5-1|わび茶の源流 ~珠光が見た茶の道~|第5回 茶の湯文化の誕生|室町時代 (後期)|茶道の歴史
- ewatanabe1952

- 5月22日
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全10回 茶道の歴史

■ 第5回 茶の湯文化の誕生 [1/6] ■
室町時代 (1336年―1573年) |後期
❚ 茶の湯に宿る「心」
茶の湯は、いつから―心を通わせる時間―になったのでしょうか。
華やかな道具や贅沢な設えよりも、大切にされたのは静けさと心ばせ。
そこに生まれたのが―わび茶**―という、まったく新しい茶のかたちでした。
今回は、その源流を築いた村田珠光*の思想をひもときます。
❚ 足利義政と村田珠光の出会い

室町幕府の将軍『足利義政*』は、風雅を愛し、政治の表舞台から一歩退いた静かな趣味人としての側面が伝えられています。
足利義政は禅僧**や芸術家との交流を深めながら、書院で茶を愉しむ生活を送っていたとされます。
その中で、幕府に仕える「同朋衆**」の能阿弥*の紹介により、後世――わび茶の祖――と呼ばれる村田珠光を茶席に招いたことが、茶の湯文化にとって大きな転機となりました。
❚ 珠光がもたらした革新

村田珠光の登場によって、それまでの茶の湯は、豪奢な遊戯的側面を持つ社交の場から、精神性を重視するわびの世界へと大きく変貌を遂げます。
村田珠光は、以前の茶の湯から「酒宴」や「闘茶*」といった世俗的な要素を排除し、庶民の間で行われていた簡素な――地下茶の湯**――の様式を取り入れました。
さらに、村田珠光の師である『一休宗純*』から学んだ「禅」の教えを茶の湯に融合し、亭主と客が一碗を通して精神を通わせる、より深い―茶会―へと昇華させていったのです。
このように村田珠光によって提唱された「わび茶」は、物の質よりも心の在り方を重んじ、自然や簡素の中に美を見出す日本的美意識の象徴となっていきます。
❚ わび茶という美意識

村田珠光が提唱した「わび茶」では、物の豪華さよりも、内面の美意識と簡素さの中に潜む精神性が重視されます。
自然体であること、静寂であること、そして相手を思う心—―。
こうした要素が「茶のこころ」として形をなしていったのです。
村田珠光の理念こそが今日の――茶道――の源流であり、後世、村田珠光は――わび茶の祖――と称されるようになり、その精神は、後に武野紹鴎*、そして千利休*へと受け継がれ、今日の茶道へとつながっていきます。
❚ 静けさに宿る美
村田珠光の残した――一座建立**――の精神は、茶の湯の本質とも言えるものです。
その教えと実践は、後の茶道の発展に大きな影響を与えました。
華やかさよりも静けさを、装飾よりも心を重んじた村田珠光のわび茶。
それは、茶の湯を芸術や思想と結びつけ、深い精神性を育む場へと導いていきました。
次回は、この精神をさらに磨き上げ、千利休へと橋をかけた人物「武野紹鴎」の美学に迫ります。
登場人物
村田珠光
……… 僧|1423年―1502年|わび茶の祖
足利義政
……… 室町幕府八代将軍|1436年―1490年
能阿弥
……… 同朋衆|水墨画家|連歌師|表具師|1397年―1471年
一休宗純
……… 大徳寺四十七世住持|1394年―1481年|風狂の僧
武野紹鴎
………
千利休
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用語解説
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わび茶
―わびちゃ―
村田珠光
―むらたじゅこう―
室町時代中期の僧で、「わび茶」の祖とされる茶人です。一休宗純に参禅し、禅の精神を茶の湯に取り入れ、豪華な唐物中心の茶から簡素で精神性を重んじる茶へと革新しました。草庵風茶室や侘びた道具を重視し、後の武野紹鴎・千利休に続く茶道の基盤を築きました。
禅僧
―ぜんそう―
同朋衆
―どうぼうしゅう―
闘茶
―とうちゃ―
地下の茶湯
―じげちゃのゆ―
地下茶の湯は、室町から戦国時代にかけて町人や商人など庶民階層に行われていた質素な喫茶スタイルです。格式にとらわれず、実用性や趣向を重んじた生活に根ざした自由な茶風が特徴で、村田珠光はこの様式を取り入れ、わび茶の基礎を築きました。草庵の茶の成立にも影響を与え、後の茶道発展に重要な役割を果たしました。
一休宗純
―いっきゅうそうじゅん―
室町時代の臨済宗大徳寺四十七世住持で、風狂の僧として知られます。破天荒な言動で宗門の形式を批判し、民衆の中で自由な禅を実践しました。詩文・書にも優れ、『狂雲集』にその思想が表れています。茶の湯や芸能など中世文化にも影響を与え、弟子の村田珠光にも大きな影響を与えました。
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