたこと ❞ これらは、千利休が文化的のみならず経済的にも極めて強い影響力と権威を有していたことの証左であり、町衆をはじめとする広範な支持層の中で、利休が―― カリスマ** ――的な存在として認識されていたことを物語っています。 しかし、そのような影響力は、天下人の豊臣秀吉にとってはすでに ――許容することのできない影響力―― に達していた可能性があり、利休の存在は政治的にも脅威と映っていたと考察することができまる。 ❚ 解決できないミステリー このように、前項・本項の史料からも明らかなように、『(壱) 大徳寺三門(金毛閣)への自身の木像安置』および『(弐) 茶器売買に関する不正行為』という二つの事由は、千利休の罪状として確実に記録されているものです。 一方で、利休の死には以下のような政治的・個人的背景が関係していたのではないかとする説も、数多く存在します。 ❞ 豊臣秀吉との茶の湯に対する考えの相違 豊臣秀吉の嫉妬 豊臣秀吉が利休の四女: 吟* を 妾** に臨んだが、それを利休が拒否したこと 利休の権力が増大しすぎたことへの豊臣秀吉の恐怖心 朝鮮出兵** への反対、批判 豊臣秀長* 派(大政所派)と 淀君* ・ 石田三成* 派の政権争いに巻き込まれた ❝ とりわけ利休の庇護者であった豊臣秀長の死後に石田三成が台頭し、その影響力によって利休が排除されたとする見解は、近年注目されています。 このように、千利休の死の背景には未解明の点が多く残されており、今後の研究によってさらなる真相の解明が期待されます。 ❚ 次回は・・・ 次回の「2-8|利休の死後|02.利休の生涯」では、利休の死後、その精神と茶の湯の教えがどのように門弟や千家に引き継がれていったのか、孫の 千宗旦 以後の動きとあわせてご紹介します。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 勧修寺晴豊 ……… (1544–1603):公家。『晴豊公記』にて詳細な記録を残す。 多聞院英俊 ……… (1518–1596):興福寺多聞院の住職。日記に利休の最期を記す。 吟| ……… 豊臣秀長 ……… (1540–1591):秀吉の実弟。利休の重要な後ろ盾。 淀君| ……… 石田三成| ……… (1560–1600):豊臣政権の実務官僚。利休排斥に関与したとの説あり。 用語解説 大徳寺 ……… 三門 ……… 金毛閣 ……… 樂焼 ……… 公家 ……… 晴豊公記 ……… 緩怠 ……… 仔細 ……… 興福寺 ……… 多聞院 ……… 多聞院日記 ……… 数寄者 ……… 宗易(宗益) ……… 今暁 ……… 売僧|ばいそう ……… 関白殿 ……… 妾 ……… 朝鮮出兵 ………

  • 2-8|利休の死後|第2回 利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第2回 利休の生涯 ■ 利休の死後 ❚ 利休の死 千利休* の死は、 豊臣秀吉* の政権下における茶の湯文化に大きな衝撃を与えました。 切腹後、屋敷は 破却** され、弟子たちも処罰されるなど、「千家」は一時的に歴史の表舞台から姿を消します。 しかし、その精神は弟子たちと次世代の茶人たちに受け継がれ、やがて 三千家** の創設へとつながっていくこととなります。 ❚ 利休の死後 利休の死後、その住居であった 聚楽屋敷** は取り壊されましたが、その一部は 利休七哲** の一人でもある 細川家初代/細川三斎* によって保存されました。 細川三斎が健創した 大徳寺** / 高桐院** には利休屋敷の書院の一部とされる 遺構 が今も残り、利休の精神を今に伝えています。 ❚ 利休の後継者​ 利休の残された系譜には以下の人物が名を連ねます。 ​ ❝ ・先妻: 宝心妙樹* の嫡男―― 千道安* ・ 後妻: 千宗恩* の連れ子―― 千少庵宗淳* ・ 次女:不明の夫―― 万代屋宗安* ・ 弟: 千宗把* の子―― 千紹二* ❞ しかし千道安と千少庵宗淳は利休の死罪に連座する形で 蟄居** を命じられ、「千家」は一時取り潰し状態となりました。 ❚ 茶の湯の継承と門人の活躍 千家無きその間は豊臣秀吉の 茶頭** を努めたのは以下の利休の高弟たちです。 ❞ ・古田織部重然* (利休七哲の一人) ・ 織田有楽斎長益* (織田信長の弟、利休十哲の一人) ・細川三斎忠興 (利休七哲、利休門三人衆) ❝ それぞれが利休の わび茶** の精神と道系を継承、発展させる重要な役割を果たしました。 ❚ 堺千家と京千家 江戸時代中期の茶人: 久須美疎安* の 『茶話指月集**』 によると、文禄四年(1595年)頃、 徳川家康* と 前田利家* の取り成しにより、千道安と千少庵宗淳は 赦免** されたことを伝えています。 ❝ 「権現様(徳川家康)・利家公(前田利家)、兼ねて宗易の事不便(不憫)がらせ給いて、よきおりとおぼし召し、少庵・道庵御免の御取成あそばされ下され、早速御ゆるし蒙り、その後、道庵を御前へめし、四畳半にて茶をたてさせ、上覧ありて、宗易が手前によく似たる、と御感に預かる。」 訳) 「徳川家康と前田利家は、以前から千利休のことを気の毒に思っておられ、よい機会だとお考えになり、千少庵と千道安を許すように取り計らってくださった。おかげで早速、赦免されることとなり、その後、千道安は御前に召され、四畳半の茶室でお茶を点てたところ、徳川家康たちはそれを御覧になり、『宗易の点前によく似ている』と感心された。」 ❞ ​ ■ 堺千家 ――― 赦免後、長男の千道安が本家の「堺千家」の家督を継承するが、子がなかったため千道安の死後「堺千家」は断絶することとなる。 ■ 京千家 ――― 赦免後、養嗣子の千少庵宗淳は「京千家」を再興し、その後の「三千家」の創建へとつながることとなります。 ❚ 三千家の成立 千少庵宗淳の子である 千宗旦* は、大徳寺の 喝食** であったが、 還俗** して茶の湯を継承し、京都の 「本法寺**」 前に屋敷を構える。 その後、千宗旦の三人の息子がそれぞれの流派を興し「三千家」が創設され今日に至る。 ​ ■ 表千家 ――― 三男| 表千家四代/逢源斎江岑宗左* が―― 表千家** | 不審庵** ――を創建   ■ 裏千家 ――― 四男| 裏千家四代/臘月庵仙叟宗室* が―― 裏千家** | 今日庵** ――を創建 ■ 武者小路千家 ――― 次男| 武者小路千家四代/似休齋一翁宗守* が―― 武者小路千家** | 官休庵** ――を創建 ​​ ❚ 利休の遺愛 前述の 『茶話指月集**』 によると、以下のように千宗旦は、豊臣秀吉から 「数寄道具長櫃三棹**」 を賜ったと伝えられています。 ❝ 「宗旦、始めは柴阜の喝食にて有りしが、秀吉公度々宗易へ御成の時分、御給仕相勤め、公御身知りあるにより、宗易跡の数寄道具、かの喝食にとらせよ、との上意にて、長櫃三棹拝領す。」 訳) 千宗旦は、もとは京都・大徳寺の僧であったが、秀吉公がたびたび千利休のもとにお出ましになっていた頃、その給仕役を務めていた。 秀吉公は千宗旦のことを以前からご存じであったことから、『千利休の遺した数寄の道具は、あの僧に与えるように』というご意向により、大きな道具箱三つを拝領した。 ❞ ​ これは、利休の遺愛の茶道具が千家に返還されたことを意味しており、豊臣秀吉が利休の提唱した 「わび茶」 そのものを否定したのではなかったことを示唆していると推測することができる。 ❚ 利休は不滅 利休の死後、千家は一時的に衰退するものの、門人や次世代の茶人たちによってその精神は受け継がれました。 やがて宗旦とその子らによって三千家が興され、わび茶の理念は連綿と今に受け継がれています。 利休の影響力は、単なる茶人にとどまらず、政治・文化・思想の分野にまで及び、日本文化に深く根を下ろした存在であったことが再認識されます。 ❚ 次回は・・・ 次回の「2-9|利休の史料|02.利休の生涯」では、利休に関する現存する史料や古文書をもとに、利休の実像を探り、後世の伝承や理想像との違いについて考察していきます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 細川三斎忠興 ……… 宝心妙樹| ……… 千道安 ……… 千宗恩| ……… 千少庵 ……… 万代屋宗安| ……… 千宗把| ……… 千紹二| ……… 古田織部 ……… 織田有楽斎 ……… 徳川家康 ……… 前田利家 ……… 千宗旦| ……… 逢源斎江岑宗左| ……… 臘月庵仙叟宗室| ……… 似休齋一翁宗守| ……… 久須美疎安| ……… 用語解説 破却 ……… 三千家 ……… 聚楽屋敷 ……… 利休七哲 ……… 大徳寺 ……… 高桐院 ……… 蟄居|ちっきょ ……… 自宅謹慎を命じる処分 茶頭 ……… わび茶 ……… 赦免 ……… 喝食|かっしき ……… 寺で奉仕する少年僧 還俗|げんぞく ……… 僧籍から離れ、俗人に戻ること。 本法寺 ……… 表千家 ……… 不審庵 ……… 裏千家 ……… 今日庵 ……… 武者小路千家 ……… 官休庵 ……… 茶話指月集 ……… 数寄道具長櫃三棹 ………

  • 2-9|利休の史料|第2回 利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第2回 利休の生涯 ■ 利休の史料 ❚ 利休の史料 これまで述べたように 千利休* の生涯をたどるには、利休の思想や美学を裏付ける史料の存在が欠かせません。 本稿では、利休の人物像を立体的に描くために残された古典文献・千家伝来の記録・自筆書状などの主な史料を紹介し、茶の湯の精神がどのように後世に伝わっていったのかを探っていきます。 ❚ 一般史料 千利休を知る上で、代表的な文献史料として以下のものが挙げられます。 ❝ ・ 山上宗二* 『山上宗二記**』 ・ 南坊宗啓* 『南方録**』 ・ 古田織部* 『織部百ヶ条**』 ・ 松屋久重* 『松屋会記**』『茶道四祖伝書**』 ・ 久須美疎安* 『茶話指月集**』 ​❞ これらの史料には、利休の茶の湯の思想や作法、歴史的背景に関する記録が詳細に残されています。 特に、利休の高弟であった山上宗二が記した『山上宗二記』 では、利休が 六十歳まで 村田珠光* ・ 武野紹鷗* の茶の道を踏襲し、天正十年(1582年)の 「本能寺の変**」 以後の六十一歳から自身の茶を確立したと記されています。 ❚ 千家史料 千家 においては 「不立文字**」 が基本とされるが、以下の文献が残されています。 ​ ❝ ・ 表千家四代/逢源斎江岑宗左* 『江岑夏書**』『千家系譜**』『千利休由緒書**』 ・ 表千家五代/随流斎良休宗左* 『隋流斎延紙ノ書**』 ❞​ これらは、――千家の系譜――や――利休の由緒――、――茶の湯の伝承――を後世に伝えるための貴重な史料とされている。 ❚ 書状 これまでの史料以外にも利休は多くの書状を遺しており、その中には茶道具に添えた文や、門弟・知人に宛てた書状が含まれています。 ​​ ■ 武蔵鐙の文 ――― 古田織部 に宛てた書状。(東京国立博物館蔵) ■ 蟄居見舞いの返書 ――― 芝山監物 に宛てた返書。(裏千家今日庵蔵) ■ 手桶の文 ――― 喜三 に宛てた書状。(表千家不審庵蔵) ■ 大仏普請の文 ――― 伊勢待従 に宛てた書状。(大阪城天守閣蔵) ■ 大徳寺門前の文 ――― 平野勘兵衛 に宛てた書状。(大阪城天守閣蔵) ■ 永代供養の文 ――― 大徳寺 / 聚光院** に宛てた寄進と供養の願文。(大徳寺聚光院蔵) これらの書状は、千利休の思想や当時の状況を知る上で極めて貴重な史料となる。 利休自筆の 真蹟** や書状は 織田信長* 参仕** 以前の物はほぼ現存せず 豊臣秀吉* の参仕時代の物が中心となっている。 ❚ 署名 利休の署名には以下ののように変遷が見られる。 ■ 天正十三年 (1585年)以前 ――― 「抛筌斎宗易」 ■ 天正十三年 (1585年)以後 ――― 「利休宗易」 ​ これは、天正十三年(1585年)の 禁中茶会** において「利休居士号」を 勅賜** されたことに起因すると考えられる。 ❚ 代筆 利休の書状については 代筆 の可能性が指摘されており、 「祐筆(代筆者)**」 として 鳴海宗温* が知られているが、長男の千道安や千少庵宗淳が代筆した可能性も指摘されているが詳細は不明。 ❚ 利休を伝える書 千利休の思想と実践の全容を把握するには、文献と書状の双方を組み合わせた読解が必要です。 山上宗二記をはじめとした古典、千家による後世の整理、自筆書状の存在は、利休の実像を今に伝えるかけがえのない手がかりとなっています。 ❚ 次回は・・・ 次回の「3-1|遺偈とは|03.利休の遺偈」では、「遺偈」という言葉の意味や、禅宗の思想における位置づけを踏まえながら、遺偈とはなにかを紐解きます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 山上宗二 ……… 南坊宗啓 ……… 古田織部 ……… 松屋久重 ……… 久須美疎安 ……… 村田珠光 ……… 武野紹鴎 ……… 逢源斎江岑宗左 ……… 随流斎良休宗左 ……… 古田織部| ……… (1544–1616):秀吉茶頭。利休七哲。 芝山監物 ……… 喜三 ……… 平野勘兵衛 ……… 織田信長 ……… 豊臣秀吉 ……… 鳴海宗温 ……… 用語解説 山上宗二記 ……… 南方録 ……… 織部百ヶ条 ……… 松屋会記 ……… 茶道四祖伝書 ……… 茶話指月集 ……… 本能寺の変 ……… 千家 ……… 不立文字|ふりゅうもんじ ……… 言葉や文字によらず、心から心へと伝える禅的思想。千家ではこれを重視する。 江岑夏書 ……… 千家系譜 ……… 千利休由緒書 ……… 伊勢侍従 ……… 大徳寺 ……… 聚光院 ……… 真筆 ……… 参仕 ……… 禁中茶会 ……… 居士号|こじごう ……… 禅宗における在家の修行者に与えられる名誉称号。「利休居士」は天皇勅賜による名。 勅賜 ……… 代筆 ……… 祐筆|ゆうひつ ……… 文書の作成・代筆を担った役職・人物のこと。

  • 3-1|遺偈とは|第3回 利休の遺偈|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第3回 利休の遺偈 ■ 遺偈とは ❚ 最後のことば 「遺偈とは?」、 千利休** が最期に遺した 辞世** の 詩文** 「遺偈」について、その本質と宗教的背景を紐解いていきます。 この言葉には、利休が生涯をかけて体現した茶の湯と禅の精神が凝縮されています。 まずは「遺偈」とは何か、その根本的な意味と 禅宗** における位置づけを明らかにし、次項の実際の詩文解釈に向けた基礎理解を深めていきましょう。 ❚ 遺偈とは? 「遺偈」とは、 禅僧** が臨終の際に遺す仏教詩文のことを指し、単なる辞世の句ではなく、その人物の――悟りの境地――や――生涯の哲学――を凝縮した表現です。 特に 禅宗で は、遺偈は教えの伝承や境涯の証として、極めて重要な意味をもつとされています。 利休の遺偈もまた、そうした禅宗的伝統を背景にしており、死を前にした茶人がいかなる覚悟と境地を持ち、何を後世に伝えようとしたかを知るうえで、極めて貴重な手がかりとなります。 ❚ 偈とは ​ 「偈」とは、 仏教** の教えを 韻文** 形式 で表した詩句のことで、 サンスクリット語** 「gāthā(ガーター)」を音写した語です。 一般的に四字・五字・七字からなる四句構成で、仏の徳や悟りを称える内容が多く含まれます。 表記には以下の異称もあります。 ■ 音訳 ―― 偈陀(げた)、伽陀(かだ) ■ 漢語 ―― 頌(じゅ)、讃(さん)   ❚ 偈頌(げじゅ)とは? 「偈頌」とは、禅宗において僧が悟りを開いた際、その境地を詩文形式で表現する伝統的手法です。 その目的には、以下の3点が挙げられます。 ​ ❞​ ・自らの悟り を象徴する表現 ・師から弟子への教えを伝える ・生涯の思想を 凝縮して後世に遺す ❝ ❚ 伝えたいこと 遺偈は、禅宗の伝統に基づいたものであり、その生涯の境地と、茶の湯を極めた者としての最期の言葉が込められています。 「遺偈」とは、単なる辞世の句ではなく、死を迎えるにあたり自身の思想・人生観・悟りの境地を詩文に凝縮して表現したものであり、特に禅宗においては重要な儀礼とされています。 千利休の遺偈もまた、この禅宗の伝統に則り、利休の到達した悟りと茶の湯の精神が深く刻まれているのです。 ❚ 次回は・・・ 次回の「3-2|利休の遺偈|03.利休の遺偈」では、利休が残した遺偈の全文を取り上げ、その一語一句に込められた精神や死生観、そして茶の湯との結びつきを深く読み解いていきます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 用語解説 辞世|じせい ……… 。 詩文|しぶん ……… 。 禅宗|ぜんしゅう ……… 。 禅僧|ぜんそう ……… 。 仏教|ぶっきょう ……… 。 韻文|いんぶん ……… 。 サンスクリット語|さんすくりっとご。 ……… 。 ​ ​​

  • 3-2|利休の遺偈|第3回 利休の遺偈|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第3回 利休の遺偈 ■ 利休の遺偈 ❚ 利休の遺偈 じんせいしちじゅう りきいきとつ 人生七十 力囲希咄 わがこのほうけん そぶつともにころす 吾這寶剱 祖仏共殺 ひっさぐるわがえぐそくのひとつたち 提ル我得具足 一太刀 いまこのときぞてんになげうつ 今此時そ天に抛 ​ ​ 千利休* が 切腹** を命じられた際に詠んだこの 遺偈** は、 禅宗** における ――悟りの境地―― を象徴するものであり、利休の茶道哲学と人生観が凝縮された言葉です。 この偈には、 ――人生の達観―― 、 ――無常の悟り―― 、 ――自己の決意―― が込められており、茶の湯の道を極めた利休が最期の瞬間に発した言葉として、後世に大きな影響を与えました。 ​ この遺偈は単なる ―― 辞世の句** ―― ではなく、利休が生涯を通じて追い求めた茶道の極意と、その最期の境地を表す言葉 です。 ❚ 利休が遺した言葉 以下に、利休の遺偈を構成する四行について解説します。 ​ ​ ​ 人生七十 力囲希咄|じんせいしちじゅう りきいきとつ ……… 禅宗に おいて強い気概や悟りの境地を示す語句であり、悟りの声を発する瞬間を意味するとも解釈できます。 吾這寶剱 祖仏共殺|わがこのほうけん そぶつともにころす ……… 単に仏を否定する意味ではなく、――師や仏の教えを超越し、自らの道を極めた――という悟りの境地を表しています。 提ル我得具足 一太刀|ひっさぐるわがえぐそくの ひとつたち ……… 得具足(えぐそく)=「すべてを得た者」という意味があり、すでに悟りを得た者が最後に振るう一太刀を指します。 今此時そ天に抛|いまこのときぞてんになげうつ ……… 最期の瞬間に一切の執着を捨 て、悟りの境地へ至ることを示しています。 ​ ❚ ​利休を今に伝える なお、この遺偈には正式な現代訳は存在しませんが、現代訳の一例として以下のような意訳が考えられます。 ​ 01.現代訳 ……… 七十年生きた私の人生に、今ここで終止符を打つ私はこの宝剣をもって、自らの命だけでなく、師や仏すらも超え、自らが歩んできた道を断ち切る。 ​そして私は何も恐れず 、この信念と共に、今こそ天へと身を投げ出す 02.現代訳 ……… 七十年を生きてきた今、私はついに真理を悟りました。 宝剣をとり、師や仏の教えも断ち切り、私は全てを受け入れ、迷いなくこの天に我身を解き放ちます 03.現代訳 ……… 私が歩んだ七十年の人生、もう心に迷いはありません。 すべてを受け入れ、仏と共に天旅立ちます。 ​ 利休の遺偈は、茶道の精神のみならず、禅の思想や生き方そのものを象徴する言葉 であり、現代においても深く考察され続けています。 ❚ 利休が遺した思想 利休が遺したこの遺偈は、死の瞬間に悟りの境地を示したものであり、禅宗と茶道が重なる精神性の結晶です。 その内容は、仏教の教義すらも超え、自己の悟りと死を肯定的に表現したものとして、時代を超えて今なお強い感銘を与えています。 単なる辞世の句ではなく、生涯をかけて体現した思想の最終章であるといえるでしょう。 ❚ 古田織部の泪 千利休が 豊臣秀吉* より切腹を命じられた折、自ら削り上げたと伝わる、最後の 茶杓** があります。 その姿は薄造りでやや細身で直線的な姿を保ち、節は茶杓の中央よりやや下に位置し、全体に簡素で潔い印象を与えます。 利休は切腹の命を受けた後に最期の茶会を催し、 高弟** であった 古田織部* を招きました。 その席でこの茶杓を用い、自由闊達な人柄であった古田織部に対し ―初心を忘れずに― との意を込め、この直線的な姿をした茶杓を 形見** として托したと伝えられています。 利休の死後、古田織部はこの形見を常に拝するため、黒漆塗の筒を誂え、その正面に四方の窓を設け、茶杓の姿が常に見えるように納めました。 またその姿から古田織部が「泪」と 銘** を付けました。(※諸説あり) この茶杓を筒に納め立たたせた姿は、まるで位牌に向かって手を合わせるような佇まいを見せ、師に対する深い敬慕の念がうかがえます。 千利休-古田織部- 徳川家康* - 徳川義直* へと伝来し、今日は 徳川美術館** に所蔵されています。 ❚ 次回は・・・ 次回の「4-1|利休の茶の湯|04.利休の茶の湯」では、千利休が生涯をかけて磨き上げた茶の湯の在り方について、理念・作法・道具の美意識など多角的な視点から探っていきます。 わびの精神** を根幹としながらも、利休ならではの革新性や実践の工夫がどのように展開されたのか、その全体像をご紹介します。   登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 古田織部 ……… 徳川家康 ……… 徳川義直 ………   用語解説 切腹 ……… 遺偈|ゆいげ ……… 高僧が臨終に際し、悟りの境地を詩文で表したもの。禅宗で重要とされる。 禅宗 ……… 辞世の句 ……… 茶杓 ……… 高弟 ……… 形見 ……… 銘 ……… 徳川美術館 ………   無料ダウンロード 本ページにてご紹介いたしました「利休の遺偈」をPDF資料としてまとめましたのでダウンロード後(無料)、お稽古やご自身の修練にご活用いただければ幸いです ◆無料ダウンロード資料をご利用いただく際の注意点◆ 1.はじめに ・本サイトにて掲載しております解説文章につきましては、サイト運営者が茶道の修練にあたり、個人的にまとめた解説文章となっておりますので個人的な見解や表現なども含まれていることを事前にご理解ください。 2.個人利用の範囲内でご使用ください ・ダウンロードいただいた資料は、個人利用(学習・修練・お稽古場での利用など)の非営利目的に限りご利用いただけます。 ・本資料(文章、デザイン含む)の一部または全部を、許可なく転載、複製、加工、修正、販売することを固く禁じます。 3..内容の正確性について ・掲載情報には十分注意を払っておりますが、その内容の正確性や最新性は保証しておりません。 ・各流派や各文献によって、その解釈や文言、年代などの記載内容に差異が生じる場合があります。 ・本資料をご活用される場合は皆様が修練なさっています先生などにご確認の上、自己の責任においてご活用ください。 4..免責事項 ・通信環境やご利用の端末によっては、ダウンロードが正常に行えない場合や、データ破損、誤作動などが発生する可能性があります。 ・本資料のご利用によって生じた、いかなるトラブルや損害についても、当方は一切の責任を負いかねます。 5.同意 本資料をダウンロードいただいた時点で、上記の内容にご理解、ご同意いただいたものとさせていただきます。

  • 4-1|利休の茶の湯|第4回 利休の茶の湯|千宗易利休|抛筌斎

    全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第4回 利休の茶の湯 ■ 利休の茶の湯 ❚ 美の追求 「利休の茶の湯」では、 千利休* が確立した 「わび茶**」 の精神とその特徴を詳しくご紹介します。 華美を排し、 ――無駄を削ぎ落とした簡素な美―― を追求したその思想は、作法を超えて日本の精神文化や美意識にも深い影響を与えました。 それでは、「利休の茶の湯」について詳しく見ていきましょう。 ❚ 機能する美とは 利休は鎌倉時代から室町時代を通じて主流であった 「書院茶湯**」 の発展過程において、華美な装飾を徹底的に排除し、町衆の間で発展した簡素な茶の湯を融合・完成させ新たな茶の湯の境地を開きました。 ​ それまで主流であった 「唐物道具**」 を否定し、 「見立道具**」 をはじめとする国産の茶道具に価値を見出し、特に 樂焼(長次郎焼)** の 黒樂茶碗** を愛用し、 「無地」「木地」「黒」「朱」 などの簡素な美を好みました。 従来の華麗な茶の湯とは一線を画し、無駄を徹底的に削ぎ落とした機能美を追求したことで、茶の湯に大きな変革をもたらしました。 ❚ わび茶の系譜と大成 利休の茶の湯は独自の茶風を示しているが、突然に生まれたわけではなく、 表千家五代/随流斎良休宗左* の残した 『隋流斎延紙ノ書**』 に次のように記されています。 ❝ ―現代訳― 「伝ハ紹鴎ニ得申、道ハ珠光ニ得申ス」 ―現代訳― 茶の湯の技術は 武野紹鷗* から、精神的な道は 村田珠光* から受け継がれた ❝ ​ すなわち利休の「わび茶(草庵茶湯)」は村田珠光の精神を受け継ぎ、それを武野紹鷗が実践し、利休によって完成されたことが示されています。 さらに天下人となった 豊臣秀吉* の後援もあり「わび茶(草庵茶湯)」は大成され、広く社会に受け入れられることになりました。 ​​ ❚ 山上宗二が見た茶の湯 利休の高弟であった 山上宗二* の記した 『山上宗二記**』 には利休の茶の湯について次のように評されています。 ​ ❝ 「宗易ハ名人ナレバ、山ヲ谷、西ヲ東ト、茶湯ノ法ヲ破リ、自由セラレテモ面白シ」 訳) 利休は名人であり、山を谷に、西を東に変えるように、茶湯の常識を破り、自由自在に工夫しても面白い ❞ この記述からも、利休の茶の湯が既存の形式にとらわれず、自由な発想と創造性に満ちたものであったことがわかる。 ​ ❚ 二平寿悦の証言 慶長十七年(1612年)、 二平寿悦* の 奥書**『僊林**』 には利休の茶の湯の特徴が次のように記されている。 ​ ❝ ―原文― 「当世の茶湯とハ、宗易と云数寄者、むかしのくどきことを除、手まへかるく、手数すくなく、かんなる所ヲ本とす。茶わんにても、こ(濃)き・うす(薄)きの替をかんようにたてつれバなり、座敷のひろ(広)き・せば(狭)きによらず左かまへなり、又道具ヲはこぶ事、ミな侘数寄の仕舞也、殊ニ茶のいき(息)ぬかすまじきため、ひしやく大にして一ひしやく立ル也」 ―現代訳― 「現代の茶湯というものは、宗易(千利休)という数寄者(茶人)が、昔ながらの細々とした決まりごとを取り払い、手順を簡略化し、無駄のない簡素なあり方を本質としたものである。茶碗に関しても、濃茶**と薄茶**を交互に点てることを工夫し、座敷の広さや狭さに関わらず、それに応じた柔軟な構えで行う。また、道具を運ぶ際もすべて「わび茶」の精神に基づいた所作となっており、特に、茶を点てる際に呼吸を乱さないよう、柄杓を大きめにして、一度で湯をすくいきるようにしている。」 ❞ これは利休がこれまでの茶の湯から細かな決まりを省き、合理的かつ機能的な点前と、どんな場所・条件でも一貫した構えを取る柔軟性が特徴と論されている。 ❚ 精神性と思想 南坊宗啓* による 『南方録**』 には利休の茶の湯について次のように記されている。 ​ ❝ 「茶湯は台子を根本とすることなれども、心の至る所は、草の小座敷にしとくことなし」 ❞ ❝ 「小座敷の茶湯は、第一仏法を以って修行得道する事也」 ❞ ​ この言葉は、利休が「茶の湯」を単なる嗜好や社交ではなく、禅に結び付いた精神修養の場であることを諭しています。 ❚ 利休の茶の湯の特徴 利休が提唱した 「一期一会**」 や 「一汁一菜**」 という概念からもわかるように利休の「わび茶(草庵茶湯)」には禅の教えが色濃く反映されており、以下のような特徴が挙げられる。 ​ ■ シンプルで無駄のない美 ……… 「見立道具」 を重視し、樂焼を愛好。 過度な装飾を排し、機能美を追求。 ​ ■ 草庵茶湯の確立 ……… 茶室を狭小化し、 「躙り口**」 を設けることで、亭主と客が同じ目線で向き合う空間を作り出す。 ​ ■ 席中の平等 ……… 武士の 帯刀** を禁じ、身分の違いを取り払った茶室空間 を構築。 ​ ■ 一期一会の精神 ……… 茶会は一度きりの出会いであるという禅の思想を反映し、その一瞬にすべてをかける茶の湯 を提唱。 ​ ■ 一汁一菜の質素な食事 ……… 茶事の食事( 懐石料理** )にも「禅」の思想を取り入れ、過度な贅沢を避け、質素ながらも心のこもったもてなし を重視。 ​ ❚ 利休の茶の湯 利休以前 (書院茶湯) 利休以後 (草庵茶湯) 主な空間 書院造 (広間・装飾豊か) 草庵風 (狭小・簡素) 茶室の広さ 8畳以上が主流 2畳~4畳半 入室方法 広間正面から堂々と入る にじり口から頭を下げて入る 主な茶道具 唐物・名物 見立道具・国産道具 客の扱い 身分差に応じた接待 武士も刀を外し平等に着座 装飾 花鳥風月などの豪華な意匠 無地・黒・木地などの簡素な意匠 ❚ プロデューサーRIKYU これまでに述べたように、利休は、単なる茶人の枠にとどまらず、当時の「美」の概念そのものを革新し、 ――美の巨匠―― 、 ――美のプロデューサー―― としての役割を果たしました。 利休が大成させた「わび茶(草庵茶湯)」は、単なる茶の湯の様式にとどまらず、日本人の美意識をかたちづくる礎となった精神文化です。 これは、 東山文化** における将軍や貴族の「書院茶湯」と、町衆が育んだ「茶の湯」の流れを統合し、簡素で精神性の高い「わび茶(草庵茶湯)」へと昇華させたものです。 利休の茶の湯は、形式から精神へと軸を移し、従来の茶湯とは一線を画す総合芸術として確立され、日本文化における美と精神の融合を象徴する存在となったのです。 ❚ 次回は・・・ 次回の「5-1|利休四規とは?|05.利休四規」では、千利休が茶の湯の理想として示した四つの規範について、その由来と意味を概観します。 利休が生涯をかけて追求した茶の精神が、どのような言葉として結実したのか、後世に与えた影響も含めて丁寧にご紹介します。   登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 随流斎宗左|ずいりゅうさ・いそうさ ……… 。 武野紹鴎|たけの・じょうおう ……… 。 村田珠光|むらた・じゅこう(しゅこう) ……… 。 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 山上宗二|やまのうえ・そうじ ……… 。 二平寿悦|にへい・じゅえつ ……… 。 南坊宗啓|なんぼう・そうけい ……… 。   用語解説 草庵茶湯 ……… 。 書院茶湯 ……… 武家や公家の屋敷で行われた格式高い茶の湯。装飾や唐物名物を重視。 唐物道具|からものどうぐ ……… 。 見立道具|みたてどうぐ ……… 。 黒樂茶碗|くろらくちゃわん ……… 。 隋流斎延紙ノ書| ……… 。 山上宗二記|やまがみそうじき ……… 。 奥書|おくしょ ……… 。 僊林|せんりん ……… 。 濃茶|こいちゃ ……… 。 薄茶|うすちゃ ……… 。 南方録|なんぽうろく ……… 。 一期一会|いちごいちえ ……… 。 一汁三菜|いちじゅうさんさい ……… 。 躙り口|にじりぐち ……… 。 懐石料理|かいせきりょうり ……… 。 東山文化|ひがしやまぶんか ……… 。

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茶道具|中古道具市
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