9-5|美術館の役割 ~数寄者の終焉~|第9回 茶の湯の救世主|明治時代|茶道の歴史
- ewatanabe1952

- 2023年1月15日
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全10回 茶道の歴史

第9回 茶の湯の救世主 (5/5)
― 明治時代 (1868年―1912年) ―
❚ 展示される茶道具、その背景にあるもの
かつては“数寄の心”によって活躍した実業家たち。
その蒐集した名品はいま、美術館に静かに眠っています。
茶室で使われ、もてなしの道具として命を吹き込まれていた茶道具は、いつしか「展示される文化財」となっていきました。
今回は、数寄者の歩みとともに受け継がれた茶道具と、美術館が担った文化継承の役割を見ていきましょう。
❚ 数寄者が収集した美の精華

明治時代(1868年―1912年)、茶道文化の再興に大きな貢献を果たしたのが、数寄者と呼ばれる政財界の有力者たちでした。
その中心的存在であった益田鈍翁をはじめ、数多くの数寄者たちは茶の湯に深い関心を寄せ、美術品や茶道具の名品を収集しました。
やがて彼らが収集した名品の数々は、それぞれの意志や家族の手によって各地の美術館に収蔵され、今日では誰もが鑑賞できる形で一般公開されるようになりました。
❚ 美術館に息づく数寄の精神
代表的な美術館とその創設者は以下の通りです。
三井記念美術館 https://www.mitsui-museum.jp/
⇒『益田鈍翁』 ……… 三井財閥|1848年―1938年
⇒『畠山即翁』 ……… 荏原製作所創業者|1881年―1971年
⇒『野村得庵』 ……… 野村財閥|1878年―1945年
⇒『根津青山』 ……… 東武・南海電鉄|1860年―1940年
⇒『五島慶太 』 ……… 東京急行電鉄創業者|1882年―1959年
⇒『小林逸翁』 ……… 阪急グループ創業者|1873年―1957年
⇒『村山香雪』 ……… 朝日新聞創業者|1850年―1933年
⇒『原三渓』 ……… 実業家|1868年―1939年
これらの施設に収蔵されている数々の茶道具や書画は、かつて数寄者たちが実際に茶会で使用した道具ばかりです。
当時は「茶会に招かれた者しか見ることができない美」であったものが、現代では美術館を通じて誰もが鑑賞できる文化財となりました。
❚ ガラス越しの道具が語るもの

しかし一方で、これらの名品がガラスケースの中に収められているという事実は、数寄者が生きた時代の終焉を意味しています。
実用の中で命を吹き込まれていた茶道具たちは、今ではガラスの内側に収まり「観賞される美術品」として静かに保存される存在へと変わっていきました。
これは同時に、かつて盛んに行われていた数寄者による私的な茶会の衰退をも象徴する出来事といえるでしょう。
❚ 名品が語る未来への継承
数寄の美が生きた時代は、実業家の情熱とともに過ぎ去りました。
けれども、彼らが守り抜いた名品の数々は、いまも美術館という新たな茶室の中で静かに語りかけています。
「道具は人とともにあってこそ」――その教えを思い出しつつ、文化を未来へ伝える意味を見つめ直したいものです。
次回は、近代国家の中で茶道がどのように教育や外交の場へと広がっていったのかを見ていきましょう。
登場人物
益田鈍翁
……… 三井財閥|実業家|数寄者|孝|1848年―1938年
用語解説
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五島慶太
―ごとう・けいた―
1882年―1959年。東急グループの創設者として知られる実業家で、鉄道・百貨店・不動産など多角的な事業を展開し、戦後の都市インフラ整備に大きく貢献しました。一方で、東洋美術への深い関心から書画・陶磁器・仏像などの名品を蒐集し、生涯にわたり文化保護に尽力しました。その遺志により設立された五島美術館(東京・上野毛)は、茶道具を含む貴重なコレクションを展示し、多くの文化人に親しまれています。
益田鈍翁
―ますだどんのう―
1848年―1938年。実業家・数寄者として明治から昭和初期にかけて活躍した人物で、本名は益田孝。三井物産の初代社長として近代経済界を支える一方、茶道・書画・能楽などの文化保護にも尽力しました。とくに茶の湯では独自の審美眼と収集で知られ、「近代数寄者の祖」と称されます。多くの名物道具を伝世し、近代茶道の復興と美術振興に大きな足跡を残しました。
畠山即翁
―はたけやま・そくおう―
1881年―1971年。実業家・茶人・美術蒐集家として知られ、本名は畠山一清。実業界で活躍する一方、茶の湯を深く愛し、書画・陶磁・刀剣など東洋古美術の収集に力を注ぎました。自身のコレクションをもとに、東京・白金台に畠山記念館を設立し、茶道文化の保存と普及に大きく貢献しました。数寄者としての審美眼と文化への情熱は、近代における茶道と美術の架け橋となりました。
野村得庵
―のむら・とくあん―
1878年―1945年。大阪の実業家・茶人・数寄者で、本名は野村徳七(二代目)。財界で成功を収める一方、茶の湯や能楽、書画に深い造詣を持ち、名品の蒐集と文化振興に尽力しました。特に茶道では独自の審美眼と精神性で知られ、近代数寄者の代表的人物とされています。大阪・中之島に設立された野村美術館は、彼の蒐集品を公開する場として、今なお多くの茶人や美術愛好家に親しまれています。
根津青山
―ねづ・せいざん―
1860年―1940年。明治から昭和にかけて活躍した実業家・茶人・文化人で、鉄道事業をはじめ多くの産業振興に貢献しました。茶道や書画、古美術に深い造詣を持ち、自邸に設けた「根津美術館」(東京・南青山)は、東洋美術の名品を収蔵・公開する場として今も高い評価を受けています。数寄者としても知られ、茶の湯を通じて日本文化の保存と普及に尽力しました。近代の財界人文化人の代表的人物です。
原三渓
―はら・さんけい―
1868年―1939年。横浜の実業家・茶人・美術蒐集家で、本名は原富太郎。生糸貿易で財を成し、その資金をもとに日本・中国の古美術品を多数蒐集しました。茶の湯にも深く通じ、数寄者として名高く、文化財の保護や支援にも尽力しました。横浜に構えた邸宅「三溪園」は、京都や鎌倉の名建築を移築した広大な庭園で、現在は一般公開されています。芸術と自然を融合させた功績は、今も高く評価されています。
村山香雪
―むらやま・こうせつ―
1853年―1938年。朝日新聞の創業者であり、近代を代表する実業家・茶人・美術蒐集家です。中国・日本の書画、陶磁器、仏教美術などに深い造詣を持ち、優れた審美眼で数多くの名品を蒐集しました。そのコレクションは、神戸市の香雪美術館に所蔵・公開され、文化財の保存と普及に大きく貢献しています。近代数寄者の一人として、茶道や芸術文化の継承にも尽力しました。
小林逸翁
―こばやしいつおう―
1873年―1957年。阪急電鉄や宝塚歌劇団を創設した実業家・小林一三の雅号で、近代日本を代表する数寄者の一人です。実業の傍ら茶道や能楽、美術に深い関心を寄せ、文化振興にも大きく貢献しました。大阪・池田に建てた自邸「雅俗山荘」は数寄屋建築の名作として知られ、現在は逸翁美術館として多くの美術品を公開しています。茶の湯と芸術を愛した逸翁の精神は、今も多くの人々に受け継がれています。

