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- 3-7|唐物道具の登場 ~茶の湯が愛した異国の器~|第3回 喫茶のはじまり|鎌倉時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第3回 喫茶のはじまり [7/8] ■ 鎌倉時代 (1192年―1333年) ❚ 茶を引き立てる美 一碗の “茶” を引き立てるのは、器の美しさか、それともその物語か――。 遥か海を越えて届いた美しい道具たちは、一服の “茶” に新たな価値と格式を与えていきます。 今回は、 “茶の湯” における 「唐物道具**」 の登場を紐解きます。 ❚ 宋・元との交易と唐物の流入 鎌倉時代(1185年―1333年) 後期から室町時代(1336年―1573年)初頭にかけて、日本は中国・宋時代(960年―1279年)や中国・元時代(1271年―1368年)との貿易を活発に行い、多くの貿易船が派遣されました。 その結果、 “ 墨蹟** ” や “ 茶入** ”“ 天目** ” “ 花入 ” “ 香炉** ” “ 織物 ” などの工芸品や、 “ 書物 ”“ 薬品 ” などが大量に輸入されることとなりました。 これらの品々は一括して 「唐物**」 と尊称され、とりわけ “茶” を喫する際の 「茶道具**」 として重宝されていくようになります。 また鎌倉幕府第十二代 連署** 「 金沢貞顕*」 が記した手紙には、 ❝ 鎌倉では唐物を使った茶がたいへん流行しています ❞ との記述があり、当時の人々が唐物に強い関心を寄せていた様子がうかがえます。 ❚ 海を越えた陶磁器の足跡 昭和五十一年(1976年)に行われた調査において、中国から朝鮮半島を経由して日本に向かう外洋帆船の沈没船より、約2万点に及ぶ 陶磁器** が発見されました。 その中には― “ 至治三年(1323年)六月一日 ” ―と記された荷札をはじめ、のちの “茶の湯” で重要視される “ 茶入 ”“ 花入 ”“ 天目 ” などの茶道具が数多く含まれており、当時すでに “茶の湯” に適した道具が大量に輸入されていたことが明らかとなりました。 異国の器とともに、日本の “茶の湯” 文化は静かに、しかし着実にその歩みを進めていたのでした。 ❚ 茶の湯に宿る美と格 唐物道具の登場は、 “茶” を嗜むという行為に新たな “格” をもたらしました。 単なる実用品ではなく、そこに宿る物語や美意識が、 “茶の湯” に深みと奥行きを与えていきます。 次回は、こうした “茶の湯” の様式が、どのようにして ― 書院茶湯― として整えられていったのかをたどります。 登場人物 金沢貞顕 1278年―1333年|北条貞顕|鎌倉幕府第十二代連署|北条実時の孫 用語解説 唐物道具 ―からものどうぐ― 墨蹟 ―ぼくせき― 禅僧が筆で書いた書のこと。中国の高僧の墨蹟は、精神性と芸術性を兼ね備えたものとして茶室に掛けられ、茶の湯における精神的支柱のひとつとされる。 茶入 ―とうちゃ― 天目 ―てんもく― 香炉 ―こうろ― 茶道具 ―さどうぐ― 連署 ―れんしょ― 書院茶湯 ―しょいんちゃゆ― 金沢貞顕 ―かなざわ・さだあき― 陶磁器 ―とうじき―
- 3-8|一碗の勝負 ~闘茶に熱狂した人びと~|第3回 喫茶のはじまり|鎌倉時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第3回 喫茶のはじまり [8/8] ■ 鎌倉時代 (1192年―1333年) ❚ 勝負の道具となった一碗 “茶”は、心を調えるもの――それだけではありませんでした。 しかし、その香りや味を競い合い、いつしか “茶”は ― “勝負の道具” ― となってゆきます。 当時の人はなぜ、ただの一碗に熱狂したのか? 今回は、鎌倉時代(1185年-1333年)末期から南北朝時代(1337年-1392年)にかけて流行した― 闘茶** ―の世界をひも解きます。 ❚ 闘水から闘茶へ 前項で触れた喫茶文化の確立にともない、鎌倉時代(1185年―1333年)末期から南北朝時代(1337年―1392年)にかけて、 “茶” はさまざまな形で楽しまれるようになります。 そのひとつが、飲んだ茶の産地や品質を当てる遊戯 ― “闘茶” ― でした。 当時 、飲んだ “水” の産地を当てる遊戯である ― “闘水” ― が流行しており、その発展として “茶” を飲み比べ “ 本茶** ” か “ 非茶** ” かを当てるという、単純な娯楽として武士の間で始まりました。 ❚ ルールの発展と豪華な賞品 初期には 栄西* が京都・栂尾の 「高山寺**」 の 華厳宗** 中興の祖と称される 明恵* に譲った茶を ― “本茶”― とし、それ以外の産地の “茶” を ― “非茶” ― として飲み当てる簡素な遊びでした。 しかし次代が下がるにつれルールは複雑化し、 ― 何産の茶か?― を当てる銘柄当ての形式や、点数制を導入した勝負形式も登場。 時には数日にわたって開催され、 “砂金”“刀”“唐物” など高価な賞品が賭けられることもありました。 なかでも、贅沢を好み、 豪華な景品をかけた 佐々木道誉* の― “闘茶会” ―の様子は南北朝時代( 1337年―1392年 )に記された四十巻からなる 『太平記*』 に詳しく描かれています。 佐々木道誉は華麗・贅沢を好む 『 婆娑羅( バサラ)大名*』 と知られ、 常識にとらわれない独特の美意識を体現した人物として 広く知られていました。 やがて ― “闘茶” ― は貴族や武士だけの遊戯から庶民にまで広く流行するようになります。 ❚ 禁止令と文化への定着 しかし、 ― “闘茶” ― のあまりの熱狂ぶりを受け、 室町幕府** の 初代 将軍** ・ 足利尊氏* は建武三年(1336年)十一月七日に政治方針を定めた 『建武式目*』 の中で ❝ ―原文― 諸国司以下、濫妨狼藉、闘茶、博奕等、停止せしむべき事 ―現代訳― 諸国の 国司** 以下の者たちは、勝手気ままな振る舞いや乱暴、闘茶、賭博などを禁止すべきであること。 ❞ として禁止するが、 ― “闘茶” ―の人気は衰えることなく、なんとその後100年以上にわたって続けられ、 “茶の湯” の一形態として茶文化の中に深く根を下ろしていこととなります。 ❚ 茶の湯への胎動 一碗の “茶” をめぐる興じと勝負——そこには、人の欲と美意識とが交差する、奥深い文化の一面が伺えます。 “茶” という静かな存在が、人々の熱狂と欲望の的となっ た ― “闘茶” ―。 その文化の奥には、遊戯を通じて育まれた審美眼と、やがて成立する“茶の湯”への胎動がありました。 次回は、この― “闘茶” ―を超えて、精神性と礼法を重んじる ― “書院茶**” ― の世界をひも解きます。 登場人物 栄西 1141年―1215年|明庵栄西|僧|臨済宗開祖|「建仁寺」開山| 明恵 1173年―1232年|明恵上人|僧|華厳宗中興の祖|栂尾山「高山寺」開山| 佐々木道誉 1296年―1306年|武将|守護大名|バサラ大名| 足利尊氏 1305年―1358年|武将|征夷大将軍|室町幕府初代将軍| 用語解説 闘茶 ―とうちゃ― 本茶 ―ほんちゃ― 非茶 ―ひちゃ― 高山寺 ―こうさんじ― 華厳宗 ―けごんしゅう― 太平記 ―たいへいき― 南北朝時代の動乱を描いた軍記物語。全40巻。作者は未詳ながら、貴族や武士の逸話、戦乱、風俗などを広く伝える貴重な史料。『佐々木道誉』の華麗な「闘茶会」の描写でも知られる。 婆娑羅大名 ―ばさらだいみょう― 「バサラ」とは主に南北朝時代(1336年-1392年)の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、当時の流行語「異風異体」とも呼ばれ奇抜なものを好む美意識をいう。特に佐々木道誉は「バサラ大名」の象徴的な存在で、放埒、傲慢な常軌を逸した数多くの奇行が伝えられている。 足利尊氏 ―あしかが・たかうじ― 室町幕府を開いた初代将軍で、南北朝時代の動乱を導いた武将。後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻し、1338年に征夷大将軍に任ぜられました。京都に幕府を開き、武家政権を再興しましたが、南朝との対立や内部の抗争に苦しみました。禅宗を深く信仰し、建仁寺や天龍寺などの保護を通じて文化の振興にも貢献しました。 建武式目 ―けんむしきもく― 建武三年(1336年)十一月七日に室町幕府初代将軍『足利尊氏』が制定した政治指針。全17条から成り、第7条で「闘茶の禁止」を明記。喫茶が社会に広く浸透し、秩序を乱すほどの影響力を持っていたことがうかがえる。 書院茶湯 ―しょいんちゃゆ―
- 4-1|茶人の原点 ~喫茶の広がりと三つの姿~|第4回 喫茶の多様化|室町時代 (前期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第4回 喫茶の多様化 [1/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |前期 ❚ 茶をたしなむ人々 “茶” をたしなむとは、どのような人だったのでしょうか。 道具を愛し、味を語り、集いを楽しむ――。 室町時代(1336年-1573年)、人々は一碗の “茶” に美意識や教養を重ねていきました。 今回は、そんな茶人の原点に迫ります。 ❚ 広がる喫茶文化と『正徹物語』 室町時代(1336年-1573年)は、嗜好品としての “茶” が武士や庶民の間にも広まり、喫茶文化が広く生活の中に浸透していく時代となります。 またその様子は、 臨済宗** の 歌僧** 「正徹*」 が著した歌論書 『正徹物語**』 の中に活き活きと描かれています。 『正徹物語』では、当時の茶人たちを次の三つのタイプに分類しています。 ❝ ・茶数寄 ― 茶道具に美意識を持ち、それを所持して茶を楽しむ人。 ・ 茶飲み ― 茶の銘柄を飲み当てる「闘茶」の達人。 ・ 茶くらい ― 茶寄合があると必ず参加し、茶を楽しむ人。 ❞ とくに茶数寄については、 歌人** と重ねて次のように評しています。 ❝ 硯・文台・短冊・懐紙などを美しく好んで、いつでも人の歌に自分の歌を添えることができ、歌の会などでは指導者になる人 ❞ この言葉からは、 “茶” をたしなむ人々が単に味を楽しむだけでなく、道具や所作に対する高い美意識を持っていたことがうかがえます。 ❚ 茶は文化的行為へ 喫茶は教養と人間性を映す ― “文化的行為” ― として尊重され始めていたことがわかります。 こうした風潮は、後の “茶の湯” 、そして “茶道” の確立につながる重要な萌芽でもありました。 一碗の “茶” を囲んで交わされる心と言葉、それこそが ― “茶人” ― の原点であり、現代の “茶道” の精神にもつながる姿なのです。 ❚ 茶人の美学と精神 “茶道” は、飲むことそのものよりも、その場を共にする心と所作に意味を持ち始めていました。 道具を愛し、仲間を尊び、ひとときを味わう——―。 その姿勢が、やがて ―“茶人”― しての美学を形成し、茶道の確立へとつながっていきます。 そして次回は、そうした茶人文化を支えた―“書院の空間”―に注目していきます。 登場人物 正徹|しょうてつ ……… 臨済宗の僧|歌人|1381年―1459年 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 茶人 ―ちゃじん― 臨済宗 ―りんざいしゅう― 歌僧 ―かそう― 正徹 ―しょうてつ― 室町時代の臨済宗の僧であり歌人。冷泉為秀に師事し、和歌に通じるとともに、茶の湯にも深い関心を持ち、著書『正徹物語』で当時の喫茶文化を記録した。 正徹物語 ―しょうてつものがたり― 歌人 ―かじん― 0 ――
- 4-2|茶会の誕生 ~畳とともに始まる茶の芸術~|第4回 喫茶の多様化|室町時代 (前期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第4回 喫茶の多様化 [2/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |前期 ❚ 茶はどこで飲まれていたのか “茶” は、どこで、どのように飲まれていたのでしょうか。 人が集う場に茶があり、空間と共に文化が育まれていった——―。 それは、やがて ― “茶会” ― として様式を持ちはじめます。 今回は、茶会の誕生と空間の変遷をたどります。 ❚ 北山文化と「会所」の出現 室町時代(1336年-1573年)の初期、 北山文化** の開花とともに、将軍や大名たちの間で “茶” を中心とした宴会が開かれるようになります。 これがのちに ― “茶会” ― の原点とされています。 当時、彼らは 「会所**」 と呼ばれる専用の建物を設け、 “茶” を振る舞う空間として活用していました。 「会所」には、唐物絵画や 墨蹟** 、名品とされる茶道具などが飾られ、それらを鑑賞しながら、別室の 「茶点所**」 で点てられた茶を愉しんだと記録されています。 当初は板敷の空間に椅子を設け、そこに座して喫茶を行っていましたが、時代の変化とともに畳が敷かれるようになり、茶を取り巻く空間に大きな変化が起こります。 やがて 「会所飾り**」 と呼ばれる座敷内の装飾方法が整えられ、茶の場が一層形式を帯びていくこととなります。 ❚ 茶の場がもたらした新たな文化 このように、 “茶” は単なる薬や嗜好品としての役割を超え、空間や作法をともなった文化へと成長していきます。 そしてその過程で、礼法や思想と融合しながら、その後の ― “茶の湯” ― へとつながる礎が築かれていくこととなります。 “茶” を味わう場所が整えられ、人と文化が交差する中で、 “茶” は ― “空間芸術” ― としての歩みをはじめていたことがわかる。 “茶の湯” は、単なる飲食の場ではなく、様式・芸術・精神性が交錯する“舞台”となっていきました。 空間と所作が一体となることで、 “茶” は新たな文化の核を形づくり始めます。 次回は、そこに美意識を注ぎ込み、新たな茶風を生み出した 村田珠光* の登場に迫ります。 登場人物 村田珠光| ……… 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 北山文化 ―きたやまぶんか― 会所 ―かいしょ― 墨蹟 ―ぼくせき― 茶点所 ―ちゃてんどころ― 会所飾り ―かいしょかざり― 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 4-3|書院と茶 ~様式と精神の融合~|第4回 喫茶の多様化|室町時代 (前期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第4回 喫茶の多様化 [3/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |前期 ❚ 書院へと移る喫茶の舞台 “茶” は、どのようにして“様式”となったのでしょうか。 それは、道具の飾り方に美を見出し、動作に礼を込めたとき——―。 ひとつの空間が、ひとつの所作が、 “茶” を芸道へと導いていきました。 今回は、 書院飾り** の成立がもたらした書院茶の転換点を見ていきます。 ❚ 建築様式の転換 室町時代(1336年-1573年)中期に 東山文化** が開花すると、それまで貴族を中心とした社会から武家社会へと移行。 同時に貴族社会の建築物であった 寝殿造** から武家社会の建造物である 書院造 へ と移行することとなります。 それに伴い、 北山文化** 時代に ― 会所** ― で行われていた喫茶も、 ― 書院** ― へと舞台を移していきました。 飾り付けも― 会所飾り** ―から ― 書院飾り ― へと洗練されていきます。 書院は、「能」や「連歌」などの芸能が催される場でもあり、そこで振る舞われる “茶” は “茶湯の間” と呼ばれる 点茶所** で点てられ、 同朋衆* の手によって客へと供されていました。 この変化により、茶の振る舞いには― “作法” ―という新たな要素が取り入れられ、これが後の “茶道” へとつながる重要な転機となります。 ❚ 茶の湯の形式化と精神性の芽生え 室町幕府八代将軍 『足利義政』 の同朋衆として知られる 『能阿弥』 は、― “ 書院飾り ” ―を完成させた立役者です。 唐物道具を格式高く書院に飾り付け、仏前に茶を供える際に用いられる 「台子**」 を用いた ― 台子飾り** ― も考案しました。 さらに、 柄杓** の扱いには弓の所作、歩き方(足の運び)には 能** の足取りを取り入れるなど、礼法と芸能の融合によって、― “茶の湯” ―はより精神性を帯びた様式へと進化していきます。 『能阿弥』 『芸阿弥*』『相阿弥*』 と父子孫三代続く同朋衆一族によって、 “茶” を準備する “茶湯の間” の点前や飾り方は綿々と伝承され、それらは伝書 『君台観左右帳記**』 として後世に残されています。 また、当時の喫茶風俗を伝える書物 『喫茶往来***』 には―“茶会”―という言葉がはじめて登場しており、その形式はのちの 千利休* が定めた“茶会”の型に近いものとなっています。 ❚ 芸道としての茶の胎動 空間、所作、道具、――。 それぞれに込められた美と礼の精神が融合し、“茶の湯”という様式が立ち上がりました。 形式はやがて精神を育み、“茶”は芸術と哲学を内包する文化へと進化します。 次回は、その精神性を極め、 “わび茶**” という新たな美を生んだ 村田珠光* の登場に迫ります。 登場人物 足利義政|あしかが・よしまさ ……… 室町幕府八代将軍|1436年-1490年 能阿弥|のうあみ ……… 同朋衆|水墨画家|連歌師|表具師|1397年―1471年 芸阿弥|げいあみ ……… 同朋衆|絵師|連歌師|1431年―1485年|能阿弥の子 相阿弥|そうあみ ……… 同朋衆|絵師|連歌師|生年不詳―1525年|芸阿弥の子女 千利休|せんのりきゅう ……… 村田珠光|むらた・しゅこう ……… 用語解説 0 ―― 書院飾り ―しょいんかざり― 東山文化 ―ひがしやまぶんか― 室町時代(1336年-1573年)中期、室町幕府八代将軍『足利義政(1436年-1490年)」によって禅宗思想を基盤としながら中国宋文化や庶民文化を融合させて文化。東山文化を象徴するものに書院造の京都の「慈照寺/銀閣寺」がある。 書院造り ―しょいんづくり― 日本の古典文学で最長となる四十巻に及ぶ『太平記』によれば、『[武将]佐々木導誉(1296年-1373年)』が南朝方の軍勢に攻められ都落ちする際、「会所」に畳を敷き「本尊」「脇絵」「花瓶」「香炉」などの茶具を飾り、中国東晋の書家『[書家]王羲之(303年-361年)』の「草書の偈」と中国唐の文人『[文人]韓退之(768年-824年)』の「文」を対幅にした茶道具一式を飾りつけたのが「書院七所飾り」の始まりとされています。 北山文化 ―きたやまぶんか― 会所 ―かいしょ― 書院 ―しょいん― 会所飾り ―かいしょかざり― 点茶所 ―てんちゃどころ― 同朋衆 ―どうぼうしゅ― 室町時代に将軍家や大名に仕えて、書画、和歌、茶の湯、道具の取り合わせや室礼などを担当した芸能・教養に秀でた職能集団です。特に足利将軍家に重用され、会所飾りや茶会の設営、古典の教導など多岐にわたる役割を果たしました。芸道と実務を兼ね備えた彼らの活動は、後の茶道や数寄屋風の成立にも大きな影響を与えました。 台子 ―だいす― 茶道具を整然と飾り置くための棚で、茶の湯における飾りと実用を兼ねた重要な道具です。もとは唐物の飾棚に由来し、室町時代の会所飾りに用いられたのが始まりとされます。千利休はこの台子の形式を簡略化し、草庵の茶へと展開させました。格式ある茶会では今なお用いられ、茶道の伝統と美意識を象徴する道具のひとつです。 台子飾り ―だいすかざり― 柄杓 ―ひしゃく― 能 ―のう― 君台観左右帳記 ―くんだいかんそうちょうき― 室町時代中期に同朋衆『能阿弥」によって記された、書院飾りや道具の取り合わせに関する3部構成からなる指南書です。将軍の御成など格式ある場での飾り方を、君(主人)・台(台子)・観(鑑賞)といった視点から体系化しており、会所飾りや茶の湯の成立に大きな影響を与えました。数寄の精神や美の基準を示す重要な文化史料です。 喫茶往来 ―きっさおうらい― わび茶 ―わびちゃ―
- 4-4|同朋衆とは何者か? ~支え続けた茶の世界~|第4回 喫茶の多様化|室町時代 (前期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第4回 喫茶の多様化 [4/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |前期 ❚ 影の世話人たちの存在 茶の湯の舞台裏には、名もなき「支え手たち」の姿がありました。 将軍の傍らで動き、 “茶” を点て、座敷を飾り、文化を育てた人々——。 その陰には、 “茶” の世界を支えた ――影の世話人―― たちの尽力がありました。 今回は、茶文化の屋台骨を担った―― 同朋衆** ―― の姿を追います。 ❚ 多才な職能集団としての同朋衆 室町時代(1336年-1573年)の “茶” を語るうえで欠かせない存在が、将軍の側近として仕えた 同朋衆 という人物たちです。 同朋衆 は 座敷飾り** や喫茶、さらに芸能や儀礼まで幅広い役目を担う、多才な職能集団でした。 ―「同朋」― という名の由来には二つの説があります。 一つは室町将軍家の側近にあって諸芸能を努めた 「童坊**」 に由来するという説。 もう一つは宗教的な意味がより強い 「同行同朋**」 から派生したという説である。 また ―同朋衆― のすべてが 「阿弥**」 号を持っており、その由来は 「阿弥陀仏**」 の略称とされている。 この事からも ―同朋衆― の起源は 時衆(時宗)** の僧から派生したことが推測されます。 この時衆は、鎌倉時代 ( 1185年-1333年 ) 末期に大名に従って戦場で 菩提** を弔い、舞や連歌で軍を鼓舞していたとされ、精神性と芸能性を兼ね備えた存在でした。 この流れを汲んだ ―同朋衆― は、室町幕府のもとで一つの 官職** として体系化され、喫茶・芸能・書院飾り・儀礼など、上層文化の実務を担う役割を持つようになります。 大規模な 会所** での宴には、数十人もの ―同朋衆― が召し抱えられたとも伝えられます。 ❚ 武将に仕えた同朋衆と茶文化の伝播 その中でも、とくに喫茶に関わる者は ― 茶同朋* ― と呼ばれ、茶湯の演出を専門に担っていました。 本来は室町幕府の職の一つであったが、やがて、室町幕府だけでなく、各大名・武将たちにも同朋衆が仕えるようになります。 織田信長* の側近で 「本能寺の変**」 でともに討ち死にした 「一雲斎針阿弥*」 。 豊臣秀吉* の茶事に奉仕した 「友阿弥*」 などはその代表格として知られます。 同朋衆という名の ――影の世話人―― がいたからこそ、茶の湯は表舞台で輝くことができたのです。 そして、その流れは、後の 千利休* によって受け継がれ、現代の茶道にまで影響を及ぼすこととなります。 ❚ 影の力が支えた茶の世界 表に立つ茶人の背後には、文化を支える名もなき力がありました。 ――同朋衆―― の存在は、茶が一過性の流行で終わらず、礼と美を備えた様式へと昇華する礎となったのです。 次回は、 わび茶** の創始者・ 村田珠光* が登場し、茶の精神性をどのように深化させたのかをご紹介します。 登場人物 織田信長|おだのぶなが ……… 天下人|武将|1534年―1582年 一雲斎針阿弥 ……… 同朋衆|生年不詳―1582年 豊臣秀吉 ……… 天下人|武将|関白|太閤|1536年―1598年 友阿弥 ……… 千利休 ……… 村田珠光 ……… 用語解説 0 ―― 0 ―― 同朋衆 ―どうぼうしゅう― 室町時代に将軍家や大名に仕えて、書画、和歌、茶の湯、道具の取り合わせや室礼などを担当した芸能・教養に秀でた職能集団です。特に足利将軍家に重用され、会所飾りや茶会の設営、古典の教導など多岐にわたる役割を果たしました。芸道と実務を兼ね備えた彼らの活動は、後の茶道や数寄屋風の成立にも大きな影響を与えました。 座敷飾り ―ざしきかざり― 童坊 ―どうぼう― 同行同朋 ―どうこうどうぼう― 阿弥号 ―あみごう― 時宗の開祖一遍が説いた阿弥陀仏の教えを信仰する男性信徒が授かる法名、「阿弥陀仏(阿彌陀佛)号」の略称。室町時代に将軍家や貴族に仕えた同朋衆や芸能・芸道に秀でた人々に与えられた称号。 阿弥陀仏 ―あみだぶつ― 時衆(時宗) ―じしゅう― 鎌倉時代に『一遍上人(1239年―1289年)』によって開かれた浄土教の一派で、「南無阿弥陀仏」を称えながら全国を遊行する布教スタイルが特徴です。踊念仏や念仏札の配布を通じて、身分や宗派を問わず民衆に阿弥陀仏の救いを説きました。念仏を唱えれば誰でも極楽往生できるという教えは、庶民に深く浸透し、民衆仏教の代表的存在となりました。後の同朋衆の起源とされる。 菩提 ―ぼだい― 官職 ―かんしょく― 会所 ―かいしょ― 茶同朋 ―ちゃどうぼう― 同朋衆の中でも特に茶湯の準備・点前・演出などを担当する者たち。茶会における作法と設えを実務面から支えた重要な存在。 本能寺の変 ―ほんのうじのへん― わび茶 ―わびちゃ―
- 4-5|一服一銭とは ~茶と暮らしの交差点~|第4回 喫茶の多様化|室町時代(前期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第4回 喫茶の多様化 [5/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |前期 ❚ 茶は誰のものか 茶は、誰のためのものだったのでしょうか。 格式高い座敷を離れ、人々の往来の中で湯が沸く。 一服の茶が、町のにぎわいのなかで広まり始めます。 今回は、庶民にまで広がった ― 一服一銭** ― の喫茶風景を追います。 ❚ 庶民に広がる喫茶文化 室町時代(1336年-1573年)、将軍や大名たちによる 「会所**」 での喫茶文化が発展する一方で、茶の文化は町衆や庶民の間にも広がりを見せていきます。 その代表的な例が、― 茶売り* ― と呼ばれる人々による― 一服一銭― の喫茶スタイルです。 茶売りは、寺社の門前や参拝者で賑わう場所に “風炉**” や “釜” などの茶道具を並べ、訪れた人々に一服の茶を提供していました。 この販売形式はやがて多様化し、棒の両端に茶道具一式を吊るし、肩に担いで移動する― 荷い茶屋** ― と呼ばれる形態も登場します。 いわば、今日の「キッチンカー」のようなものでした。 現存する史料には、京都の 東寺** や 祇園社** など、 洛中** の主要な寺社前で ―茶売り― が神仏に供えた茶を参拝人に振る舞っていた様子が記録されています。 このように、茶は貴族や武士の特権ではなく、庶民にとっても身近で手に届く文化となりつつあったことが伺えます。 そこには「一服の茶」で心と体を癒す、現代にも通じる“おもてなし”の原型があったのかもしれません。 ❚ 茶が結ぶ日常の風景 賑わう町角で、湯気とともに差し出された一碗の茶。 そこには、階級も身分も越えた「癒し」と「交わり」の場がありました。 庶民の暮らしに寄り添いながら、茶は人と人との間をつなぎ、やがて文化の一部として深く根づいていきます。 次回は、茶の精神性を極めた 村田珠光* の ―― わび** ―― の美意識へと歩を進めます。 登場人物 村田珠光 ……… 用語解説 0 ―― 0 ―― 一服一銭 ―いっぷくいっせん― 茶売りによって提供された庶民向けの喫茶サービス。茶一服を一銭で売ることから名づけられ、寺社の門前や街道沿いなどで手軽に茶を楽しめる文化として広まった。 会所 ―かいしょ― 茶売り ―ちゃうり― 室町時代に登場した、寺社の門前や町中で茶を販売した人々。風炉や釜を据えて現場で湯を沸かし、客に茶を点てて提供した。茶文化の大衆化における重要な存在。 風炉 ―ふろ― 荷い茶屋 ―にないちゃや― 東寺 ―とうじ― 祇園社 ―ぎおんしゃ― 洛中 ―らくちゅう― わび ―わび― 0 ――
- 4-6|湯けむりの茶 ~淋汗の茶の湯~|第4回 喫茶の多様化|室町時代 (前期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第4回 喫茶の多様化 [6/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |前期 ❚茶の多様性 茶はどのような場面で振る舞われていたのでしょうか。 実は、かつて―風呂―のあとにも茶が供されていました。 湯けむりの中で点てられる一服の茶――そこにもまた、文化の香りがあったのです。 今回は「淋汗の茶の湯」という、異色の喫茶風景をたどります。 ❚淋汗の茶の湯とは 室町時代(1336年-1573年)中期には、現代では想像もつかないようなユニークな喫茶文化が存在していました。 そのひとつが、 ―― 淋汗* の茶の湯―― と呼ばれる風習です。 これは、客人を風呂に招き、その風呂上がりに一服の茶を供するというものです。 単に湯上りに茶を振る舞うだけでなく、風呂場の空間にも絵画や香炉、花入、掛軸などを設え、まるで 「書院茶**」 や 「会所**」 のように芸術的な演出がなされていました。 また、風呂上がりには 「闘茶**」 も行われるなど、風呂と茶が一体となった遊興の場となっていたようです。 このような ―― 淋汗 の茶の湯―― は、当時の喫茶文化の隆盛を象徴するもので、開催されるたびに多くの見物人が集まり、にぎわいを見せていたと伝えられています。 ❚不昧公と淋汗の名残 その後、喫茶文化は「茶の湯」や「わび茶」そして「茶道」へと進化していきますが、この ―淋汗の茶の湯― はそうした様式化の流れの中で次第に姿を消していくこととなります。 しかし江戸時代(1603年-1868年)中期の寛政四年(1792年)頃に出雲・松江藩主 『松平不昧*』 が建てた茶室 「菅田庵**」 の待合には―蒸風呂―が設けられており、 ―淋汗の茶の湯― の名残を色濃く残しています。 風呂の湯気の中で味わう一服、そこにもまた、かつての日本人が抱いた癒しともてなしの精神が見え隠れしていたのかもしれません。 ❚湯あがりのもてなし 湯あがりのくつろぎのひとときに供される一碗の茶——―。 それは、身体だけでなく心をも温める「もてなし」の原風景だったのかもしれません。 茶の湯が形式を持つ前の、柔らかく人間味にあふれた一場面を通して、茶文化の豊かさが今に伝わってきます。 次回は、 わび茶** の創始者・ 村田珠光 が登場し、華やかさの中に精神性を見出した― わび― の思想について掘り下げていきます。 登場人物 松平不昧|まつだいら・ふまい ……… 不昧流開祖|松江藩主|越前松平家七代|1751年―1818年 村田珠光|むらた・しゅこう ……… 用語解説 0 ―― 0 ―― 淋汗 ―りんかん― 「淋汗」とは、現代の入浴とは異なり、汗を軽く流す程度の簡易的な湯浴みを指す。古来、客人の疲れを癒すための“もてなし”の一環として行われた。 書院茶湯 ―しょいんちゃゆ― 会所 ―かいしょ― 闘茶 ―とうちゃ― 松平不昧 ―まつだいら・ふまい― 出雲松江藩の第七代藩主で、号を「不昧」と称し、茶人としても高名です。藩政改革に尽力する一方で、茶道に深い造詣を持ち、「不昧流」を確立。名物道具の蒐集や茶会の記録を通じて茶の湯文化の復興と体系化に貢献しました。数寄を政治と調和させた、近世随一の大名茶人です。 管田庵 ―かんでんあん― 島根県松江市に現存する、『松平治郷(不昧)』ゆかりの茶室で、旧松江藩家老・有沢家の山荘内に寛政四年(1792年)頃に創建。不昧自らの指図による草庵風の建築で、1畳台目の小空間ながら、中板や連子窓などにより広がりを感じさせる工夫が施されています。隣接する向月亭や御風呂屋とともに、茶の湯の美意識を今に伝える空間であり、現在は国の史跡・名勝、重要文化財に指定されています。 わび茶 ―わびちゃ― 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 5-1|わび茶の源流 ~珠光が見た茶の道~|第5回 茶の湯文化の誕生|室町時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第5回 茶の湯文化の誕生 [1/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |後期 ❚ 茶の湯に宿る「心」 茶の湯は、いつから ―心を通わせる時間― になったのでしょうか。 華やかな道具や贅沢な設えよりも、大切にされたのは静けさと心ばせ。 そこに生まれたのが ― わび茶** ― という、まったく新しい茶のかたちでした。 今回は、その源流を築いた 村田珠光* の思想をひもときます。 ❚ 足利義政と村田珠光の出会い 室町幕府の将軍 『足利義政*』 は、風雅を愛し、政治の表舞台から一歩退いた静かな趣味人としての側面が伝えられています。 足利義政は 禅僧** や芸術家との交流を深めながら、書院で茶を愉しむ生活を送っていたとされます。 その中で、幕府に仕える 「同朋衆**」 の 能阿弥* の紹介により、後世――わび茶の祖――と呼ばれる 村田珠光 を茶席に招いたことが、茶の湯文化にとって大きな転機となりました。 ❚ 珠光がもたらした革新 村田珠光の登場によって、それまでの茶の湯は、豪奢な遊戯的側面を持つ社交の場から、精神性を重視するわびの世界へと大きく変貌を遂げます。 村田珠光は、以前の茶の湯から「酒宴」や 「闘茶*」 といった世俗的な要素を排除し、庶民の間で行われていた簡素な ―― 地下茶の湯** ―― の様式を取り入れました。 さらに、村田珠光の師である 『一休宗純*』 から学んだ「禅」の教えを茶の湯に融合し、亭主と客が一碗を通して精神を通わせる、より深い―茶会―へと昇華させていったのです。 このように村田珠光によって提唱された「わび茶」は、物の質よりも心の在り方を重んじ、自然や簡素の中に美を見出す日本的美意識の象徴となっていきます。 ❚ わび茶という美意識 村田珠光が提唱した「わび茶」では、物の豪華さよりも、内面の美意識と簡素さの中に潜む精神性が重視されます。 自然体であること、静寂であること、そして相手を思う心—―。 こうした要素が「茶のこころ」として形をなしていったのです。 村田珠光の理念こそが今日の――茶道――の源流であり、後世、村田珠光は――わび茶の祖――と称されるようになり、その精神は、後に 武野紹鴎* 、そして 千利休* へと受け継がれ、今日の茶道へとつながっていきます。 ❚ 静けさに宿る美 村田珠光の残した―― 一座建立** ―― の精神は、茶の湯の本質とも言えるものです。 その教えと実践は、後の茶道の発展に大きな影響を与えました。 華やかさよりも静けさを、装飾よりも心を重んじた村田珠光のわび茶。 それは、茶の湯を芸術や思想と結びつけ、深い精神性を育む場へと導いていきました。 次回は、この精神をさらに磨き上げ、千利休へと橋をかけた人物「武野紹鴎」の美学に迫ります。 登場人物 村田珠光 ……… 僧|1423年―1502年|わび茶の祖 足利義政 ……… 室町幕府八代将軍|1436年―1490年 能阿弥 ……… 同朋衆|水墨画家|連歌師|表具師|1397年―1471年 一休宗純 ……… 大徳寺四十七世住持|1394年―1481年|風狂の僧 武野紹鴎 ……… 千利休 ……… 用語解説 0 ―― 0 ―― わび茶 ―わびちゃ― 村田珠光 ―むらたじゅこう― 室町時代中期の僧で、「わび茶」の祖とされる茶人です。一休宗純に参禅し、禅の精神を茶の湯に取り入れ、豪華な唐物中心の茶から簡素で精神性を重んじる茶へと革新しました。草庵風茶室や侘びた道具を重視し、後の武野紹鴎・千利休に続く茶道の基盤を築きました。 禅僧 ―ぜんそう― 同朋衆 ―どうぼうしゅう― 闘茶 ―とうちゃ― 地下の茶湯 ―じげちゃのゆ― 地下茶の湯は、室町から戦国時代にかけて町人や商人など庶民階層に行われていた質素な喫茶スタイルです。格式にとらわれず、実用性や趣向を重んじた生活に根ざした自由な茶風が特徴で、村田珠光はこの様式を取り入れ、わび茶の基礎を築きました。草庵の茶の成立にも影響を与え、後の茶道発展に重要な役割を果たしました。 一休宗純 ―いっきゅうそうじゅん― 室町時代の臨済宗大徳寺四十七世住持で、風狂の僧として知られます。破天荒な言動で宗門の形式を批判し、民衆の中で自由な禅を実践しました。詩文・書にも優れ、『狂雲集』にその思想が表れています。茶の湯や芸能など中世文化にも影響を与え、弟子の村田珠光にも大きな影響を与えました。 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 5-2|不足の美 ~わび茶に生きた一通の手紙~|第5回 茶の湯文化の誕生|室町時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第5回 茶の湯文化の誕生 [2/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |後期 ❚ 茶の湯に託された「心」 茶の湯は、いつから ――心を通わせる時間―― になったのでしょうか。 満ち足りた道具よりも、静けさや余白を愛する——。 そこに生まれたのが、 ―― わび茶** ―― という新しい茶のかたちでした。 今回は、その精神を手紙に託した 村田珠光* の―― 心の文** ――をひもときます。 ❚ 茶の湯が道となる 茶の湯の世界に突如登場した村田珠光が ――わび茶の祖―― と呼ばれる理由は当時の茶の湯に対してはじめて精神性を説いたことにあります。 その思想はかって―― 淋汗の茶の湯** ――を行っていた古市一族であり、後に最も信頼する弟子となった 『古市澄胤*』 に宛てた手紙 ――心の文―― から伺うことができます。 この手紙の中で村田珠光は「公家」や「武士」などの上流階級が嗜む華美な 「会所**」 や 「闘茶**」 といった贅沢な茶の湯に引き戻されぬよう、弟子の古市澄胤に心構えを説いています。 「心の文」の中には、次のような一節があります。 ❞ 此道の一大事 ハ、和漢之さかいをまぎらかす事、肝要肝要 訳) 和と漢の境界を曖昧にすることが肝要である ❝ すなわち 「唐物道具**」 を重んじるこれまでの「茶の湯」も良いが、茶の湯において大切なことは、日本の 「備前焼**」 や 「信楽焼**」 などの素朴な 「和物道具**」 の価値を認め、それらを「唐物道具」と対等に扱うことであると説いています。 また、この一文には歴史的に重要な言葉が見られます。 それが ――此道(このみち)―― という言葉です。 この時代には「茶道」という言葉はまだなく、この文章の中で村田珠光は、はじめて茶の湯を人間の生き方をふくむ ――道―― としてとらえていました。 まさにこのことが村田珠光が ――わび茶の祖―― とされる所以となります。 ❚ 枯淡の境地と“余白の美” 心の文ではさらに次のような一節も記されています。 ❞ 心の下地によりてたけくらミて、後まてひへやせてこそ面白くあるへき也 ❝ これは、外見の整いよりも「心の熟成」によって、やがて冷えやせた 「枯淡**」 の境地に至ることの面白みを説いたものです。 村田珠光は、完璧を求めるのではなく、どこかに不足や余白があることこそが趣であるという考えを重んじていました。 さらに後世に伝わる村田珠光の言葉に ❞ 月も雲間のなきは嫌に て候 訳)満月の皓々と輝く 月よりも雲の間に見え隠れする月の方が美しい ❝ つまり、満月のように完璧なものよりも、雲間に見え隠れする月のような――余白ある美しさ――を尊ぶ心です。 この考えは 『兼好法師』 の 『徒然草*』 にある有名な一節、 ❞ 花はさかりに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは ❝ と通じ、―― 不足の美** ――、――不完の美*――といった 、日本独特の美意識を体現しています。 ❚ 珠光の思想 村田珠光は、道足りたものよりもどこか足りない――余白を感じさせるもの――のほうが趣深いという美意識を持ち、茶の湯にもこの精神を取り入れました。 ❝ 眺める月もいつも輝いているばかりでは面白くない、雲の間に隠れていつ出るかと期待するのがよい ❞ この考えこそが、 ――わび茶―― の根幹をなすものであり、 後の茶道さらには日本人のDNAにまで深く影響を与えるものと考えられます。 村田珠光の ――わび茶―― には、こうした 「不完の美」「不足の美」を楽しむ心 が背景にあり、その美意識は、和歌や連歌の伝統の中で育まれたものでした。 ❚ わび茶が紡ぐ系譜 村田珠光が築いた ――わび茶―― は、彼の跡を継いだ 村田宗珠* や、花の名人と称された 竹蔵屋紹滴* 、さらに 十四屋宗伍* などへと受け継がれていきます。 そしてその精神は、 武野紹鷗* 、 千利休* へと受け継がれ、「茶道」という「道」を大成する礎となっていくこととなります。 満ちることなく、足りないからこそ美しい。 ――心の文―― に込められた村田珠光の思想は、ただの茶の作法を超えて、人としての在り方にまで及んでいました。 次回は、この珠光の精神を受け継ぎ、茶の湯を洗練させていった武野紹鷗の足跡に迫ります。 登場人物 村田珠光 ……… 僧|1423年―1502年|わび茶の祖 古市澄胤 ……… 連歌師|1452年―1508年|村田珠光の高弟 兼好法師 ……… 1283年-1352年|徒然草の筆者 村田宗珠 ……… 茶人|生没年不詳|村田珠光の養子 竹蔵屋紹滴 ……… 茶人|生没年不詳|村田珠光の高弟 十四屋宗伍 ……… 茶人|歌人|生年不詳―1552|村田珠光の高弟 武野紹鷗 ……… 豪商|茶人|1502年―1555年|利休の師 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|茶道の大成者 用語解説 わび茶 ―わびちゃ― 村田珠光 ―むらた・しゅこう― 林汗の茶湯 ―りんかんのちゃゆ― 心の文 ―こころのふみ― 村田珠光が弟子・古市澄胤に宛てた手紙。茶の湯における精神性や美意識、道具観などが端的に記されており、「わび茶」の根本理念を読み取ることができる貴重な史料。 古市澄胤 ―ふるいち・ちょういん― 1452年―1508年。室町時代の連歌師・文化人であり、村田珠光の高弟。茶の湯の精神性に強く共鳴し、「心の文」を受けたことでわび茶の思想を深く継承した。 会所 ―かいしょ― 闘茶 ―とうちゃ― 唐物道具 ―からものどうぐ― 備前焼 ―びぜんやき― 信楽焼 ―しがらきやき― 和物道具 ―わものどうぐ― 枯淡 ―こたん― 徒然草 ―つれづれぐさ― 鎌倉時代の『兼好法師』によって書かれた随筆で、日本三大随筆の一つに数えられます。約240段から成り、無常観や人生観、自然、人情、風雅の心などを平明な文体で綴り、深い思想と美意識が表現されています。武士や公家、庶民の暮らしまで幅広く描かれ、時代を超えて多くの人々に親しまれてきた名著です。 不足の美|不完の美 ―ふそくのび/ふかんのび― 茶道における美意識のひとつで、満ち足りたものではなく、不完全さや簡素さの中に味わいや余韻を見出す考え方です。千利休のわび茶に象徴され、欠けた器や古びた道具、雲間の月や盛りを過ぎた花など、儚さや静けさの中に美を感じる、日本独自の美学として大切にされています。 武野紹鴎 ―たけの・じょうおう― 1502年-1555年。堺の豪商であり、茶人として「わび茶」を大成した人物です。村田珠光の精神を受け継ぎ、質素で簡素な中に美を見出す茶の湯を追求しました。唐物に偏らず、国産の道具や日常品も取り合わせ、精神性と実用性を重んじた茶風を確立。千利休の師として、後の茶道の発展に大きな影響を与えました。 千利休 ―千利休―
- 5-3|わび茶の昇華 ~武野紹鷗の美学と実践~|第5回 茶の湯文化の誕生|室町時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第5回 茶の湯文化の誕生 [3/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |後期 ❚ 茶の湯が“道”となるとき 茶の湯は、どのようにして“道”となったのでしょうか。 茶を点てることに、心の在り方を重ねてゆく――。 そこに新しい茶の美学が生まれました。 今回は、 わび茶** を深化させ、茶の湯を道へと導いた 武野紹鴎** の歩みに迫ります。 ❚ 珠光の死と紹鷗の誕生 文亀二年(1502年)、「わび茶」を提唱した 村田珠光* が世を去ります。 運命の巡り会わせか、のちの「わび茶」の発展において重要な役割を果たすこととなる 武野紹鷗 が同年に誕生します。 武野紹鷗は村田珠光が提唱した「わび茶」の精神を受け継ぎ、それらをさらに継承し、進化、完成させていきます。 そして、それまで遊興や儀式の一つでしかなかった「茶の湯」を「わび」の精神を基盤とした「道」へと昇華させ、今日の茶道の原型を築くこととなりました。 ❚ 静寂な空間と和物道具 家業(武器商人)のかたわら「茶」の宗匠としても活動した武野紹鷗。 武野紹鷗はそれまでの 「会所**」 でおこなわれていた広間での茶の湯でなく、四畳半の茶室において和物道具を用いた簡素で静寂な喫茶空間を創出しました。 この設えは、茶の湯における空間美の在り方を大きく変えるものでした。 また武野紹鷗は 『紹鴎茄子*』 をはじめとする六十種もの 「名物道具」 を所蔵する富豪であったとされています。 しかし、その一方で 「無一物*」 の境涯を理想とし、富と簡素の相反する要素を共存させる「わび茶」を実践していきました。 この頃の史料には ❞ 現在の幾千万の茶道具は、すべて紹鴎が見出された ❝ と記されるほど、武野紹鷗は茶道具の世界にも大きな影響を与えた人物でした。 しかし名物といわれる道具を六十種も所有する一方、今日にも通ずる「自作の茶杓」や「青竹の蓋置」、「釣瓶」を水指に見立てるなど「木(木材)の美」を「茶の湯」に加えるなど独自の発想を取り入れました。 これらの創意は、後の茶道具の発展に多大な影響を与えています。 ❚ 型を遺すということ 武野紹鷗は今日の 茶会記* の原型ともなる茶会の記録を遺しています。 道具・空間・所作に加え、記録という“型”を残したことも重要な功績のひとつです。 記録という“型”を通じて、茶の湯の精神と実践を後世へと伝える礎を築きました。 これにより、茶の湯は芸術や宗教の域を超え、人間の生き方としての「道」へと歩み出すこととなります。 ❚ わび茶の道しるべ 「無一物」の境地を理想としながらも、豊かさと簡素さという相反する要素を共存させた武野紹鷗。 やがてわび茶の実践は、後の千利休によってさらなる高みへと導かれていきます。 武野紹鷗のあゆみはまさに「わび茶の道しるべ」となったのです。 道具に心を込め、空間に精神を宿す。 武野紹鷗が打ち立てた「わび茶」は、華美から離れた静けさの中に深い美と思想を育てていきました。 次回は、そんな紹鷗の精神を継ぎ、茶の湯を芸道として極めた千利休の世界へと足を踏み入れていきます。 登場人物 武野紹鷗 ……… 豪商|茶人|1502年―1555年|利休の師 村田珠光 ……… 僧|1423年―1502年|わび茶の祖 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|茶道の大成者 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 武野紹鴎 ―たけの・じょうおう― 1502年-1555年。堺の豪商であり、茶人として「わび茶」を大成した人物です。村田珠光の精神を受け継ぎ、質素で簡素な中に美を見出す茶の湯を追求しました。唐物に偏らず、国産の道具や日常品も取り合わせ、精神性と実用性を重んじた茶風を確立。千利休の師として、後の茶道の発展に大きな影響を与えました。 村田珠光 ―むらた・じゅこう― 名物道具 ―めいぶつどうぐ― 紹鷗茄子 ―じょうおうなす― 武野紹鷗が所持していたと伝わる名物茶入で、茄子形の唐物茶入の一つです。宋または元時代の中国で作られ、日本に伝来した後、紹鷗の美意識により特に愛用されました。滑らかな肌合いと落ち着いた姿が特徴で、わび茶の精神を体現する茶器として、後の茶人たちにも高く評価されました。現在は重要文化財に指定されています。 無一物 ―むいちもつ― 「無一物」とは、禅の教えに基づく思想で、「一切を捨て去った無の境地」を意味します。何も持たず、執着を離れた心こそが真の自由であり、悟りへの道であるとされます。茶道においてもこの精神は重視され、千利休の「わび茶」に通じる美意識として受け継がれました。物質より心を尊ぶ、日本文化の根底にある思想のひとつです。 茶会記 ―ちゃかいき― 茶会の内容を記録した文書で、開催日・会場・亭主・客の名前から、用いた茶道具・花・懐石料理・掛物などに至るまで詳細に記されます。室町時代から記録が残り、特に千利休以降、茶人の重要な記録手段として発展しました。茶の湯の実践や美意識、道具の由緒を伝える貴重な資料として、今日でも研究や稽古に活用されています。 0 ―― 0 ――
- 5-4|冷え枯れる美 ~わび茶に流れる古典の風~|第5回 茶の湯文化の誕生|室町時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第5回 茶の湯文化の誕生 [4/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |後期 ❚ わび茶に息づく古典の精神 茶の湯の精神は、どこから育まれてきたのでしょうか。 古典の美にふれ、言葉の余白に心を宿す――。 茶の所作の背景には、和歌や連歌の冷え枯れる美の意識が息づいています。 今回は、わび茶と古典文学の関係をたどります。 ❚ 和歌と連歌に学ぶ美意識 武野紹鷗も村田珠光と同様に和歌や連歌に親しみ、その美の境地を自身の「茶の湯」にも取り入れることで、「わび茶」を発展させていきました。 武野紹鷗は「わび茶」の理想について、次のような言葉を遺しています。 ❝ 連歌は枯れかじけて寒かれと云ふ。茶の湯の果てもその如く成りたき ❞ 連歌の世界では、「冷えさびる・枯れる」といった表現を用いて美の境地を説いています。 これは連歌の名手であり 『正徹*』 の弟子であった 『心敬*』 の連歌論により広まり、さらにその弟子である 『宗祇*』 に受け継がれました。 そしてこの思想は武野紹鷗の和歌の師であった 『三条西実隆*』 にも継承されています。 つまり、「わび茶」の背後には、連歌や和歌といった日本古来の文芸の思想が深く関わっていたことがわかります。 ❚ 不足の美と茶の湯 和歌や連歌の世界で重んじられていた「不足の美」「冷え」「枯れ」といった 一見ネガティブにも見える要素にこそ美を見出す感性が大切にされてきました。 それは、物の豊かさではなく、内面的な静けさや余白の豊かさに価値を置く姿勢です。 この美意識が、村田珠光や武野紹鷗という 茶人たちに継承され、やがて茶の湯の所作や精神に色濃く反映されていきます。 そのため今日の茶道の世界においても、しばしば和歌がその境地を象徴する手段として茶会や道具の銘などに用いられることが少なくありません。 そこには茶の湯が単なる作法ではなく、古典文芸の美意識を背景に持つ精神的な営みであることが示されています。 ❚ 古典が育んだ「余白」の美 一首の和歌に込められた「余白」の美は、一碗の茶の所作にも通じています。 わび茶の背景にある和歌や連歌の精神は、単なる文芸ではなく、心の在り方そのものでした。 茶の湯における「静けさ」や「不足の美」は、まさに古典の風韻を今に伝えているのです。 次回は、いよいよ「侘びの茶」を極めた千利休の登場と、その茶の湯がたどり着いた精神世界をご紹介いたします。 登場人物 正徹 ……… 臨済宗の僧|歌人|1381年―1459年 心敬 ……… 天台宗の僧|連歌師|1406年―1475年 宗祇 ……… 連歌師|1421年―1502年|心敬の弟子 三条西実隆 ……… 公卿|連歌師|1455年―1502年|一条兼良の弟子 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 正徹 ―しょうてつ― 室町時代の臨済宗の僧であり歌人。冷泉為秀に師事し、和歌に通じるとともに、茶の湯にも深い関心を持ち、著書『正徹物語』で当時の喫茶文化を記録した。 心敬 ―しんけい― 1406年―1475年。室町時代の天台宗の僧であり、連歌師。正徹に師事し、「さび・わび・枯れ」などの美意識を重視した独自の連歌論を展開。後世の宗祇や茶の湯にも大きな影響を与えた。 宗祇 ―そうぎ― 1421年―1502年。室町時代を代表する連歌師で、心敬の弟子。形式にとらわれず、深い精神性と自然観を重視した作品を多数残し、「新風連歌」の中心的人物とされる。 三条西実隆 ―さんじょうにしさねたか― 1455年―1537年。室町時代の公卿であり、和歌や古典学に精通した文化人です。一条兼良に師事し、『古今和歌集』の伝授者として古今伝授の継承に尽力しました。また、香道の御家流を創始し、三条西家に伝えました。彼の日記『実隆公記』は、当時の政治・文化を知る上で貴重な史料とされています。 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 5-5|戦国の一碗 ~信長が描いた“権威の茶の湯”~|第5回 茶の湯文化の誕生|室町時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第5回 茶の湯文化の誕生 [5/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |後期 ❚ 権威としての茶の湯 茶の湯は、いつから“権威の象徴”となったのでしょうか。 武士たちの野望が交差する中、茶は戦国の政治に組み込まれていきます。 そこには、道具と格式が生む新たな権力のかたちがありました。 今回は、織田信長がもたらした戦国の一碗をたどります。 ❚ 信長の登場と「名物狩り」 室町時代(1336年~1573年)が終焉を迎え、戦国の乱世が広がると、これまで「飾り」や「禅」、「わび」といった精神性が主軸だった茶の湯に、大きな変化が訪れます。 この転換の立役者こそが、尾張の戦国大名 『織田信長*』 でした。 永禄十一年(1568年)、尾張の大名であった織田信長は空位であった室町幕府十五代将軍の座に 『足利義昭*』 を擁立しようと京都へ上洛。 この時、織田信長は当時流行していた茶の湯を目の当たりにし、大きな関心を寄せるようになります。 その後、天下統一を進める中で織田信長は茶の湯を政治の道具として巧みに利用しはじめます。 代表的なものに 「名物狩り*」 と呼ばれる政策があります。 「名物道具*」 を強制的に買収し、また配下の大名たちから献上させたりしました。 ❚ 御茶湯御政道と武家礼儀 さらに織田信長は 『御茶湯御政道*』 という政策により、功績のある家臣に対して茶会の開催を許可し、茶の湯そのものを武士の権威と結び付けました。 織田信長自身も集めた名物道具を用いた茶会数多く催し、茶の湯の格式を高めるとともに、それを権威の象徴として活用していきます。 こうして茶の湯は単なる趣味の領域を超え「武家礼儀」として確立されると同時に政治的な権威を帯びることとなりまました。 この時代は織田信長が茶の湯にひとかたならぬ興味を持ったことで茶の湯は歴史上かつてないほどの隆盛を迎えます。 ❚ 三宗匠の登場と新たな時代 そしてこの織田信長の茶の湯を支えたのが大阪・堺の商人であり茶の湯に精通した以下の三人の茶人達でした。 …………… 今井宗久* 津田宗及* 千利休* …………… この三人は織田信長の 「茶頭*」 として仕え、後に 『天下三宗匠*』 と称され、茶の湯に新たな時代をもたらすことになります。 こうして茶の湯は織田信長の登場により、単なる文化的な営みではなく、政治、武家社会における重要な儀礼へと変貌を遂げていくことになります。 ❚ 文化と権力の交差点 戦国の乱世において、茶は人と人を結び、権威を表す“道具”となっていきました。 織田信長がもたらしたこの茶の湯の変革は、文化と政治を融合させる革新的な試みでもありました。 次回は、その流れをさらに深化させた千利休の登場と、その哲学に迫ります。 登場人物 織田信長 ……… 天下人|武将|1534年―1582年 足利義昭 ……… 室町幕府十五代将軍|1537年―1597年 今井宗久 ……… 1520年―1593年|天下三宗匠 津田宗及 ……… 生年不詳―1591年|天下三宗匠 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|天下三宗匠|茶道の大成者 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 織田信長 ―おだのぶなが― 1534年-1582年。戦国時代の武将で、天下統一の礎を築いた革新的な人物です。桶狭間の戦いで今川義元を破り、勢力を拡大。足利義昭を将軍に擁立した後に実権を握り、楽市楽座や兵農分離などの政策で新しい秩序を築きました。比叡山延暦寺の焼き討ちなど宗教勢力にも容赦なく対峙し、最終的には本能寺の変で明智光秀に倒れました。 足利義昭 ―あしかがよしあき― 1537年-1597年。室町幕府第十五代将軍で、同幕府最後の将軍。兄・義輝の死後、織田信長の支援を受けて将軍に就任しましたが、次第に信長と対立し、追放されました。その後も各地の大名に接近し、幕府再興を図りましたが果たせず、室町幕府は事実上滅亡。戦国から安土桃山時代への転換を象徴する人物です。 名物狩り ―めいぶつがり― 織田信長が行った政策で、名物茶道具を強制的に買収・献上させたもの。茶道具を権力の象徴とし、家臣の格式づけに利用された。 名物道具 ―めいぶどうぐ― 茶の湯において特に由緒や逸話、優れた意匠を持つとされ、歴代の大名や茶人に珍重された茶道具です。茶入・茶碗・花入・香合などがあり、持ち主の名や形状に由来した名が付けられています。道具の格を重んじる茶の湯文化において、名物は格式と美意識を象徴する存在であり、道具組や茶会の趣向において重要な役割を果たします。 御茶湯御政道 ―おちゃのゆごせいどう― 織田信長が実施した政策。家臣に茶会開催を許すことで、茶の湯を武家の礼儀として制度化し、政治と結びつけた。 今井宗久 ―いまい・そうきゅう― 1520年―1593年。戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した堺の豪商・茶人で、千利休・津田宗及とともに「天下三宗匠」の一人に数えられます。茶の湯に精通し、特に茶器の目利きや道具の収集に優れ、織田信長・豊臣秀吉にも仕えました。政治と文化を結ぶ存在として、茶の湯の発展に大きな影響を与えました。 津田宗及 ―つだそうぎゅう― 生年不詳―1591年。戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の豪商・茶人で、千利休・今井宗久と並ぶ「天下三宗匠」の一人です。商才に優れ、南蛮貿易や金融で財を成しながら、茶の湯を通じて織田信長・豊臣秀吉に仕えました。茶道具の鑑識眼や茶会の運営にも長け、わび茶の普及と茶道文化の発展に貢献しました。 千利休 ―せんの・りきゅう― 茶頭 ―ちゃがしら― 主に戦国時代から江戸時代にかけて、大名や将軍家に仕え、茶の湯を取り仕切った役職・職掌です。茶会の企画や道具の選定、献茶や接待などを担い、文化的教養と実務能力が求められました。千利休や今井宗久、津田宗及なども茶頭として仕え、茶の湯を武家儀礼や政治の場に取り入れる重要な役割を果たしました。 天下三宗匠 ―てんかさんそうしょう― 戦国時代に織田信長や豊臣秀吉に仕えた三人の名茶人(今井宗久・津田宗及・千宗易)のこと。信長の茶の湯政策を支えた立役者。
- 5-6|禅と茶の道 ~大徳寺に息づく茶の湯~|第5回 茶の湯文化の誕生|室町時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第5回 茶の湯文化の誕生 [6/6] ■ 室町時代 (1336年―1573年) |後期 ❚ 茶の湯に宿る“静”の精神 茶の湯の精神は、どこからやってきたのでしょうか。 静けさと型の中に、自らを見つめる時間がある——。 その源には「禅」の教えが深く根づいていました。 今回は、茶の湯と禅、そして『大徳寺』との深いつながりをひもときます。 ❚ 珠光から利休へ——禅との交わり 禅僧により日本へもたらされた「茶」はその後さまざまな人物と関わりを経て「禅」と深く結びつき、独自の発展を遂げてきました。 その歴史の中で、特に深い関りを持つ寺院が京都・紫野にある臨済宗の名刹 『大徳寺*』 でした。 村田珠光は大徳寺の禅僧である一休宗純に参禅し、臨済宗の禅僧 『圜悟克勤*』 の 墨蹟* を与えられ、これを茶会に用いたとされます。 また武野紹鷗は「大林宗套」から 『茶禅一味*』 という言葉を授かり茶の湯の精神性をより深く探求していきました。 さらに千利休も「笑嶺宗訢」に参禅し、禅の教えを深く学ぶことで「わびの精神」を体得しています。 そして、茶の湯を単なる作法から精神修行へと昇華させていきます。 また千利休の出生地である大阪・堺には『大林宗套』が開いた大徳寺派の寺院『南宗寺*』があり、ここでも多くの禅僧と茶人が交流を重ね、茶の湯がさらに深められていきました。 ❚ 墨蹟と“茶禅一味”の精神 禅における修行と同様に、茶の湯もまた知識の習得にとどまらず、「身体・心・実践」の三位一体によって体得するものとされるものであり、両者は精神性という面で共鳴し逢っています。 とりわけ禅僧の書による墨蹟を床の間に掛けることは、茶席の空間に禅の精神を表すもとされました。 千利休もまた以下のように説き、禅と茶の湯の結びつきを示しています。 ❝ 茶席の掛物は墨蹟がふさわしい ❞ このように茶の湯は『大徳寺』をはじめとする禅の教えと深く関わり合いながら育まれ、今日においてもその精神性は確かに受け継がれています。 ❚ 無の境地と現代への示唆 茶の湯が作り出す空間と時間は、俗世を離れた境地を目指すもの。 その精神性は、禅が求める“無”や“悟り”の境地と深く重なっています。 茶の湯と禅が交わることで生まれた静けさと内省の世界—— それは、現代にも通じる心のあり方を私たちに教えてくれるのです。 次回は、千利休の登場とともに確立されていく「わび茶」の完成形、その思想と生き様に迫ります。 登場人物 村田珠光 ……… 僧|1423年―1502年|わび茶の祖 一休宗純 ……… 大徳寺四十七世住持|1394年―1481年|風狂の僧 圜悟克勤 ……… 宋代臨済宗の僧|真覚大師|1063年―1135年|碧巌録の編纂者 武野紹鷗 ……… 豪商|茶人|1502年―1555年|利休の師 大林宗套 ……… 大徳寺九十世|南宗寺一世|1480年―1568年|南宗寺創建 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|天下三宗匠|茶道の大成者 笑嶺宗訢 ……… 大徳寺百七世|南宗寺二世|1505年―1583年|聚光院創建 用語解説 0 ―― 大徳寺 ―だいとくじ― 京都市北区紫野に位置する臨済宗大徳寺派の大本山。1315年に大燈国師『宗峰妙超』によって創建。 応仁の乱で一度荒廃しましたが、『一休宗純』によって再興。 境内には20以上の塔頭寺院があり、龍源院、高桐院、大仙院、黄梅院、瑞峯院などが一般公開されています。 特に、三門「金毛閣」は千利休が二階部分を増築したことで知られてる。 圜悟克勤 ―えんご・こくごん― 中国宋時代の臨済宗の名僧で、『碧巌録』の編纂者として知られる。語録や公案に優れ、禅の理を鋭く示した。弟子に大慧宗杲がおり、後世の禅風に大きな影響を与えた。語録は今も多くの禅者に愛読されている。 墨蹟 ―ぼくせき― 禅僧が筆で書いた書のこと。中国の高僧の墨蹟は、精神性と芸術性を兼ね備えたものとして茶室に掛けられ、茶の湯における精神的支柱のひとつとされる。 茶禅一味 ―ちゃぜんいちみ― 茶の湯と禅は本質において同じであるという思想。無駄を削ぎ落とし、静けさと心の統一を求める姿勢が共通していることを表す。 南宗寺 ―なんしゅうじ― 大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院。1526年に創建。 戦国時代の武将『三好長慶』が父『三好元長』の菩提を弔うために建立。その後、1617年に現在の場所に再建されました。 本堂(仏殿)、山門(甘露門)、唐門は江戸時代初期に建てられ、いずれも国の重要文化財に指定されています。 また、枯山水庭園は国の名勝に指定されており、『千利休』が修行した場所としても知られています。 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 6-1|天下人の一碗 ~秀吉と茶の湯の隆盛~|第6回 茶の湯の隆盛|安土桃山時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第6回 茶の湯の隆盛 [1/3] ■ 安土桃山時代 (1573年―1603年) ❚ 天下人のもとで昇華した茶の湯 戦乱の世を経て、茶の湯は“天下の文化”へと昇華していきます。 その背景には、武将たちが茶の湯に託した「権威」と「美」の融合がありました。 天下人のもとで開かれた大茶会の数々は、茶道史に残る一大転機。 今回は、豊臣秀吉による茶の湯隆盛の足跡をたどります。 ❚ 信長亡き後の茶の湯再興 天正十年(1582年)六月二日、 「本能寺の変*」 により織田信長が自害。 世は一時的に混乱し、茶の湯もその庇護者を失ったことで衰退の危機を迎えます。 しかしその後、天下の実権を引き継いだ 『豊臣秀吉*』 により、「茶の湯文化」はさらなる隆盛を迎えることとなります。 大名や武士はもちろん、戦や政治の場面でも「茶の湯」が登場し、「茶道具」は単なる趣味の対象を超えて、権力の象徴となっていきました。 まさに茶道史における最高潮の発展期がこの時代です。 ❚ 禁中茶会と北野大茶湯 この「茶の湯」の隆盛を象徴する出来事に以下の二つの大茶会があげられます 天正十三年(1585年)十月に催された『禁中茶会*』 天正十五年(1587年)十月に催された『北野大茶湯*』 とくに禁中茶会は豊臣秀吉が 「関白*」 に任命されたことに伴う正親町天皇の御所内で催された茶会であり、茶の湯が政治の中枢においても儀礼として正式に位置づけされたことを意味しています。 一方で京都・北野の 『北野天満宮*』 で行われた『北野大茶湯』では、身分の区別なく、広く庶民にも茶が振舞われたとされ、茶の湯が武士階級のみならず、庶民にまで広がる文化となっていたことが伺えます。 ❚ 千利休の登場と権威の茶の湯 こうした一連の茶会を支え茶の湯の発展において決定的な役割を果たしたのが千利休でした。 千利休は 筆頭茶頭* として豊臣秀吉に仕え、その影響力は政治中枢まで及ぼすこととなります。 しかし茶の湯が強大な影響力を持つようになったことで、やがて豊臣秀吉と千利休の間には緊張が生まれ、両者の関係は次第に対立へと向かっていくこととなります。 ❚ 茶の湯の黄金時代の意義 天下人が愛した茶の湯は、権力の象徴としての役割を持ちながら、文化としても成熟を遂げていきました。 その隆盛の裏側には、茶人たちの努力と精神の継承があります。 次回は、茶の湯を芸術と哲学の領域へと導いた千利休の思想と、その生涯に迫ります。 登場人物 豊臣秀吉 ……… 天下人|武将|関白|太閤|1536年―1598年 織田信長 ……… 天下人|武将|1534年―1582年 正親町天皇 ……… 第百六代天皇|1517年―1593年 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|天下三宗匠|茶道の大成者 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 豊臣秀吉 ―とよとみ・ひでよし― 戦国時代の武将・天下人で、織田信長の死後に政権を掌握。農民出身ながら関白・太閤に昇りつめ、全国統一を果たした。刀狩令や太閤検地を実施し、戦国の混乱を収めるとともに、茶の湯を重視し千利休を重用。大阪城を築き、文化・政治両面に大きな影響を与えた。 本能寺の変 ―ほんのうじのへん― 1582年6月2日、『明智光秀』が主君『織田信長』を京都の本能寺で急襲し、自害に追い込んだ事件。信長は天下統一目前での非業の死を遂げ、戦国時代の大転機となった。光秀は直後に豊臣秀吉に討たれ、政局は一気に秀吉中心へと移行した。日本史上屈指の謀反劇として広く知られている。 禁中茶会 ―きんちゅうちゃかい― 天正十三年(1585年)、豊臣秀吉が関白となった祝いの一環として、正親町天皇の御所内で催された茶会。政治と茶の湯の結びつきを象徴する歴史的な行事。 北野大茶湯 ―きたのおおちゃのゆ― 天正十五年(1587年)、京都・北野天満宮で豊臣秀吉が催した大規模な茶会。身分や階級を問わず多くの人々に茶が振る舞われたことで知られ、茶の湯の民衆化を象徴する。 関白 ―かんぱく― 天皇の補佐役として政務を代行する最高位の官職で、平安時代から室町時代にかけて特に重んじられた。藤原氏が独占し、摂関政治を確立。天皇が成人しても政治を主導できる立場で、摂政と異なり成人天皇の政務を補佐する。豊臣秀吉も関白に就き、武家関白として天下統一の権威を強化した。 北野天満宮 ―きたのてんまんぐう― 京都市上京区にある神社で、947年に創建。 学問の神様として知られる『菅原道真』を御祭神とし、全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社。 境内には約1,500本の梅が植えられ、2月下旬から3月中旬にかけて見頃を迎えます。 また、毎月25日には「天神市」と呼ばれる縁日が開催され、多くの参拝者で賑わいます。 筆頭茶頭 ―ひっとうちゃがしら― 茶の湯を指導・執行する茶頭の最高位の役職。千利休は豊臣秀吉に仕え、この役職を担い、茶の湯の儀礼化と権威づけに貢献した。 0 ―― 0 ――
- 6-2|茶に生きた男 ~千利休とわびの道~|第6回 茶の湯の隆盛|安土桃山時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第6回 茶の湯の隆盛 [2/3] ■ 安土桃山時代 (1573年―1603年) ❚ 茶とともに生きた人 茶の湯は、誰によって“道”として完成されたのでしょうか。 禅とともに心を磨き、茶とともに生きる。 その人生のすべてを茶に捧げた人物がいました。 今回は、「茶の湯の大成者」と称される 千利休* の生涯をたどります。 ❚ 千利休の生い立ちと修行 千利休は大阪・堺の 「納屋衆*」 と呼ばれる商人階級の家に生まれました。 この「納屋衆」とは、海外貿易の中継や物資の一時保管を担った倉庫業の担い手であり、経済活動のみならず文化人としても活躍し、茶の湯とも深い関りを持っていました。 千利休は若年の頃より、北向道陳に「茶」を学び、さらに『大林宗套』のもとで禅の修行を積み、宗易の号を授かります。 こうして千利休は茶の湯と禅という二つの面からその思想を深めています。 ❚ 天下人に仕えた利休の運命 後世、「茶の湯の大成者」と呼ばれる千利休ですが、意外なことに 織田信長に「筆頭茶頭」として仕えたのは五十代になってからのことでした。 そして「大茶人」として名が知られるようになるのは天正十年(1582年)六月二日に起こった「本能寺の変」にて織田信長が自害し、その後を継いだ豊臣秀吉に仕えてからのことです。 しかし茶の湯の隆盛を極めたこの時代に『千利休』の運命を大きく変える事件が起こります。 かって応仁元年(1467年)に発生した 「応仁の乱*」 により焼失し、一層のみ復興されていた大徳寺において、千利休は自らの資金で三門の二層部分を再建、寄進します。 ところがその二層部分に雪駄を履いた『利休像(利休自身の木像)』が安置されたことが豊臣秀吉の逆鱗に触れたとされ、天正十九年(1591年)、切腹が命じられることになります。 (※この経緯には諸説あり) こうして織田信長、豊臣秀吉と二人の天下人に「筆頭茶頭」として仕え、茶の湯の黄金時代を築いた千利休は、最終的にはあまりにも強大な影響力を持ったがゆえに粛清され、天正十九年七十歳で自刃。 その生涯を静かに閉じることになりました。 ❚ 利休の遺した「道」の精神 千利休の人生は、一碗の茶を通して人と心を結ぶ「道」の歩みでした。 その精神は、今なお私たちが茶の湯に触れるとき、静かに息づいています。 次回は、利休が確立したわび茶の思想と、それを象徴する茶室や道具についてご紹介いたします。 登場人物 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|天下三宗匠|茶道の大成者 北向道陳 ……… 大徳寺百三世|1504年―1562年|利休の茶の師 大林宗套 ……… 大徳寺九十世|南宗寺一世|1480年―1568年|南宗寺創建|利休の参禅の師 織田信長 ……… 天下人|武将|1534年―1582年 豊臣秀吉 ……… 天下人|武将|関白|太閤|1536年―1598年 用語解説 0 ―― 0 ―― 千利休 ―― 納屋衆 ―なやしゅう― 大阪・堺を拠点とした有力商人層。港町の物流・保管業務を担いながら、文化活動にも関与し、茶の湯を支えた重要な市民階層。 応仁の乱 ―おうにんのらん― 1467年―1477年。室町時代後期に起こった全国規模の内乱で、将軍継承や守護大名間の対立が原因。細川勝元と山名宗全が東西に分かれて争い、京都を戦場として大きく荒廃させた。戦乱は全国に波及し、戦国時代の幕開けとなる。約11年間続いたこの戦いは、中央政権の権威を大きく失墜させた。 大徳寺三門事件 ―だいとくじさんもんじけん― 千利休が私財で再建した大徳寺三門に自身の木像を安置したとされる件。これが豊臣秀吉の怒りを買い、切腹の原因となったという説がある(異説も存在)。 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 6-3|一碗に集まる総合芸術 ~利休の創造~|第6回 茶の湯の隆盛|安土桃山時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第6回 茶の湯の隆盛 [3/3] ■ 安土桃山時代 (1573年―1603年) ❚ 茶の湯は芸術へと昇華する 茶の湯は、どうやって“総合芸術”へと昇華されたのでしょうか。 空間、道具、料理にいたるまで、そのすべてを統一した美学で包んだ人物がいます。 今回は、千利休が生んだ数々のアイデアとその革新性を見ていきましょう。 ❚ 利休による革新の数々 千利休は、今日の茶道に最も深い影響を与えた人物のひとりですが、茶道史における千利休の活動期間は、実のところごく限られた十数年にすぎません。 その多くは、五十代以降に織田信長、そして豊臣秀吉に仕えていた時期に集中しています。 しかし、この短い期間における千利休の貢献は計り知れず、 「建築物」「茶道具」「料理」 といった茶の湯を構成するあらゆる要素に革新をもたらしました。 ここでは、その代表的な三例を以下にご紹介します。 ❚ 利休の美 ■ 建 築 物 ❞ 茶の湯を「わび」の精神に徹したもっとも簡略な形へと昇華させるため、茶室の改革に取り組みました。天正十年(1582年)頃には二畳敷きという極小空間の茶室『待庵(現:国宝)*』を建築。 周囲を土壁で囲い茶室の入口に小さな躙口をつけるなど様々な工夫がされ、その工夫は今日の「茶室」にも多く取り入られています。 ❝ ■ 茶 道 具 ❞ 茶道具においても大きな変革をもたらしました。 『樂家初代/長次郎』に指導し、「樂茶碗*」を制作。 また、竹花入や日常道具を茶道具に見立てる「見立道具*」を考案し、それまでの唐物道具中心から、日本の風土に根ざした和物道具中心の茶へと導きました。 ❝ ■ 料 理 ❞ それまでの数多くの品数を一度に出す「本膳料理」に代わり、簡素で機能的な「一汁三菜*」を基本とする茶懐石を整えました。 これは亭主の心遣いを形にした「もてなし」の表現であり、茶の湯の精神に沿った料理形式として今日まで継承されています。 ❝ ❚ 茶の湯をプロデュース 千利休の発想は、単なる道具や空間の選択にとどまらず、「体験」そのものをどう構築するかという点において、極めて現代的なプロデュース感覚にあふれたものでした。 空間をしつらえ、道具を選び、もてなしを形にする。 千利休は、茶の湯を単なる作法や儀礼から「総合芸術」へと押し上げた総合プロデューサーでした。 次回は、その精神が受け継がれ、現代にどのように生きているのかを見つめていきましょう。 登場人物 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|天下三宗匠|茶道の大成者 織田信長 ……… 天下人|武将|1534年―1582年 豊臣秀吉 ……… 天下人|武将|関白|太閤|1536年―1598年 樂家初代/長次郎 ……… 千家十職|茶碗師|樂家初代|生年不詳―1739年 用語解説 0 ―― 0 ―― 千利休 ―せんのりきゅう― 1522年-1591年。安土桃山時代の茶人で、茶の湯を大成し、茶道の精神と形式を確立した人物です。武野紹鴎に学び、質素・簡素の中に美を見出す「わび」の思想を徹底。侘びた茶室や国産の道具を重んじ、茶を精神修養の道としました。織田信長・豊臣秀吉に仕えながら、茶の湯を武家文化の中核に高めた不世出の茶人です。天下三宗匠の一人。 待庵 ―たいあん― 京都・大山崎にある千利休作と伝わる茶室で、現存最古の茶室建築として国宝に指定されている。わずか二畳の空間に利休の侘びの精神が凝縮され、簡素でありながら深い趣を湛える。にじり口や下地窓など、利休好みの意匠が随所に見られ、茶の湯の理念を象徴する建築として高く評価されている。 長次郎 ―ちょうじろう― 生年不詳―1589。樂焼の創始者。千利休の指導のもとに侘茶にふさわしい茶碗を作り出した名陶工。朝鮮系の出自とされ、手捏ねによる独自の造形と黒釉・赤釉の深い味わいが特徴。樂茶碗は茶の湯に革新をもたらし、その精神は樂家により代々継承されている。茶陶の源流を築いた人物である。 樂茶碗 ―らくちゃわん― 安土桃山時代に長次郎が創始した手づくねによる茶碗で、千利休の侘茶の理念を体現する茶道具。釉薬の深みと手取りの柔らかさが特徴で、黒樂・赤樂が代表的。作行きに侘びの美学が宿り、茶の湯の世界で特別な位置を占める。代々樂家によって受け継がれ、現在も京都で制作が続けられている。 見立道具 ―みたてどうぐ― 本来の用途とは異なる道具を、茶の湯にふさわしい趣を見出して茶道具として用いること。千利休をはじめとする茶人たちが、日常の器や異国の品に美を見出し、茶碗・花入・蓋置などに見立てた。形式にとらわれず、趣向や遊び心を反映させることで、茶の湯に独自の風雅と創意をもたらした。 一汁三菜 ―いちじゅうさんさい― 日本の伝統的な食事構成で、ご飯に汁物一品、主菜一品、副菜二品を基本とする形式。栄養バランスに優れ、季節の食材を活かす点が特徴。禅宗の精進料理や懐石料理の基礎ともなっており、質素ながらも豊かな味わいと調和を重んじる日本の食文化を象徴している。 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 7-1|大名茶の終焉 ~後継者の役割~|第7回 茶道の飛躍|江戸時代 (前期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第7回 茶道の飛躍 [1/4] ■ 江戸時代 (1603年―1868年) |前期 ❚ 茶の湯は“たしなみ”へと変化する 茶の湯は、どうやって“武家のたしなみ”から飛躍を遂げたのでしょうか。 天下人の時代が終わり、武家の文化として新たなかたちをとっていく茶道。 今回は、大名茶の終焉とその後の広がりをたどります。 ❚ 政治から文化へ、役割の変化 江戸時代(1603年-1868年)を迎えると、天下は 徳川幕府* のもとで安定し、それまで政治と密接に結びついていた茶の湯の政治的役割は次第に薄れていくこととなります。 千利休の死後、その精神を受け継いだ以下の大名茶人たちが徳川将軍家の 「茶の湯指南*」 として活躍しました。 …………… 古田織部 ……… 大名|重然|1544年-1615年 |織部流開祖|利休七哲 小堀遠州 ……… 大名|政一| 1579年―1647年 |遠州流開祖 片桐石州 ……… 大名|貞昌| 1605年―1673年 | 石州流開祖 …………… しかし、特に文化的影響力の強かった 『小堀遠州*』 の死によって、「天下人の茶の湯」の時代は幕を閉じ、茶の湯は新たな段階へと進んでいきます。 ❚ 利休七哲と武家社会の茶 新たに茶の湯の維持、発展に大きな役割を果たしたのが 「利休七哲*」 と呼ばれる千利休の高弟であった武家大名たちでした。(※選定される人物については諸説あり) ❝ ・細川三斎 ……… 大名|忠興|1563年―1646年|三斎流開祖|利休七哲 ・芝山監物 ……… 武将|宗綱|生没年不詳|利休七哲 ・蒲生氏郷 ……… キリシタン大名|1556年―1595年|利休七哲 ・高山右近 ……… キリシタン大名|重友|1552年―1615年|利休七哲 ・古田織部 ……… 大名|重然|1544年-1615年|織部流開祖|利休七哲 ・瀬田掃部 ……… 武将|正忠|1548年―1595年|利休七哲 ・牧村兵部 ……… 大名|利貞|1546年―1593年|利休七哲 ❞ 江戸時代初期、 幕府もその体制を十分に成熟させておらず 、諸藩大名家も経済的、文化的に安定した人材を求めていた時期でした。 こうしたなか、 茶の湯 は単なる趣味を超えた「教養」「人脈」「政治」「経済」の橋渡しの手段として機能し、 諸藩大名家と豪商たちとの 間を結ぶ重要な媒介となっていくこととなります。 茶の湯は、これまでの天下人における「権威の象徴」から経済や人脈を結ぶ役割と変化していった。 ❚ 茶の湯の新たな広がりへ 「道」としての茶の湯は、武家社会において新たな機能を与えられながら独自の進化を遂げていきました。 教養と交わりの場としての茶の湯は、この後もさらに庶民層に広がりを見せていきます。 次回は、その民間への広がりと町人文化の中で育まれた茶の姿に迫ります。 登場人物 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|天下三宗匠|茶道の大成者 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 徳川幕府 ―とくがわばくふ― 1603年に徳川家康が開いた武家政権で、江戸を拠点に約260年間続いた。江戸幕府とも呼ばれ、幕藩体制を整備し、戦乱を収めて長期の平和「江戸時代」を築いた。厳格な身分制度や鎖国政策を敷く一方、文化・経済も発展。1867年の大政奉還により終焉し、明治維新へとつながる。 茶の湯指南役 ―ちゃのゆしなんやく― 将軍や大名に茶道を指導した茶人のこと。天下人の時代には、茶の湯が政治的威信を示す儀礼としても重視されていたため、指南役の地位は高かった。 小堀遠州 ―こぼり・えんしゅう― 1579年―1647年。江戸時代初期の大名・茶人・作庭家で、遠州流茶道の祖。美意識に優れ、「綺麗さび」と称される洗練された美の世界を確立した。将軍家の茶道指南役や作庭も手がけ、桂離宮や南禅寺金地院庭園などの名園を築いた。茶道・建築・造園において多大な功績を残した文化人である。 利休七哲 ―りきゅうしちてつ― 千利休に深く師事した七人の武将たちを指し、茶の湯の精神を学び広めた功績からそう呼ばれる。細川忠興、蒲生氏郷、織田有楽斎、高山右近、芝山監物、古田織部、牧村兵部がその代表。いずれも戦国時代を生きた名将であり、茶道の発展と武家文化への浸透に大きく貢献した。(選定される人物については諸説あり。) 0 ―― 0 ――
- 7-2|三千家の誕生 ~茶の湯が流儀となる~|第7回 茶道の飛躍|江戸時代 (前期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第7回 茶道の飛躍 [2/4] ■ 江戸時代 (1603年―1868年) |前期 ❚ 茶の湯は“流儀”として定着した 茶の湯は、どのようにして“流儀”となったのでしょうか。 利休の精神を受け継ぎながら、時代の変化に応えた新たなかたち。 今回は、町人の台頭とともに確立された「三千家」の誕生をたどります。 ❚ 三千家の成立と流儀化の始まり 江戸時代(1603年-1868年)初期の茶の湯は、主に大名や豪商など一部の限られた階層に親しまれていました。 しかし時代が進むにつれて町人階級が経済的に台頭し、茶の湯の在り方にも変化が求められるようになります。 この時代に生まれた新たな広がりを迎え入れたのが、町方の出自でもあった 「三千家*」 と呼ばれる千利休の直系の子孫たちによって形成された3つの流派でした。 三千家は茶の湯の “流儀化”を通じて茶道の体系化と普及に大きな役割を果たします。 ❚ 宗旦と三人の子が築いた流派 千利休の死後、その息子である 『千家二代/千少庵*』 は、豊臣秀吉より千家の再興を許され、京都・本法寺門前の屋敷に「不審庵」「残月亭」などの茶室を建て、千利休の茶の湯を守り伝えていきました。 その後、 千家二代/千少庵 の子 『千家三代/千宗旦*』 は、当初『春屋宗園』のもとで禅僧として修業してていましたが千利休没後の文禄年間(1592年―1596年)の頃に千家に戻り「茶人」としての道を歩みはじめます。 この 千家三代/千宗旦 の三人の息子たちが、それぞれ異なる流派を形成し、今日においても茶道の主要流派である「三千家」が誕生することとなります。 ❞ 三男の『江岑宗左』が表千家を創始 四男の『仙叟宗室』が裏千家を創始 次男の『一翁宗守』が武者小路千家を創始 ❝ 特に表千家四代/江岑宗左は父の千家三代/千宗旦から千利休の「点前」「作法」「道具」「茶室」などの心得を受け継ぎ、多くの聞書を書き遺しました。 その中でも 「江岑夏書*」 は今日まで伝わる千家茶道の基本を伝える重要な文献として知られています。 また三千家の子息たちはそれぞれが以下の大名家へ仕官し、 「茶頭*」 として地位を得たことで大名家との関係を強化し流儀としての地位を確立していきました。 ❝ 三男の『江岑 宗左』は紀州「徳川家」 四男の『仙叟宗室』は加賀「前田家」 次男の『一翁 宗守』は高松「松平家」 ❞ ❚ 茶の湯は町人文化の中へ広がる こうして三千家の流儀化が確立されたことにより、茶道は武家から町人階級へと広がり、今日まで続く日本の伝統文化としての茶道の基礎が築かれたのです。 流儀として体系化されたことで、茶の湯はより多くの人々に親しまれる存在となりました。 その広がりは江戸という都市文化の中でさらに根づき、深まりを見せていきます。 次回は、町人文化とともに育った茶道の風景に焦点を当ててまいります。 登場人物 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|天下三宗匠|茶道の大成者 千家二代/千少庵 ……… 千家二代|宗淳|1546年―1614年 豊臣秀吉 ……… 天下人|武将|関白|太閤|1536年―1598年 千家三代/千宗旦 ……… 千家三代|咄々斎|元伯宗旦|わび宗旦|1578年―1658年 春屋宗園 ……… 大徳寺百十一世|1529年―1611年 表千家四代/江岑宗左 ……… 表千家四代 (開祖)|逢源斎|1613年―1672年|千宗旦の三男 裏千家四代/仙叟宗室 ……… 裏千家四代 (開祖)|臘月庵|1622年―1697年|千宗旦の四男 武者小路千家四代/一翁宗守 ……… 武者小路千家四代 (開祖)|似休齋|1605年―1676年|千宗旦の次男 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 三千家 ―さんせんけ― 千利休の曾孫にあたる三人の兄弟が創設した三つの千家流派(表千家・裏千家・武者小路千家)の総称。江戸中期以降、町人層に広がる茶の湯を体系化し、作法や点前に違いはあるが、侘びの理念を共通に持ち、日本の茶道文化の中心的存在となっている。 千少庵 ―せんしょうあん― 1546年―1614年。千利休の嫡男で、千家二代を継いだ茶人。父の千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられた後、一時出家・隠棲するが、のちに茶の湯の復興を託され再び表舞台へ。利休の侘び茶を受け継ぎつつも、穏やかな風雅を加えた作風を特徴とする。後に三千家の基盤を築いた重要な存在である。 不審庵 ―ふしんあん― 京都・表千家に伝わる茶室で、千宗旦が再興した千利休ゆかりの草庵風茶室。簡素で幽玄な造りが特徴で、利休の侘びの精神を今に伝える空間として知られる。にじり口や躙口床の間など、茶の湯の理念を体現した設えが随所に見られ、表千家の象徴的茶室として大切に受け継がれている。 残月亭 ―ざんげつてい― 京都市上京区の表千家にある書院造の茶室で、千利休が聚楽第に設けた「色付九間書院」を、子の少庵が再現したものと伝えられています。 この茶室は、上段二畳、付書院、化粧屋根裏を備え、書院造の格式と数寄屋風の柔らかさを融合させた構成が特徴です。 名称は、豊臣秀吉が上段の柱(太閤柱)にもたれ、突上窓から残月を眺めた逸話に由来します。 千宗旦 ―せんそうたん― 1578年―1658年。千利休の孫で千家三代を継いだ茶人。利休の侘び茶をさらに深化させ、「宗旦流」とも称される簡素で幽玄な茶風を確立。京都に隠棲しつつも多くの弟子を育て、後の表千家・裏千家・武者小路千家の三千家の礎を築いた。質素の中に美を見出す茶の湯の精神を体現した人物である。 江岑夏書 ―こうしんげがき― 『表千家四代/江岑宗左』自筆の茶書(上下二巻)。千家の茶の湯の伝承や利休の事績をまとめた記録。利休や少庵、宗旦に関する逸話、道具、作法などが記され、千家茶道の基礎資料として重視されている。寛文二年(1662)から翌年七月にかけて、とくに『夏安居 (陰暦の四月十六日から七月十五日まで僧がこもって修行をする期間)』に記されたため「夏書」と呼ばれる。 茶頭 ―ちゃがしら― 主に戦国時代から江戸時代にかけて、大名や将軍家に仕え、茶の湯を取り仕切った役職・職掌です。茶会の企画や道具の選定、献茶や接待などを担い、文化的教養と実務能力が求められました。千利休や今井宗久、津田宗及なども茶頭として仕え、茶の湯を武家儀礼や政治の場に取り入れる重要な役割を果たしました。 0 ――
- 7-3|宮中茶道 ~再興された精神と様式~|第7回 茶道の飛躍|江戸時代 (前期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第7回 茶道の飛躍 [3/4] ■ 江戸時代 (1603年―1868年) |前期 ❚茶の湯は“宮中”に息を吹き返した 茶の湯は、いつから再び“禁中”に息を吹き返したのでしょうか。 遊宴から茶室へ――。 精神性を深めた新たな宮中茶道のかたち。 今回は、後水尾天皇と後西天皇を中心に、宮中茶の復活の歩みをたどります。 ❚宮中茶道の復活とその背景 安土桃山時代(1573年–1603年)、豊臣秀吉によって宮中に茶の湯が持ち込まれ、一時的に盛んにはなりましたが、その後は定着せず、しばらく沈静化することとなりました。 しかし江戸時代に入り、再び「宮中茶道」の流れが生まれはじめます。 京都・金閣寺(鹿苑寺)の「鳳林承章」が記した日記 『隔瞑記*』 によれば、後水尾天皇の弟である「近衛信尋」をはじめ、公家や門跡、近臣たちが参加した 「口切茶会*」 のようすが描かれています。 書院での正式な食事にはじまり、茶屋での茶会、さらにその後の遊宴に至るまで、宮中における茶の湯の一日が詳細に記録されています。 ❚精神性への転換と後継者の姿勢 後水尾天皇の子である「後西天皇」もまた、幼少より茶の湯を学び、父と同様に遊宴をともなった茶会を催していました。 しかし、譲位し上皇となってからは、次第に茶の湯の精神性を重視するようになり、遊宴を排し、三畳台目の簡素な茶室のみで茶会を行うようになります。 さらに自らの好みに応じて 「野上焼*」 などの焼物を焼かせ、それを自身の茶会に用いるなど、従来の格式的な 「禁中茶会*」 とは異なる新たな茶道の姿を築いていきました。 ❚宮中に根づいた茶の湯の精神 このような宮中茶道の再興は、後に「近衞家熈」によって受け継がれ、ついには 「御流儀*」 として流儀化されることになります。 この動きは、武家や町人社会だけでなく、公家社会においても茶の湯が文化的・精神的営みとして深く根づいていったことを示しています。 禁中における茶の湯は、再び“儀礼”を超え、静かな精神修養の道としての姿を見せはじめます。 その動きはやがて「流儀」となり、近代における茶道の基礎ともなる美意識を育んでいきました。 次回は、この時代の町人文化の中で育まれた、もうひとつの茶道の展開に迫ります。 登場人物 鳳林承章 ……… 鹿苑寺(金閣寺)住持|相国寺第九十五世|1593年―1668年 後水尾天皇 ……… 第百八代天皇|1596年―1680年 近衛信尋 ……… 公卿|五摂家|近衛家十九代当主|1599年―1649年|後水尾天皇の弟 後西天皇 ……… 第百十一代天皇|1638年―1685年|後水尾天皇の第八皇子 近衞家熈 ……… 公卿|五摂家|近衛家二十二代当主|1667年―1739年 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 隔蓂記 ―かくめいき― 江戸時代初期の臨済宗僧・鳳林承章が記した日記で、寛永年間を中心に約40年にわたる朝廷・幕府・寺社の出来事を詳細に記録している。後水尾天皇との親交も深く、宮中の動向や文化的風俗が綴られており、当時の政治・宗教・文化を知る第一級の史料として高く評価されている。 口切茶会 ―くちきりちゃかい― 新茶を詰めた茶壺の封を切り、その年の茶を初めて使う儀式的な茶会。毎年11月頃に行われ、茶人にとっては新年の始まりともいえる重要な行事。千家では特に重んじられ、由緒ある茶壺と厳かな作法のもとに進行される。茶の湯の歳時記を彩る風雅な行事として、今も継承されている。江戸時代には宮中や大名家でも盛んに行われた。 野上焼 ―のがみやき― 後西天皇が好んだとされる陶器。高取焼の技術に影響を受け、宮中の茶会に用いられたことから注目を集めた。江戸時代に後西天皇の御所内で焼かれたと伝わる御庭焼の一種で、素朴で優雅な風合いが特徴。宮廷趣味を映す希少な茶陶として知られる。 宮中茶会 ―きゅうちゅうちゃかい― 天皇や皇族が主催または列席する格式高い茶会で、古くは禁中茶会とも呼ばれた。一時衰退するが特に後水尾天皇の時代に盛んとなり、千宗旦ら名茶人が招かれた。宮中の儀礼と茶の湯が融合したこの茶会は、文化的象徴としての茶道の地位を高め、雅な風格と高尚な趣を今に伝えている。 御流儀流 ―おりゅうぎ― 江戸時代に宮中で伝承された茶の湯の作法で、後水尾天皇や後西天皇ら歴代天皇の美意識や教養を背景に形成された。表千家や遠州流などの影響を受けつつも、独自の優雅さと格式を持ち、御所風の洗練された点前が特徴。雅な宮廷文化を反映した、由緒ある茶道の一系統である。 0 ―― 0 ――


















