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10-1|茶道の転換 ~教養としての茶道~|第10回 近代茶道の幕開け|大正時代~現代|茶道の歴史

全10回 茶道の歴史



世界各地の民族衣装をまとった人々が茶碗を手に正座する姿と、「茶道の歴史 第十回 近代茶道の幕開け 大正~現代」と記された掛軸が描かれた、国境を越えて茶道が広がる現代的教養の象徴となる冒頭画像。


第10回 近代茶道の幕開け (1/3)

 ― 近代 ―






❚ 数寄から教養へ、茶道の新たな道

茶の湯は、どのようにして“近代化”されたのでしょうか。



数寄者の時代から教育の場へ―茶道の転換期―。



近代日本が西洋化とともに迎えた文化的転換期の中で、茶道はそのかたちを大きく変えていきます。



今回は、女性教育の一環として茶道が取り入れられ、社会的役割を拡大していった近代茶道のはじまりをたどります。

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❚ 数寄者の衰退と、流儀茶道の再興

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昭和十五年(1940年)頃を境に、かつて明治から昭和初期にかけて隆盛を誇った「数寄者」の茶の湯は次第に衰退の兆しを見せはじめます。


その一方で、三千家*の御家元を中心とする流儀の茶道は着実に勢いを取り戻しはじめていました。


その様子を象徴する出来事のひとつが、昭和十五年に催された『利休居士三百五十年遠忌*』です。



この法要では、三千家の協力により「追善法要」と「茶会」が開催され、全国から多くの門弟や愛好者が参列しました。










❚ 教育の場に広がる茶道の精神

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特に注目すべき点は、遠忌法要の参列者の多くが“女性”だったという点です。


これは明治以降、女性教育の一環として茶道が教養カリキュラムに組み込まれたことに由来します。


当時、政府による欧化政策のなかで「良妻賢母」を育てるための教養として茶道や華道が推奨され、学校教育や女学校での必修科目としても取り入れられていました。











❚ 文化としての地位の確立

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この動きはやがて戦後にも続き、茶道は“教育文化”としての地位を確立していくことになります。


戦後の混乱期を乗り越えてもなお、三千家をはじめとする各流派は順調に門弟を増やし、日本の伝統文化として国内外に広く認知される存在となっていきました。


今日では、茶道は老若男女を問わず学ばれる芸道となり、「日本文化の象徴」としてその存在感を世界に示し続けています。











❚ 静かに世界へと広がる一碗の道

戦乱と近代化の時代においても、茶道は「学ぶ文化」として命をつなぎました。



女性教育を通じて家庭に、そして学校に浸透した茶の湯は、やがて国を越え、世界の舞台へと歩みを進めていきます。



その歩みは、静かでありながら確かな“日本の美の伝承”として、今日も続いています。



次回は、茶道がどのように国際交流や世界文化の中で位置づけられていったのか、その広がりと可能性を見ていきましょう。











登場人物










用語解説



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三千家

―さんせんけ― 千利休の曾孫にあたる三人の兄弟が創設した三つの千家流派(表千家・裏千家・武者小路千家)の総称。江戸中期以降、町人層に広がる茶の湯を体系化し、作法や点前に違いはあるが、侘びの理念を共通に持ち、日本の茶道文化の中心的存在となっている。

利休居士三百五十年遠忌

―りきゅうこじさんびゃくごじゅうねんえんき―

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商品カテゴリー
茶道具|中古道具市
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