9-4|数寄者の茶会 ~茶のおもてなし~|第9回 茶の湯の救世主|明治時代|茶道の歴史
- ewatanabe1952

- 4月18日
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全10回 茶道の歴史

■ 第9回 茶の湯の救世主 [4/5] ■
明治時代 (1868年―1912年)
❚茶の湯が“社交”の場となるまで
茶の湯は、誰によって“社交”の場として広がっていったのでしょうか。
数寄の心を持った実業家たちが、自らの手で新たな茶会文化を築いていきます。
格式と柔軟さをあわせ持つ茶事は、人と文化をつなぐ大きな力となりました。
今回は、和敬会や十八会をはじめとする、数寄者たちの茶の湯の展開をたどります。
❚和敬会の創設と展開

明治時代には大師会や光悦会のように、数寄者たちによる多様な茶会が催されていました。
その中でも注目すべき存在が、明治三十三年(1900年)に創設された『和敬会*』です。
この和敬会は、「松浦詮」を中心に、わずか十六名の数寄者が会員として結成されました。
各会員が持ち回りで釜を懸け、茶事を行うという形式は、格式と親しみが調和した特別な茶会として人気を博しました。
初期の会員には、以下のような財政界の重鎮たちが名を連ねています:
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・石黒况翁 ……… 軍医総監|1845年―1941年 ・安田善次郎 ……… 安田財閥創始者|1838年―1921年
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その後、さらなる茶道愛好家として
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・益田鈍翁 ……… 三井財閥|1848年―1938年 ・高橋箒庵 ……… 実業家|1861年―1937年 ・三井高保 ……… 実業家|1850年―1922年 ・馬越化生 ……… 実業家|1844年―1933年 ・団琢磨 ……… 実業家|1858年―1932年
❞
なども加わり、明治から大正時代末にかけて、長きにわたり活動が続けられました。
このように『和敬会』は茶道を通じて経済人たちの交流と文化支援の場となり、明治以降の日本文化を支える基盤となっていったのです。
❚関西へ広がる十八会

また、同時期の明治三十五年(1902年)には、関西の数寄者十八名による『十八会』も発足し、関東・関西をまたぐ茶の湯文化の広がりが見られるようになります。
こうした茶会は、単なる趣味にとどまらず、「おもてなし」と「文化振興」の両輪を担う存在として、大きな役割を果たしていきました。
❚茶会が育んだ“現代のかたち”
数寄者たちが築いた茶会のかたちは、単なる贅沢でも権威の象徴でもなく、「文化の共有空間」としての茶道を実現しました。
現代の茶会に見られる寛ぎと格式の融合は、彼らが残した“おもてなし”の精神の継承でもあります。
次回は、近代教育や外交の場へ広がっていく茶道の姿を見ていきましょう。
登場人物
松浦詮
……… 政治家|肥前国平戸藩十二代藩主|1840年―1908年|明治天皇の又従兄弟。
用語解説
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和敬会
―わけいかい―
松浦詮を中心に結成された茶会グループ。明治33年発足。十六名の会員が持ち回りで釜をかけ、茶事を催した。財政界人が中心となり文化的意義を持った。
十八会
―じゅうはちかい―
明治35年に結成された関西の数寄者による茶会。18名のメンバーにより構成され、和敬会と並んで茶道文化の裾野を広げた。
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