8-1|茶の遊芸化 ~茶が町衆のものへ~|第8回 茶の湯の遊芸化|江戸時代(後期)|茶道の歴史
- ewatanabe1952

- 2023年1月28日
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全10回 茶道の歴史

第8回 茶の湯の遊芸化 (1/6)
― 江戸時代 (1603年―1868年) |後期 ―
❚ 茶の湯はなぜ“遊び”になったのか
茶の湯は、なぜ“遊び”へと変化していったのでしょうか。
かつての精神性を離れ、広く町人に浸透していった新たな茶の姿。
今回は、江戸後期における茶の湯の「遊芸化」の実態とその背景をたどります。
❚ 庶民の間に広がった茶の湯

江戸時代(1603年–1868年)の中期に入ると、茶の湯は武家や公家、豪商のものから、より広い町人階層へと広がりを見せるようになります。
その広がりとともに茶の湯は次第に「遊びを楽しむ芸能」として捉えられ、いわゆる「茶の湯の遊芸化」が進行していきました。
この変化によって、茶の湯の間口は大きく広がる一方、本来、村田珠光が説いた「わび・さび*」の精神は徐々にその純粋性を失っていくことになります。
たとえば、美しい石灯籠を「完璧すぎる」という理由で意図的に打ち欠いたり、割れて継いだ茶碗を過剰に珍重するなど、大衆には理解し難い極端な振る舞いが目立つようになりました。
こうした風潮は、形式ばかりを重んじ、精神性をおろそかにする傾向を強め、茶の湯本来の精神性からの乖離を招くことになります。
❚ 茶人が変人と呼ばれる時代

その結果、庶民のあいだでは「茶人*」という言葉が「変人」や「風変わりな人物」を指す隠語として使われるようになり、茶の湯は風流ではあってもやや滑稽な存在としても捉えられるようになっていきました。
この「茶の湯の遊芸化*」は、文化の大衆化という意味では一定の成果を収めつつも、精神性の劣化という側面をあわせ持つ、茶道史上の大きな転換点でもあったのです。
❚ それでも続いた「茶のある暮らし」
精神性を失い、形式のみが先行するようになった茶の湯。
それでも、人々の手によって「茶のある暮らし」は次代へとつながっていきます。
次回は、この混沌の時代を越えて、再び“茶の心”を取り戻そうとした復興の動きに焦点を当てます。
登場人物
村田珠光
……… 僧|1423年―1502年|わび茶の祖
用語解説
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わび・さび
―わび・さび―
わびさびは、日本の美意識を象徴する概念で、簡素・静寂・不完全の中に深い美しさを見出します。「わび」は質素な中に心の豊かさを求め、「さび」は時の移ろいに宿る風情を愛でる心。茶道をはじめとする日本文化の根幹を成す思想です。
茶人
―ちゃじん―
本来は茶道を修めた人を指すが、江戸後期には「変わり者」「風流人」を揶揄する言葉としても用いられるようになった。
茶の湯の遊芸化
―ちゃのゆのゆうげいか―
茶道が芸道や精神修養の側面から離れ、娯楽や見せ物として消費されていく過程。江戸中期以降、町人層の間で流行し、茶の湯の本来の意味が変容していった。
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