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- 1-4|表千家歴代|御家元|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 表千家|歴代御家元 ❚宗左 表千家の家元は表千家四代/逢源斎江岑宗左の諱である「宗左」を代々襲名し、隠居後は千家三代/咄々斎元伯宗旦の諱である「宗旦」を名乗る慣わしになっています。 また次代の家元(若宗匠)は「宗員」と名乗っています。 この名跡の継承は、表千家の格式と伝統を象徴する重要な要素となっています。 ❚ 表千家|歴代御家元一覧 三千家では千宗易利休(1522-1591)を開祖(初代)とし息子の少庵宗淳(1546-1614)を二代、孫の咄々斎元伯宗旦(1578-1658)を千家三代として三千家の初代御家元は四代(初代)から数える習わしになっています。 ■ 表千家|四代|御家元 ■ 逢源斎 江岑宗左 ~ほうげんさい・こうしんそうさ~ 慶長十八年(1613年) ― 寛文十二年(1672年) 六十歳 千家三代/咄々斎元伯宗旦の三男として生まれ、表千家を創建。 三千家のひとつとして表千家の基盤を築き、武家茶に精通。 多くの聞書や茶会記を著し、利休・元伯の茶の系譜を後世に伝える。 長く子に恵まれなかったために縁戚の久田家より表千家五代/随流斎良休宗左を迎える。 以後、家元は「宗左」を名乗る。 ■ 表千家|五代|御家元 ■ 随流斎 良休宗佐 ~ずいりゅうさい・りょうきゅうそうさ~ 慶安三年(1650年) ― 元禄四年(1691年) 四十二歳 本間利兵衛(久田家二代/宗利)の子として生まれ、母は千家三代/咄々斎元伯宗旦の長女くれ。 寛文年間に表千家四代/逢源斎江岑宗左の養子となり、表千家に迎えられる。 表千家五代として家元を務め、晩年には茶の湯の作法や道具、茶室の配置を詳細に記した「随流斎延紙ノ書」を残す。 表千家四代/逢源斎江岑宗左の庶子である左太郎(友流斎宗巴)を後継者に考えるが早世のため、久田家から甥である勘太郎(後の表千家六代/覚々斎原叟宗左)を養子として迎え家元を継がせ、表千家の基盤を次世代に引き継いだ。 ■ 表千家|六代|御家元 ■ 覚々斎 原叟宗左 ~かくかくさい・げんそうそうさ~ 延宝六年(1678年) ― 享保十五年(1730年) 五十歳 久田家三代/徳誉斎宗全の子として生まれるが、十二歳で表千家五代/随流斎良休宗左の養子となる。その後、十八歳で表千家六代家元を継承し、紀州徳川家に茶頭として出仕。 [長男]表千家七代/如心斎天然宗左、[次男]裏千家七代/最々斎竺叟宗室、[三男]裏千家八代/又玄斎一燈宗室の三子が後の表千家・裏千家に家元として各流派を継承。 ■ 表千家|七代|御家元 ■ 如心斎 天然宗左 ~じょしんさい・てんねんそうさ~ 宝永二年(1705年) ― 寛永四年(1751年) 四十七歳 表千家六代/覚々斎原叟宗左の長男として生まれる。 二十六歳で宗左を襲名し、表千家七代家元を継承。 紀州徳川家や三井家の庇護を受け、千家伝来の道具整理や家元制度の整備を行い、「表千家中興の祖」と称される。 裏千家八代/又玄斎一燈宗室、武者小路千家七代/直斎堅叟宗守らとともに 江戸中期に茶道の心技両面を学べる「七事式」を制定し、町民に茶道の門戸を開いた。 ■ 表千家|八代|御家元 ■ 啐啄斎 件翁宗左 ~そったくさい・けんおうそうさ~ 延享元年(1744年) ― 文化五年(1808年) 六十五歳 表千家七代/如心斎天然宗左の長男として生まれる。父の死後、裏千家八代/又玄斎一燈宗室らの指導を受け、十四歳で宗左を襲名し、表千家八代家元を継承。 天明八年(1788年)の大火で表千家建物を焼失するも、翌年には迅速に復興を果たす。 文化元年(1804年)に家督を表千家九代/了々斎曠叔宗左に譲り、隠居して宗旦を名乗る。 以後、「宗旦」は歴代の隠居名となる。 ■ 表千家|九代|御家元 ■ 了々斎 曠叔宗左 ~りょうりょうさい・こうしゅくそうさ~ 安永四年(1775年) ― 文政八年(1825年) 五十一歳 久田家六代/挹泉斎磻翁宗渓の長男として生まれ、表千家八代/啐啄斎件翁宗左の次女と結婚し婿養子として表千家に迎えられる。その後、三十四歳で宗左を襲名し、表千家九代家元を継承。 紀州徳川家の茶頭として活躍。 晩年は詩歌を楽しみ、好雲軒の号を授かるなど悠々自適の生活を送る。 ■ 表千家|十代|御家元 ■ 吸江斎 祥翁宗左 ~きゅうこうさい・しょうおうそうさ~ 文政元年(1818年) ― 万延元年(1860年) 四十三歳 久田家七代/皓々斎維妙宗也の次男として生まれ、幼少で表千家十代家元を継承。 紀伊国紀州藩主・徳川治宝に出仕し、台子真点前の皆伝を得るなど若年から茶道に才を示した。 晩年は隠居して宗旦を称し、長男・表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左に家督を譲る。 ■ 表千家|十一代|御家元 ■ 碌々斎 瑞翁宗左 ~ろくろくさい・ずいおうそうさ~ 天保八年(1837年) ― 明治四十三年(1910年) 七十四歳 表千家十代/吸江斎祥翁宗左の長男として生まれ、十九歳で十一代家元を継承。 幕末から明治維新期の変革の中、各地を巡り茶の湯の復興に尽力。 明治二十五年に隠居し宗旦を称し、長男・与太郎に宗左を譲る。 京都北野天満宮献茶の創始者で、明治期の茶道復興に大きな足跡を残す。 ■ 表千家|十二代|御家元 ■ 惺斎 敬翁宗左 ~せいさい・けいおうそうさ~ 文久三年(1863年) ― 昭和十二年(1937年) 七十五歳 表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左の長男として生まれ、三十歳頃に表千家十二代を襲名。 明治維新後の衰退期を乗り越え、表千家不審庵の再興や松風楼の増築、全国各地での献茶を通じて茶道の復興と隆盛に尽力。 ■ 表千家|十三代|御家元 ■ 即中斎 無盡宗左 ~そくちゅうさい・むじんそうさ~ 明治三十四年(1901年) ― 昭和五十四年(1979年) 七十八歳 表千家十二代/惺斎敬翁宗左の次男として生まれ、昭和十二年(1937年)に表千家十三代を襲名。 戦時下の困難な時期も茶道の発展に尽力し、戦後は全国の社寺で献茶を行う。 昭和十七年(1942年)に表千家同門会を発足、昭和二十四年には不審庵を財団法人化するなど、茶道界の組織基盤を整える。 ■ 表千家|十四代|御家元 ■ 而妙斎 宗旦 ~じみょうさい・そうたん~ 昭和二十年(1945年) ― 年(年) ―歳 表千家十三代/即中斎無盡宗左の長男として生まれ、昭和五十五年(1980年)に四十二歳で表千家十四代を襲名。 利休没後四百年の三千家合同法要を催すなど、茶道界の伝統と社会的活動に尽力。 平成三十年(2018年)に長男・表千家十五代(当代)猶有斎宗左に家督を譲り、自身は隠居し、宗旦を名乗り今日に至る。 ■ 表千家|十五代|当代|御家元 ■ 猶有斎 宗左 ~ゆうゆうさい・そうさ~ 昭和四十五年(1970年) ― 年(年) ―歳 表千家十四代/而妙斎宗左の長男として生まれ、母は旧肥後熊本藩主/細川家十七代当主/細川護貞の長女・明子。 平成十年(1998年)、大徳寺五百二十世/福富雪底より斎号「猶有斎」を授かり、若宗匠「宗員」の名を継承。 平成三十年(2018年)二月二十八日、父・表千家十四代/而妙斎宗左より家督を譲り受け、「表千家十五代家元」を襲名。
- 1-7|表千家年表|表千家|不審庵|三千家
三千家 ■ 表千家|不審庵 ■ 表千家|年表 ❚ 表千家|年表 1613年 (慶長五年) 表千家四代/逢源斎江岑宗左生まれる★ 1614年 (慶長十八年) 十月十日 千家二代/少庵宗淳死去▼ 1633年 (寛永十年) 千家三代/咄々斎元伯宗旦が一畳台目の茶室「不審庵」を建立。 1646年 (正保三年) 千家三代/咄々斎元伯宗旦が隠居、裏手の屋敷(今日庵)に移り住む▼ 表千家四代/逢源斎江岑宗左が家督を継承▲ 1647年 (正保四年) 千家三代/咄々斎元伯宗旦が茶室「不審庵」を三畳台目に建て替える 1650年 (慶安三年) 表千家五代/随流斎良休宗左生まれる★ 1658年 (年) 十一月十九日 千家三代/咄々斎元伯宗旦死去▼ 1663年 (寛文三年) 夏頃 表千家四代/逢源斎江岑宗左による茶書「江岑夏書」が成立。 1672年 (寛文十二年) 表千家四代/逢源斎江岑宗左死去▼ 1678年 (延宝六年) 表千家六代/覚々斎原叟宗左生まれる★ 1691年 (元禄四年) 七月十九日 表千家五代/随流斎良休宗左死去▼ 1705年 (宝永二年) 表千家七代/如心斎天然宗左生まれる★ 1723年 (享保八年) 表千家六代/覚々斎原叟宗左は徳川吉宗より唐津茶碗「桑原」を 下賜 1730年 (享保十五年) 表千家六代/覚々斎原叟宗左死去▼ 表千家七代/如心斎天然宗左継承▲ 1739年 (元文四年) 表千家七代/如心斎天然宗左が「利休祖堂」を建立 1741年 (寛保元年) 表千家七代/如心斎天然宗左を中心に弟である 裏千家八代/又玄斎一燈宗室をはじめ武者小路千家七代/直斎堅叟宗守、江戸千家開祖/川上不白らとともに「七事式」を制定 1744年 (寛保四年) 表千家八代/啐啄斎件翁宗左生まれる★ 1750年 (寛延三年) 利休自害後、その所在が不明であった「利休遺偈」が江戸千家開祖/川上不白により発見され、表千家七代/如心斎天然宗左の 懇請 により、所持していた江戸深川の豪商冬木家より返納される 1751年 (寛延四年) 表千家七代/如心斎天然宗左死去▼ 1757年 (宝暦七年) 表千家八代/啐啄斎件翁宗左継承▲ 1775年 (安永四年) 表千家九代/了々斎曠叔宗左生まれる★ 1788年 (天明八年) 一月三十日 「天明の大火」により、屋敷が消滅 1804年 (文化元年) 表千家八代/啐啄斎件翁宗左隠居▼ 1808年 (文化五年) 表千家八代/啐啄斎件翁宗左死去▼ 表千家九代/了々斎曠叔宗左継承▲ 1818年 (文政元年) 表千家十代/吸江斎祥翁宗左生まれる★ 1822年 (文政五年) 紀州藩主/徳川治宝が家元を訪問した際、表千家の表門(武家門)が下賜される 1825年 (文政八年) 八月七日 表千家九代/了々斎曠叔宗左死去▼ 1836年 (天保七年) 四月二十六日 表千家九代/了々斎曠叔宗左が徳川治宝から台子真点前の皆伝を受ける。 1837年 (天保八年) 表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左生まれる★ 1855年 (安政二年) 表千家十代/吸江斎祥翁宗左隠居▼ 表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左継承▲ 1860年 (万延元年) 表千家十代/吸江斎祥翁宗左死去▼ 1863年 (文久三年) 表千家十二代/惺斎敬翁宗左 生まれる★ 1886年 (明治十九年) 表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左が北野大茶湯三百年記念茶会を開催 1887年 (明治二十年) 2月 表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左が京都御所にて明治天皇に茶を献ずる 1892年 (明治二十五年) 表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左隠居▼ 表千家十二代/惺斎敬翁宗左襲名▲ 1901年 (明治三十四年) 表千家十三代/即中斎無盡宗左生まれる★ 1910年 (明治四十三年) 表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左死去▼ 1921年 (大正十年) 「不審庵」敷地内に茶室「松風楼」を竣工 1937年 (昭和十二年) 七月十八日 表千家十二代/惺斎敬翁宗左死去▼ 表千家十三代/即中斎無盡宗左襲名▲表千家十四代/而妙斎宗左 1937年 (昭和十三年) 表千家十四代/而妙斎宗左生まれる★ 1942年 (昭和十七年) 2月 「表千家同門会」発足 1949年 (昭和二十四年) 「財団法人不審庵」発足 1956年 (昭和三十一年) 表千家東京稽古場を開設 1967年 (昭和四十二年) 表千家学校茶道登録制度導入 1970年 (昭和四十五年) 表千家十五代/猶有斎宗左生まれる★ 1975年 (昭和五十年) 「表千家同門会」を法人化し「社団法人表千家同門会」を設立 1979年 (昭和四十九年) 八月二十九日 表千家十三代/即中斎無盡宗左死去▼ 1980年 (昭和五十五年) 表千家十四代/而妙斎宗左襲名▲ 1998年 (平成十年) 「不審菴文庫」設立 2005年 (平成十七年) HP「茶の湯 こころと美」開設 2008年 (平成二十年) 「表千家茶道会館」竣工 2012年 (平成二十四年) 法令改正に伴い、「一般財団法人不審庵」、「一般社団法人表千家同門会」に名称変更 2018年 (平成三十年) 十四代御家元/而妙斎宗左が隠居し、宗旦に改名▼ ★若宗匠/猶有斎宗員が表千家十五代(当代)家元となり、宗左を襲名▲
- 2-1|裏千家とは|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 裏千家とは ❚ 裏千家とは 裏千家とは、千家開祖/千宗易利休(1522-1591)の孫・千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の四人の息子の内、四男である裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622-1697)によって興された茶道の流派で表千家、武者小路千家と並び「三千家」の一つとして知られています。 宗旦の息子 長男 ▶ 閑翁宗拙(1592-1652)・・・父宗旦より勘当 次男 ▶ 似休齋一翁宗守(1605-1676)・・・武者小路千家四代御家元 三男 ▶ 逢源斎江岑宗左(1613-1672)・・・表千家四代御家元 四男 ▶ 臘月庵仙叟宗室(1622-1697)・・・裏千家四代御家元 臘月庵仙叟宗室が千家の道統を受け継ぎ、独自の工夫を加えながら発展を遂げ、表千家、武者小路千家を含めた三千家の中でもいち早く門戸を広げ、茶道の普及と近代化に対応した流派です。 近年の裏千家では、十五代御家元の鵬雲斎汎叟宗室が掲げた「一碗からピースフルネスを」という理念を掲げ、茶道を通じて平和の大切さを伝える活動を積極的に展開しています。 今日では、裏千家は世界各地に門弟を擁する国際的な茶道流派として、茶の湯の伝統と文化を広め続けています。 ❚ 裏千家の由来 裏千家の呼び名は江戸時代(1603-1868)初期から自然と定着したものであり、表千家の茶室「不審庵」と対比し、通りの裏側(寺之内通り)に位置したことから「裏千家」と称されるようになりました。 ❚ 裏千家のあゆみ 裏千家は、千家開祖/抛筌斎千宗易利休の流れをくむ三千家の一つであり、千家三代/咄々斎元伯宗旦の隠居所「今日庵」を継承しつつ、代々の家元は茶道文化の普及と教育に尽力してきました。 裏千家四代/臘月庵仙叟宗室や裏千家五代/不休斎常叟宗室(1673-1704)が「伊予松山藩松平(久松)家」の茶頭を務めたことにより、武家茶道との深い結びつきを持ち裏千家の基礎を築き、江戸時代(1603-1868)を通じて、裏千家は茶道の普及に尽力し、武家、公家、町人など幅広い層に茶の湯を伝えました。 裏千家八代/又玄斎一燈宗室(1717-1771)は表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)と共に「七事式」を制定し、稽古法を体系化することで庶民への普及に寄与しました。 天明八年(1788年)、天明の大火で建物は焼失しましたが、裏千家九代/不見斎石翁宗室(1746-181)の手により再建され、今日庵や又隠などの茶室群が整えられました。 明治時代(1868-1912)に入ると立礼式の創案や教育機関設立を通じて近代化を進め広く一般の人々にも門戸を開き、昭和期(1926-1989)には裏千家十四代/無限斎(淡々斎)碩叟宗室が、より広い層への茶道の普及を目的として全国同門をまとめる「淡交会」を設立。財団法人今日庵と連携して茶道文化の保存・普及に尽力。 戦後は学校教育や国際交流の場にも茶道を広め、裏千家の茶の湯は国内外で多くの人々に親しまれています。 1940年 (昭和十五年) 「淡交会」設立(1953年に社団法人認可) 1947年 (昭和二十二年) 「財団法人 国際茶道文化協会」設立 1949年 (昭和二十四年) 「財団法人 今日庵」設立 「淡交社」創業 1953年 (昭和二十八年) 「社団法人茶道裏千家淡交会」認可 1962年 (昭和三十七年) 「茶道研修所」設立(のちの「裏千家学園 茶道専門学校」) 1971年 (昭和四十六年) 「裏千家学園」創設 1976年 (昭和五十一年) 「裏千家学園」専修学校として認可 1983年 (昭和五十八年) 「学校法人裏千家学園茶道専門学校」 1994年 (平成六年) 中国「天津商業大学裏千家茶道短期大学」設立 ❚ 一般社団法人 茶道裏千家淡交会 淡交会とは宗家直轄の組織として御家元指導方針の尊守、基本的な点前作法の統一、茶道文化の研究、同門の親睦、茶道文化の発展に寄与することを目的とし、昭和十五年(1940)、それまで全国に存在していた裏千家茶道のさまざまなな会や団体をまとめ裏千家の門人を統括する組織として発足しました。 昭和二十八年(1953年)一月二十四日、文部省(文部科学省)から社団法人の認可を受ける。 平成二十五年(2013年)一月四日、法改正に伴い一般社団法人へと移行。 今日では全国に17地区、165支部・2支所が設置され、さらに国際文化親善及び観光に資するための各種事業に寄与するため世界各国に海外協会が組織されています。 淡交会は、裏千家茶道を通じて国際的な文化交流の架け橋としても大きな役割を担っています。 [名の由来] 「淡交会」という名称は、裏千家十四代/無限斎(淡々斎)碩叟宗室の斎号に由来します。 その語源は以下の中国の古典「荘子(そうじ)」の一節、 「君子之交淡若水(君子の交わりは淡きこと水の若し)」 これは君子の交わりは水のように淡々として執着せず、感情に流されない平常心の交わりを理想とする教えであり、淡交会の理念に深く通じています。 ❚ 一般財団法人 今日庵 一般財団法人 今日庵は、千利休の伝統を継ぐ裏千家茶道を保存・育成するとともに、その精神を広く一般に普及させ、日本文化の興隆に貢献することを目的として設立された法人です。 裏千家茶道の普及、茶道検定、茶道文化に関する研究、茶会・献茶の茶道行事の開催、茶室建築や造園などの指導及び人材育成など茶道文化の維持、発展に多大な役割を担っています。 また、今日庵に現存する遺跡・遺品・美術工芸品・建造物の管理、保存にも力を注いでいます。 昭和二十四(1949年)五月二日、設立。 平成二十五年(2013年)四月一日、法改正に伴い一般財団法人へと移行。 ❚ 裏千家の特徴 裏千家の茶風は、柔軟で親しみやすく、時代とともに変化に対応する点に特徴があります。 形式にとらわれない温かなもてなしを重んじ、点前は流麗で優雅、茶席は穏やかで明るく、亭主と客の心の調和を大切にします。 教育や国際交流にも積極的で、茶道を生活文化として広く伝える姿勢を持っています。 茶道 ちゃどう CHADOU (CHADO) お辞儀 「真」・「行」・「草」の3種類。 正座 男性:膝を拳二つ分開ける。 女性:膝を拳一つ分開ける。 足の運び 入室:右足から入室。 運び:一畳を4歩で歩く。 薄茶 泡立てる 帛紗 男性:紫。 女性:朱。 茶筅 白竹 菓子器 (薄茶) 菓子鉢 (蓋無し) ❚ まとめ 裏千家は、今日庵を拠点として発展した三千家の一つです。 江戸時代(1603-1868)の武家文化との交流、裏千家十四代/無限斎(淡々斎)碩叟宗室以降の教育・文化・国際交流を経て、伝統を守りつつ現代社会に寄り添う茶の湯を実践しています。 茶室「今日庵」を象徴に格式ある伝統と、門弟への教育・国際的な文化普及活動を両立させており、国内外で広く茶道文化を発展させ続けています。
- 2-2|今日庵とは|茶室|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 今日庵とは ❚ 茶室 ―今日庵― 裏千家を表すもう一つの呼称に、庵号である「今日庵~こんにちあん~」があります。 「今日庵」とは、裏千家を代表する茶室の庵号であり、今日では裏千家の屋敷全体や組織全体を指す名称としても用いられています。 今日庵は、 千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658) の隠居所として建てられた茶室です。 昭和五年(1930年)の火災によって焼失しましたが、その後すぐに旧構を踏襲して再建され、今日の姿に至っています。 ❚ 今日庵の変革 裏千家に現存する「今日庵」は「又隠」とともに裏千家の中心をなす重要な茶室です。 その創建は、千家開祖/千宗易利休の孫である 千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658) によるものと伝えられています。 千家三代/咄々斎元伯宗旦 は利休の侘びをさらに深め、千家開祖/千宗易利休の茶の精神を忠実に継承した人物であり、その境地を表現した一畳半の茶室は千家開祖/千宗易利休が提唱した茶の湯の本質を体現する場とされました。 この一畳半は、家督を継いだ 表千家四代/逢源斎江岑宗左 によって一度畳まれましたが、 千家三代/咄々斎元伯宗旦 は自身の隠居の際に再び二畳敷の茶室を建て「今日庵」と名付けました。 炉は向切りの一畳台目に向板を設け、全体を二畳敷としてまとめています。向板の前隅に中柱を立て、その柱に袖壁を添えて向板まわりの空間を囲うように構成されています。 中柱には丸太を用い、腰張には反古紙が貼るなど質素ながら千家三代/咄々斎元伯宗旦の工夫が凝らされています。 これは「一畳半は狭か面白候」とした利休の考えを受け継ぎながらも、向板と中柱・袖壁による新たな構成を加えたで、千家三代/咄々斎元伯宗旦独自の意匠であり、狭さの中に深い趣を表しています。 床を省き壁床としつつも、向板を加えることで空間にほどよい広がりを持たせ、機能性と美しさを兼ね備えた意匠となっています。 また、点前座の脇には小型の水屋棚を思わせる「水屋洞庫」が設けられ、亭主は座したまま道具を一時的に収納できるようになっています。 限られた二畳の空間に多様な要素を凝縮し、わずか一坪足らずながらも、濃密で深い侘びの趣を感じさせる茶室となっています。 天明の大火で一度焼失しましたが、「又隠」の再建から遅れて文化四年(1807年)に今日庵も再興。 昭和五十一年(1976年)三月には今日庵を含む又隠、寒雲亭などの茶室群が「重要文化財」に指定されています。 ❚ 庵号 ―今日庵― 茶室「今日庵」の庵号は「今この瞬間を大切に生きる」 という禅の教えから名付けられたといわれています。 ある日「今日庵」の席開きを迎えた際、千家三代/咄々斎元伯宗旦の参禅の師である大徳寺百七十世/清巌宗渭(1588-1661)和尚を招いたところ、刻限を過ぎても和尚は現れず、千家三代/咄々斎元伯宗旦は所用があるためやむなく「明日おいでください」という伝言を弟子に残し、その場を離れました。 ところが、その数刻後に和尚が来席し、茶室の腰張に以下の言葉を貼り付けて帰ったといいます。 「懈怠比丘不期明日~けたいのびくおいくるをきせず~」 ―現代訳― 遅刻するような怠け者の僧である私は、明日の事はお約束しかねます この言葉を見た千宗旦は、「一寸先は分からぬ人生に、明日の約束を求めた自分の驕り」と猛省し、直ちに大徳寺へ向かい、和尚に詫びました。 その際、千家三代/咄々斎元伯宗旦は次の歌を詠み、感謝の意を表しました。 「今日今日といいてその日を暮らしぬる、明日のいのちはとにもかくにも」 ―現代訳― 明日の命もわからないのに、大切な今日をおろそかに暮らしているのは愚かなことでした。 千家三代/咄々斎元伯宗旦はこの禅の教えを深く深く心に刻み、自身の茶室に「今日庵」と名付けたと伝えられる。 ❙まとめ 今日庵は、裏千家の家元を象徴する茶席であるとともに、裏千家全体を包括する象徴的な存在でもあります。 千家三代/咄々斎元伯宗旦の侘びの思想は、今日庵を通じて後世の茶人たちに受け継がれ、その構成や意匠の一つひとつに、茶の湯の精神が息づいています。 わずか二畳敷の空間の中に、茶道の理念と人生観が凝縮された今日庵は、まさに「今を生きる」心を象徴する茶室といえるでしょう。 その姿は今も京都・裏千家の敷地内に現存し、茶の湯の本質を伝える永遠の庵として、静かにその歴史を刻み続けています。
- 2-3|裏千家の資格|許状|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 許状 ❚ 許状とは 茶道において、「許状」とは、稽古の各段階ごとに学ぶことが許可される「許し状」のことを指します。これは、修道の証明書や免許のようなものではなく、習得した課目に応じて次の段階へ進むことを許されるものです。 許状は単なる修了証やライセンス(免許)ではなく、茶道の奥義へと進むための指標となります。また、千家においては、許状に関する呼称が異なり、表千家では「相伝」、裏千家、武者小路千家では「許状」と呼ばれ、それぞれの流派において独自の許状体系が確立されています。 裏千家では、許状の他に平成十二年(2000年)の改定により、「資格」制度が整備されました。 これにより、許状の取得が単なる技術習得の証明にとどまらず、社会的な評価としての意味も持つようになりました。就職活動や履歴書に記載することが可能となり、茶道が単なる趣味ではなく、文化活動や礼儀作法の修得として認識されるようになっています。 裏千家の「資格」には初級、中級、上級、講師、専任講師、助教授に分かれています。 ❙ 許状と資格 以下に裏千家における許状種目と資格についてご紹介します。 ❙資格|初級❙ 許状種目 入門 ▶茶道において最も基本となるおじぎの仕方から始まり、割稽古と呼ばれる部分稽古(帛紗を捌く、茶杓や棗を清める、茶巾のたたみ方など)を修得し、はじめてお茶を点てることになります。 小習 前八ヶ条と後八ヶ条の十六ヶ条の習い事であり、茶道の基本を養う上で最も必要な課目です。 ▶前八ヶ条:貴人点、貴人清次、茶入荘、茶碗荘、茶杓荘、茶筅荘、長緒茶入、重茶碗に関する作法 ▶後八ヶ条:包帛紗、壺荘、炭所望、花所望、入子点、盆香合、軸荘、大津袋に関する作法 茶箱点 ▶茶箱(ちゃばこ)と呼ばれる箱を使って行う点前(てまえ)であり、季節により種類があります。 入門、小習、茶箱点を取得することで「初級」の資格が得られます。 ❙資格|中級❙ 許状種目 茶通箱 ▶二種類の濃茶を同じ客に差し上げる場合の点前です。四ヶ伝の一つ。 唐物 ▶茶入が唐物の場合の扱い方です。四ヶ伝の一つ。 台天目 ▶天目茶碗を台にのせて扱う点前です。四ヶ伝の一つ。 盆点 ▶唐物茶入が盆にのった場合の点前です。四ヶ伝の一つ。 和巾点 ▶名物裂、拝領裂等の古帛紗の上に、袋に入れた中次をのせて扱う点前です。 茶通箱、唐物、台天目、盆点、和巾点を取得することで「中級」の資格が得られます。 ❙資格|上級(助講師)❙ 許状種目 行之行台子 ▶別名「乱かざり」。行台子をもって行う奥秘の基礎となる点前です。 大円草 ▶大円盆をもって行う格外の奥秘の点前です。 引次 ▶ 和巾点から一年が経過後、行之行台子、大円草、引次を取得することで「上級(助講師)」の資格が得られます。 所定の手続きを経て、弟子の許状申請(取次)を行うことができます。(教授者となることができます) ❙資格|講師❙ 許状種目 真之行台子 ▶一名「奥儀」といわれるもので、行之行台子を充分に修得できた者に許されます。真台子をもって行うもので、奥儀の根本となる重い習い事です奥儀の根本となる点前です。 大円真 ▶大円盆をもって真台子で行う格外の奥秘の点前です。 正引次 ▶ 引次から一年が経過後、真之行台子、大円真、正引次を取得することで「講師」の資格が得られます。 ❙資格|専任講師❙ 許状種目 茶名|紋許 ▶茶名は利休居士以来の歴代家元の「宗」の一字をいただくものです 修道を通じて資質を備えられた方に授与されます 正引次から一年が経過後、茶名|紋許を取得することで「専任講師」の資格が得られます。 ❙資格|助教授❙ 準教授 ▶ 茶名|紋許から二年が経過後/二十五歳以上、准教授を取得することで「助教授」の資格が得られます。 ❚ まとめ 裏千家における許状と資格は、茶道の学びの段階を示すものであり、修道の課程を示すものです。 稽古を積み、各段階で許状を取得することで、より深く茶道の精神と技法を身につけることができます。 ただし、許状は「学び終えた証」ではなく、「次の段階に進むための許し」であることを理解し、日々の稽古を通じて茶道の心を磨いていくことが大切です。
- ★2-4|裏千家の茶室|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 茶室 ❚ 茶室 ~今日庵~ 極限まで切り詰めた一畳台目という最も狭い草庵の茶室で、壁床になっています。 宗旦そうたんが隠居所として建てた茶室を「今日庵こんにちあん」と命名し「裏千家うらせんけ」を代表する茶室です。 名前の由来には逸話があります。それは、席披きに遅れた清巌和尚せいがんおしょうが、茶室の腰張に書きつけて帰った「懈怠けたいの比丘びく不期みょうにちを明日きせず」の意に感じて、と言われています。 ❚ 茶室 ~無色軒~ 七代最々斎竺叟さいさいさいちくそうが好んだとされ、「松まつに無古今ここんの色いろなし」という禅語に因んでいると言われます。この席の扁額へんがくにその筆跡が残っています。五畳敷に一畳分の榑縁くれえん張りがつき、踏込床の様に扱われています。 炉は本勝手向切で下座に張壁床はりかべとこがあります。点前畳の左隅に四代仙叟せんそう好みの 釘箱棚くぎばこたながあります。榑縁張りと点前畳との境の下地窓、大胆な意匠の鴨居など、見どころの多い茶室です。 ❚ 茶室 ~平成茶室~ 平成茶室は、今日庵の修復工事の間、宗家の諸行事の会場や同門の修道の場とするために創設。 今日庵の南側に建築され、周辺の景観にも配慮された造りとなっており、1階には「聴風の間」、2階には「看月の間」があります。 平成25年の初釜式より使用しています。 ❚ 茶室 ~又隠~ 茅葺かやぶき入母屋造いりもやづくりに庇の突上げ窓の様式など、四畳半茶室の代表的な建築とされています。躙口にじりぐち周辺の飛石も「豆撒きまめまき石いし」と言われ、三代宗旦そうたんの創意と伝えられています 宗旦が隠居所今日庵こんにちあんを建てたのち再度の隠居の際に建てた庵なので、また隠居するという意味から「又隠ゆういん」と命名したことによります。 ❚ 茶室 ~利休御祖堂~ 茶祖千利休居士せんりきゅうこじと、三代宗旦居士そうたんこじを祀るところから「利休りきゅう御祖堂おんそどう」と称し、九条くじょう尚忠ひさただ筆の扁額により「清寂院せいじゃくいん」とも称します。大徳寺三門の楼上にあった等身大の利休木像と宗旦の小座像が床正面の丸窓の奥に奉祀されています。邸内奥に位置し、もっとも大切なところです。 三畳中板に炉が切られ、正月元旦と宗家古式慣例の儀式はここで行われます。 隣接の御仏間には歴代宗匠方の御位牌が安置されております。 ❚ 茶室 ~溜精軒~ 寒雲亭かんうんていと大水屋との間にある六畳を「溜精軒りゅうせいけん」といい、十一代玄々斎げんげんさいの好みで逆勝手出炉ぎゃくがってでろに炉が切られており、除夜釜に使用されます。 桑一枚板の大棚があり、下地窓が「杓しゃくの柄窓えまど」と言われ、使い古しの柄杓の柄でつくられています。床は点前畳勝手付壁面で、亭主床ていしゅどこの構えになっています。 ❚ 茶室 ~寒雲亭~ 三代宗旦好みと言われています。書院造しょいんづくりが特色で、八畳に一間の本床・一畳の控えの間と付つけ書院があります。貴人きにんのために「真しん」、お相伴しょうばんの人には「行ぎょう」、 自ら茶を点てる場所は「草そう」という具合に、天井を真行草の三段に張り分けていると言われています。 宗旦の独創性と心遣いが示されていると考えられます。狩野探幽かのうたんゆう筆「飲中八仙之図」(通称探幽手違いの襖)、 東福門院とうふくもんいんよりの拝領品を象った櫛形くしがたの欄間らんまなどがあります。 ❚ 茶室 ~咄々斎~ 十一代玄々斎げんげんさいが、天保10年(1839)利休250年忌に際し、「稽古の間」として造られます。安政3年(1856)宗旦200年忌を営むために改修し、宗旦の号をとって「咄々斎とつとつさい」と改めました。 八畳の席で、床は八代又玄斎一燈ゆうげんさいいっとう手植えの五葉松の柱に久松家拝領の蔦の框、床脇は踏込地板敷の正面に大きな下地窓したじまどを開け、千利休が秀吉から拝領した銅鑼どらが吊ってあります。五葉松の古材を長板の寸法に切り、これを組み違いに張った格天井は「一崩しの天井」と称し、床脇上方の竹、前庭の「梅の井」と名付けられた井戸と共に松竹梅の意匠となっております。 欄間は香狭間桐こうざまきり透かしとなっており、玄々斎の趣向が感じられます。 ❚ 茶室 ~抛筌斎~ 十一代玄々斎げんげんさいが、天保10年(1839)利休居士250年忌に際し造られました。利休居士の斎号をとって席名としたものです。 十二畳敷の広間で、一間の本床を構え、床脇に地袋と一枚板の棚を設けてあります。床前二畳が高麗縁こうらいべりで貴人座きにんざとなっていますが、畳の配置と縁によって特に上段にせず、わびの姿をも含んでいます。八畳の敷き方も時代で趣を異にしています。 ❚ 井戸 ~梅ノ井~ ❚ 茶室 ~又新~ 昭和28(1953)年、十四代家元無限斎むげんさい(淡々斎たんたんさい)の還暦を記念し、嘉代子かよこ夫人の設計により新築されました。 又隠ゆういんの席に対して「又新ゆうしん」と命名され、 茶の創造的な精神をその名に示しています。立礼席および六畳と三畳台目の茶室からなり、立礼席には淡々斎好御園棚みそのだなが据えてあります。 ❚ 茶室 ~対流軒~ 十三代圓能斎えんのうさい好みの広間で、扁額もその手蹟によるものです。その名前には、当時の裏千家前を流れる小川のせせらぎに対して、 茶道の伝統の維持と今後の発展を期した圓能斎の決意が託されています。 床柱は又隠の前庭にあった老松、床脇の袋棚には御祖堂おんそどうの戸張の残り裂が用いられています。欄間の遠山風の透しは、銅鑼の旋律を表わしており、素材の取合わせの妙と意匠の斬新さに、圓能斎の茶道発展への意欲的な姿勢を伺うことができます。 ❚ 茶室 ~知新居~|東京道場 ❚ 茶室 ~雲外軒~|東京道場 ❚ 茶室 ~松声軒~|東京道場 ❚ 茶室 ~梅庵~|東京道場 ❚ 茶室 ~竹有軒~|東京道場 ❚ 茶室 ~無限庵~|北海道茶道会館
- 2-5|茶道検定とは|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 茶道検定 ❚ 茶道文化検定 茶道文化検定は、流儀にかかわらず、伝統文化である茶道の学びと普及を目的に、裏千家十五代/鵬雲斎汎叟宗室により発案された検定試験。 平成二十年(2008年)から令和元年(2019年)まで、年一回日本全国の会場にて紙試験にて開催。 コロナ過による中断を挟み、令和三年(2021年)からは新たに、パソコンやスマートフォン、タブレット等からオンラインで受検が可能な「茶道文化検定Web版」として改編されました。 1級から4級があり、受験資格は年齢・性別・茶道経験・流儀等の制限はなく、点前の手順などについての出題はありません。 [難易度] 難↑ 4級 茶道の文化に関する基礎的な知識 3級 茶道の文化に関する一般的な知識 2級 茶道の文化に関するやや高度な知識 1級 茶道の文化に関する高度な知識 易↓ [出題範囲] 3級・4級 ・茶のこころ、茶の歴史、茶事・茶会、茶道具、茶室・露地の分野から出題 ・3級、4級の多くを公式テキスト・公式問題集の内容から出題 1級・2級 ・茶の歴史、茶事・茶会、茶道具、茶と禅、茶席の花、懐石、菓子、茶室・露地、茶業の分野から出題 ・2級の出題の多くを公式テキスト・公式問題集の内容から出題 ・1級は公式テキスト・公式問題集を基本として幅広く出題
- 2-6|裏千家学園とは|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 裏千家学園 ❚ 裏千家 ~裏千家学園茶道専門学校~ 裏千家学園茶道専門学校は、茶道の家元・裏千家を母体とする学校法人裏千家学園が運営する茶道教育の専門機関です。昭和三十七年(1962年)に「裏千家茶道研修所」として設立されて以来、時代の変化に応じながら茶道教授者の育成に努めてきました。 昭和四十六年(1971年)には「裏千家学園」と改称し、昭和五十一年(1976年)には専修学校として新たな歩みを開始。昭和五十八年(1983年)には現校舎の完成に合わせ、京都府より学校法人の認可を受け、正式に「学校法人裏千家学園 裏千家学園茶道専門学校」となりました。 その後、昭和六十年(1985年)には本科(茶道科)に付帯する教育課程として「研究科」を設置し、平成十三年(2001年)からは1年コースを新設。 伝統文化としての茶道の精神を重んじながらも、現代社会のニーズに対応した教育を展開しています。 また平成六年(1994年)には中国・天津商業大学との合弁により「天津商業大学裏千家茶道短期大学」が設立。 平成二十四年(2012年)には創立五十周年を迎え、これまでの卒業生・修了生は外国人研修コースを含め2,000名を輩出。卒業生たちは国内外で茶道の指導や文化普及に携わり、さまざまな分野で活躍しています。 なお、平成十九年(2007年)には定員15名の「裏千家学園大学院大学(伝統文化研究科 茶道文化専攻・修士課程)」の設立が計画されましたが、新設申請が取り下げられたため開学には至りませんでした。 [所 在 地] 〒602-0061 京都府京都市上京区寺之内上る本法寺前町651番地 [連 絡 先] TEL 075-415-0045 [公式 HP] https://www.urasenke.ac.jp/
- 2-7|裏千家の施設|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 施設案内 ❚ 裏千家 [所 在 地] 〒602-0061 京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町613番地 [連 絡 先] TEL 075-431-3111 (代) FAX075-441-2247 [公式 HP] http://www.urasenke.or.jp/ ❚ 今日庵 裏千家 東京出張所 (裏千家 東京道場) 裏千家東京道場は、かつて東京都千代田区二番町に置かれていた旧道場の移築にあわせ、平成七年(1995年)に今日の新宿区市谷加賀町へ新たに整備された裏千家の関東における拠点施設です。 敷地内には、大広間「翔鳳の間」、立礼席「知新居」、広間席「雲外軒」などの茶席が連なり、さらに咄々斎や寒雲亭を写した本席も設けられています。離れ棟には、利休御祖堂をはじめ、八畳広間「松声軒」や四畳半台目の本席「梅庵」が配され、落ち着いた風情の中に伝統と格式が息づいています。 さらに、二階には約九十畳の大広間「竹有軒」、地下には可動式客席を備えた研修室を設けており、首都圏を中心に東日本各地の裏千家門人が研鑽を重ねる道場として活用されています。 [所 在 地] 〒162-0062 東京都新宿区市谷加賀町2丁目5-23 [連 絡 先] TEL 03-5261-3111 [公式 HP] https://www.urasenke.or.jp/textc/kon/tokyo.html ❚ 裏千家茶道資料館 茶道資料館は茶道に関する文献史料や美術工芸品を中心に展示を行い、流派を超えた茶道文化を学ぶ施設(美術館)として、昭和五十四年(1979年)に創設。 企画展では千家秘蔵の茶道具を中心に企画展に関連する美術工芸品、文献史料などの展示をおこなっています。また企画展に関連した講演会や図録の制作・刊行も行われています。 2階の陳列室には、裏千家を代表する茶室の一つ「又隠(ゆういん)」の写しが設けられており、茶室内部の様子を見学することができます。 茶道資料館は、研究者や茶道修練者だけでなく、茶の湯や日本文化に関心を持つすべての方々にとっても、学びの場として広く活用されています。 [所 在 地] 〒602-0073 京都府京都市上京区 寺之内上る寺之内竪町682番地 裏千家センター内 [連 絡 先] TEL 075-431-6474 (代) [公式 HP] https://www.urasenke.or.jp/textc/gallery/ ❚ 茶道裏千家東京茶道会館 今日庵 裏千家 東京出張所 (裏千家 東京道場)の向かいに位置するこの会館は、裏千家の同門社中であれば広く利用できる多目的施設として、平成十五年に開館されました。 地上三階・地下一階の建物内には、大広間「坐雲」をはじめ、立礼室、ギャラリー、大会議室などを備え、茶会や講演会、研究会などさまざまな集まりに対応できる環境が整えられています。 施設の貸し出しも行われており、同門社中の交流や活動の拠点として活用されています。 [所 在 地] 〒162-0856 東京都新宿区市谷甲良町1-4 [連 絡 先] TEL 03-5261-3111 (代) [公式 HP] https://www.urasenke.or.jp/textc/kon/tokyo.html ❚ 裏千家北海道茶道会館 北海道札幌には、裏千家十四代・無限斎碩叟宗室の遺徳を偲ぶ地があり、その象徴として「無限碑」が建立されています。併せて茶室「無限庵」も建てられ、裏千家の同門に長く親しまれてきました。 平成四年には、同門社中の長年の願いにより「裏千家北海道茶道会館」が完成。研修や錬成の場として広く活用されています。敷地内には無限碑・無限庵・無限庵立礼席・茶道会館が整い、会館には嘉祥軒や大広間、会議室、大厨房など多彩な施設を備えています。 裏千家茶道の研鑽と交流を育む拠点として、今も多くの人々に親しまれています。 [所 在 地] 〒060-0002 北海道札幌市中央区北2条西1-4丁目1 [連 絡 先] TEL 011-261-0502 [公式 HP] https://www.urasenke.or.jp/textc/kon/hokkaido.html ❚ 裏千家今日庵文庫 今日庵文庫は、裏千家十一代/玄々斎精中宗室をはじめ、裏千家歴代の御家元が収集した茶道に関する史料を受け継ぎ、昭和四十四年(1969年)に創設された茶の湯の専門図書館です。創設以来、茶道関連資料の、収集、調査、研究に力を注ぎ、その成果を「茶道文化研究」として刊行。 文庫の書庫には、近世の茶道書をはじめ、歴史、美術工芸、建築、料理、文学に関する図書、展覧会図録、雑誌、紀要、映像資料など、約7万点の資料が収蔵されています。 館内において閲覧が可能ですが、館外貸出は行っていません。 閲覧室には、茶道各流派の刊行物や茶の湯に関する図書、児童書、外国書が約1,100冊揃っており、入館料無料にて自由に閲覧することができます。さらに映像資料を視聴できるブースも設けられており、実際の茶道の学習や研究に活用することができます。 [所 在 地] 〒602-0073 京都府京都市上京区 上る寺之内竪町682番地裏千家センター2階 [連 絡 先] TEL 075-431-3434 [公式 HP] https://www.urasenke.or.jp/textc/gallery/bunko/ ❚ 裏千家淡交社 淡交社は、裏千家茶道の機関誌「淡交」の刊行を目的として、昭和二十四年(1949年)に京都で創業。 以来、茶道をはじめとする日本文化の振興を使命とし、出版を中心に多方面で文化活動を展開しています。 創業以来、『淡交』をはじめとする茶道書や美術・工芸・建築・庭園など、茶の湯と深く関わる出版物を多数刊行し、日本文化の記録と継承に貢献してきました。また、出版事業にとどまらず、茶道具や和装・和雑貨の企画制作・販売、茶室・茶庭の設計施工、さらにはカルチャー教室や文化旅行の運営など、多角的な事業を通して日本文化の魅力を国内外に発信しています。 淡交社は、茶の湯を中心に据えながらも、広く文化と人を結ぶ存在として歩みを続けています。その活動は、裏千家の精神を現代に伝えるとともに、未来へと受け継ぐ架け橋となっています。 [所 在 地] 〒603-8158 京都府京都市北区紫野宮西町19番地の1 [連 絡 先] TEL 075-432-5151 [公式 HP] https://www.tankosha.co.jp/
- 2-8|裏千家歴代|御家元|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 裏千家|歴代御家元 ❚ 宗室 裏千家の家元は代々「宗室(そうしつ)」 の名を襲名する慣わしになっています。 また隠居後の名として「玄室(げんしつ)」「大宗匠(だいそうしょう)」「大宗匠(おおそうしょう)」の名が見られます。 この名跡の継承は、裏千家の格式と伝統を象徴する重要な要素となっています。。 ❚ 裏千家|歴代御家元一覧 三千家では千宗易利休(1522-1591)を開祖(初代)とし息子の少庵宗淳(1546-1614)を二代、孫の咄々斎元伯宗旦(1578-1658)を千家三代として三千家の初代御家元は四代(初代)から数える習わしになっています。 ■ 裏千家|四代|御家元 ■ 臘月斎 仙叟宗室 ~ろうげつさい・せんそうそうしつ~ 元和八年(1622年) ― 元禄十年(1697年) 七十六歳 千家三代/元伯宗旦の四男として生まれ、裏千家を創建。 三千家のひとつとして裏千家の基礎を確立し、今日庵・又隠・寒雲亭などの茶室とともに侘び茶の境地を継承。 加賀前田家に茶具奉行として仕え、大樋焼や茶釜の普及に貢献。 利休御祖堂を建て、利休百回忌を営むなど茶道の伝統を守り、長男・裏千家五代/不休斎常叟宗室に家元を継承。 ■ 裏千家|五代|御家元 ■ 不休斎 常叟宗室 ~ふきゅうさい・じょうそうそうしつ~ 延宝元年(1673年) ― 宝永元年(1704年) 三十二歳 裏千家四代/臘月庵仙叟宗室の長男として生まれ、二十五歳で五代家元を襲名。 若年で加賀藩前田家の茶道奉行に任じられ、その後伊予松山藩久松家に仕える。 体が弱く三十二歳で早世し、在位はわずか七年であった。 ■ 裏千家|六代|御家元 ■ 六閑斎 泰叟宗室 ~りっかんさい・そうしつ~ 元禄七年(1694年) ― 享保十一年(1726年) 三十三歳 裏千家五代/不休斎常叟宗室の長男として生まれ、十一歳で六代家元を襲名。 表千家六代/覚々斎原叟宗左や表千家七代/如心斎天然宗左から茶道を学ぶ。 十六歳から伊予松山藩久松家に仕え信頼を得るも、体が弱く多忙な生活で疲労が重なり、三十三歳で早世。 ■ 裏千家|七代|御家元 ■ 最々斎 竺叟宗室 ~さいさいさい・ちくそうそうしつ~ 宝永六年(1709年) ― 享保十八年(1733年) 二十五歳 表千家六代/覚々斎原叟宗左の次男として生まれ、子のなかった裏千家六代/六閑斎泰叟宗室の養子となり、十八歳で七代家元を襲名。 父・表千家六代/覚々斎原叟宗左や兄・表千家七代如心/斎天然宗左に茶道を学び、加賀藩・伊予松山藩に茶道奉行として仕える。 五代、六代よりも若い二十五歳で早世。在位はわずか七年であった。 ■ 裏千家|八代|御家元 ■ 又玄斎 一燈宗室 ~ゆうげんさい・いっとうそうしつ~ 享保四年(1719年) ― 明和八年(1771年) 五十三歳 表千家六代/覚々斎原叟宗左の三男として生まれ、裏千家七代/最々斎竺叟宗室の養子となり、十五歳で裏千家八代家元を襲名。 大徳寺三百四十一世/大龍宗丈に参禅。兄・ 表千家七代/如心斎天然宗左、武者小路千家七代/直斎堅叟宗守らとともに 「七事式」の制定に尽力するなど、茶道修練の新機軸を開いた。 さらに書物による茶道作法の統一にも尽力し、町人層への普及に貢献。 ■ 裏千家|九代|御家元 ■ 不見斎 石翁宗室 ~ふけんさい・そうしつ~ 延享三年(1746年) ― 享和元年(1801年) 五十六歳 裏千家八代/又玄斎一燈宗室の長男として生まれ、二十六歳で九代家元を襲名。 加賀藩や伊予松山藩に茶道奉行として仕え、天明八年(1788年)に起こった「天明の大火」の後には裏千家の茶室や什宝の再建に尽力。 子には長男・裏千家十代/認徳斎柏叟宗室、三男・武者小路千家九代/好々斎仁翁宗守がいる。 ■ 裏千家|十代|御家元 ■ 認徳斎 柏叟宗室 ~にんとくさい・そうしつ~ 明和七年(1770年) ― 文政九年(1826年) 五十七歳 裏千家九代/不見斎石翁宗室の長男として生まれ、三十五歳で裏千家十代家元を継承。 加賀・伊予松山藩や松平家に茶道奉行として出仕し、父と同じく若年から才能を発揮。 妻・松室宗江、婿養子・裏千家十一代/玄々斎精中を養子に迎えるなど家系の継承にも尽力。 ■ 裏千家|十一代|御家元 ■ 玄々斎 精中宗室 ~げんげんさい・そうしつ~ 文化七年(1810年) ― 明治四十年(1877年) 六十八歳 三河奥殿藩四代藩主/松平乗友の子として生まれ、十歳で裏千家十代/認徳斎柏叟宗室の養子となる。 成人後、養父の長女・照と結婚して「宗室」を襲名。裏千家十一代家元を継承。 弘化元年(1845年)、妻・照の早世後、後妻・万地と再婚し、長男・一如斎玄室を授かる(後に十七歳で没)。 大名出身の家元として、既存の作法に改良を加え、「立礼点前」「茶箱点」「大炉の扱い」「和巾点」など新しい点前を考案し、裏千家の独自性を確立。 また明治五年(1872年)には茶道が遊芸でないことを示す建白書を政府に提出。 ■ 裏千家|十二代|御家元 ■ 又玅斎 直叟宗室 ~ゆうげんさい・そうしつ~ 嘉永五年(1852年) ― 大正六年(1917年) 六十六歳 京都の名家・角倉玄寧の子として生まれる。 明治四年(1871年)、養父・裏千家十一代/玄々斎精中宗室の長女・千猶鹿子と結婚し婿養子となる。 同年、十一代の隠居に伴い「宗室」を襲名、裏千家十二代家元を継承。 明治維新後の動乱期に茶道の普及に尽力し、明治十八年(1885)には三十四歳で家督を長男・駒吉(のちの裏千家十三代/圓能斎鉄中宗室)に譲り、自身は「玄室」と名乗り隠退。 ■ 裏千家|十三代|御家元 ■ 圓能斎 鉄中宗室 ~えんのうさい・てっちゅうそうしつ~ 明治五年(1872年) ― 大正十三年(1924年) 五十三歳 裏千家十二代/又玅斎直叟玄室の長男として生まれる。 明治十八年(1885年)わずか十五歳で裏千家十三代家元を継承。 母・千猶鹿子の薫陶を受けつつ、流儀の発展に尽力し、裏千家の隆盛の基礎を築く。 東京滞在時には実業家・伊集院兼常の庇護を受け、茶道の道を固持。 新しい点前の考案や、教育制度としての「夏期講習会」を創設。 また、茶道書の出版により門戸開放を推進。学校教育への茶道導入も実現。 ■ 裏千家|十四代|御家元 ■ 無限斎 (淡々斎) 碩叟宗室 ~むげんさい・(たんたんさい)・そうしつ~ 明治二十六年(1893年) ― 昭和三十九年(1964年) 七十二歳 裏千家十三代/圓能斎鉄中宗室の長男として生まれる。 大正十三年(1924年)に三十歳で裏千家十四代家元を継承。 全国各地および海外への茶道普及に尽力。 皇室への献茶や教育現場での茶道指導を通して現代茶道の基盤を確立。 昭和十五年(1940年)に「裏千家淡交会」を設立。 昭和二十四年(1949年)に財団法人化して「今日庵」を結成。 ■ 裏千家|十五代|御家元 ■ 鵬雲斎 汎叟宗室 ~ほううんさい・はんそうそうしつ~ 大正十二年(1923年) ― 令和七年(2025年) 百二歳 裏千家十四代/無限斎(淡々斎)碩叟宗室の長男として生まれる。 幼少期に身体を鍛え、太平洋戦争では海軍少尉として従軍し、特攻隊での生還経験を持つ。 昭和三十九年(1964年)に裏千家十五代家元を継承。 国際的に茶道を普及させ、「一盌からピースフルネス」を掲げ平和活動にも尽力。 長男・坐忘斎玄黙宗室に家督を継承後、「玄室大宗匠」として活動。 多くの門人から尊敬を集め、現代茶道界を代表する宗匠である。 ■ 裏千家|十六代|当代|御家元 ■ 坐忘斎 玄黙宗室 ~ざぼうさい・げんもくそうしつ~ 昭和三十一年(1956年) ― 年(年) ―歳 裏千家十五代/鵬雲斎汎叟宗室の長男として生まれる。 同志社大学文学部卒業後、2003年に父の隠居に伴い裏千家十六代家元を継承。 文筆家・教育者としても知られ、多様な趣味を持ち、現代の生活に合わせた茶道具や点前の工夫も手がける。 妻は三笠宮崇仁親王の次女・容子内親王、子は長男・明史、長女・万紀子、次男・敬史。 ■ 裏千家|十七代|次代|若宗匠 ■ 丹心斎 宗史 ~たんしんさい・そうし~ 平成二年(1990年) ― 年(年) ―歳 裏千家十六代/坐忘斎玄黙宗室の三男として生まれる。 立命館高等学校、立命館大学法学部を卒業後、2015年より今日庵理事、2018年より茶道裏千家淡交会副理事長を務める。 令和二年(2020年)十月八日に宗家利休御祖堂で「若宗匠格式宣誓式」が執り行われ、九條家三十五代当主/九條道成より斎号「丹心斎」。父・裏千家十六代/坐忘斎玄黙宗室より茶名「宗史」を授与される。 同月には京都・大徳寺聚光院、東京・明治神宮で奉告献茶式・格式披露茶会が行われ、皇室から三笠宮家の彬子女王も参列。以降、若宗匠「千宗史」として活動。
- 2-9|裏千家年表|裏千家|今日庵|三千家
三千家 ■ 裏千家|今日庵 ■ 裏千家|年表 ❚ 裏千家|年表 1622年 (元和八年) 裏千家四代/臘月斎仙叟宗室 生まれる★ 1673年 (延宝元年) 裏千家五代/不休斎常叟宗室 生まれる★ 1694年 (元禄七年) 裏千家六代/六閑斎泰叟宗室 生まれる★ 1697年 (元禄十年) 裏千家四代/臘月斎仙叟宗室 死去▼ 1709年 (宝永六年) 裏千家七代/最々斎竺叟宗室 生まれる★ 1709年 (宝永六年) 裏千家五代/不休斎常叟宗室 死去▼ 1719年 (享保四年) 裏千家八代/又玄斎一燈宗室 生まれる★ 1733年 (享保十八年) 裏千家六代/六閑斎泰叟宗室 死去▼ 1746年 (延享三年) 裏千家九代/不見斎石翁宗室 生まれる★ 1746年 (延享三年) 裏千家七代/最々斎竺叟宗室 死去▼ 1770年 (明和七年) 裏千家十代/認徳斎柏叟宗室 生まれる★ 1788年 (天明八年) 裏千家八代/又玄斎一燈宗室 死去▼ 1801年 (享和元年) 裏千家九代/不見斎石翁宗室 死去▼ 1810年 (文化七年) 裏千家十一代/玄々斎精中宗室 生まれる★ 1834年 (天保五年) 裏千家十代/認徳斎柏叟宗室 死去▼ 1852年 (嘉永五年) 裏千家十二代/又玅斎直叟宗室 生まれる★ 1858年 (安政五年) 裏千家十一代/玄々斎精中宗室 死去▼ 1872年 (明治五年) 裏千家十三代/圓能斎鉄中宗室 生まれる★ 1880年 (明治十三年) 裏千家十二代/又玅斎直叟宗室 死去▼ 1893年 (明治二十六年) 裏千家十四代/無限斎(淡々斎)碩叟宗室 生まれる★ 1923年 (大正十二年) 裏千家十五代/鵬雲斎汎叟宗室 生まれる★ 1924年 (大正十三年) 裏千家十三代/圓能斎鉄中宗室 死去▼ 1940年 (昭和十五年) 「淡交会」設立 1947年 (昭和二十二年) 「財団法人 国際茶道文化協会」設立 1949年 (昭和二十四年) 「財団法人 今日庵」設立 「淡交社」創業 1951年 (昭和二十八年) 初の海外支部として「裏千家ハワイ支部」設立 1953年 (昭和二十八年) 「社団法人茶道裏千家淡交会」認可 1956年 (昭和三十一年) 裏千家十六代/坐忘斎玄黙宗室 生まれる★ 1962年 (昭和三十七年) 「茶道研修所」設立(のちの「裏千家学園 茶道専門学校」) 1964年 (昭和三十九年) 裏千家十四代/無限斎(淡々斎)碩叟宗室 死去▼ 1971年 (昭和四十六年) 「裏千家学園」創設 1976年 (昭和五十一年) 「裏千家学園」専修学校として認可 1983年 (昭和五十八年) 「学校法人裏千家学園茶道専門学校」 1990年 (平成二年) 裏千家十七代/丹心斎宗史 生まれる★ 1994年 (平成六年) 中国・天津商業大学との合弁により「天津商業大学裏千家茶道短期大学」設立 2007年 (平成十九年) 「裏千家学園大学院大学(伝統文化研究科 茶道文化専攻・修士課程)」の設立が計画されたが、新設申請が取り下げられたため開学には至らず 2013年 (平成二十五年) 一月二十四日 法令改正に伴い、「一般財団法人今日庵」、「一般社団法人裏千家淡交会」に名称変更 2024年 (令和六年) 裏千家十五代/鵬雲斎汎叟宗室 死去▼
- 3-1|武者小路千家とは|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 武者小路千家とは ❚ 武者小路千家とは 武者小路千家とは、千利休(1522-1591)の孫にあたる千宗旦(1578-1658)の四人の息子の内の次男である武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605-1676)によって興された茶道の流派で表千家、裏千家と並び「三千家」の一つとして知られています。 宗旦の息子 長男 ▶ 閑翁宗拙(1592-1652)・・・父宗旦より勘当 次男 ▶ 似休齋一翁宗守(1605-1676)・・・武者小路千家四代御家元 三男 ▶ 逢源斎江岑宗左(1613-1672)・・・表千家四代御家元 四男 ▶ 臘月庵仙叟宗室(1622-1697)・・・裏千家四代御家元 武者小路千家は、表千家や裏千家に比べて規模は小さいものの、質素・簡素を旨とする茶道の在り方を貫き、独自の発展を遂げてきました。 権威や形式にとらわれず、日常生活の中で茶の湯を実践することを重んじており、「静寂と調和」の精神を大切にしています。その教えは国内外に広まり、茶道の普及と文化の継承に努めています。 こうした姿勢から、武者小路千家の茶風は「幽玄の茶」や「静寂の茶」と称されることもあります。 ❚ 武者小路千家の由来 「武者小路千家」の名称は、千家の屋敷があった 京都市上京区武者小路通に由来します。 ❚ 武者小路千家のあゆみ 武者小路千家は、千家開祖/抛筌斎千宗易利休の流れを汲む三千家の一つであり、代々の家元は理と静寂を重んじる茶道の伝統を守りつつ、合理的で端正な茶の湯を継承してきました。 表千家や裏千家に比べ規模は小さいものの、質素・簡素を重んじる茶道の在り方を貫き、時代を通じて茶道の精神性を深めることに重点を置きながら発展しました。そのため、武者小路千家の茶は「幽玄の茶」や「静寂の茶」と称されることがあります。 武者小路千家四代/似休斎一翁宗守は寛文三年(1663年)、讃岐高松藩主/松平頼重(1622-1695)に招かれ、藩の茶道指南として仕えました。 江戸時代(1603-1868)後期、武者小路千家七代/直斎堅叟宗守は表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)や裏千家八代/又玄斎一燈宗室(1717-1771)と並び、家元制度の整備を進めました。 官休庵は天明の大火や幕末の兵火で幾度も焼失しましたが、その都度再建され、伝統は守られました。 明治時代(1868-1912)には武者小路千家十二代/愈好斎聴松宗守(1889-1953)、武者小路千家十三代/有隣斎徳翁宗守(1913-1999)が学識を生かして武者小路千家を再興・発展させ、現代の茶道へとつなげました。 大正十五年(1926年)に再建された官休庵は、一翁時代の形式を踏襲し、半宝庵、環翠園、祖堂、露地庭園などの茶室群が整えられています。 また、昭和五十年(1975年)には「財団法人官休庵」が設立され、茶道の伝承・普及と建造物の保存活動をに貢献しています。 武者小路千家は、「日常生活の中での茶の湯の実践」を重視し、現代においても茶道の精神を通じた人と人との交流を大切にする理念のもと、千家開祖/抛筌斎千宗易利休以来の精神を守りつつ、端正で合理的な茶の湯を伝え続けています。 1964年 (昭和三十九年) わが国最初の茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校 1965年 (昭和四十年) 「公益財団法人 官休庵」を設立 ❚ 公益財団法人 官休庵 公益財団法人 官休庵は千家開祖/抛筌斎千宗易利休の道統を継ぐ武者小路千家に伝わる茶道を保存育成し、その精神を一般に普及し、もって日本文化の向上に貢献する事を目的として昭和四十年(1965年)に設立されました。 ❚ 武者小路千家の特徴 武者小路千家の茶風は、簡素で理性的な美を重んじる点に特徴があります。装飾を控えた端正な設え、合理的な所作、静寂の中に理を見いだす姿勢は、一翁宗守が慕い続けた利休の精神を受け継ぐものです。華美さよりも心の静まりや調和を重視し、簡素の中に豊かさを見いだす「質実の侘び」を体現しています。 茶道 さどうorちゃどう SADOU (SADO) or CHADOU (CHADO) お辞儀 男女とも左手が前になるように両手を合わせ、軽く指先を畳につける。 正座 男性:膝を拳一つ分開ける。 女性:膝を閉じる。 足の運び 入室:柱側の足から部屋に入り。 運び:一畳を6歩で歩く。 薄茶 泡をあまり立てず 帛紗 男性:紫。 女性:赤。 茶筅 紫竹 菓子器 (薄茶) 喰籠 ❚ まとめ 武者小路千家は、三千家の中でも質実剛健で実直な茶道を守り続ける流派です。 庵号「官休庵」に象徴されるように、茶道を単なる嗜みではなく生き方の一部として位置づけ、日常生活の中で実践することを重視しています。 現代においても、茶道を通じた人と人との交流や精神性の継承に努め、国内外で「静寂と調和」を大切にする茶の湯を広め続けています。
- 3-2|官休庵とは|茶室|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 官休庵とは ❚ 茶室 ―官休庵― 武者小路千家を表すもう一つの呼称に、庵号である「官休庵~かんきゅうあん~」があります。 「官休庵」とは、武者小路千家を象徴する茶室の庵号であり、今日では武者小路千家の屋敷全体や組織全体を指す名称としても用いられています。 この「官休庵」は、 千家開祖/千宗易利休(1522-1591) の孫・ 千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658) の次男にあたる 武者小路千家四代/似休齋一翁宗守 の好みによるものと伝えられています。 父・千家三代/咄々斎元伯宗旦 が生涯を在野に過ごしたのに対し、武者小路千家四代/似休齋一翁宗守は高松藩に茶頭として仕え、寛文七年(1667年)に七十五歳で官を辞しました。その際、茶の湯に専心する決意の象徴として「官休」と号したのがこの茶室の名の由来とされます。 官休庵はこれまで幾度も焼失し、そのたびに再興を重ねてきました。安永・天明・嘉永の火災を経て、明治十四年(1881年)には丹波から移築された写しが建てられましたが、老朽化のため大正十五年(1926年)に武者小路千家十二代/愈好斎聴松宗守(1889-1953)によって再建され、今日の姿に至っています。 ❚ 官休庵の構造と意匠 今日の官休庵は、入母屋造り・柿葺きの出庇を備えた一畳台目の茶室です。 点前座の畳と客座の畳の間には幅約十五cmの半板を入れ、亭主と客の間にほどよい距離感を生み出しています。 この構成は 千家開祖/千宗易利休 の一畳半や 千家三代/咄々斎元伯宗旦 の一畳半、裏千家「今日庵」に通じる理念を踏まえながらも、武者小路千家四代/似休齋一翁宗守独自の工夫を示すものです。 炉は向切りとされ、下座床を設けた二畳敷の空間に仕上げられています。床柱には杉の柾目材を八角に削り磨いたものを用い、床框には桧の磨き丸太を据えるなど、清らかで均整のとれた造りとなっています。 茶道口の踏込には半畳分の板畳を敷き、天井は白竹竿縁の蒲天井と掛込天井を組み合わせ、細部にまで変化を持たせています。 床の向かいには下地窓、躙口の上には連子窓、点前座の脇には風炉先窓を設け、採光を抑えつつも明暗の妙を活かした侘びの趣を感じさせます。 点前座の横には水屋洞庫があり、高齢の亭主でも使いやすいように工夫されています。 内部には竹簀子の流しと棚が設けられ、杉板戸二枚をはめ込むなど実用性を重視した造りです。 また前庭には、鎌倉時代(1185年-1333年)の四方仏の蹲踞が置かれ、武者小路千家四代/似休齋一翁宗守ゆかりの品として今日に伝えられています。 こうした細やかな意匠は、限られた一畳台目の中に機能と侘びを凝縮し、主客が心を交わすための空間として完成されています。 ❚ 庵号 ―官休庵― 「官休庵」という庵号の由来については、明確な史料は残されていませんが、安永三年(1774年)に茶室を建造した際、父・千家三代/咄々斎元伯宗旦に名を授けられたと伝わります。 同年、武者小路千家四代/似休齋一翁宗守の「百年忌」の際に大徳寺三百九十世/眞巌宗乗(1721-1801)和尚により、記された頌には、次のような一節が残されています。 「古人云官因老病休 翁者蓋因茶休也歟」 ―現代訳― 昔の人は、官職を老いや病のために退いたというが、翁(宗守)は茶の湯に専念するために官(茶道指南)を辞めたのであろう この解釈によれば、「官休庵」の名は「官職を辞して茶の湯に生きる」ことを意味し、茶道が単なる嗜みではなく、生き方そのものとして位置づけられたことを象徴していると考えられます。 ❙ まとめ 官休庵は、武者小路千家の精神と伝統を象徴する茶室として、創建以来その形を受け継いできました。 武者小路千家四代/似休齋一翁宗守の工夫した構成は今日までほとんど変わらず、千家三代/咄々斎元伯宗旦、 千家開祖/千宗易利休 から伝わる侘びの理念を忠実に体現しています。 時代を超えて再建を繰り返しながらも、官休庵は常に茶の湯の原点に立ち返る空間として、京都・武者小路千家の中枢に静かに息づいています。
- 3-3|武者小路千家の資格|許状|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 許状 ❚ 許状とは 茶道において、「許状」とは、稽古の各段階ごとに学ぶことが許可される「許し状」のことを指します。これは、修道の証明書や免許のようなものではなく、習得した課目に応じて次の段階へ進むことが許されるものです。 許状は単なる修了証やライセンス(免許)ではなく、茶道の奥義へと進むための指標となります。また、千家においては、許状に関する呼称が異なり、表千家では「相伝」、裏千家・武者小路千家では「許状」と呼ばれ、それぞれの流派において独自の体系が確立されています。 武者小路千家では、許状の取得を通じて教授や正教授の資格を得ることができます。 許状の種類は以下の通りに分かれており、裏千家と共通する部分も多いですが、名称や修道の流れには武者小路千家ならではの特徴があります。 ❙許状 的伝 小習Ⅰ(長緒、盆香合) 小習Ⅱ(入子調、台調) 小習Ⅲ(壺飾、軸飾) 唐物 茶通箱 台天目 盆点 教授 相伝 皆伝 武者小路千家では、小習までのお稽古を通じて、武者小路千家の茶道の基礎を学びます。 唐物の許状を得ると「助教授」、盆点までの許状を得ると「準教授」、そして最高位の「相伝」を得ることで「正教授」となります。 また、「相伝」の上には「皆伝」という位がありますが、これは一代の家元に対して数名しか授与されない特別なものであり、一般的には「相伝」が最高位の許状とされています。 ❚ まとめ 武者小路千家における許状と資格は、茶道の学びの段階を示すものであり、修道の課程を示すものです。稽古を積み、各段階で許状を取得することで、より深く茶道の精神と技法を身につけることができます。 ただし、許状は「学び終えた証」ではなく、「次の段階に進むための許し」であることを理解し、日々の稽古を通じて茶道の心を磨いていくことが大切です。
- ★3-4|武者小路千家の茶室|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 茶室 ❚ 茶室 ~官休庵~ ❚ 茶室 ~起風軒~ ❚ 茶室 ~弘道庵~ ❚ 茶室 ~行舟亭~ ❚ 茶室 ~仰文閣~ ❚ 茶室 ~環翠園~ ❚ 茶室 ~祖堂|濤々軒~ ❚ 茶室 ~半宝庵~ ❚ 茶室 ~茶室楝~|東京出張所 ❚ 茶室 ~半床庵~|東京出張所 ❚ 茶室 ~雲龍軒~|東京出張所
- 3-5|武者小路千家の施設|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 施設案内 ❚ 武者小路千家 [所 在 地] 〒602-0936 京都府京都市上京区武者小路町小川 西無車小路613-2 [連 絡 先] TEL 075-411-1000 [公式 HP] http://www.mushakouji-senke.or.jp/ ❚ 官休庵東京出張所 武者小路千家の東京出張所は、東京都文京区千駄木三丁目にあり、武者小路千家十二代/愈好斎聴松宗守の頃より、東日本における武者小路千家の茶道活動を支える中心的な拠点としての役割を担ってきました。 その起源は、旧久米邸「自楽庵」内に設けられたもので、久田宗全好みの名席「半床庵」や、武者小路千家十二代/愈好斎聴松宗守好みの広間「雲龍軒」など、趣の異なる茶室が設えられています。 さらに、平成十二年(2000年)には、 武者小路千家十四代/不徹斎宗守 の考案により、稽古場を全面的に新築。現代の茶道の在り方を踏まえつつも、伝統の意匠と精神を大切に継承した茶室棟が完成しました。 東京道場は、武者小路千家の理念とともに、首都圏を中心に茶道文化の継承と普及に貢献し続けています。 [所 在 地] 〒113-0022 東京都文京区千駄木3丁目13-13 官休庵東京支部 [連 絡 先] TEL 03-3821-0620 [公式 HP] https://www.mushakouji-senke.or.jp/training/
- 3-6|武者小路千家歴代|御家元|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 武者小路千家|歴代御家元 ❚ 宗守 武者小路千家の家元は代々「宗守」の名を襲名する慣わしになっています。 これは、千家の家元制度の中でも特に 「家元が茶道の根本精神を継承し、次代へとつなぐ」 という役割を重視したものといえます。 「宗守」の名は、一翁宗守(1605-1676)の参禅の師、大徳寺第百八十五世/玉舟宗和尚(1600-1668)の命名で、四百年の間、絶えることなく千利休の道統と血統を伝え、当代に至ります。 また、その折同時に示された「宗屋」の名は代々後嗣に継がれ、「宗安」は隠居後の号となっています。 ❚ 武者小路千家|歴代御家元一覧 三千家では千宗易利休(1522-1591)を開祖(初代)とし息子の少庵宗淳(1546-1614)を二代、孫の咄々斎元伯宗旦(1578-1658)を千家三代として三千家の初代御家元は四代(初代)から数える習わしになっています。 ■ 武者小路千家|四代|御家元 ■ 似休斎 一翁宗守 ~じきゅうさい・いちおうそうしゅ~ 慶長十年(1605年) ― 延宝四年(1676年) 七十二歳 千家三代/咄々斎元伯宗旦の次男として生まれる。幼少期に父のもとを離れ、福島正則の孫で塗師の吉岡与三右衛門の婿養子となり、塗師として「吉文字屋甚右衛門」を名乗るが、商いを好まず慶安三年(1650年)に養家を譲り千家に復帰。 父没後、寛文六年(1666年)より讃岐高松藩初代藩主/松平頼重のもとで茶頭として出仕。 晩年には京都武者小路小川に茶室「官休庵」を建立し、武者小路千家の基盤を確立。 異母兄弟には表千家四代/逢源斎江岑宗左、裏千家四代/臘月庵仙叟宗室がおり、三千家の誕生につながった。参禅した大徳寺百八十五世/玉舟宗璠和尚の命により「宗守」の名を得る。 号「一翁」「似休斎」は利休への追慕と茶道精神の継承を示す。 ■ 武者小路千家|五代|御家元 ■ 許由斎 文叔宗守 ~きょゆうさい・ぶんしゅくそうしゅ~ 明暦四年(1658年) ― 宝永五年(1708年) 五十一歳 武者小路千家四代/似休齋一翁宗守の子として生まれ、父の死去に伴い宗守を襲名し、武者小路千家五代家元を継承。 讃岐高松藩松平家に茶頭として仕え、歴代の中でも地味な人物とされるが、茶道具の鑑識に優れ、公家・近衛家が収集した茶杓や茶器に極書を加えた記録が残る。 茶の教えとして「茶を点てるは心の業にてあれば、心は張りて、業は和やかにするが良し」と記され、心と所作の調和を重んじる。 ■ 武者小路千家|六代|御家元 ■ 静々斎 真伯宗守 ~せいせいさい・しんぱくそうしゅ~ 元禄六年(1693年) ― 延享二年(1745年) 五十三歳 武者小路千家五代/許由斎文叔宗守の子として生まれ、十五歳で家元を継承。 讃岐高松藩/松平家に茶頭として仕え、江戸中期の社会変革期において新しい茶の湯の形式を整える。 また書に優れ、中国伝来の明朝体で漢詩や唐様文字の一行物を遺し、芸術家肌の才を示している。 ■ 武者小路千家| 七代|御家元 ■ 直斎 堅叟宗守 ~じきさい・けんそうそうしゅ~ 享保十年(1725年) ― 天明二年(1782年) 五十八歳 九条家家臣であった嵯峨家の出身で、武者小路千家六代/静々斎真伯宗守の養子として武者小路千家を継承。 延享二年(1745年)に家元を嗣ぎ、讃岐高松藩松平家の茶頭として仕える。 表千家七代/如心斎天然宗左、裏千家八代/又玄斎一燈宗室らとともに家元制度を整備し、「七事式」を制定するなど、「武者小路千家中興の祖」として名高い。 ■ 武者小路千家| 八代|御家元 ■ 一啜斎 休翁宗守 ~いっとつさい・きゅうおうそうしゅ~ 宝暦十三年(1763年) ― 天保九年(1838年) 七十六歳 川越兵庫頭の子として生まれ、武者小路千家七代/直斎堅叟宗守の養子となり武者小路千家八代を継承。 養父に師事して茶の道を学び、讃岐高松藩/松平家の茶頭として活躍。 特に越前松平家七代/松平治郷(不昧)から厚い信頼を受ける。 天明八年(1788年)の天明の大火で官休庵の一方庵・弘道庵が焼失した後、一方庵を復興し、四畳半茶室として改装、枡床や中柱、台目切りを付して「半宝庵」と改名。 ■ 武者小路千家|九代|御家元 ■ 好々斎 仁翁宗守 ~こうこうさい・にんおうそうしゅ~ 寛政七年(1795年) ― 天保六年(1835年) 四十一歳 裏千家九代/不見斎石翁宗室の三男として生まれ、武者小路千家八代/一啜斎休翁宗守の養子となり家元を継承。 兄に裏千家十代/認徳斎柏叟宗室を持ち、幼少より茶の湯を学ぶ。 讃岐高松藩/松平家の茶頭を務め、諸侯の茶の湯を指導するなど、その才能をもって茶匠として名を高めたが、天保六年(1835)、わずか四十一歳で没した。短い生涯ながら御好み道具も多く、「樂亀香合」「桜蒔絵中棗」などが伝わるほか、自作の楽焼・瀬戸焼なども残されている。温厚で誠実な人柄を偲ばせる作風から、後世「仁翁」の号にふさわしい茶人として敬慕されている。 ■ 武者小路千家|十代|御家元 ■ 以心斎 全道宗守 ~いしんさい・ぜんどうそうしゅ~ 文政十三年(1830年) ― 明治二十四年(1891年) 六十二歳 久田家七代/皓々斎宗也の三男として生まれ、表千家十代/ 吸江斎祥翁宗左 を兄に持つ。 武者小路千家九代/好々斎仁翁宗守の早世により養子となり、武者小路千家十代家元を継承。 幼くして茶の湯を修めるも、天然痘により失明し、以後は養母宗栄や木津宗詮らの助力を得て家を支えた。 のちに兄・表千家十代/ 吸江斎祥翁宗左 の次男を養子に迎えて家督を譲り、「宗安」と号して隠棲。 ■ 武者小路千家|十一代|御家元 ■ 一指斎 一叟宗守 ~いっしさい・いっそうそうしゅ~ 嘉永元年(1848年) ― 明治三十一年(1898年) 五十一歳 表千家十代/吸江斎祥翁宗左の次男として生まれる。 先代の武者小路千家十代/以心斎全道宗守が失明による隠居に伴い武者小路千家の養子となり武者小路千家十一代を継承。 嘉永七年(1854年)、京都の半分を焼き尽くすという「京都大火」」に見舞われ、その後幕末維新の混乱の時代に入るという大変困難な時代に遭遇。復興は極めて困難であったが、明治十四年(1881年)には茶室や露地の一部を再興し、明治中期以降の茶道復興の素地を構築。 ■ 武者小路千家|十二代|御家元 ■ 愈好斎 聴松宗守 ~ゆこうさい・ちょうしょうそうしゅ~ 明治二十二年(1889年) ― 昭和二十八年(1953年) 六十五歳 表千家十代/吸江斎祥翁宗左の三男・久田家十代/玄乗斎宗悦の三男として生まれる。 武者小路千家十一代一/指斎一叟宗守に養子入りし、武者小路千家十二代を継承。 幼くして養父を失い、表千家に引き取られて惺斎らに学ぶ。 第三高等学校、東京帝国大学を卒業後、武者小路千家を再興。 ■ 武者小路千家|十三代|御家元 ■ 有隣斎 徳翁宗守 ~うりんさい・とくおうそうしゅ~ 大正元年(1913年) ― 平成十一年(1999年) 八十六歳 京都帝国大学国史学科を卒業後、武者小路千家十二代/愈好斎聴松宗守の娘・千澄子と結婚し婿養子として武者小路千家十三代家元を継承。 学識豊かな茶人として知られ、昭和三十九年には日本初の茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校。翌年「財団法人官休庵」を設立。 ■ 武者小路千家|十四代|御家元 ■ 不徹斎 宗守 ~ふてっさい・そうしゅ~ 昭和二十年(1945年) ― 年(年) ―歳 武者小路千家十三代/有隣斎徳翁宗守の長男として京都に生まれる。 慶應義塾大学大学院で美学美術史を修めたのち、父のもとで茶の湯を研鑽し昭和六十四年(1989年)に武者小路千家十四代家元を継承。 欧米や中国などで講演や献茶式を行い、平成六年(1987年)にはローマ教皇ヨハネ・パウロ二世に謁見し、日本文化としての茶道を紹介した。 平成九年(1990年)に京都府文化功労賞、平成二十四年に京都市文化功労者を受賞。 ■ 武者小路千家|十五代|当代|御家元 ■ 随縁斎 宗屋 ~ずいえんさい・そうおく~ 昭和五十年(1975年) ― 年(年) ―歳 武者小路千家十四代/不徹斎宗守の長男として生まれ、平成十五年(2003年)に後嗣号「宗屋」を襲名。 同年、大徳寺にて大徳寺五百二十世/福富雪底老師より「隨縁斎」の斎号を授与。 日本美術から現代アートまで幅広い造詣を持ち、平成十九年(2007年)に現代的立礼卓「天遊卓」を好むなど、新時代の茶の湯のかたちを追求。 平成二十年(2008年)には文化庁文化交流使として渡米し、ニューヨークを拠点に茶の湯文化の国際的普及に尽力。
- 0-1|千家十職とは|職家のあゆみと役割|千家十職|茶道辞典
茶道辞典 ■ 千家十職 ■ 千家十職とは ❚ 千家十職とは 千家十職~せんけじっしょく(じゅっしょく)~とは、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家に出入りし、歴代御家元の御好茶道具を中心に千家の流れを汲んだ茶道具の制作と技術の継承を業とする十の職家の総称です。 それぞれの家は、茶碗・釜・茶筅・茶杓・竹細工・塗物・指物などの分野で卓越した技を受け継ぎ、千家の御好みに応じた茶道具を制作してきました。 千家十職は、単なる職人集団ではなく、茶の湯の精神と美意識を形にする存在として、今もなおその伝統を守り続けています。 ❚ 千家十職の成り立ち 千家十職の起源は、江戸時代(1603年-1868年)にまで遡ります。 茶の湯の大成期には、三千家に道具を納める職家は二十家以上あったとされますが、時代とともに徐々に整理され、やがて今日と同じ十家に固定されました。 その後、大正時代(1912年-1926年)に入り「千家十職」という呼称が一般化し、昭和八年(1933年)には十家による「十備会」が結成。 昭和六十年(1985年)には歴史と伝統を守るため「十職会」が発足しました。 ❚ 十家の役割 千家十職は、以下の十の専門分野に分かれた十の職家が、それぞれが茶道具の美と機能を高める役割を担っています。 ◆茶碗師◆ 樂家|樂吉左衛門 ◆土風炉・焼物師◆ 永楽家|永楽善五郎 ◆釜師◆ 大西家|大西清右衛門 ◆表具師◆ 奥村家|奥村吉兵衛家 ◆柄杓・竹細工師◆ 黒田家|黒田正玄家 ◆指物師◆ 駒澤家|駒澤利斎家 ◆袋師◆ 土田家|土田友湖 ◆金物師◆ 中川家|中川浄益 ◆塗師◆ 中村家|中村宗哲 ◆一閑張細工師◆ 飛来家|飛来一閑 ※順不同 千家十職は自由な創作ではなく、千家開祖/千宗易利休(1522-1591)が提唱した茶の湯を体現する「利休好み」の茶道具を基本として茶道具の制作をおこないます。 各家の歴代当主は伝統技法を継承しつつ、歴代の三千家御家元の意向を反映させることで、茶道具の美と精神性を保ち続けています。 ❚ 職家のはじまり 茶道は、日本独自の茶室という空間で行われ、季節や道具の取合せ、独自の作法が重視される文化です。そのため、使用される茶道具には創意工夫や利便性が求められ、職人たちは茶の湯の精神を理解しながら、茶道具を制作してきました。 茶の湯の大成者である千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)は樂家初代/長次郎(?-1589)の茶碗や京釜師である辻与次郎(生没年不詳)の釜など独自の意匠を持った茶道具を創案、指導のうえ、好んでいました。 その精神は千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)に受け継がれ、職人たちに祖父である千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)の茶風を受け継ぐよう導したと伝えられています。 また千家三代/咄々斎元伯宗旦は今日の千家十職である「茶碗師/樂家」の茶碗や「一閑張細工師/飛来家」の棗・香合のほか、今日の千家十職に名はないが釜師/西村九兵衛(生没年不詳)の釜など多くの作品を残しており、幅広く利休好みの作品を制作できる者を重用したことが伺える。 千家と職人の関係が明確に示された事例の一つとして元文四年(1739年)九月四日に表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)が催した「千利休/百五十年忌」の年忌茶会では、千家の職方として以下の五名が招かれていました。 茶碗師/樂吉左衛門★ 塗師/中村宗哲★ 袋師/土田友湖★ 竹屋/玄竺 袋師/二得 ★=現:千家十職 このうち、「茶碗師/樂吉左衛門」と「塗師/中村宗哲」は当時の職方の長老的な存在だったと言われており、千家と職家の強い結びつきを示しています。 このように、千家の茶の湯の発展とともに、職人たちは千家の好みに応じた茶道具を制作し続け、伝統を継承しながら茶の湯の美意識を体現する重要な存在となっていきました。 ❚ 職家の記録 茶の湯の大成期であった江戸時代(1603年-1868年)初期には二十家以上の職家が千家に出入りし、道具を納めていましたが時代とともに千家に出入の職家は徐々に整理・固定されていきました。 千家に出入りする職家が十家として明確にになっている最古の記録は宝暦八年(1758年)に行なわれた「宗旦百年忌」の茶会です。 この茶会には以下の十名の職家が招かれています。 茶碗師/樂吉左衛門★ 塗師/中村宗哲★ 袋師/土田友湖★ 竹屋/元斎 釜師/大西清右衛門★ 指物師/駒沢利斎★ 柄杓師/黒田正玄★ 鋳師/中川浄益★ 大工/善兵衛 表具師/奥村吉兵衛★ ★=現:千家十職 その後、千家に出入りするの職家は徐々に固定され、天保十一年(1840年)の「利休二百五十年忌」の茶会では、ほぼ今日の千家十職と同様の職家が招かれています。 茶碗師/樂吉左衛門★ 袋師/土田友湖★ 釜師/大西清右衛門★ 指物師/駒沢利斎★ 柄杓師/黒田正玄★ 鋳師/中川浄益★ 表具師/奥村吉兵衛★ 一閑張師/飛来一閑★ 西村善五郎(現:土風炉・茶碗師/永楽善五郎)★ 塗師/余三右衛門 ★=現:千家十職 また千家十職の職家が現在のように「十職」として正式に認識されるようになったのは、昭和八年(1933年)頃となります。 この頃「十家」による「十備会」が結成され、昭和六十年(1985年)には歴史と伝統を守る為「十職会」が発足されました。今日でも「十備会」による作品展が三年毎に開催されており、今日においても千家十職の各家当主は毎月一日には表千家御家元の元へ集っています。 今日一般的に呼ばれる「千家十職」の尊称は大正時代(1912年-1926年)に入り、茶道界の再興ととも確立されたとされています。茶道具制作の需要が飛躍的に増えたこの頃、百貨店で御家元御好道具の展覧会が催された際にはじめて「千家十職」の称が用いられという。(※その他諸説あり) ❚ まとめ 千家十職は、三千家の茶道を支え、茶道具の美と品格を守り続けてきた十の専門職家です。江戸時代から今日に至るまで、各家は御家元の意向と茶の湯の精神を体現する道具を制作し、千家の美意識を具体的なかたちとして継承してきました。 千家十職は、今日の芸術作家のように自由な創作を行うのではなく、「利休好み」を基調としながら、その時代の感性や亭主の意向を取り入れ、伝統の中に新たな美を生み出しています。この姿勢こそが、茶道具を通じて茶の湯の精神を現代へとつなぐ源となっています。 千家十職の歴史や技を知ることは、単に道具を理解するだけでなく、茶道の深い世界観と、そこに息づく日本の美意識に触れることにつながります。一碗の茶の背景にある職人たちの技と心を感じることで、茶道の世界はより豊かに広がっていくでしょう。
- 0-2|千家十職一覧|職家の役割と歴代当主|千家十職|茶道辞典
茶道辞典 ■ 千家十職 ■ 千家十家|一覧 ❚ 千家十職|十家一覧 ■ 樂家 ■ ―茶碗師― 樂 吉左衛門 ~ らく・きちざえもん ~ 樂家とは、千家十職の内の一家でわが国独自の樂焼を業とする職家。 制作物:樂茶碗、香合。 ■ 樂家歴代 ■ 元祖|阿米也▲ 田中宗慶▲ 初代|長次郎 庄左衛門・宗味▲ 二代|樂常慶 三代|樂道入/ノンコウ 四代|樂一入 五代|樂宗入 六代|樂左入 七代|樂長入 八代|樂得入 九代|樂了入 十代|樂旦入 十一代|樂慶入 十二代|樂弘入 十三代|樂惺入 十四代|樂覚入 十五代|樂直入 当代|樂吉左衛門 ▲=代外 ■ 永楽家 ■ ―土風炉・焼物師― 永楽 善五郎 ~ えいらく・ぜんごろう ~ 永楽家とは、千家十職の内の一家で焼物を業とする職家。 制作物:土風炉、茶碗、茶碗(写物)、水指など。 ■ 永楽家歴代 ■ 初代|西村宗禅 二代|西村宗善 三代|西村宗全 四代|西村宗雲 五代|西村宗筌 六代|西村宗貞 七代|西村宗順 八代|西村宗圓 九代|西村宗巌 十代|永楽了全 十一代|永楽保全 十二代|永楽和全 十三代|西山藤助/曲全 十三代|永楽宗三郎/回全 十四代|永楽得全 十四代室|永楽妙全▲ 十五代|永楽正全 十六代|永楽即全 十七代|永楽而全 当代|永楽善五郎 ▲=代外 ■ 大西家 ■ ―釜師― 大西 清右衛門 ~ おおにし・せいえもん ~ 大西家とは、千家十職の内の一家で鋳物を業とする職家。 制作物:京釜。 ■ 大西家歴代 ■ 初代|大西浄林 二代|大西浄清 三代|大西浄玄 四代|大西浄頓 五代|大西浄入 六代|大西浄元 七代|大西浄玄 八代|大西浄本 九代|大西浄元 十代|大西浄雪 十一代|大西浄寿 十二代|大西浄林 十三代|大西浄長 十四代|大西浄中 十五代|大西浄心 当代|大西清右衛門 ■ 奥村家 ■ ―表具師― 奥村 吉兵衛 ~ おくむら・きちべえ ~ 奥村家とは、千家十職の内の一家で表具を業とする職家。 制作物:軸装、風炉先、など。 ■ 奥村家歴代 ■ 初代|奥村吉右衛門清定 二代|奥村吉右衛門/休意 三代|奥村吉右衛門/休誠 四代|奥村吉五郎 五代|奥村吉兵衛/了誠 六代|奥村吉兵衛/休栄 七代|奥村吉次郎/休音 八代|奥村吉兵衛/蕎庵 九代|奥村吉兵衛 十代|奥村吉次郎 十一代|奥村吉兵衛/一道 十二代|奥村吉兵衛 ■ 黒田家 ■ ―竹細工・柄杓師― 黒田 正玄 ~ くろだ・しょうげん ~ 黒田家とは、千家十職の内の一家で竹細工を業とする職家。 制作物:柄杓、茶杓(下削)、香合、建水など。 ■ 黒田家歴代 ■ 初代|黒田正玄 二代|黒田正玄 三代|黒田正玄 四代|黒田正玄 五代|黒田正玄 六代|黒田正玄 七代|黒田正玄 八代|黒田正玄 九代|黒田正玄 十代|黒田正玄 十一代|黒田正玄 十二代|黒田正玄 十三代|黒田正玄 当代|黒田正玄 ■ 駒澤家 ■ ―指物師― 駒澤 利斎 ~ こまざわ・りさい ~ 駒澤家とは、千家十職の内の一家で指物を業とする職家。 制作物:台子、棚物、煙草盆、香合など。 ■ 駒澤家歴代 ■ 初代|宗源 二代|宗慶 三代|長慶 四代|駒澤利斎 五代|駒澤利斎 六代|駒澤利斎 七代|駒澤利斎 八代|駒澤利斎 九代|駒澤利斎 十代|駒澤利斎 十一代|駒澤利斎 十二代|駒澤利斎 十三代|駒澤利斎 十四代|駒澤利斎 後見人|吉田一三▲ 次代|吉田博三 ▲=代外 ■ 土田家 ■ ―袋師― 土田 友湖 ~ つちだ・ゆうこ ~ 土田家とは、千家十職の内の一家で仕服(仕覆)などの袋物を業とする職家。 制作物:茶入の仕服(仕覆)、帛紗、御物袋、数寄屋袋、角帯、訶梨勒など。 ■ 土田家歴代 ■ 初代|土田友湖 二代|土田友湖/半四郎 三代|土田友湖/半四郎 四代|土田友湖/鶴寿院貞松 五代|土田友湖/半四郎 六代|土田友湖/半四郎 七代|土田友湖/半四郎 八代|土田友湖/半四郎 九代|土田友湖/半四郎 十代|土田友湖/浄雪院妙要 十一代|土田友湖/半四郎 十二代|土田友湖/照雪友湖 当代|土田半四郎 ■ 中川家 ■ ―金物師― 中川 浄益 ~ なかがわ・じょうえき ~ 中川家とは、千家十職の内の一家で金工を業とする職家。 制作物:建水、干菓子盆、香合、水指、風炉など ■ 中川家歴代 ■ 初代|中川紹益 二代|中川浄益 三代|中川浄益 四代|中川浄益 五代|中川浄益 六代|中川浄益 七代|中川浄益 八代|中川浄益 九代|中川浄益 十代|中川浄益 十一代|中川浄益 ■ 中村家 ■ ―塗師― 中村 宗哲 ~ なかむら・そうてつ ~ 中村家とは、千家十職の内の一家で棗、香合などの塗物(漆芸)を業とする職家。 制作物:棗、香合、台子、塗蓋など ■ 中村家歴代 ■ 初代|中村宗哲 二代|中村宗哲 三代|中村宗哲 四代|中村宗哲 五代|中村宗哲 六代|中村宗哲 七代|中村宗哲 八代|中村宗哲 九代|中村宗哲 十代|中村宗哲 中村哲太郎▲ 十一代|中村宗哲 十二代|中村宗哲 当代|中村宗哲 ▲=代外 ■ 飛来家 ■ ―一閑張細工師― 飛来 一閑 ~ ひき・いっかん ~ 飛来家とは、千家十職の内の一家でわが国における漆工芸の一種「一閑張(塗)」の創始者であり、一閑張細工を業とする職家。 制作物:棗、香合、台子、炭斗など ■ 飛来家歴代 ■ 初代|飛来一閑 岸田ゆき▲ 二代|飛来一閑 三代|飛来一閑 四代|飛来一閑 五代|飛来一閑 六代|飛来一閑 七代|飛来一閑 八代|飛来一閑 九代|飛来一閑 十代|飛来一閑 十一代|飛来一閑 十二代|飛来一閑 十三代|飛来一閑 十四代|飛来一閑 十五代|飛来一閑 当代|飛来一閑 ▲=代外
- 1-1|樂家とは|樂吉左衛門|茶碗師|千家十職
千家十職 ■ 樂家|樂吉左衛門|茶碗師 ■ 樂家とは ❚ 樂家とは 樂家とは、千家十職の内の一家でわが国独自の樂焼を業とする職家。 安土桃山時代(1573-1603)より一子相伝の技を継承し、今日に至るまで約四百五十年の歴史を紡いできました。 樂焼は手捏ねによって成形し、低火度で焼成する独自の製法を特徴とし、柔らかく温かみのある質感が茶人たちに愛されてきました。 ❚ 樂家のあゆみ 樂焼の起源については近年の研究により、中国・明代(1368-1644)の河南地方に伝わる「三彩陶」にその源流を持つことが明らかにされています。 古文書には樂焼の創始者である樂家初代/樂長次郎(生年不詳-1589)の父として、唐人・阿米也(生没年不詳)なる人物が記されており、作品こそ現存していないものの、この「阿米也」こそが中国・明代の「三彩陶」の技法をわが国へ伝えた人物と考えられています。 安土桃山時代、京都を中心に色鮮やかな「三彩釉」を用いた焼物が盛んに焼かれはじめており、樂家初代/樂長次郎もその技術をもった焼物師の一人であったと考えられています。 長次郎の生み出す茶碗は「質」「形」「色」などすべての要素が「茶の湯」の精神に合致していることから、千家開祖/抛筌斎千宗易利休(1522-1591)の指導があったことが推測されています。 樂家は豊臣秀吉(1536-1598)が建てた聚樂第の近くに居を構えており、樂家初代/樂長次郎の樂茶碗は、聚樂第に屋敷をもつ千家開祖/抛筌斎千宗易利休の手を経て世に出されたことなどから、後にこの焼物は「聚樂焼茶碗」と呼ばれるようになり、やがて時代が経つとともに「樂焼」「樂茶碗」と尊称されるようになり、やがて家名として「樂」が定着するに至ったという。 以来、樂家では代々「樂」を性とし、樂家三代/道入(ノンコウ)(1599-1656)以降の各当主には隠居時に「入」の字を含む「入道号」という名前が贈られており、後世にはその「入道号」で呼ばれる事が多くなりました。 ❚ 樂家の居 樂家が今日の「京都/油小路二条」に居と窯場を構えたのは桃山時代に遡ります。 天正四年(1576年)、法華寺の再建のための「勧進帳記録(京都頂妙寺文書)」には に「田中宗慶」「樂家二代/樂常慶」「庄左衛門・宗味」の名前が以下のように記されており、それぞれが京都の異なる地域に移住されていたことが確認できる。 田中宗慶は南猪熊町 樂家二代/樂常慶は中筋町 庄左衛門・宗味は西大路町 ❚ まとめ 四百五十年もの間、樂家歴代は変わることなく、樂焼の伝統と一子相伝の技術受け継ぎ、その制作と焼成法は、桃山時代から全く変わることなく今日も受け継がれています。 樂茶碗は、単なる器ではなく、茶道の精神を体現するものとして、茶人にとって特別な存在であり続けています。今なお、四百五十年以上の時を超え、樂家の手によって生み出される茶碗は、茶の湯の世界に深く根付き、その伝統を未来へとつないでいます。 また樂焼の歴史や作品を学ぶことができる施設として、京都には「樂美術館」、滋賀には「佐川美術館・樂吉左衛門館」があります。これらの美術館では、樂家の歴代作品や茶の湯文化に関する展示が行われており、樂焼の伝統と魅力を深く知ることができます。 ❚ 樂美術館 [ 所 在 地 ] 〒602-0923 京都府京都市上京区油橋詰町87−1 [ 連 絡 先 ] TEL 075-414-0304 [ 公式 HP ] https://www.raku-yaki.or.jp/ ❚ 佐川美術館/樂吉左衛門館 [所 在 地] 〒524-0102 滋賀県守山市水保町北川2891 [連 絡 先] TEL 07-585-7800 [公式 HP] https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/raku/exhibition.html



















