5-2|不足の美 ~わび茶に生きた一通の手紙~|第5回 茶の湯文化の誕生|室町時代 (後期)|茶道の歴史
- ewatanabe1952

- 5月21日
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全10回 茶道の歴史

■ 第5回 茶の湯文化の誕生 [2/6] ■
室町時代 (1336年―1573年) |後期
❚ 茶の湯に託された「心」
茶の湯は、いつから――心を通わせる時間――になったのでしょうか。
満ち足りた道具よりも、静けさや余白を愛する——。
そこに生まれたのが、――わび茶**――という新しい茶のかたちでした。
今回は、その精神を手紙に託した村田珠光*の――心の文**――をひもときます。
❚ 茶の湯が道となる

茶の湯の世界に突如登場した村田珠光が――わび茶の祖――と呼ばれる理由は当時の茶の湯に対してはじめて精神性を説いたことにあります。
その思想はかって――淋汗の茶の湯**――を行っていた古市一族であり、後に最も信頼する弟子となった『古市澄胤*』に宛てた手紙――心の文――から伺うことができます。
この手紙の中で村田珠光は「公家」や「武士」などの上流階級が嗜む華美な「会所**」や「闘茶**」といった贅沢な茶の湯に引き戻されぬよう、弟子の古市澄胤に心構えを説いています。
「心の文」の中には、次のような一節があります。
❞
此道の一大事ハ、和漢之さかいをまぎらかす事、肝要肝要 訳) 和と漢の境界を曖昧にすることが肝要である
❝
すなわち「唐物道具**」を重んじるこれまでの「茶の湯」も良いが、茶の湯において大切なことは、日本の「備前焼**」や「信楽焼**」などの素朴な「和物道具**」の価値を認め、それらを「唐物道具」と対等に扱うことであると説いています。
また、この一文には歴史的に重要な言葉が見られます。
それが――此道(このみち)――という言葉です。
この時代には「茶道」という言葉はまだなく、この文章の中で村田珠光は、はじめて茶の湯を人間の生き方をふくむ――道――としてとらえていました。
まさにこのことが村田珠光が――わび茶の祖――とされる所以となります。
❚ 枯淡の境地と“余白の美”

心の文ではさらに次のような一節も記されています。
❞
心の下地によりてたけくらミて、後まてひへやせてこそ面白くあるへき也
❝
これは、外見の整いよりも「心の熟成」によって、やがて冷えやせた「枯淡**」の境地に至ることの面白みを説いたものです。
村田珠光は、完璧を求めるのではなく、どこかに不足や余白があることこそが趣であるという考えを重んじていました。
さらに後世に伝わる村田珠光の言葉に
❞
月も雲間のなきは嫌にて候 訳)満月の皓々と輝く月よりも雲の間に見え隠れする月の方が美しい
❝
つまり、満月のように完璧なものよりも、雲間に見え隠れする月のような――余白ある美しさ――を尊ぶ心です。
この考えは『兼好法師』の『徒然草*』にある有名な一節、
❞
花はさかりに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは
❝
と通じ、――不足の美**――、――不完の美*――といった、日本独特の美意識を体現しています。
❚ 珠光の思想

村田珠光は、道足りたものよりもどこか足りない――余白を感じさせるもの――のほうが趣深いという美意識を持ち、茶の湯にもこの精神を取り入れました。
❝
眺める月もいつも輝いているばかりでは面白くない、雲の間に隠れていつ出るかと期待するのがよい
❞
この考えこそが、――わび茶――の根幹をなすものであり、後の茶道さらには日本人のDNAにまで深く影響を与えるものと考えられます。
村田珠光の――わび茶――には、こうした 「不完の美」「不足の美」を楽しむ心 が背景にあり、その美意識は、和歌や連歌の伝統の中で育まれたものでした。
❚ わび茶が紡ぐ系譜

村田珠光が築いた――わび茶――は、彼の跡を継いだ村田宗珠* や、花の名人と称された竹蔵屋紹滴*、さらに十四屋宗伍*などへと受け継がれていきます。
そしてその精神は、武野紹鷗*、千利休*へと受け継がれ、「茶道」という「道」を大成する礎となっていくこととなります。
満ちることなく、足りないからこそ美しい。
――心の文――に込められた村田珠光の思想は、ただの茶の作法を超えて、人としての在り方にまで及んでいました。
次回は、この珠光の精神を受け継ぎ、茶の湯を洗練させていった武野紹鷗の足跡に迫ります。
登場人物
村田珠光
……… 僧|1423年―1502年|わび茶の祖
古市澄胤
……… 連歌師|1452年―1508年|村田珠光の高弟
兼好法師
……… 1283年-1352年|徒然草の筆者
村田宗珠
……… 茶人|生没年不詳|村田珠光の養子
竹蔵屋紹滴
……… 茶人|生没年不詳|村田珠光の高弟
十四屋宗伍
……… 茶人|歌人|生年不詳―1552|村田珠光の高弟
武野紹鷗
……… 豪商|茶人|1502年―1555年|利休の師
千利休
……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|茶道の大成者
用語解説
わび茶
―わびちゃ―
村田珠光
―むらた・しゅこう―
林汗の茶湯
―りんかんのちゃゆ―
心の文
―こころのふみ―
村田珠光が弟子・古市澄胤に宛てた手紙。茶の湯における精神性や美意識、道具観などが端的に記されており、「わび茶」の根本理念を読み取ることができる貴重な史料。
古市澄胤
―ふるいち・ちょういん―
1452年―1508年。室町時代の連歌師・文化人であり、村田珠光の高弟。茶の湯の精神性に強く共鳴し、「心の文」を受けたことでわび茶の思想を深く継承した。
会所
―かいしょ―
闘茶
―とうちゃ―
唐物道具
―からものどうぐ―
備前焼
―びぜんやき―
信楽焼
―しがらきやき―
和物道具
―わものどうぐ―
枯淡
―こたん―
徒然草
―つれづれぐさ―
鎌倉時代の『兼好法師』によって書かれた随筆で、日本三大随筆の一つに数えられます。約240段から成り、無常観や人生観、自然、人情、風雅の心などを平明な文体で綴り、深い思想と美意識が表現されています。武士や公家、庶民の暮らしまで幅広く描かれ、時代を超えて多くの人々に親しまれてきた名著です。
不足の美|不完の美
―ふそくのび/ふかんのび―
茶道における美意識のひとつで、満ち足りたものではなく、不完全さや簡素さの中に味わいや余韻を見出す考え方です。千利休のわび茶に象徴され、欠けた器や古びた道具、雲間の月や盛りを過ぎた花など、儚さや静けさの中に美を感じる、日本独自の美学として大切にされています。
武野紹鴎
―たけの・じょうおう―
1502年-1555年。堺の豪商であり、茶人として「わび茶」を大成した人物です。村田珠光の精神を受け継ぎ、質素で簡素な中に美を見出す茶の湯を追求しました。唐物に偏らず、国産の道具や日常品も取り合わせ、精神性と実用性を重んじた茶風を確立。千利休の師として、後の茶道の発展に大きな影響を与えました。
千利休
―千利休―

