0-4|千家三代|咄々斎|元伯宗旦|1578-1658|千家|人物名鑑
- ewatanabe1952

- 2024年12月27日
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人物名鑑

■ 千家 ■
三代|咄々斎|元伯宗旦|1578-1658
❚ 花押|署名
❚ 出自
[父]千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)の長男としてうまれる。
母は[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休(1522-1591)の六女・亀(生没享年不詳)。
※一説には叔父にあたる千道安紹安(1546-1607)の子ではないかという異説も伝えられている。
その出自には諸説あるものの、[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の流れを汲む千家の後継者として、茶の湯の発展に大きく寄与することとなる。
生 没 享 年
生年:天正六年(1578年) 没年:万治元年(1658年) 十二月十九日 享年:八十一歳
出 生
父:千家二代/千少庵宗淳 母:[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の六女・亀
名
幼名:修理 名:宗旦 一字名: 旦 通称:詫び宗旦 / 乞食宗旦 号: 咄々斎 / 咄斎 / 元叔 / 宗旦 / 寒雲 / 隠翁 / 元伯
兄 弟
弟(次男):山科宗甫(生年不詳-1666)
室
先妻:不明(生没年不詳) 後妻:宗見(生没年不詳)
子
先妻 長男:閑翁宗拙(1592-1652) 次男:武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676) 後妻 三男:表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672) 四男:裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622-1697) 長女:くれ(久田家二代/受得斎宗利(1610-1685)の室)
❚ 師事|門下
師事
茶道 [父]千家二代/千少庵宗淳(1546-1614) 参禅 大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611) 大徳寺百四十七世/玉室宗珀(1572-1641)
門下|宗旦四天王
茶匠:宗偏流開祖/山田宗徧(1627-1708) 茶人:杉木普斎(1628-1706) 茶匠:庸軒流開祖/藤村庸軒(1613-1699) 茶人:久須見疎安(1636-1728) 茶匠:松尾流開祖/松尾楽只斎宗二(1677-1752) 茶人:三宅寄斎亡羊(1580-1649)
門下
千家十職:飛来家初代/飛来一閑(1578-1657) 茶人:久須美疎安(1636-1728) 茶人:銭屋宗徳(生年不詳-1683)
❚ 生涯・事績
[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の意により、天正十六年(1588年)、十歳の頃より大徳寺へ入門。
大徳寺百十一世/春屋宗園の元で修業を開始し、大徳寺三玄院に住し、喝食となり、仏門の道を歩むこととなる。
※大徳寺に入った経緯については[父]千家二代/千少庵宗淳が[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の後妻の子であったことから、家督争いを避けるための処置であったとも伝えられる。諸説あり。
その後、得度して「蔵主」に昇るが、文禄三年(1594年)、千家の再興を果たした[父]千家二代/千少庵宗淳の強い希望により還俗し帰家。この頃、[長男]閑翁宗拙と[次男]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守を授かっている。
慶長五年(1600年)の頃に[父]千家二代/千少庵宗淳の隠居に伴い千家の家督を継承。
[父]千家二代/千少庵宗淳の後見のもと、千家の道統を守りながら[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休が完成させたわび茶の精神の普及、発展に努める。
天正十九年(1591年)、[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休が[関白]豊臣秀吉(1537-1598)の命によって切腹を強いられたことを深く受け、千家三代/咄々斎元伯宗旦は生涯にわたり政治との関わりを避け、いかなる仕官の誘いもすべて断り続けた。
千家三代/咄々斎元伯宗旦の茶は清貧高潔の境地に達した「侘び茶」であり、その質素で質実な生活から、後世には「詫び宗旦」「乞食宗旦」と称されるようになる。
しかし一方で、自身の息子達の将来については深く考え、大名家への仕官に奔走。
これにより千家の茶道は大名家との結びつきを深め、次第にその基盤を確立していくこととなる。
長男 ▶閑翁宗拙・・・加賀/前田家に仕官 次男 ▶似休齋一翁宗守・・・高松/高松家に仕官 三男 ▶逢源斎江岑宗左・・・紀州/徳川家に仕官 四男 ▶臘月庵仙叟宗室・・・加賀/前田家に仕官
これらの仕官により千家の茶道は各地に広まり、武家文化との交流を通じて茶の湯の発展に大きな役割を果たすこととなる。
千家三代/咄々斎元伯宗旦は生涯をかけて千家の復興と茶道の道統の確立に尽力し、その精神は子孫へと受け継がれ、後の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の基盤を築く礎となった。
❚ 号
慶長五年(1580年)、[父]千家二代/千少庵宗淳より家督を継承したことに伴い、大徳寺百十一世/春屋宗園より、「元叔」の道号を授かる。
また慶長十三年(1588年)に[塗師]松屋源三郎久重(1567-1652)を招いた茶会にて大徳寺百十一世/春屋宗園から授与された道号が床掛物であったと伝えられている。
❚ 元伯宗旦文章
「元伯宗旦文書」とは表千家に伝わる千家三代/咄々斎元伯宗旦自筆の手紙で、その大部分が千家の家督を相続した[三男]表千家四代/逢源斎江岑宗左に宛てた文書である。
千家三代/咄々斎元伯宗旦は生涯にわたりいかなる仕官にも就かず、質素な暮らしの中で[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休のわび茶の精神を継承した茶人として知られています。
しかし、この「元伯宗旦文書」の存在によって、千家三代/咄々斎元伯宗旦が単なる茶の湯の継承者にとどまらず、家族の将来を案じて息子たちを大名家に仕官させるために奔走していた父親としての一面が明らかとなる。
文書には[後妻]宗見をはじめ、[長男]閑翁宗拙、[次男]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守、[三男]表千家四代/逢源斎江岑宗左、[四男]裏千家四代/臘月庵仙叟宗室といった家族に関する記述が多く見られる。
また千家三代/咄々斎元伯宗旦が実に幅広い茶の湯の交流をもっていたことなどが窺え、江戸時代(1603-1868)前期における茶の湯の在り方を知るうえで極めて重要な史料とされている。
この文章は昭和四十六年(1971年)、「茶と美舎」より「不審庵伝来/元伯宗旦文書」として初めて公表され、その後、平成十九年(2007年)には千宗左監修/千宗員編「新編 元伯宗旦文書」(不審菴文庫刊)として再編集・刊行され、その史料的価値がさらに広く知られるようになりました。
この文書の存在により、千家三代/咄々斎元伯宗旦という人物が、単なる茶の湯の名匠ではなく、家族や門弟を支えながら茶の湯の発展に尽力した茶人であったことを再認識することができる。
❚ 茶杓絵賛
千家三代/咄々斎元伯宗旦は多くの絵賛を残していますが、その中でも特に名高いのの一つに八十歳を迎えた明暦三年(1657年)に茶杓の絵とともに、自ら詠んだ狂歌を賛として記した「茶杓絵賛」があります。これは、自作の茶杓の絵に自ら詠んだ狂歌を添えたもので、茶人としての深い省察が込められています。
この茶杓には五七五七七の和歌形式で詠まれており各句の一音目をつなげると 「チヤシヤク(茶杓)」の語が浮かび上がるという、「折句」と呼ばれる言葉遊びの技巧が用いられています。
チヲハナレ ヤツノトシヨリ シナライテ ヤトセニナレト クラカリハヤミ
「クラカリハヤミ(暗がりは闇)」という部分に注目することができます。
「暗がり」と「闇」は同義であるが「闇」は仏教的な意味合いで「迷い」や「無明」を現します。
すなわちこの歌には
チヲハナレ ヤツノトシヨリ シナライテ ヤトセニナレト クラカリハヤミ ―現代訳― 「乳離れをして八歳から茶の湯の道に入り、八十歳になった今なお、なおも道を極めることはできず、迷いの中を探り続けている」
という、千家三代/咄々斎元伯宗旦の茶道に対する深い探求心と、終生学び続ける姿勢を表されていると解釈される。
さらに、茶杓にはこの讃とは別に次のような言葉が添えられています。
「鸚鵡呼貧者与茶不能喫」 ―現代訳― 鸚鵡、貧者を呼ぶ。茶を与うるも喫することあたわず
これは、仏典の故事に由来する言葉であり、「どれほど尊い教えを説いても、それを受け入れる者がいなければ意味をなさない」ということを示唆しています。
千家三代/咄々斎元伯宗旦は、この言葉を通じて、茶の湯の精神を伝え広めることの難しさや、真の理解者を得ることの尊さを語っていると考えられる。
「茶杓絵賛」は、千家三代/咄々斎元伯宗旦の茶道に対する謙虚な姿勢と、生涯をかけて精進し続けた作品であり、茶人の心境を示す貴重な遺品 であるといえる。
❚ 三千家の誕生
千家三代/咄々斎元伯宗旦は先妻との間に二子、後妻との間に二子の息子をもうけました。
このうち[長男]閑翁宗拙を除く三人の息子が、それぞれ千家を興し、今日に続く「三千家」の基礎を築くことになる。
三男:表千家四代/逢源斎江岑宗左 ▶表千家/不審庵を継承 四男:裏千家四代/臘月庵仙叟宗室 ▶裏千家/今日庵を興す 次男:武者小路千家四代/似休齋一翁宗守 ▶武者小路千家/官休庵を興す
この分立によって、「表千家」「裏千家」「武者小路千家」 の三家が成立し、後世「三千家」と称されるようになる。
なお、三千家では「開祖」「二代」「三代」を以下とし、四代目から代数を数えはじめることとなります。
千家開祖 ▶抛筌斎千宗易(利休) 千家二代 ▶千少庵宗淳 千家三代 ▶咄々斎元伯宗旦
❚まとめ
千家三代/咄々斎元伯宗旦の生涯をたどると、茶の湯とは何かを改めて考えさせられます。
政治や権勢から距離を置き、質素な暮らしの中でわびの心を追い求めたその姿勢は、まさに茶道の本質を体現していたといえるでしょう。
その一方で、家族を思い、千家の未来を託すために奔走した父としての一面にも、人間としての温かさが感じられます。こうした生き方があったからこそ、今日の三千家が存在し、私たちは今なお利休以来の精神に触れることができるのです。
静けさの中に真を見いだした宗旦の心は、時代を越えて茶の湯に生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。彼の歩みを知ることは、単なる歴史の理解にとどまらず、茶道が本来もつ「人を磨く道」としての意味を再確認することにつながるでしょう。






















