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0-3|千家二代|少庵宗淳|1546-1614|千家|人物名鑑

人物名鑑



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■ 千家 ■

二代|少庵宗淳|1546-1614






❚ 花押|署名












❚ 出自

[父]宮王三郎三入(生没享年不詳)と[母]千宗恩(生年不詳-1600)との間に生まれる。

その後、[母]千宗恩が[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休と再婚したことにより、千家の養子となり、以後は千家の一員として育てられる。


しかし千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)は幼少の頃より先天的な病により片足に障害を抱えており、また、同年代でありながら千家本家の[義兄]千道安紹安(1546-1607)がいたことなども影響し、千家内での立場が弱かった事実が後世の歴史史料より確認されている。


その後、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の娘である[妻]亀(喜室宗桂信女)(生年不詳-1587)を娶り、天正六年(1578年)には長男である修理(のちの千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658))が生まれる。



生 没 享 年

生年:天文十五年(1546年) 没年:慶長十九年(1614年) 九月七日 享年:六十九歳

 出 生

父:宮王三郎三入 母:千宗恩 養父:千家開祖/抛筌斎千宗易利休

 名

幼名:猪之助 名:四郎左衛門 / 宗淳 号:少庵 通称:めんよ(名誉)の数寄者

 兄 弟

義兄:千道安紹安

 室

[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の六女[妻]亀(喜室宗桂信女)

 子

長男:修理(のちの千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658) 次男:山科宗甫(生年不詳-1666) 長女:ねい(生没享年不詳)









❚ 師事・門下


師 事

茶道 [養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休 参禅 大徳寺百四十世/蘭叔宗秀(生年不詳-1599)

門 下

千家十職:樂家/田中宗慶(1535-1595) 連歌師:里村昌琢(1574-1636) 釜師:辻家二代/辻与二郎(1546-1614) 釜師:京名越家開祖/名越浄味(生年不詳-1638) 釜師:西村家開祖/西村道仁(1504-1555)










❚ 生涯・事績

天正八年(1580年)頃に上洛し大徳寺門前に屋敷を構えました。

その後の​同十三年(1585年)、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の入居によって京都・二条堀川衣棚に転居します。しかし同十八年(1590年)に発生した大洪水によって再び本法寺前に移り住むこととなる。



[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休や[義兄]千道安紹安と同様に[関白]豊臣秀吉(1536-1598)の茶頭として仕え、茶の湯の普及と発展に尽力。 その活躍は高く評価され、「めんよの(名誉)数寄者」と称される。



やがて天正十九年(1591年)、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休が[関白]豊臣秀吉の命により切腹すると、高弟であった会津の[武将]蒲生氏郷(1556-1595)を頼って会津若松へ逃れ、鶴ヶ城に身を潜めました。その後、三年の年月を経て、文禄三年(1594年)に[将軍]徳川家康(1543-1616)や[武将]蒲生氏郷の嘆願により赦免され京へ戻ることが許される。



帰京後、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の遺愛の茶道具の返還を受け京都・本法寺前の地に四百五十石を賜り、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の旧跡であった「不審庵」を再興。

さらに​文禄四年(1595年)の初秋には大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544-1595)に「利休」号の解義を求めるなど茶の湯の精神をさらに深く追究していきました。


赦免後は茶匠としての活動を盛んに行い、大徳寺の名僧たち―大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)、大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)、大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544-1595)、大徳寺百四十一世/雲英宗偉(1559-1603)―らと詩歌や俳諧を通じて親交を結びました。

特に[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の高弟であった[武将]肥後細川家初代/細川三斎忠興(1563-1646)からは篤い庇護を受けたと伝えられる。


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しかし千家二代/千少庵宗淳はわずか数年で隠居し、家督を[長男]修理(のちの千家三代/咄々斎元伯宗旦)に譲り、その後は生涯どこにも「仕官」することなく、茶の湯に専心して愉しんだという。











​❚ 堺千家と京千家

[義兄]千道安紹安が堺の千家本家(堺千家)の家督を継承するが、後嗣を得ないまま早世したため断家。

その後、京都の千家(京千家)を継いだ千家二代/千少庵宗淳が千家の再興を果たす。



[義兄]千道安紹安の茶が「剛(動)」と評されたのに対して千家二代/千少庵宗淳の茶は「柔(静)」と称され[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の精神をより穏やかに受け継いだといわれています。











❚ 号

大徳寺百十一世/春屋宗園から「少」の字を含む「扁額(斎号)」を授かり、これにより「千少庵」と名乗るようになる。











❚ 茶室

[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の切腹後、[武将]蒲生氏郷に匿われていた時期に福島県会津若松市に茶室『麟閣』を創建。後に赦免を受けて京都に戻ったのちも、この茶室は大切に使用され続けたという。











❚ 御好み

[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)との合作をはじめ[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の精神を受け継いだ「わび」の趣を重んじた茶道具を好んでいる。

その作風は後世にも大きな影響を与え、「御好茶道具」や「書付道具」として多くの茶道具が伝えられている。











❚ 辞世の句

以下の辞世の句を遺している。


「末期一喝・倒破牢関・活機転去・緑水青山」 ―現代訳― 死の間際に迷いを断ち切る一喝を放ち、生死の執着を完全に断ち、悟りの境地へと自由に旅立つ。そこには、何の束縛もない、ただ青い山と緑の水が広がるのみである。

​辞世の句は、茶の湯の精神と禅の教えを体現したものであり、最期まで静かに、そして自由に生きることの大切さを示していると考えられます。











❚ まとめ

千家二代/少庵宗淳の歩みには、逆境の中でも茶の道を守り抜いた強い意志が感じられます。

幼くして病を抱え、また[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の実子ではないという立場にありながらも、決して道を見失うことなく、静かに茶の湯と向き合い続けました。



[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の切腹という大きな試練ののち、会津での隠遁を経て赦免を受けた千家二代/少庵宗淳は千家の再興に尽力。その姿は、失われかけた家の灯を再びともすような、静かな情熱に満ちていました。



千家二代/少庵宗淳が不審庵を再興したことは、単なる家の再建ではなく、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の精神をもう一度現世に息づかせる行為であったといえるでしょう。

その穏やかで静かな茶風こそが、後に[息子]千家三代/咄々斎元伯宗旦へと受け継がれ、今日に続く三千家の精神的な礎となっています。



千家二代/少庵宗淳の生涯は、名誉や権勢を求めることなく、ただひたすらに茶の心を守り抜いた生き方でした。その静かな決意と温かな人間味は、今なお茶の湯を学ぶ私たちに、道を極めるということの本当の意味を教えてくれます。











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