5-5|戦国の一碗 ~信長が描いた“権威の茶の湯”~|第5回 茶の湯文化の誕生|室町時代(後期)|茶道の歴史
- ewatanabe1952

- 2023年2月15日
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全10回 茶道の歴史

第5回 茶の湯文化の誕生 (5/6)
― 室町時代 (1336年―1573年) |後期 ―
❚ 権威としての茶の湯
茶の湯は、いつから“権威の象徴”となったのでしょうか。
武士たちの野望が交差する中、茶は戦国の政治に組み込まれていきます。
そこには、道具と格式が生む新たな権力のかたちがありました。
今回は、織田信長がもたらした戦国の一碗をたどります。
❚ 信長の登場と「名物狩り」

室町時代(1336年~1573年)が終焉を迎え、戦国の乱世が広がると、これまで「飾り」や「禅」、「わび」といった精神性が主軸だった茶の湯に、大きな変化が訪れます。
この転換の立役者こそが、尾張の戦国大名『織田信長*』でした。
永禄十一年(1568年)、尾張の大名であった織田信長は空位であった室町幕府十五代将軍の座に『足利義昭*』を擁立しようと京都へ上洛。
この時、織田信長は当時流行していた茶の湯を目の当たりにし、大きな関心を寄せるようになります。
その後、天下統一を進める中で織田信長は茶の湯を政治の道具として巧みに利用しはじめます。
代表的なものに「名物狩り*」と呼ばれる政策があります。
「名物道具*」を強制的に買収し、また配下の大名たちから献上させたりしました。
❚ 御茶湯御政道と武家礼儀

さらに織田信長は『御茶湯御政道*』という政策により、功績のある家臣に対して茶会の開催を許可し、茶の湯そのものを武士の権威と結び付けました。
織田信長自身も集めた名物道具を用いた茶会数多く催し、茶の湯の格式を高めるとともに、それを権威の象徴として活用していきます。
こうして茶の湯は単なる趣味の領域を超え「武家礼儀」として確立されると同時に政治的な権威を帯びることとなりまました。
この時代は織田信長が茶の湯にひとかたならぬ興味を持ったことで茶の湯は歴史上かつてないほどの隆盛を迎えます。
❚ 三宗匠の登場と新たな時代

そしてこの織田信長の茶の湯を支えたのが大阪・堺の商人であり茶の湯に精通した以下の三人の茶人達でした。
……………
今井宗久*
津田宗及*
千利休*
……………
この三人は織田信長の「茶頭*」として仕え、後に『天下三宗匠*』と称され、茶の湯に新たな時代をもたらすことになります。
こうして茶の湯は織田信長の登場により、単なる文化的な営みではなく、政治、武家社会における重要な儀礼へと変貌を遂げていくことになります。
❚ 文化と権力の交差点
戦国の乱世において、茶は人と人を結び、権威を表す“道具”となっていきました。
織田信長がもたらしたこの茶の湯の変革は、文化と政治を融合させる革新的な試みでもありました。
次回は、その流れをさらに深化させた千利休の登場と、その哲学に迫ります。
登場人物
織田信長
……… 天下人|武将|1534年―1582年
足利義昭
……… 室町幕府十五代将軍|1537年―1597年
今井宗久
……… 1520年―1593年|天下三宗匠
津田宗及
……… 生年不詳―1591年|天下三宗匠
千利休
……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|天下三宗匠|茶道の大成者
用語解説
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織田信長
―おだのぶなが―
1534年-1582年。戦国時代の武将で、天下統一の礎を築いた革新的な人物です。桶狭間の戦いで今川義元を破り、勢力を拡大。足利義昭を将軍に擁立した後に実権を握り、楽市楽座や兵農分離などの政策で新しい秩序を築きました。比叡山延暦寺の焼き討ちなど宗教勢力にも容赦なく対峙し、最終的には本能寺の変で明智光秀に倒れました。
足利義昭
―あしかがよしあき―
1537年-1597年。室町幕府第十五代将軍で、同幕府最後の将軍。兄・義輝の死後、織田信長の支援を受けて将軍に就任しましたが、次第に信長と対立し、追放されました。その後も各地の大名に接近し、幕府再興を図りましたが果たせず、室町幕府は事実上滅亡。戦国から安土桃山時代への転換を象徴する人物です。
名物狩り
―めいぶつがり―
織田信長が行った政策で、名物茶道具を強制的に買収・献上させたもの。茶道具を権力の象徴とし、家臣の格式づけに利用された。
名物道具
―めいぶどうぐ―
茶の湯において特に由緒や逸話、優れた意匠を持つとされ、歴代の大名や茶人に珍重された茶道具です。茶入・茶碗・花入・香合などがあり、持ち主の名や形状に由来した名が付けられています。道具の格を重んじる茶の湯文化において、名物は格式と美意識を象徴する存在であり、道具組や茶会の趣向において重要な役割を果たします。
御茶湯御政道
―おちゃのゆごせいどう―
織田信長が実施した政策。家臣に茶会開催を許すことで、茶の湯を武家の礼儀として制度化し、政治と結びつけた。
今井宗久
―いまい・そうきゅう―
1520年―1593年。戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した堺の豪商・茶人で、千利休・津田宗及とともに「天下三宗匠」の一人に数えられます。茶の湯に精通し、特に茶器の目利きや道具の収集に優れ、織田信長・豊臣秀吉にも仕えました。政治と文化を結ぶ存在として、茶の湯の発展に大きな影響を与えました。
津田宗及
―つだそうぎゅう―
生年不詳―1591年。戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の豪商・茶人で、千利休・今井宗久と並ぶ「天下三宗匠」の一人です。商才に優れ、南蛮貿易や金融で財を成しながら、茶の湯を通じて織田信長・豊臣秀吉に仕えました。茶道具の鑑識眼や茶会の運営にも長け、わび茶の普及と茶道文化の発展に貢献しました。
千利休
―せんの・りきゅう―
茶頭
―ちゃがしら―
主に戦国時代から江戸時代にかけて、大名や将軍家に仕え、茶の湯を取り仕切った役職・職掌です。茶会の企画や道具の選定、献茶や接待などを担い、文化的教養と実務能力が求められました。千利休や今井宗久、津田宗及なども茶頭として仕え、茶の湯を武家儀礼や政治の場に取り入れる重要な役割を果たしました。
天下三宗匠
―てんかさんそうしょう―
戦国時代に織田信長や豊臣秀吉に仕えた三人の名茶人(今井宗久・津田宗及・千宗易)のこと。信長の茶の湯政策を支えた立役者。

