7-3|宮中茶道 ~再興された精神と様式~|第7回 茶道の飛躍|江戸時代(前期)|茶道の歴史
- ewatanabe1952

- 2023年2月2日
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全10回 茶道の歴史

第7回 茶道の飛躍 (3/4)
― 江戸時代 (1603年―1868年) |前期 ―
❚茶の湯は“宮中”に息を吹き返した
茶の湯は、いつから再び“禁中”に息を吹き返したのでしょうか。
遊宴から茶室へ――。
精神性を深めた新たな宮中茶道のかたち。
今回は、後水尾天皇と後西天皇を中心に、宮中茶の復活の歩みをたどります。
❚宮中茶道の復活とその背景

安土桃山時代(1573年–1603年)、豊臣秀吉によって宮中に茶の湯が持ち込まれ、一時的に盛んにはなりましたが、その後は定着せず、しばらく沈静化することとなりました。
しかし江戸時代に入り、再び「宮中茶道」の流れが生まれはじめます。
京都・金閣寺(鹿苑寺)の「鳳林承章」が記した日記『隔瞑記*』によれば、後水尾天皇の弟である「近衛信尋」をはじめ、公家や門跡、近臣たちが参加した「口切茶会*」のようすが描かれています。
書院での正式な食事にはじまり、茶屋での茶会、さらにその後の遊宴に至るまで、宮中における茶の湯の一日が詳細に記録されています。
❚精神性への転換と後継者の姿勢

後水尾天皇の子である「後西天皇」もまた、幼少より茶の湯を学び、父と同様に遊宴をともなった茶会を催していました。
しかし、譲位し上皇となってからは、次第に茶の湯の精神性を重視するようになり、遊宴を排し、三畳台目の簡素な茶室のみで茶会を行うようになります。
さらに自らの好みに応じて「野上焼*」などの焼物を焼かせ、それを自身の茶会に用いるなど、従来の格式的な「禁中茶会*」とは異なる新たな茶道の姿を築いていきました。
❚宮中に根づいた茶の湯の精神
このような宮中茶道の再興は、後に「近衞家熈」によって受け継がれ、ついには「御流儀*」として流儀化されることになります。
この動きは、武家や町人社会だけでなく、公家社会においても茶の湯が文化的・精神的営みとして深く根づいていったことを示しています。
禁中における茶の湯は、再び“儀礼”を超え、静かな精神修養の道としての姿を見せはじめます。
その動きはやがて「流儀」となり、近代における茶道の基礎ともなる美意識を育んでいきました。
次回は、この時代の町人文化の中で育まれた、もうひとつの茶道の展開に迫ります。
登場人物
鳳林承章
……… 鹿苑寺(金閣寺)住持|相国寺第九十五世|1593年―1668年
後水尾天皇
……… 第百八代天皇|1596年―1680年
近衛信尋
……… 公卿|五摂家|近衛家十九代当主|1599年―1649年|後水尾天皇の弟
後西天皇
……… 第百十一代天皇|1638年―1685年|後水尾天皇の第八皇子
近衞家熈
……… 公卿|五摂家|近衛家二十二代当主|1667年―1739年
用語解説
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隔蓂記
―かくめいき―
江戸時代初期の臨済宗僧・鳳林承章が記した日記で、寛永年間を中心に約40年にわたる朝廷・幕府・寺社の出来事を詳細に記録している。後水尾天皇との親交も深く、宮中の動向や文化的風俗が綴られており、当時の政治・宗教・文化を知る第一級の史料として高く評価されている。
口切茶会
―くちきりちゃかい―
新茶を詰めた茶壺の封を切り、その年の茶を初めて使う儀式的な茶会。毎年11月頃に行われ、茶人にとっては新年の始まりともいえる重要な行事。千家では特に重んじられ、由緒ある茶壺と厳かな作法のもとに進行される。茶の湯の歳時記を彩る風雅な行事として、今も継承されている。江戸時代には宮中や大名家でも盛んに行われた。
野上焼
―のがみやき―
後西天皇が好んだとされる陶器。高取焼の技術に影響を受け、宮中の茶会に用いられたことから注目を集めた。江戸時代に後西天皇の御所内で焼かれたと伝わる御庭焼の一種で、素朴で優雅な風合いが特徴。宮廷趣味を映す希少な茶陶として知られる。
宮中茶会
―きゅうちゅうちゃかい―
天皇や皇族が主催または列席する格式高い茶会で、古くは禁中茶会とも呼ばれた。一時衰退するが特に後水尾天皇の時代に盛んとなり、千宗旦ら名茶人が招かれた。宮中の儀礼と茶の湯が融合したこの茶会は、文化的象徴としての茶道の地位を高め、雅な風格と高尚な趣を今に伝えている。
御流儀流
―おりゅうぎ―
江戸時代に宮中で伝承された茶の湯の作法で、後水尾天皇や後西天皇ら歴代天皇の美意識や教養を背景に形成された。表千家や遠州流などの影響を受けつつも、独自の優雅さと格式を持ち、御所風の洗練された点前が特徴。雅な宮廷文化を反映した、由緒ある茶道の一系統である。
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