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茶道の歴史|茶道年表|前期 (利休没前)

茶道の歴史



喫茶文化初期を象徴する茶人4名のイラストを用いた、茶道の歴史(前期)の解説ページの冒頭画像。


茶道年表

― 前期 (利休没前) ―






❚ 目次












❚ 紀元前


神農時代 (紀元前2700年頃)

古代中国の神話において神農大帝*が数百種類もの草を、自らの身体で試した際に解毒に「荼(だ)」と呼ばれる植物を用いたと伝えられる。


漢王朝時代 (紀元前206年―紀元前220年)

古代の医学書「神農本草経*」に神農大帝の神話の中で「茶」が薬として記述される。


漢王朝時代 (紀元前206年―8年)

紀元前59年頃。文学者の王褒が主人が奴隷を買うために両者の間で交された契約文章「僮約」の中に「茶」に関する具体的な記述があり「茶」を飲む習慣が中国の西南部に位置する四川省付近ではじまったことがわかる。










❚ 飛鳥時代 592 ―710


年 (年)











❚ 奈良時代 710―794


729年 (天平元年)

一条兼良*が著した「公事根源」の中に聖武天皇*が催した宮中行事「季御読経*」において、僧侶に対して引茶*がふるまわれたという記録が残される。

中国/唐代 (618年―907年)

760年頃。文筆家の陸羽*によって茶書「茶経*」が著される。

本書は世界最古の茶に関する書物とされ茶の産地、製法、道具に至るまで詳細に記されている。











❚ 平安時代 794―1192


初期

平安時代初期、中国・唐へ派遣された遣唐使*や伝教大師・最澄*、弘法大師・空海*らが最新の学問や仏典とともに「茶」とその種子を日本へ持ち帰ったと伝えられている。(※諸説あり)


初期

比叡山のふもとにある日吉社の禰宜・祝部行丸は、天正十年(1582年)に記した「日吉社神道秘密記*」の中で、伝教大師・最澄が唐からの帰国後、比叡山の麓に茶園を開いたことを記している。この記述は、日本における茶の栽培に関する最古級の記録の一つとされている。


808年 (大同三年)

平安京の内裏東北隅に茶園が設けられ、造茶師が置かれていたという記録がある。


815年 (弘仁六年)

勅撰史書「日本後紀*」の弘仁六年(815年)四月二十二日の条には嵯峨天皇*が近江の韓崎(現:滋賀県大津市唐崎)へ行幸した際、梵釈寺の大僧都・永忠*より、茶を煎じて振舞われた旨が記されている。この記述がわが国の公式史書においてはじめて「茶」が登場した例とされる。 また嵯峨天皇は行幸の2ヶ月後に「近江」「丹波」「播磨」など、都(京都)の周辺国に茶の木を植えさせたうえで、茶の献上を求めたという。


894年 (寛平六)

遣唐使の廃止。唐の文化的影響から距離を取り、独自の国風文化*を築きはじめるたことを象徴するもので、同時に「茶」もまた、次第に人々の関心から遠のいていくこととなる。十世紀以降の「茶」は季御読経などに限られた儀式の中でしか用いられなくなり、「茶」の歴史も一時的に停滞することとなる。


903年 (延喜三年)

菅原道真*が自らの詩文をまとめた漢詩集「菅家後集*」において、自身が大宰府に左遷された際、「茶」を飲んだという一節が残されている。


950年 (天暦四年)

宇多天皇が亡くなる数日前に宝物類を倉に納めた際の目録「仁和寺御室御物実録*」に茶道具が記される。


1016年 (長和五年)

藤原道長*は、病を患った際に薬として茶を服したと伝えられている。


1191年 (建久二年)

臨済宗開祖の栄西*は、中国・宋に渡り、禅宗とともに「抹茶の喫茶法」や「製茶の技術」を学び、帰国後、筑前国・背振山において宋より持ち帰った「茶の種(実)」を植え、日本における本格的な茶の栽培を始める。










❚ 鎌倉時代 1192―1333


1207年  (承元元年)

華厳宗の僧・明恵上人*は、栄西より茶種を贈られ、京都・栂尾の高山寺に植えたと伝わる。


1211年 (文治五年)

栄西によって「喫茶養生記*」が著される。本書は日本最古の茶に関する専門書で、上下二巻から成り、茶の効能や製法、薬効について仏教医学的な観点から詳述されている。特に、茶が健康を保つための飲料であることを強調し、武士や僧侶に対してその重要性を説いた内容は、後の茶文化の発展に大きな影響を与えた。


1214年 (建保二年)

栄西が鎌倉・寿福寺の住職を務めていた際、二日酔いに苦しんでいた将軍・源実朝*に呼び出され、加持祈祷を行うとともに「一服の茶」を勧めた。その際、栄西は、茶の効能を説いた著書「喫茶養生記」を献上し、源実朝はその一碗を飲むやいなや体調がたちまち回復したと伝えられている。


1239年 (延応元年)

1月16日。西大寺*の僧・叡尊*が西大寺復興の感謝を込めて鎮守八幡に供茶した行事の余服茶を多くの衆僧に振る舞った。この行いが八百年近く連綿と受け継がれ、今日も西大寺にて4月、10月の年2回にわたり行われている茶儀「大茶盛*」の由来とされている。


1283年 (弘安六年)

鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」に、牛飼いが僧侶の飲む茶に興味を示した際の話がみえる。 この記述により、茶が寺院社会、武家社会から一般民衆にも広がりを見せたことが暗示される。


1330年 (元徳二年)

鎌倉幕府の執権である金沢貞顕の書状において「鎌倉では唐物を使った茶がたいへん流行している」との記述が見られる。


1323年 (至治三年)

昭和五十一年(1976年)。韓国の全羅南道新安郡の沖で発見された沈没船調査において、中国から朝鮮半島を経由して日本に向かう外洋帆船の沈没船より、約2万点に及ぶ陶磁器が発見。 「至治三年(1323年)六月一日」と記された荷札をはじめ、のちの茶の湯で重要視される「茶入」「花入」「天目」などの茶道具が数多く含まれており、当時すでに「茶の湯」に適した道具が大量に輸入されていたことが明らかとなる。 またこの船は東福寺再建のため元に派遣され、帰途の1323年に中国の慶元から日本の博多に向かっていた貿易船だったことが判明している。










❚ 室町時代 1336―1573


1336年 (建武三年)

11月7日。室町幕府は政治方針を定めた法令『建武式目』の中で「闘茶は贅沢で危険な集まりである」として闘茶や茶寄合などの群飲逸遊を禁止。しかし闘茶の人気は衰えずその後も100年以上にわたり続けられることとなる。


1403年 (応永十年)

この頃に成立されたとされる喫茶を主題とした往来物『喫茶往来*』の中で「茶会」の語がはじめて登場する。


1450年 (宝徳二年)

臨済宗の歌僧・正徹*が著した歌論書「正徹物語*」の中で当時の茶人たちを「茶数寄」「茶飲み」「茶くらい」の三つに分類し描かれる。


1476年 (文明八年)

能阿弥*、相阿弥*らの同朋衆*によって、東山御殿内の装飾(座席飾り・諸道具など)に関する記録をまとめた聞書「君台観左右帳記*」が成立。


1481年 (文明十三年)

わび茶の祖・村田珠光*は、一休宗純*に参禅し、印可証明として中国・宋代の臨済宗の僧で、「碧巌録*」を著した圜悟克勤*の墨跡*を与えられる。


1482年 (文明十四年)

足利幕府八代将軍・足利義政*は「東山山荘*(のちの銀閣寺)」の東求堂*内に茶室の原型とされる「同仁斎*」を造営。


1522年 (大永二年)

茶祖・千利休生まれる。


1528年 (享禄元年)

武野紹鴎は、当時、歌学の権威であった公家・三条西実隆の弟子となり、 のちに藤原定家*の歌論書『詠歌大概*』授けられる。


1533年 (天文二年)

奈良の塗師・松屋久政が茶会記を集成した「松屋会記*」を起筆。その後、二代久好・三代久重によって慶安三年(1650年)まで書き継がれる。


1548年天文十七年)

堺の豪商・天王寺屋の初代津田宗達が茶会記を集成した「天王寺屋会記*」を起筆。その後、二代宗及、三代宗凡によって天正十八年(1590年)まで書き継がれる。


1565年 (永禄八年)

松永久秀は、奈良の多聞山城で開いた茶に千利休らを招き、天下一の名物と称された「九十九髪茄子の茶入」を用いる。


1568年 (永禄十一年)

足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、権威の確立を図る一環として「名物狩り」を実行し、今井宗久所持の「松島の茶壺」や「紹鴎茄子茶入」、松永久秀所持の「九十九髪茄子茶入」などの名物茶器を献上させる。






❚ 安土桃山時代 1573―1603


1582年 (天正十年)

千利休が京都・山崎にある妙喜庵*内に茶室『待庵*(国宝)』を建立。 六月二日。「本能寺の変」により織田信長が自害。


1585年 (天正十三年)

10月。豊臣秀吉*は京都御所において正親町天皇に茶を献じる「禁中茶会*」を執り行い、千利休も茶頭として出仕。またその際、正親町天皇から「利休」の居士号を賜り、利休は天下一の宗匠としての地位を確立。


1586年 (天正十四年)

1月6日。年頭の参内に際し、豊臣秀吉は黄金茶室*を禁中に移し、茶会を催し、その際、千利休が茶頭を努める。 また松屋会記*の10月13日条には、奈良の中坊源吾の朝会において「宗易形ノ茶ワン」と記があり、おそらくこの記述が「樂茶碗(長次郎茶碗)」の初見とされる。


1587年 (天正十五年)

10月1日。豊臣秀吉は、京都の北野寺社(北野天満宮)*において「北野大茶湯」を挙行。


1588年 (天正十六年)

利休の高弟山上宗二、『山上宗二記』を著す。


1589年 (天正十七年)

12月5日。千利休が修復を寄進した大徳寺山門「金毛閣」が完成。 同時に三門の楼上に「利休の木像」が安置され、落慶法要を営む。


1591年 (天正十九年)

2月28日。豊臣秀吉の勅命により、千利休が聚楽屋敷で自刃。 千家は一家離散となり、利休の養息・千家二代/千少庵*は会津の蒲生氏郷*のもとに蟄居を命じられる。


1594年 (文禄三年)

千少庵。徳川家康と蒲生氏郷のとりなしで 豊臣秀吉に許されて京に戻り、千家を再興。










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