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0-1|千家とは|千利休の道系を辿る|千家|茶道辞典

茶道辞典



「千家とは?」の文字と着物姿の女性が本を広げて読む姿が描かれた「特集|千家とは?」ページの冒頭画像。


■ 千家 ■

千家とは






❚ 千家とは

千家~せんけ~とは、千家開祖/抛筌斎千宗易利休(1522-1591)を祖とし息子の千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)、孫の千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の三代を通じて確立された茶家のことを指します。



千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)の提唱した茶道の思想や美意識、茶室・作法のあり方を受け継ぎ、後世に伝える家系として知られています。


注釈

広義においてはこの三代に加え、後の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)も含めて「千家」と称されることがありますが、茶道プラスでは前述の三代を「千家」とし、その後に分かれた三家を「三千家」として区別しています。


千家開祖/抛筌斎千宗易利休の没後は長男の堺千家/千道安紹安(1546-1607)が、本家である堺千家の家督を継承するが後嗣ぎがなく一代にて断絶。

次男の千家二代/千少庵宗淳が京都の千家(京千家)を再興し、さらに孫の千家三代/咄々斎元伯宗旦が後を継ぎ、のちの三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の礎を築きました。



こうして、千家開祖/抛筌斎千宗易利休の血筋と家系は千家二代/千少庵宗淳、千家三代/咄々斎元伯宗旦を経て受け継がれ、茶道史における重要な家系として確立されました。

千家開祖/抛筌斎千宗易利休の提唱した茶道の思想や美意識、茶室・作法のあり方はこの三代によって体系化され、後世の茶の湯文化の基盤となりました。



すなわち、千家とは千家開祖/抛筌斎千宗易利休、千家二代/千少庵宗淳、千家三代/咄々斎元伯宗旦の三代にわたって茶道の理念を継承し、三千家の成立へとつながる道を築いた家系を指します。

この三代の系譜は、茶道発展の礎をなす極めて重要な茶家といえる。











❚ 千家|歴代一覧



■ 千家|開祖 ■

抛筌斎 千宗易 利休

~ほうせんさい・せんそうえき・りきゅう~

大永二年(1522年) ― 天正十九年(1591年)

六十九歳



千家開祖/抛筌斎千宗易利休は、茶道を精神文化として完成させた日本茶道史上最も重要な茶人です。堺の商人の家に生まれ、若くして茶の湯を学び、武野紹鴎に師事しました。 それまでの豪華な茶の湯を簡素で静寂を重んじる「侘び茶」へと昇華し、茶室や道具、所作にまで美と意味を与えました。 織田信長に茶頭として仕えたのち、豊臣秀吉にも重用されましたが、やがて秀吉の怒りに触れ、天正十九年(1591年)に切腹を命じられ生涯を閉じました。 その生涯は権威に屈せず茶の道を貫いた象徴であり、利休の理念は三千家を通じて今日の日本文化や日本人の美意識にも深く息づいています。










■ 堺千家 ■

千道安紹安

~せんどうあん・しょうあん~

天文十五年(1546年) ― 慶長十二年(1607年)

六十一歳



堺千家/千道安紹安は、千家開祖/抛筌斎千宗易利休と先妻の宝心妙樹(生没年不詳)の長男として生まれる。[母]宝心妙樹が亡くなり、[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休が[養母]宗恩(?-1600)と再婚すると徐々に確執が生まれ、一度千家を離れるが後に和解。 しかし後世「剛の道安」と「柔の少庵」と称されるように[養母]宗恩の連れ子である同い年の[義弟]千家二代/千少庵宗淳とは折り合いがつかず、生涯茶会においても同席をすることもなかったと伝わっています。 千家開祖/抛筌斎千宗易利休没後は本家の堺千家を継承。しかし堺千家/千道安紹安の没後に堺千家は途絶えることとなり、堺千家の系譜は一代で終わることとなる。








■ 千家|二代 ■

千少庵宗淳

~せんしょうあん・そうじゅん~

天文十五年(1546年) ― 慶長十九年(1614年)

六十八歳



千家二代/千少庵宗淳は、[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の後妻である宗恩の連れ子で、のちに[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の養子となり、[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の娘・お亀(生没年不詳)を室としました。 [父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の切腹後、豊臣秀吉による利休一族への厳しい処分の中、千家二代/千少庵宗淳も一時期幽閉されるが、のちに赦免。京都で茶の湯の拠点を再興し混乱期の千家を守りました。 千家二代/千少庵宗淳は[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の「侘び茶」の精神を受け継ぎながらも、自身の時代に合わせて茶室や作法整え尽力。 また千家二代/千少庵宗淳は京都の茶人たちから「めんよ(名誉)の数寄者」と評された人物で、早くから[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の後継者として高く評価されていたことがうかがえます。 千家二代/千少庵宗淳は[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休没後の混乱期に千家を守り抜き、のちに茶道が再び発展する礎を築いた重要な人物とされています。










■ 千家|三代 ■

咄々斎 元伯宗旦

~とつとつさい・げんぱくそうたん~

天正六年(1578年) ― 万治元年(1658年)

八十一歳



千家三代/咄々斎元伯宗旦は、[父]千家二代/千少庵宗淳の息子で[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の孫にあたります。若い頃から茶の湯に親しみ、利休の思想を深く理解した人物でした。千家三代/咄々斎元伯宗旦は[父]千家二代/千少庵宗淳から千家を継ぎ、京都の地で茶道を大きく発展させました。千家三代/咄々斎元伯宗旦は、豪華さを排した質素で静謐な茶室を好み、「侘び」の美意識をさらに徹底しました。また武家社会の変化の中でも、精神性を重視した茶の湯を守り続け、[長男]宗拙を加賀藩前田家に、[次男]宗守を高松松平家に、[三男]宗左を紀州徳川家に、[四男]宗室を加賀藩前田家に仕えさせ千家の名を絶やさず再び広く知らしめることに尽力。宗旦の四人の息子のうち、長男を除く三人が表千家、裏千家、武者小路千家を建立し「三千家」と呼ばれる三つの家元へと発展していきます。











千少庵宗淳の次男

山科宗甫

~やましな・そうほ~

生年不詳 ― 寛文六年(1666年)

享年不詳



[父]千家二代/千少庵宗淳の次男で[兄]千家三代/咄々斎元伯宗旦宗旦の弟。











❚ まとめ

千家の歩みは、茶道の精神そのものの歴史といえるでしょう。

千家開祖/抛筌斎千宗易利休が築いた「侘び茶」の思想は、作法を超えて人の在り方を映す哲理でした。その志は、千家二代/千少庵宗淳、千家三代/咄々斎元伯宗旦へと受け継がれ、三代によって真の「茶の道」が確立。千家開祖/抛筌斎千宗易利休が示した精神を千家二代/千少庵宗淳が守り、千家三代/咄々斎元伯宗旦が形として整えたことで、茶の湯は表千家・裏千家・武者小路千家の三千家へと広がりました。


今日、私たちが茶の湯に感じる「和敬清寂」の心や一碗に宿る美意識は、この千家三代の歩みによって培われたものです。彼らが遺した精神は、今も静かに、そして力強く生き続けています。











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