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- 10-4|利休七哲|第10回 ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第10回 ゆかりの人々 ■ 利休七哲 ❚ 利休七哲とは 利休七哲とは、 千利休* に深く師事し、その茶の湯の精神を学んだ七人の大名・武将を指す呼称です。 彼らは、茶の湯の理念を武家社会に浸透させた功績を持ち、後世の茶道史において特に重要な存在とされています。 なお、利休七哲という名称は利休の存命中に用いられていたものではなく、後世の茶書や記録によって整理された歴史的概念です。 この名称の初見は 松屋久重* が編纂した 『茶道四祖伝書**』 において「七人衆」として「蒲生氏郷」「細川忠興」「芝山監物」「高山南坊」「牧村兵部」「古田織部」「前田利長」、の名が挙げられたことに遡ります。 さらに、寛文三年(1663年) 表千家四代/江岑宗左 * によって記された 『江岑夏書**』 では、「利休弟子七人衆」として、「前田利長」に代わり「瀬田掃部」が加えられました。 その後の茶書では、「有馬豊氏」や「金森長近」などが名を連ねることもありますが、一貫して「蒲生氏郷」と「細川忠興」の二人は常に含まれています。 今日の一般的な認識では『江岑夏書』に記された以下の七人が「利休七哲」として広く知られています。 蒲生氏郷 細川忠興 (三斎) 芝山宗綱 (監物) 高山南坊 (右近) 牧村利貞 (兵部) 古田重然 (織部) 瀬田掃部 これらの人物は、単なる利休の弟子という枠を超え、いずれも政治・軍事・文化の各方面で大きな足跡を残しています。 彼らの存在によって、茶の湯は戦国から江戸初期の武家社会に深く根を下ろし、茶道の発展に重要な役割を果たしました。 以下では、「利休七哲」と称されるこれら七人の武将たちについて個別にご紹介します。 ※なお、「蒲生氏郷」「細川忠興」「芝山監物」については、前項「利休三門衆」にて解説しています。 ❚ 高山南坊 (右近) 読 み : たかやま・みなみのぼう (うこん) 生 年 : 職 位 : 。 ❚ 牧村利貞 (兵部) 読 み : まきむら・としさだ (ひょうぶ) 生 年 : 職 位 : 。 ❚ 古田重然 (織部) 読 み : ふるた・しげなり (おりべ) 生 年 : 天文十二年(1543年)-慶長二十年(1615年)六月十一日|七十三歳。 職 位 : 武将|織部流開祖 戦国時代後期から江戸時代初期にかけての武将。 千利休の弟子として利休七哲に数えられ、千利休が豊臣秀吉の怒りをかい、堺に 蟄居** を命じられた際、豊臣秀吉の権威を恐れず細川忠興と共に淀の船着場まで見送りに行っている。 千利休亡きあとは、 織部流** の武家茶道を確立し、茶の湯名人として天下の茶人になり、またその作意は織部好みとよばれ、茶室に興福寺 「八窓庵**」 、藪内家 「燕庵**」 などがあり、 織部焼** 、織部灯籠などにその名をとどめている。 ❚ 瀬田正忠 (掃部) 読 み : せた・まさただ (かもん) 生 年 : 天文十七年(1548年)-文禄四年(1595年)八月十日|四十八歳 職 位 : 武将 戦国時代の武将で、 豊臣秀吉* に仕える。通称清右衛門。 官位に由来する「瀬田掃部」という名で知られる。茶人であり、千利休の高弟。 また茶杓削りの名手で、多くの茶杓が今日まで伝えられている。 文禄四年(1595年)に、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられた 豊臣秀次* と共に処刑される。 ❚ △前田利長 読 み : まえだ・としなが 生 年 : 永禄五年(1562年)一月十二日-慶長十九年(1614年)五月二十日|五十三歳 職 位 : 武将 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、初代加賀藩主。 父と共に 織田信長* に仕え、その後豊臣秀吉に仕える。 文禄二年(1593年)十月、前田利長の邸宅にて茶会を開き、 徳川家康* を招く。 ❚ △有馬豊氏 読 み : ありま・とよじ 生 年 : 永禄十二年(1569年)五月三日-寛永十九年(1642年)九月三十日|七十四歳 職 位 : 武将 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、初めは豊臣秀吉に仕える。 秀吉の死後、徳川家康に仕え家康の養女・ 連姫* を妻とする。 茶人としても有名で、千利休の高弟であり利休七哲の一人で徳川家康から燕脂屋肩衝の茶入を贈られている。 ❚ △金森長近 読 み : かなもり・ながちか 生 年 : 大永四年(1524年)-慶長十三年(1608年)八月十二日 職 位 : 茶人 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、茶人。 織田家に仕官して織田信長に仕え、その後、豊臣秀吉に仕える。 千利休や古田織部らに茶の湯をならい、茶の道においては孫の 金森宗和* によって金森家の茶道は大成を成し遂げます。 ❚ 利休の高弟一覧 利休三門衆 利休七哲 利休十哲 蒲生氏郷 〇 〇 〇 細川忠興 (三斎) 〇 〇 〇 芝山宗綱 (監物) 〇 〇 〇 高山南坊 (右近) 〇 〇 牧村利貞 (兵部) 〇 〇 古田重然 (織部) 〇 〇 瀬田掃部 〇 〇 前田利長 △ 有馬豊氏 △ 金森長近 △ 織田長益 (有楽斎) 〇 千紹安 (道安) 〇 荒木村重 (道薫) 〇 ❚ 門弟たちが支えた利休の茶の湯 利休七哲は、後世の文献によって体系化された利休門下の精鋭たちです。 彼らの存在を通じて、茶の湯は武家の精神文化としても成熟を遂げていきました。 千利休の教えが一時的な流行に終わることなく、時代を超えて受け継がれる道となったのは、こうした優れた門弟たちの力があってこそと言えるでしょう。 ❚ 次回は・・・ 次回の「10-5|利休十哲|10.利休ゆかりの人々」では、利休の門弟の中でも特に重視された10人とその経歴や利休との関係を深く掘り下げ、どのように茶の湯の発展に寄与したかをご紹介します。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 松屋久重|まつや・ひさしげ ……… 年 江岑宗左|こうしん・そうさ ……… 年 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 豊臣秀次|とよとみ・ひでつぐ ……… 年 織田信長|おだ・のぶなが ……… 年 徳川家康|とくがわ・いえやす ……… 年 連姫|れんひめ ……… 年 金森宗和|かなもり・そうわ ……… 年 用語解説 茶道四祖伝書|さどうしそでんしょ ……… 松屋久重によって編まれた利休、織部、三斎、遠州の四大茶人の記録書。 江岑夏書|こうしんげがき ……… 1663年、父・千宗旦から聞いた話を表千家四代/江岑宗左が書き留めた聞書。 蟄居|ちっきょ ……… 。 織部流|おりべりゅう ……… 。 八窓庵|はっそうあん ……… 。 燕庵|えんなん ……… 。 織部焼|おりべやき ……… 。
- 10-5|利休十哲|第10回 ゆかりの人々|千宗易利休|抛筌斎
全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第10回 ゆかりの人々 ■ 利休十哲 ❚ 利休十哲とは 利休十哲とは、 千利休* に師事した武将や茶人のうち、特に深く関わったとされる十人を指す呼称で、寛政年間(1789年~1801年)にまとめられた 『古今茶人系譜**』 にその名が初めて見られます。 利休十哲は、前項にて紹介した 利休七哲** の七人に、新しく三名の高弟を加えた十名の構成となっています。 以下では、追加された三名についてご紹介します。 ❚ 織田長益 (有楽斎) 読 み : おだ・ながます (うらくさい) 生 年 : 天文十六年(1547年)-元和七年(1621年)十二月十三日|七十五歳 職 位 : 織田信長* の弟|茶人 織田信長の十三歳年下の弟であり、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。 千利休に茶道を学び、利休七哲(十哲とも)の一人で、本能寺の変の後、剃髪して有楽斎と称し茶道 「有楽流*」 を創始。 京都・建仁寺の正伝院に 茶室「如庵(国宝)**」 を建てる。 如庵は現在、愛知県犬山市の有楽苑に移されています。 ❚ 千紹安 (道安) 読 み : せん・しょうあん (どうあん) 生 年 : 天文十五年(1546年)-慶長十二年(1607年)二月十七日|六十二歳 職 位 : 千利休の長男|茶人 千利休の長男で、安土桃山時代から江戸前期の茶人。 父・利休とともに 茶頭** として 豊臣秀吉* に仕える。 利休の死後は、京都を離れるが文禄三年(1594年)に 徳川家康* や 前田利家* の計らいにより堺に戻ったのち 「堺千家**」 を再興。 しかし、道安には跡継ぎがなく、道安の死去と共にこの堺千家は断絶する。 ❚ 荒木村重 (道薫) 読 み : あらき・むらしげ (どうくん) 生 年 : 天文四年(1535年)-天正十四年(1586年)五月四日|五十二歳 職 位 : 茶人 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、茶人。 初めは池田氏、さらに三好氏に属し、天正一年(1573年)に織田信長に仕える。 織田信長の死後は、茶の道で豊臣秀吉に仕え、そこで茶人「道薫」として復帰。 ❚ 利休の高弟一覧 利休三門衆 利休七哲 利休十哲 蒲生氏郷 〇 〇 〇 細川忠興 (三斎) 〇 〇 〇 芝山宗綱 (監物) 〇 〇 〇 高山南坊 (右近) 〇 〇 牧村利貞 (兵部) 〇 〇 古田重然 (織部) 〇 〇 瀬田掃部 〇 〇 前田利長 △ 有馬豊氏 △ 金森長近 △ 織田長益 (有楽斎) 〇 千紹安 (道安) 〇 荒木村重 (道薫) 〇 ❚ 利休十哲の意義とその影響 利休十哲とは、千利休の教えを受け、その精神をそれぞれの立場で体現した武将や茶人たちの代表的存在です。 武力と美、政治と精神性が交錯した戦国の世において、利休の茶の湯は彼らの生き方に深く影響を与え、のちの茶道文化の発展にも大きな役割を果たしました。 とりわけ追加された三名は、利休との深い関わりだけでなく、それぞれの人生の背景がいかに茶の湯と結びついたかを知るうえでも、非常に重要な存在と言えるでしょう。 ❚ 次回は・・・ 次回の「利休年表|千利休」では、これまで学んできた千利休の生涯を年表形式で整理し、時代ごとの出来事や転機を追いながら、千利休の全体像をご紹介していきます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 織田信長|おだ・のぶなが ……… 年 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 徳川家康|とくがわ・いえやす ……… 年 前田利家|まえだ・としいえ ……… 年 用語解説 古今茶人系譜|ここんちゃじんけいふ ……… 。 利休七哲|りきゅうしちてつ ……… 。 有楽流|うらくりゅう ……… 織田有楽斎が創始した茶の流派。 如庵|じょあん ……… 織田有楽斎が建てた茶室。国宝。 茶頭|ちゃがしら ……… 。 堺千家|さかいせんけ ……… 千家の内、千紹安 (道安)による一系。その後断絶。
- 9-3|黄金の茶室|第9回 利休の茶室|千宗易利休|抛筌斎
全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第9回 利休の茶室 ■ 黄金の茶室 ❚ 利休の葛藤 「黄金の茶室」とは 豊臣秀吉* が自身の権勢を象徴するために設計を命じた極めて豪奢な組立式茶室です。 平三畳の間取りで構成され、解体・搬送が可能な構造を持ち、天正十四年(1586年)には御所に運ばれ、 百六代天皇/正親町天皇* に披露された記録が残っています。 この豪華な茶室の存在は、 「わび茶**」 を極めた 千利休* の美学とは対極にあるものであるが、当時の利休がこの設計に関与していなかったとは考えられず、利休の葛藤が伺える。 しかし一方で茶の湯における「美」の多様性を象徴する存在とも言えます。 ❚ 秀吉と黄金の茶室 豊臣秀吉は茶の湯を政治の手段として巧みに用いた人物であり、「黄金の茶室」はその象徴的事例とされています。 百六代天皇/正親町天皇への参内に際して黄金の茶室を携えて臨んだという逸話からも、豊臣秀吉がいかに茶を外交・権威の演出に利用したかがうかがえます。 この華美な空間は、豊臣秀吉の――権力の美――を象徴する一方で、―― わび・さび** ――を重視する利休の茶とは明らかに異なる方向性を持っていました。 ❚ 利休と黄金の茶室 黄金に輝く茶室は、できる限り無駄を排し、簡素な美を追求する利休の「わび茶」の精神とは、根本的に相容れないものでした。 利休の茶の湯は、華美を排除し、徹底した簡素と精神性を重んじたものであり、黄金に彩られた茶室の設計に関与することには、大きな葛藤があったと推察されます。 設計への関与を示す明確な史料は残されていませんが、当時の状況から見て、豊臣秀吉の命による茶室の設計に利休が全く関わらなかったとは考えにくく、何らかの形で携わっていた可能性が高いとされています。 この「黄金の茶室」は、秀吉が志向した――華麗なる茶の湯――と、利休が追求した――わび茶――との間にある美意識の大きな隔たりを象徴する存在となりました。 その価値観の違いは、両者の関係に次第に影を落とし、最終的には利休の死に至る背景の一端をなしたと考えられています。 ❚ 黄金の茶室の再現 黄金の茶室はその後、歴史の中で失われましたが、以下のように近年になっていくつかの再現が試みられています。 ■ 名古屋城 (名古屋市) ―― 1993年:名古屋城本丸御殿の復元プロジェクトの一環として再現 ■ 大阪城 (大阪市) ―― 2011年:大阪城天守閣に再現モデルを展示 ■ MOA美術館 (静岡県熱海市)―― 2015年:桃山時代の技法を用いて復元 いずれも史料をもとに可能な限り当時の姿を再現したものとされ、今日においても黄金の茶室の存在感と歴史的意義を伝えています。 ❚ 美の追求と対立 黄金の茶室は、豊臣秀吉が茶の湯を政治的手段として用い、――権力と美の融合――を体現した象徴的な空間とされていますが、現存はしておらず、記録のみにその姿を残しています。 その豪奢な設えは、利休が追求した「わび茶」の簡素で静謐な美とは根本的に相容れず、両者の間に明確な美意識の対立を生じさせました。 当時においては、こうした価値観の違いが融和することはなく、むしろ対立として現れ、利休の死にも影を落とした要因の一つとされています。 今日では、この美意識の対立が、結果として茶の湯に多様な価値をもたらし、日本文化の幅広い美の在り方を示す一端であったと考えることができるのではないでしょうか。 ❚ 次回は・・・ 次回の「10-1|利休の師|10.利休ゆかりの人々」では、千利休に茶の湯の基礎を伝えた師たち――に焦点を当て、彼らの教えがどのように利休の茶風の形成に影響を与えたのかを探っていきます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 正親町天皇 ……… 。 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 用語解説 わび茶 ……… 。 わび・さび|わび・さび ……… 。
- 9-2|国宝「待庵」|第9回 利休の茶室|千宗易利休|抛筌斎
全10回 抛筌斎 千宗易 利休 ■ 第9回 利休の茶室 ■ 国宝 「待庵」 ❚ 待庵 国宝** 茶室「待庵」とは京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院 「妙喜庵**」 内にのこる日本最古の茶室です。 この茶室「待庵」は 千利休* が携わったことが確実にわかる唯一の遺構であり、昭和二十六年(1951年)、国宝に指定された貴重な文化財です。 この茶室は、 「躙り口**」 を備えた「二畳 隅炉** の 小間席** 」であり、現代の―― 草庵茶室**―― の原型ともいえる重要な建築です。 華美な装飾を排し、最小限の空間で最大限の精神的価値を引き出すという利休の思想が、建築の隅々にまで反映されています。 ❚ 待庵のあゆみ 天正十年(1582年)、天下分け目の合戦といわれる 『天王山(山崎)の合戦**』 の後、 豊臣秀吉* は山崎の天王山に築城を開始し、その際に利休を招いて、城下に「二畳隅炉」の茶室を建てさせたと伝えられています。 その後、慶長年代(1596年-1615年)頃に解体し、「妙喜庵」に移築されたとされています。 また慶長十一年(1606年)に描かれた 『宝積寺絵図**』 には、今日の「待庵」の位置に囲いの書き込みがあり、この頃にはすでに現在地に移築されていた可能性が高いとされています。 さらに同図には「妙喜庵」の西方、現在の島本町の 山崎宗鑑* 旧居跡付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の記載も見られます。 このことから一時期、利休がこの付近に住んでいた可能性があり、「待庵」が利休屋敷から移築された可能性も考えられますが詳細は不明とされています。 ❚ 寺号「妙喜庵」 「妙喜庵」の寺号は、中国宋代の 臨済宗** 僧/ 大慧宗杲* の庵号『妙喜』に由来するとされ、さらにこの地には連歌の祖と される山崎宗鑑が 住んでいたとの説がある。 ただし山崎宗鑑の旧居は大阪府三島郡島本町にある 関大明神社** 前が有力とされ、その詳細は不明。 ❚ 茶室は日本の宝 「待庵」は日本国内において国宝に指定されている三つの茶室の内の一室で、以下の二室とともに、日本の茶室建築の歴史において極めて重要な存在です。 ■ 如庵 ――― 愛知県犬山市・有楽苑** 昭和十一年(1936年)に重要文化財(旧国宝)に認定。 織田信 長* の弟: 織田有楽斎* が建てたとされる二畳半 台目** の茶室。 ■ 密庵 ――― 京都府・大徳寺**/龍光院** 昭和三十六年(1961年)に龍光院書院全体として国宝に指定。 遠 州流** 開祖/ 小堀遠州* ゆかりの四畳半台目の茶室。 ❚ 茶室のはじまり 「待庵」は、日本における「小間席茶室」の原型であり、現代の茶室に見られる「躙り口」構造の起源ともされています。 その設計思想は、後の 数寄屋建築** の基盤となり、日本建築全体にも多大な影響を与えました。 利休が追求した「わび茶」の精神が最も純粋に表現された茶室として知られ、簡素で機能的な構成や、限られた空間を活かす巧みな工夫が随所に見られます。 「待庵」は、単なる茶室を超えて、日本の美意識と精神文化を象徴する建築として位置づけられ、茶道史・建築史の両面において極めて重要な存在となっています。 ❚ 次回は・・・ 次回の「9-3|黄金の茶室|09.利休の茶室」では、秀吉の権力を象徴する「黄金の茶室」と利休の関わりを通じて、利休の思想との対比を読み解きます。 登場人物 千利休|せん・りきゅう ……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし ……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年 山崎宗鑑|やまざき・そうかん ……… 。 大慧宗杲|だいえ・そうこう ……… 。 織田信長|おだ・のぶなが ……… 。 織田有楽斎|おだうらくさい ……… 。 小堀遠州|こぼりえんしゅう ……… 。 用語解説 国宝|こくほう ……… 。 妙喜庵|みょうきあん ……… 京都・大山崎にある臨済宗の寺院。待庵を所蔵。 躙り口|にじりぐち ……… 客がかがんで茶室に入るための小さな出入口。 隅炉|すみろ ……… 茶室の隅に設けられた炉。省スペースかつ効果的な設計。 草庵茶室|そうあんちゃしつ ……… 利休が確立した簡素・静謐を旨とする小規模な茶室様式。 小間席|こませき ……… 二畳や三畳台目など、狭小空間の茶室。草庵茶室の基本形。 山崎の合戦|やまざきのかっせん ……… 。 宝積寺絵図|ほうしゃくじえず ……… 。 関大明神社|せきだいみょうじんしゃ ……… 。 臨済宗|りんざいしゅう ……… 。 有楽苑|うらくえん ……… 。 台目|だいめ ……… 。 大徳寺|だいとくじ ……… 。 龍光院|りゅうこういん ……… 。 遠州流|えんんしゅうりゅう ……… 。 数寄屋建築|すきやけんちく ……… 茶室に代表される、意匠性と機能性を兼ねた建築様式。
- 3-7|武者小路千家年表|武者小路千家|官休庵|三千家
三千家 ■ 武者小路千家|官休庵 ■ 武者小路千家|年表 ❚ 武者小路千家|年表 1605年 (慶長十年) 武者小路千家四代/似休斎一翁宗守 生まれる★ 1658年 (明暦四年) 武者小路千家五代/許由斎文叔宗守 生まれる★ 1676年 (延宝四年) 武者小路千家四代/似休斎一翁宗守 死去▼ 1693年 (元禄六年) 武者小路千家六代/静々斎真伯宗守 生まれる★ 1708年 (宝永五年) 武者小路千家五代/許由斎文叔宗守 死去▼ 1725年 (享保十年) 武者小路千家七代/直斎堅叟宗守 生まれる★ 1745年 (延享二年) 武者小路千家六代/静々斎真伯宗守 死去▼ 1763年 (宝暦十三年) 武者小路千家八代/一啜斎休翁宗守 生まれる★ 1772年 (安永元年) 官休庵が火災で焼失 1782年 (天明二年) 武者小路千家七代/直斎堅叟宗守 死去▼ 1788年 (天明八年) 天明の大火により茶室「一方庵」を焼失 1795年 (寛政七年) 武者小路千家九代/好々斎仁翁宗守 生まれる★ 1830年 (文政十三年) 武者小路千家十代/以心斎全道宗守 生まれる★ 1835年 (天保六年) 武者小路千家九代/好々斎仁翁宗守 死去▼ 1838年 (天保九年) 武者小路千家八代/一啜斎休翁宗守 死去▼ 1848年 (嘉永元年) 武者小路千家十一代/一指斎一叟宗守 生まれる★ 1881年 (明治十四年) 祖堂「濤々軒」を創建 1889年 (明治二十二年) 武者小路千家十二代/愈好斎聴松宗守 生まれる★ 1891年 (明治二十四年) 武者小路千家十代/以心斎全道宗守 死去▼ 1898年 (明治三十一年) 武者小路千家十一代/一指斎一叟宗守 死去▼ 1913年 (大正二年) 武者小路千家十三代/有隣斎徳翁宗守 生まれる★ 1926年 (大正十五年) 官休庵を改築 1940年 (昭和十五年) 利休居士三百五十年忌に際し、弘道庵を再興 1945年 (昭和二十年) 武者小路千家十四代/不徹斎宗守生まれる★ 1953年 (昭和二十八年) 武者小路千家十二代/愈好斎聴松宗守 死去▼ 1964年 (昭和三十九年) わが国最初の茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校 1974年 (昭和四十九年) 武者小路千家十四代/不徹斎宗守 後嗣号「宗屋」を襲名 1965年 (昭和四十年) 「公益財団法人 官休庵」を設立 1975年 (昭和五十年) 武者小路千家十五代/随縁斎宗屋 生まれる★ 1989年 (平成元年) 十月 武者小路千家十四代/不徹斎宗守 「不徹斎」の斎号を大徳寺五百二十世/福富雪底より授与 十二月 武者小路千家十四代/不徹斎宗守襲名▲ 1993年 (平成五年) 数寄屋茶室「起風軒」創建 2005年 (平成十七年) 茶室「仰文閣」創建 1999年 (平成十一年) 武者小路千家十三代/有隣斎徳翁宗守 死去▼ 2003年 (平成十五年) 四月 武者小路千家十五代/随縁斎宗屋 後嗣号「宗屋」を襲名 六月 武者小路千家十五代/随縁斎宗屋 「随縁斎」の斎号を大徳寺五百二十世/福富雪底より授与 2007年 (平成十九年) 武者小路千家十五代/随縁斎宗屋 茶机「天遊卓」を好む 2008年 (平成二十年) 一月 武者小路千家十五代/随縁斎宗屋 「京都文化奨励賞」を授賞
- 8-1|中川家とは|中川浄益|中川家|金物師|千家十職|
千家十職 ■ 中川家|中川浄益|金物師 ■ 中川家とは ❚ 中川家とは 中川家~なかがわけ~とは、千家十職の内の一家で金工~きんこう~を業とする職家。 中川家の金工品は、茶の湯の厳格な作法に適応しつつ、細部まで緻密な技術と洗練された意匠が施されているのが特徴です。鉄、銅、銀などの金属を用いた造形美と、使い込むほどに味わいを増す仕上げが、千家の茶道具としての品格を支えています。特に、金属の質感を生かした独特の風合いや、伝統的な技法を駆使した彫金・鍛金の技術は高く評価されています。 中川家は、茶の湯の発展とともに技術を磨き、千家好みの金工茶道具を代々にわたり制作してきました。その作品は、時代の変遷を経ながらも、伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在となっています。 ❚ 中川家のあゆみ 中川家の先祖は、越後高田佐味郷に居住し、当初は「甲冑」や「鎧」などを制作していたとされ、戦国の世を経て、茶の湯が武士や町人の間に広まる時代になると、金属工芸の技を茶道具制作に活かし始めたと伝えられます。 中川家初代/中川浄益は、茶道具制作を手掛けるようになり、「紹益~しょうえき~」と号しました。 その後の中川家では、二代目以降の当主が「浄益~じょうえき~」の名を襲名し、以後は千家に仕える金物師としての系譜を確立します。 中川家は「錺師~かざりし~」とも呼ばれ、槌で打ち出す「槌物~うちもの~」や、鋳造による「鋳物~いもの~」などの精緻な金工技術を代々受け継いできました。 江戸時代(1603-1868)以降は、三千家御用達の金物師として茶の湯の世界に欠かせない存在となり、わびの風合いと実用性を兼ね備えた茶道具を制作。代々の浄益は、時代の美意識を映しつつ、千家好みの金工茶道具を生み出しています。 現在も中川家は、長年培われた伝統の技法を守りながら、現代の感性を取り入れた茶道具を制作しています。 四百年以上にわたり、茶の湯の精神を支える金物師として、千家十職の中でも重要な役割を担い続けています。
- 1-1|茶のはじまりを辿る ~茶は命の薬草~|第1回 茶のはじまり|紀元前|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第1回 茶のはじまりを辿る [1/3] ■ 紀元前 ❚ 一碗の抹茶から遡る茶道の歴史 今日、私たちが手にする一服の“抹茶”には、自然の恵みと人々の営み、そして古の知恵が静かに宿っています。 もしその一碗が、約五千年前の知恵の結晶だったとしたら――。 この連載では、現代の茶道につながる“茶”が、どのように生まれ、伝えられてきたのか。その長い歴史をひもといていきます。 第1回のテーマは、「茶のはじまり」。 その起源を、古代中国の神話と医学書の記録から見ていきます。 ❚ 古代神話に見る神農大帝と薬草伝説 今日、私たちが喫する一服の“抹茶”の起源を調べるには、“抹茶”として精製される以前の“茶(茶葉)”そのものの歴史をたどる必要があります。 “茶”の起源を知るためには、遥か――5,000年も昔の古代・中国に伝わる神話の世界にまで遡らなければなりません。 “茶”に関するもっとも古い記録とされるのは、古代・中国の 神農時代** に登場する 三皇五帝** の一人で“医療(漢方)”や“農耕”の神とされる 神農大帝** にまつわる神話となります。 神農大帝は 人々の病や毒に苦しむ姿を見て、山野の草木を自ら試し、薬効を確かめたと伝えられており、そのひとつが前漢時代(紀元前206年-8年)の 淮南王** ・ 劉安** が学者を集めて編纂させた哲学書 『淮南子**』 に以下のように記されています。 ❝ ―原文― 古者、民茹草飲水、采樹木之實、食蠃蠬之肉。 時多疾病毒傷之害、於是神農乃始教民播種五穀、相土地宜、燥濕肥墝高下、嘗百草之滋味、水泉之甘苦、令民知所辟就。 當此之時、一日而遇七十毒。 ―現代訳― 昔、人々は草を煮て食べ、水を飲み、木の実を採り、貝や虫の肉を食べていた。そのため、しばしば病や毒により害を受けていた。 そこで神農は、人々に五穀を播き育てることを教え、土地の性質、乾燥や湿り気、肥えた土ややせた地、高低などに応じた耕作法を示した。 また、自ら百種の草の味や泉水の甘苦を味わい、人々が避けるべきものと摂るべきものを見分けられるようにした。 そのような時、神農は一日に七十もの毒にあたることもあったという。 ❞ 神農大帝が自ら試した多くの薬草の効能は、中国・後漢時代(25年-220年)~三国時代(184年-280年)に成立した医学書 『神農本草経**』 に集約されました。 その後、この書を底本として南朝時代(420年-589年)の医学者・ 陶弘景** によって整理・編纂され医学書 『神農本草経注**』 という名で後世に伝えられるようになります。 その『神農本草経』には前述の『淮南子』と同様に以下の記述が見られます。 ❝ ―原文― 神農嘗百草 日遇七十二毒 得荼而解之 ―現代訳― 神農は百の草を自ら舐め、一日に72の毒にあたったが、“荼”によって解毒した ❞ このことから、神農大帝は命をかけて草を食べ、毒にあたっては、それを解毒する術を模索していたことがわかります。 またこの時代には今日の“茶”という文字がまだ確立されておらず―苦菜―を意味する“荼(と/にがな)”の字が使用されていました。 “荼”というものが今日の“茶”と同じであるという確証はないものの時代を経て文字としても“茶”に置き換わっていることから当時の“荼”は今日の“茶”と推測することができます。 このことから “ 茶 ” の起源は今から5,000年前の紀元前2700年前頃の 神農時代ま で遡るとされ、当時の “ 荼 ” は今日のように飲料として楽しまれるものではなくその葉を噛んだり、煎じたりして、薬草として用いられていたと考えられています。 ❚ 世界最古の茶書『茶経』に見る神農大帝 前述した神農大帝の物語に加え、唐時代(618年―907年)の文筆家・ 陸羽** が8世紀中頃に著した世界最古の茶専門書 『茶経**』 にも、神農大帝に関する記述が見られます。 ❝ ―原文― 茶之為飲、発乎神農氏 ―現代訳― 茶を飲料として用いる習慣は神農に始まる ❞ ただし、この記述はあくまで伝説的なもので、神農大帝が具体的にどのように茶を飲んでいたのか、また喫茶の習慣がいつ頃から広まったのかについては、明確にはされていません。 ❚ 茶とは査ことである 「茶」という言葉の由来には、「査(しらべる)」に通じるという説があります。 中国語では「査(チャー)」と「茶(チャー)」の発音が同じであり、神農大帝が草を“調べた”行為が語源になったとされています。 また、現在も使われている「茶渣(ちゃさ)」という言葉は、茶を飲んだ後の残りかす=“茶殻”を意味しますが、これは茶の品質や効能を“調べる”ために使われたことが語源とされています。 「茶底」という言葉もあり、これは茶を完全に出しきった後の“底に残った茶葉”を指します。 ❚ 医学書に記された茶の性質と薬効 ― 前述の医学書 『神農本草経』 では365種類の薬物を“上品”・“中品”・“下品”の三類に分類し、それぞれの“性質”“薬効”などを詳しく記しています。 その中には以下のようなに“茶”に関する記述がみられます。 ❝ ―原文― 茶味苦、飲之使人益思、少臥、軽身、明目 ―現代訳― 茶の味は苦く、飲むと思考を深め、体は軽くなり睡眠が少なく目も覚める ❞ このように、すでにこの時代には“茶”が心身を整える効果のある薬草として用いられていたことが伺えます。 ❚茶道の歴史を学べば、よりよい一服に ― 今日では嗜好品として親しまれている一服の“茶”も、その出発点は命を守る薬草でした。 茶道の歴史を学ぶことは心を込めて点てられた一碗を手にし、注がれた緑豊かな“抹茶”を見た時にその背後にはある数千年に及ぶ人々の叡智と祈りが宿っていることを知ることでよりよい一服を味わうことができるのではないでしょうか―。 次回は、神話の中の“茶”がどのように現実の中の“茶”として登場するのかをご紹介します。 登場人物 神農大帝 生没年不詳|医療神|農耕神|三皇五帝の1人| 劉安 BC179年―BC122年|皇族|学者|淮南王|哲学書『淮南子』の主著者| 陶弘景 456年―536年|医学者|道教「茅山派」の開祖| 用語解説 神農時代 とは ―しんのうじだい― 神農時代とは、中国古代の伝説上の時代で、神農と呼ばれる帝王が治めたとされる時期を指します。神農は「農業の神」または「薬の祖」として知られ、五穀の栽培を教え、人々に農耕の技術を広めたと伝えられています。また、さまざまな草木を自ら口にして薬効や毒性を確かめ、医薬の基礎を築いたともいわれ、『神農本草経』という古代の薬物書にその名が残されています。神農時代は歴史的な実在が確認されたものではなく、黄帝などと並ぶ神話時代の一部とされますが、中国文化や思想においては文明のはじまりを象徴する理想的な時代とされ、特に農業や医学の起源に関する象徴的存在として重要視されています。 三皇五帝 とは ―さんこうごてい― 古代中国の神話伝説時代における8人の帝王で、該当する人物は書物により、さまざまな説が存在するが「伏羲」「女媧」「神農」の3人の半人反妖の姿をした神(三皇)と「黄帝」「顓頊」「嚳」「尭」「舜」の5人の聖人君主(五帝)を指す。 秦の始皇帝は全国を統一した後、「三皇の道徳を兼ねて、五帝の功労を超えた」と「皇」と「帝」二つの名を合わせ今日においても君主としての最高位として用いられる「皇帝」号とした。 神農大帝 とは ―しんのうだいてい― 三皇五帝、三皇の内の一人で、他の三皇「伏羲」「女媧」の亡き後にこの世を治めた神。龍神と人間との間に生まれ、体は人間、頭は牛、身の丈は3mとされる。 人々に医療と農耕を教えたことから「神農大帝」と称され120歳まで生きたとされる。今日においても広く信仰されている。 淮南王 とは ―わいなんおう― 劉安 とは ―りゅう・あん― 淮南子 とは ―えなんじ― 神農本草経 とは ―しんのうほんぞうきょう― 中国最古の本草書(医学書)。その名は中国伝説の三皇五帝の一人で医療の祖とされる「神農」に由来する。 1年の年数に合わせ365品の薬物を「上品(120種)=養命薬」「中品(120種)=養性薬」「下品(125種)=治病薬」と薬効別に分類し記している。 中国医学において『黄帝内経』『傷寒雑病論』とともに、三大古典の1つとされる。 陶弘景 とは ―とう・こうけい― 神農本草経集注 とは ―しんのうほんぞうきょうしっちゅう― 陸羽 とは ―りくう― 茶経 とは ―ちゃきょう―
- 1-2|茶の登場 ~正史が語る最古の一服~|第1回 茶のはじまり|紀元前|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第1回 茶のはじまりを辿る [2/3] ■ 紀元前 ❚ 正史に現れた“茶”の記憶―神話の世界から現実の世界へ 前回ご紹介した 神農大帝* による茶の発見は、あくまでも神話上の物語でした。 今回は歴史の記録、つまり正史における茶の登場をひもといていきます。 現存する史料のなかで、最も古く“茶”に言及された文献とは―。 そこに記された言葉が、“茶”の文化の原点を私たちに静かに語りかけてくれます。 ❚ 神話から抜け出した最古の一服 “茶”が神話から抜け出し、歴史の表舞台に現れるのは、今からおよそ2,000年前の中国・漢王朝時代(BC206年〜220年)となります。 現存する中で“茶”の最古の記録として知られるのが、文学者・ 王褒* によって書かれた 戯文**『僮約**』 です。 この作品は、主人が奴隷を雇う際の契約書形式で書かれた文芸作品であり、次のような記述が見られます。 ❝ ―原文― 武陽買荼 ―現代訳― 武陽**にて荼を買う ❞ ❝ ―原文― 烹荼盡具 ―現代訳― 茶を煮出し茶具を整える ❞ この一文から、当時すでに“茶”が商品として売買されていたことを推測することができます。 また、“烹荼(お茶を煮出す)”という行為や“盡具(茶具を整える)”という描写からも、“茶”が日常生活に浸透していたことが読み取れます。 ❚ 中国・武陽に見る茶の原点 前項の戯文『僮約』の記述によって、“茶”が中国・西南部の 武陽 において飲用されていたことがわかります。 武陽は古くから“茶葉”の産地として知られ、その風味や品質が高く評価されていたことは、この地域が茶文化発祥の重要な地であることを示しています。 また戯文『僮約』の文中には、“荼”の文字が自然に使われており、すでに“茶”が特別な薬草ではなく、日常の飲料として定着し始めていたことが読み取れます。 ❚ 茶が文化として昇華していく 文学作品としての『僮約』は、庶民の日常や文化的背景を伝える貴重な史料です。 そこに描かれた“茶”は、もはや神話のなかの 霊草** ではなく、日々の暮らしの一部として存在していました。 やがてこの“茶”は、庶民から上層階級や宮廷儀礼の場へと広がり、文化としての“茶”へと成長していくのです。 こうして、“茶”は神話から歴史の歩みをはじめ、やがて日本へと渡り、さまざまな時代と人物の手を経て、今日の“茶道”という世界に誇る唯一の日本固有の文化へと昇華していくこととなります。 次回は、この“茶”はいったいどこで生まれたのか―その謎を追求し“茶”の発祥地を探っていきます。 登場人物 神農大帝 生没年不詳|医療神|農耕神|三皇五帝の1人| 王褒 生没年不詳|文学者| 用語解説 神農大帝 とは ―しんのうだいてい― 三皇五帝、三皇の内の一人で、他の三皇「伏羲」「女媧」の亡き後にこの世を治めた神。龍神と人間との間に生まれ、体は人間、頭は牛、身の丈は3mとされる。 人々に医療と農耕を教えたことから「神農大帝」と称され120歳まで生きたとされる。今日においても広く信仰されている。 王褒 とは ―おうほう― 中国・漢代末期の文学者。風刺を交えた戯文や詩を多く残し、庶民の暮らしや社会風俗を描いた記録として価値が高い。彼の作品『僮約』により、茶に関する最古の記録が残されたとされる。 戯文 とは ―ぎぶん― 漢代に発達した、風刺や滑稽さを含んだ短編の文芸作品。 庶民の生活や時代の風潮を描いた文学形式で、形式にとらわれず自由な表現が特徴。 『僮約』もその一例であり、文学的価値と歴史資料としての価値を兼ね備える。 僮約 とは ―どうやく― 漢代に成立したとされる戯文で、奴隷契約の内容を題材とした文学的な文書。 王褒が著したとされ、当時の庶民生活が生き生きと描かれている。 茶の売買や調理法、茶道具の使用などが記されており、茶文化史上の重要文献である。 武陽 とは ―ぶよう― 霊草 とは ―れいそう―
- 1-3|茶の発祥地 ~茶は南方の嘉木なり~|第1回 茶のはじまり|紀元前|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第1回 茶のはじまりを辿る [3/3] ■ 紀元前 ❚ 茶は、いったいどこから生まれたのか―茶のふるさとを求めて 茶の発祥地をたどる旅は、神話や正史の世界を越えて、やがて“茶樹”のふるさとをめぐる物語へとつながっていきます。 これまでの回では、“茶”が文献に登場する様子を見てきましたが今回は、その源となる“茶樹”が、いったいどの地に根を下ろしたのか――そのふるさとを探っていきます。 ❚ 書物によれば茶は南方の嘉木なり “茶”が文化として広がる以前、その根本である“茶樹”はどこから生まれたのか。 この問いに対して、明確な答えを出すことは、現代の研究者たちにとってもなお、困難な課題とされています。 とはいえ、中国・唐時代(618年~907年)の文筆家・ 陸羽** が記した書物 『茶経**』 に、その手がかりが示されています。 『茶経』は世界最古の“茶”に関する体系的な書物であり、“茶の産地”から“製法”、“道具”に至るまでが詳細に記されています。 その『茶経』の冒頭には、次のような一文が見られます。 ❝ ―原文― 茶者南方之嘉木矢 ―現代訳― 茶は南方の嘉木なり ❞ この一節から、“茶は中国の南方に生える良木である”とされており、“茶”の原産地が中国/南西部に位置する 雲南省** であるという説が有力となっています。 ❚ 雲南省・四川省・アッサム地方 ― 茶の発祥地をめぐる諸説 雲南省は メコン川** の上流にあり、ミャンマー、ラオス、ベトナムと国境を接する山岳地帯です。 ここには今日も樹齢800年を超えるとされる野生の“茶樹”が存在しており、地域全体が茶文化の源流としての気配を色濃く残しています。 一方、他にも有力な“茶樹”の原産地として以下の地域が挙げられています。 ❝ ・インド/北東部のアッサム地方 ・中国/西南部の四川省周辺 ❞ 前述の雲南省を含めたこれら3地域は、いずれも熱帯〜亜熱帯に位置し、多様な植生に恵まれています。 こうした地帯は、 「 東亜半月孤** 」 と呼ばれ、人類の農耕文化が栄えた 肥沃** な 「 三日月地帯**」 に似た地形的特徴を持ち、茶文化誕生との深い関わりが指摘されています。 ❚ 茶樹の起源―謎が照らす茶の命 “茶”の発祥地については現在でも世界各地の学者により研究が続けられており、決定的な結論は出ていません。 しかし、こうした“起源の謎”もまた、“茶”がいかに深く、長い歴史の中で人々と関わりを持ってきたかを物語っているといえるでしょう。 “茶”のふるさとをめぐる旅は、確かな答えを求めるよりも、時の流れと共に育まれてきた“茶”の命にふれることにほかなりません。 ❚ 今日の一碗を照らす 野生の “茶樹” が生い茂る山々も、学者の論文も、すべては「一碗」の源を照らす光です。 その光に導かれながら、今日の私たちは “茶” のはじまりに想いを馳せ、いま目の前にある一服に深い感謝を抱くことができるのではないでしょうか。 次回からは、いよいよ日本に渡った “茶” の物語へと歩を進めてまいります。 登場人物 陸羽 733年―804年|文筆家|茶専門書『茶経』の著者| 用語解説 陸羽 ―りくう― 733年―804年。唐代の文筆家・茶人であり、中国における「茶聖」と称される人物。茶を生活文化として体系化し、世界初の茶書『茶経』を著した。茶の起源や製法、風味、道具に至るまでを詳述し、以後の茶文化の発展に多大な影響を与えた。 茶経 ―ちゃけい― 唐代の文筆家『陸羽』によって唐代に編纂された世界最古の茶専門書。全3巻10章の構成で、茶の起源・栽培・製法・器具・点て方・飲み方などを体系的にまとめています。茶を単なる嗜好品ではなく、文化・芸術・精神修養の対象と位置づけた点で画期的であり、後の日本の茶道にも大きな影響を与えました。 雲南省 ―うんなんしょう― メコン川 ―めこんがわ― 東亜半月孤 ―とうあんはんげっこ― 東アジアにおける“茶樹の原産地候補”とされる地域(雲南・四川・アッサム)を含む帯状の地形を指す。農耕や植物文化の起源が多く残る場所であり、茶樹が野生のまま自生していた痕跡が見られる。 肥沃 ―ひよく― 三日月地帯 ―みかづきちたい―
- 2-1|茶の渡来 ~仏とともに海を越えた茶~|第2回 茶の渡来|奈良時代~平安時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第2回 茶の渡来 [1/5] ■ 奈良時代 (710年―794年) ~ 平安時代 (794年―1185年) ❚ 仏とともに海を越えた茶 その一滴が、海を越えてやってきた――。 かつて “唐の都” と謳われた中国から、東の島国・日本へと伝えられた文化の数々——その中に“茶”もありました。 遣唐使** や留学僧がもたらしたのは、単なる飲み物ではなく、心を鎮め、仏道を深めるための霊薬でもあったのです。 今回は“茶”が初めて日本にやってきた時代――奈良時代(710年―794年)から平安時代(794年―1185年)にかけての渡来の物語をご紹介します。 ❚ 遣唐使がもたらした茶の文化 日本に“茶”が初めて伝えられたのは、奈良時代から平安初期にかけてのこととされています。 その担い手となったのが、中国・唐に派遣された遣唐使や、仏教修行のために留学した僧たちでした。 中でもよく知られるのが、 「最澄**」 と 「空海**」 の二人の人物です。 いずれも日本仏教の一大潮流である 天台宗** ・ 真言宗** の開祖であり、中国・ 唐** での修行を終えて帰国した際に、最新の学問や 仏典** 、そして“茶”とその種子を日本へ持ち帰ったと伝えられています(※諸説あり)。 つまり、“茶の渡来”とは単なる物品の輸入ではなく、仏教の修行と深く結びついた文化の伝播であったといえます。 ❚ 団茶が伝えた製法と儀礼の香り 彼らが伝えたのは “茶そのもの” だけでなく、“茶”を飲む習慣や製法の知識でもありました。 中国・唐時代(618年―907年)において一般的であったのは、いわゆる 「団茶**」 と呼ばれる形式の“茶”でした。 団茶は、蒸した茶葉を団子状に固めたもので、保存や運搬に適していました。 飲む際には砕いて湯に投じて煎じるようにし、薬茶や儀式用の飲料としても用いられたと考えられています。 このスタイルは、後の日本における “煎茶**” “抹茶”の文化的な土壌を形づくる大切な一歩であったともいえます。 ❚ 茶が祈りから文化へと昇華する “茶”は、仏教僧の精神修養の道具として静かに根付きながら、次第に貴族階級へも広がり、やがて日本独自の茶文化へと昇華していきます。 たった一粒の茶の種子が、やがて千年の文化を育む礎となる―——。 仏とともに海を渡ってきた“茶”は、祈りの空間を満たし、人々の心を潤す存在へと変化していきました。 ❚ 千年の文化はここから始まる “茶の渡来” は、単なる交易や嗜好品の普及ではなく、精神性と礼法を伴う文化的な伝播でした。 それはやがて、日本の宮中儀礼や貴族の生活に取り入れられ、今日の“茶会”という様式の源流へとつながっていきます。 次回は、 宮中行事** のなかで茶がどのように位置づけられ、“茶会”の原型が形づくられていったのか、その歩みをたどっていきます。 登場人物 最澄 766年―822年|伝教大師|僧|遣唐使|天台宗開祖|比叡山「延暦寺」開山| 空海 774年―835年|弘法大師|僧|遣唐使|真言宗開祖|高野山「金剛峯寺」開山| 用語解説 遣唐使 ―けんとうし― 最澄 ―さいちょう― 766年―822年。天台宗の開祖であり、奈良時代末から平安初期にかけて活躍した高僧。804年に遣唐使として入唐し、天台教学を学び、帰国後に延暦寺を建立。仏教と共に、茶やその文化も持ち帰ったとされる。 空海 ―くうかい― 774年―835年。真言宗の開祖であり、「弘法大師」の名で親しまれる高僧。唐に留学し密教を修得、帰国後に高野山を開いた。文化的側面にも長け、茶の種子や製法を持ち帰ったとされ、日本の茶文化の起源の一人とされる。 天台宗 ―てんだいしゅう― 真言宗 ―しんごんしゅう― 唐 ―唐― 仏典 ―ぶってん― 団茶 ―だんちゃ― 煎茶 ―せんちゃ― 宮中行事 ―きゅうちゅうぎょうじ―
- 2-2|茶会の原点 ~一杯にこめた礼と心~|第2回 茶の渡来|奈良時代~平安時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第2回 茶の渡来 [2/5] ■ 奈良時代 (710年―794年) ~ 平安時代 (794年―1185年) ❚ 一杯にこめた礼と心 一碗の “茶” を、一定の作法でもって人にふるまう。 その所作は今日の “茶会” の原型とされ、日本における喫茶文化のひとつの到達点でもあります。 では、その― “茶会の原点” ―は、いつ、どこで、どのように行われたのでしょうか。 今回のテーマは、奈良時代(710年-794年)における 宮中行事** に現れる “茶” の姿です。 ❚ 宮中における引茶の記録 “茶” が日本へ渡来して間もない奈良時代(710年―794年)、実際にどのように飲まれていたのか—。 その詳細は明確に残っていないものの、後世の文献からその実態をうかがい知ることができます。 そのひとつが、室町時代(1336年-1573年) の 公卿** ・ 一条兼良* が著した 『公事根源**』 です。 この書には、天平元年(729年)、 「聖武天皇**」 が催した宮中行事 『季御読経**』 において、僧侶に対して 「引茶**」 がふるまわれたという記録が残されています。 このことから、奈良時代(710年-794年)にはすでに一定の作法を伴う喫茶の風習が存在していたと推測されています。 ❚ 引茶にみる作法と精神性 引茶とは、当時の 団茶** を砕いて粉末状にし、煮立った湯に入れて茶盞に注ぎ、甘葛や生姜で調味して飲む形式の “茶” でした。 この形式には所作や順序が定められており、儀礼性を備えた喫茶として、後世の “茶礼**” “茶会”“茶道” の源流とされています。 さらに、平安時代(794年-1185年)の初めである大同三年(808年)には、 平安京** の 内裏** 東北隅に茶園が設けられ、造茶師が置かれていたという記録も存在します。 これは引茶に供する “茶” を育てるための制度的な取り組みであり、国家レベルで茶文化が芽吹いていた証ともいえるでしょう。 ❚ 茶が祈りとともにあるということ 『季御読経』は、国家の安泰と天皇の無事を祈る仏教行事であり、 東大寺** や 興福寺** の 高僧** たちを招き、3日から4日にわたって 『大般若経**』 を 読誦** する厳粛な儀式です。 その中で行われた引茶は、単なる飲料としての “茶” のふるまいではなく、仏法修行の一環とされたものであり、 “茶” をいただくという行為の中に、心を鎮め、仏に向き合う時間があったことがわります。 ❚ 茶会という文化の萌芽 宮中でふるまわれた一杯のお茶は、やがて “茶会” という日本独自の文化へと育っていきます。 作法と祈りが結びついたその原点には、単なる飲食を超えた精神性がありました。 次回は、 “茶” の栽培がどのようにして日本に根づき、制度や生活に定着していったのかをご紹介してまいります。 登場人物 一条兼良 1402年―1481年|公卿|学者|一条家(五摂家内の一つ)八代当主| 聖武天皇 701年―756年|第四十五代天皇|第四二代文武天皇の第一皇子| 用語解説 宮中行事 ―きゅうちゅうぎょうじ― 公卿 ―くぎょう― 一条兼良 ―いちじょう・かねよし― 公事根源 ―くじこんげん― 応永二九年(1422年)頃に一条兼良が著した室町時代の有職故実書。室町時代の宮中の儀式や行事の起源や沿革を記した書物。 聖武天皇 ―しょうむてんのう― 701年―756年。奈良時代の第45代天皇。在位中に大仏造立や仏教の保護政策を推進し、国家と宗教を結びつけた。宮中行事「季御読経」の創始者であり、その中で引茶が行われた記録が残る。 季御読経 ―きのみどきょう― 「季御読経」は、天平元年(729年)にはじまったとされ平安時代(794年-1185年)の終り頃まで続いた「宮中行事」のひとつ。東大寺や興福寺などの諸寺から60~100の禅僧を朝廷に招き3日~4日にわたって『大般若経』を読経し国家と天皇の安泰を祈る行事であり、その中の第二日目に衆僧に「引茶」をふるまう儀式が行われていました。のちに『[宮中行事]季御読経』は春秋の二季に取り行われることとなったが、「引茶」は春のみに行われていたとされています。また「茶」を喫する事も修行の一つであるという意から「行茶」とも呼ばれていました。 引茶 ―ひきちゃ― 茶園で「茶」を挽くという意から、「引茶」の字が用いられる。飲茶方法は「団茶」を砕いて薬研で挽いて粉末状にしたのち沸騰した釜の中に投じ、「茶盞」に注ぎ「甘葛」「生姜」などで調味して飲まれていました。大同三年(808年)平安京、の内裏東北隅に茶園が経営され「引茶」で使うための造茶師が置かれていという。また一定の作法をもって喫することから今日の「茶道」の原型がこの時点で存在していたと考えられます。 団茶 ―だんちゃ― 蒸した茶葉を押し固め、団子状に成形した唐代の保存用の茶。煎じて飲まれることが多く、儀礼や薬用にも用いられた。後の抹茶文化や煎茶文化の源流とされる。 茶礼 ―されい― 平安京 ―へいあんきょう― 内裏 ―だいり― 東大寺 ―とうだいじ― 興福寺 ―こうふくじ― 高僧 ―こうそう― 大般若経 ―だいはんにゃきょう― 仏教の智慧「般若」の教えを説いた全600巻に及ぶ大乗仏教の根本経典です。唐の玄奘三蔵が訳出し、日本では国家鎮護・災厄除けの祈祷に用いられました。特に「大般若転読法要」は、経巻を勢いよく繰ることで加護を願う儀式として現代にも伝わります。「空」の思想は茶道や禅とも深く関わり、今なお精神文化に大きな影響を与えています。 読誦 ―どくじゅ―
- 2-3|茶園の記憶 ~一粒から広がる茶の文化~|第2回 茶の渡来|奈良時代~平安時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第2回 茶の渡来 [3/5] ■ 奈良時代 (710年―794年) ~ 平安時代 (794年―1185年) ❚ 一粒から広がる茶の文化 喫茶の 文化が芽吹いたその先には、 “育てる” 文化が始まります。 日本に “茶” がもたらされたのち、やがてその “茶” は、海を越えて持ち帰られた “種” から、わが国の大地に根を張ることになります。 今回のテーマは、日本で初めて行われた「茶の栽培」について、古文献をもとにひもといてまいります。 ❚ 最澄が伝えた最古の茶園 これまで、日本に “茶” が渡来し、 宮中行事** などで喫されていたことを見てきました。 では、その “茶” はいつ、どこで、どのように栽培されるようになったのでしょうか。 “茶” の栽培に関する最も古い記録の一つが、 比叡山** のふもとにある 日吉社** の 神職** ・ 祝部行丸* が 天正十年(1582年)に記した 『日吉社神道秘密記**』 に残されています。 この書の中で、 最澄* が中国・ 唐** より帰国後、比叡山の麓に茶園を開いたことを記しています。 その茶園は現在、滋賀県大津市坂本に 「日吉茶園**」 としてその名を残しており、日本最古の茶園として伝承されています。 ❚ 各地に広がる栽培の痕跡 茶園は比叡山だけではなく、内裏の周辺や、東海地方の三河国などにも茶園が存在したことが、いくつかの史料から知ることができます。 前回紹介した宮中行事 「季御読経**」 の儀式で供された 引茶** には、こうした各地で栽培された “茶” が用いられていたと推測されています。 また、九州地方においても栽培が行われていたことを示す重要な資料が延喜三年(903年)までに編纂された 『菅家後集**』 です。 ❚ 菅原道真が語る「一杯の記憶」 『菅家後集』は、 菅原道真* が自らの詩文をまとめた漢詩集であり、その中には、自身が九州の 大宰府** に左遷された際、 “茶” を飲んだという一節が残されています。 ❞ ―原文― 悶飲一杯茶 ―現代訳― 悶々とした想いにてい一杯の茶を飲む ❞ この記述により、九州地方においてもすでに “茶” が栽培され、日常的に喫されていたことが伺えます。 つまり、平安時代(794年―1185年)の初期には、すでに中央・地方を問わず、茶が根づき始めていたということがわ推測されます。 ❚ 茶は根づき、文化となる こうして、最澄による茶の栽培が始まり、やがて各地へと広がっていった“茶の栽培”は、貴族や僧侶の間にも受け入れられ、後の茶文化の土台として深く根づいていきます。 古来、人々の手によって大切に育てられた一株の茶樹は、国を越え、時を越え、やがて私たちの一碗へとつながっています。 “茶の栽培”という行為に込められた文化の萌芽は、今日の茶道の礎を成すものとなりました。 今回ご紹介したように、“茶を育てる”という営みは、単なる農耕の始まりではなく、精神文化と日常とをつなぐ“場”を支える基盤として、日本各地に広がっていったのです。 次回は、“茶”という語がどのように公的な記録に現れ、国家の中にどのように記述されていったのかを探っていきます。 登場人物 祝部行丸 生没年不詳|日吉社官職| 最澄 766年―822年|伝教大師|僧|遣唐使|天台宗開祖|比叡山「延暦寺」開山| 菅原道真 845年―903年|貴族|学者|政治家|詩人|学問の神様| 用語解説 宮中行事 ―きゅうちゅうぎょうじ― 比叡山 ―ひえいざん― 日吉社 ―ひよししゃ― 神職 ―しんしょく― 祝部行丸 ―はりふべ・ゆきまる― 日吉社神道秘密記 ―ひよししゃしんどうひみつき― 天正10年(1582年)に日吉大社の神職『祝部行丸』によって記された、日吉社に伝わる神道儀礼や信仰、歴史をまとめた記録。特に、『最澄』が唐より帰国後、比叡山の麓に茶園を開いたという記述があり、これは日本における茶の栽培に関する最古級の文献記録として注目されています。 最澄 ―さいちょう― 766年―822年。平安時代初期の僧で、天台宗の開祖。804年に遣唐使として唐に渡り、仏教とともに茶の文化を学び、帰国後は比叡山の麓に日本初の茶園を開いたと伝えられる。平安時代初期の僧で、天台宗の開祖。804年に遣唐使として唐に渡り、仏教とともに茶の文化を学び、帰国後は比叡山の麓に日本初の茶園を開いたと伝えられる。 唐 ―とう― 日吉茶園 ―ひよしちゃえん― 滋賀県大津市坂本にある日本最古の茶園とされる場所。『日吉社神道秘密記』に最澄がこの地に茶園を開いたと記され、今日に至るまで茶文化の聖地とされている。 季御読経 ―きのみどきょう― 引茶 ―ひきちゃ― 菅家後集 ―かんけこうしゅう― 『菅原道真』によって編まれた漢詩集で、彼の左遷後の心情や風景が詠まれている。茶に関する記述がある最古級の日本文献としても重要。 菅原道真 ―すがわらの・みちざね― 平安時代の学者・政治家・詩人で、卓越した学識と文章力により右大臣まで昇進しましたが、藤原氏の讒言により大宰府へ左遷され、失意の中で没しました。死後は怨霊と恐れられ、やがて「天神」として神格化されます。現在では学問の神として広く信仰され、梅を愛したことから茶道でも「飛梅」などの銘に名を残しています。
- 2-4|茶の公式記録 ~日本史に刻まれた一碗~|第2回 茶の渡来|奈良時代~平安時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第2回 茶の渡来 [4/5] ■ 奈良時代 (710年―794年) ~ 平安時代 (794年―1185年) ❚ 日本史に刻まれた一碗 “茶”が記録として歴史に刻まれる瞬間。 神話や文芸からではなく、国家の公式記録に“茶”の名が現れる。 その一節は、いにしえの天皇と僧侶の間で交わされた一碗の物語からはじまります。 今回は、日本最古 の 勅撰史書**『日本後紀**』 に登場する“茶”について、紐解いていきます。 ❚ 勅撰史書『日本後紀』に現れた茶の名 これまで紹介してきた 『日吉社神道秘密記**』 や 『菅家後集**』 などは、いずれも私的な記録や詩文に基づくものでした。 しかし、“茶”という語が国家の公式文書に初めて登場したのは、承和七年(840年)に成立した勅撰史書『日本後紀』とされています。 『日本後紀』は、 奈良時代(710年―794年) 末から 平安時代(794年―1185年) 初期にかけての歴史をまとめた国家の正式な記録であり、その中に“茶”に関する最古の記述が見られます。 ❚ 嵯峨天皇と永忠の一碗 『日本後紀』が記す最古の“茶”に関する記録は、弘仁六年(815年)4月22日の出来事です。 第52代天皇である 嵯峨天皇* が、近江の韓崎(現・滋賀県大津市唐崎)に行幸した際、 梵釈寺** の住職であった 永忠* が、 “茶” を煎じて献じたという内容が記されています。 一碗の茶を、天皇に献上したこの出来事こそ、日本史において “茶” という語が公的記録に刻まれた、最も古い事例とされており、まさに日本茶史に刻まれた初めての一碗といえる瞬間です。 また このときに嵯峨天皇に振る舞われた茶は、 引茶** と同様に、 団茶** を砕いて煎じたものであり、薬用・儀礼的な目的で用いられたと考えられます。 同時に、それは仏教の修行的文脈に基づいた行為であったことも読み取れます。 ❚ 茶栽培の奨励と制度化 さらに『日本後紀』には、興味深い続きがあります。 嵯峨天皇は、この行幸のわずか2ヶ月後、諸国の役人に命じて “茶” の栽培を奨励しました。 その対象は「機内(畿内)」「近江」「丹波」「播磨」などで、都(京都)の周辺国に “茶” の木を植え栽培させ “茶” の献上を求めたといいます。 この記述から、平安初期にはすでに ― “ 茶を育て、天皇に献じる ” ― という制度的な動きがあったことが読み取れます。 これは、 “茶” が単なる飲料や輸入品ではなく、 “ 文化資源 ” として国家的な制度に組み込まれ始めた証拠でもあります。 ❚ 一碗が文化を動かした 嵯峨天皇と永忠の間で交わされた一碗の “茶” ——―。 “茶” が「国の記録」に刻まれたその時、それはもはや異国の贈り物ではなく、日本人の手によって育てられ、扱われ、文化化される運命を持った存在へと変わりました。 嵯峨天皇の一碗の受け取りが、茶道の歴史にどれほど深い根を残したか――。 次回は、こうして芽吹いた茶文化が、遣唐使の廃止とともに一度“衰退”の局面を迎える歴史の転換点について巡っていきます。 登場人物 嵯峨天皇 786年―842年|第五十二代天皇|第五十代桓武天皇の第五皇子| 永忠 743年―816年|僧|大僧正|梵釈寺住職| 用語解説 勅撰史書 ―ちょくせんしょし― 日本後紀 ―にほんこうき― 日吉社神道秘密記 ―ひよししゃしんどうひみつき― 天正10年(1582年)に日吉大社の神職『祝部行丸』によって記された、日吉社に伝わる神道儀礼や信仰、歴史をまとめた記録。特に、『最澄』が唐より帰国後、比叡山の麓に茶園を開いたという記述があり、これは日本における茶の栽培に関する最古級の文献記録として注目されています。 菅家後集 ―かんけこうしゅう― 『菅原道真』によって編まれた漢詩集で、彼の左遷後の心情や風景が詠まれている。茶に関する記述がある最古級の日本文献としても重要。 嵯峨天皇 ―さがてんのう― 786年―842年。平安時代初期の第52代天皇。文化・文芸を奨励し、「弘仁文化」を築いた人物。近江行幸の折に茶を賜り、茶の栽培を諸国に命じたことで、茶文化発展の礎を築いた。 梵釈寺 ―ぼんしゃくじ― 永忠 ―えいちゅう― 743年―816年。奈良〜平安時代の僧侶で、梵釈寺の住職。嵯峨天皇に茶を献じた人物として『日本後紀』に記され、日本茶文化史上の重要人物とされる。 引茶 ―ひきちゃ― 茶園で「茶」を挽くという意から、「引茶」の字が用いられる。飲茶方法は「団茶」を砕いて薬研で挽いて粉末状にしたのち沸騰した釜の中に投じ、「茶盞」に注ぎ「甘葛」「生姜」などで調味して飲まれていました。大同三年(808年)平安京、の内裏東北隅に茶園が経営され「引茶」で使うための造茶師が置かれていという。また一定の作法をもって喫することから今日の「茶道」の原型がこの時点で存在していたと考えられます。 団茶 ―だんんちゃ―
- 2-5|茶の衰退 ~遣唐使の廃止と忘れられた文化~|第2回 茶の渡来|奈良時代~平安時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第2回 茶の渡来 [5/5] ■ 奈良時代 (710年―794年) ~ 平安時代 (794年―1185年) ❚ 忘れられた一碗 かつて、 嵯峨天皇** に献上された一碗の “茶” は、文化の象徴でした。 しかし時が流れ、やがてその香りは、 宮廷** から消え、記録からも消えていきます。 今回は、日本に伝来した “茶” が、平安時代の中期においてなぜ衰退していったのか――その背景をひもときます。 ❚ 遣唐使廃止と文化の断絶 奈良時代(710年―794年)から平安時代(794年―1185年)初期にかけて、日本には中国・ 唐** の先進文化が数多く伝わりました。 “茶” もまたその一つであり、 最澄* や 空海* などの 留学僧、あるいは 遣唐使** によって持ち込まれたものでした。 しかし、寛平六年(894年)、 朝廷** は遣唐使の派遣を中止します。 この出来事は、単なる外交上の変化ではなく、日本が唐の文化的影響から距離を取り、独自の 国風文化を築 きはじめるための第一歩となるものでした。 ❚ 茶の衰退と儀式化 遣唐使の廃止に伴い、中国からもたらされた “茶” もまた、次第に人々の関心から遠のいていきます。 十世紀以降、 “茶” は主に 『季御読経**』 など、 宮中行事** の中で儀礼的に限られ、日常の喫茶習慣のとしての記録はほとんど見られなくなります。 当時の “茶” は、庶民が日常的に味わうような存在ではなく、あくまで薬効を期待した飲料であり、貴族や僧侶など高貴な身分の人々に限られたものでした。 ❚ 国風文化の台頭と喫茶文化の忘却 平安時代(794年―1185年)中期以降、日本は漢詩や仏典を中心とした中国文化から距離を置き、 『源氏物語**』 に代表されるようなひらがな文学と和風美意識の世界へと進みます。 この国風文化の流れの中で、仏教的儀礼ととも に伝えられた “茶” もまた、次第に― “過去の文化” ― として記憶の彼方に追いやられていきます。 こうして、九世紀末から十一世紀にかけての日本では、一時的に ― “茶の記録” ― や ― “喫茶の実態” ― がほとんど見られなくなる、“沈黙の時代”が訪れることとなるります。 ❚ 次なる芽吹きへ 茶の記録が途絶えた時代——―。 今日、その歴史を振り返れば、それは “文化の衰退” ではなく、 “再生の準備期間” ともいえるでしょう。 文化とは、常に光の中にあるものではありません。 静けさのなかで受け継がれ、目に見えぬ根を張り、やがて時を待つものでもあります。 この ― “沈黙の時代” ― があったからこそ、鎌倉時代(1185年―1333年)に訪れる喫茶文化の再興は、より強く、美しく、日本人の精神に深く根づいていくこととなります。 次回は 臨済宗** の開祖である 栄西** らによって再び “茶” 息を吹き返し、やがて、 “道” として確立されていく歴史を紐解いていきます。 登場人物 嵯峨天皇 786年―842年|第五十二代天皇|第五十代桓武天皇の第五皇子| 最澄 766年―822年|伝教大師|僧|遣唐使|天台宗開祖|比叡山「延暦寺」開山| 空海 774年―835年|弘法大師|僧|遣唐使|真言宗開祖|高野山「金剛峯寺」開山| 栄西 1141年―1215年|明庵栄西|僧|臨済宗開祖|「建仁寺」開山| 用語解説 嵯峨天皇 ―さがてんのう― 786年―842年。平安時代初期の第52代天皇。文化・文芸を奨励し、「弘仁文化」を築いた人物。近江行幸の折に茶を賜り、茶の栽培を諸国に命じたことで、茶文化発展の礎を築いた。 宮廷 ―きゅうてい― 唐 ―とう― 最澄 ―さいちょう― 空海 ―くうかい― 遣唐使 ―けんとうし― 7世紀から9世紀にかけて日本が中国・唐へ派遣した公式使節団で、律令制度・仏教・漢字文化・建築・服飾など、先進的な文化や制度を学ぶために送られました。特に聖武天皇や最澄・空海らが関わった遣唐使は、日本の政治・宗教・芸術に大きな影響を与えました。894年、菅原道真の進言により廃止されましたが、その遺産は後の日本文化の基盤を形作る重要な役割を果たしました。 朝廷 ―ちょうてい― 季御読経 ―きのみどきょう― 「季御読経」は、天平元年(729年)にはじまったとされ平安時代(794年-1185年)の終り頃まで続いた「宮中行事」のひとつ。東大寺や興福寺などの諸寺から60~100の禅僧を朝廷に招き3日~4日にわたって『大般若経』を読経し国家と天皇の安泰を祈る行事であり、その中の第二日目に衆僧に「引茶」をふるまう儀式が行われていました。のちに『[宮中行事]季御読経』は春秋の二季に取り行われることとなったが、「引茶」は春のみに行われていたとされています。また「茶」を喫する事も修行の一つであるという意から「行茶」とも呼ばれていました。 宮中行事 ―きゅうちゅうぎょうじ― 源氏物語 ―げんじものがたり― 臨済宗 ―りんざいしゅう― 栄西 ―えいさい―
- 3-1|茶の専門書 ~『喫茶養生記』が伝えた智恵~|第3回 喫茶のはじまり|鎌倉時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第3回 喫茶のはじまり [1/8] ■ 鎌倉時代 (1192年―1333年) ❚ 茶は養生の仙薬なり 静寂の中で一服の茶を喫する――。 その所作の背後には ― “ 心を整える ” ― という、深い目的が込められています。 この ― “ 喫茶の思想 ” ― が、初めて体系として日本にもたらされたのが、鎌倉時代(1185年―1333年)です。 今回は、日本における本格的な「喫茶文化」の確立と、記録に残る最古の茶の専門書 『喫茶養生記**』 をご紹介します。 ❚ 栄西が持ち帰った「種」と「思想」 鎌倉時代(1185年―1333年)の初期、建久二年(1191年)――。 臨済宗** の開祖として知られる 栄西* は、中国・ 宋** に渡り、禅宗とともに “ 抹茶の喫茶法 ” や “ 製茶の技術 ” を学びました。 帰国後、栄西は筑前国(現:福岡県)の 背振山** に宋より持ち帰った “ 茶の種(実) ” を植え、日本における本格的な “茶” の栽培を始めたと伝えられています。 しかし栄西が日本の茶文化に残した最大の功績は、文治五年(1211年)に著した “茶” の専門書―― 『喫茶養生記』 の執筆にあります。 ❚ 喫茶養生記とは 『喫茶養生記』は現存する文献としては日本最古の “ 茶に関する専用書 ” であり、喫茶文化の出発点ともいえる貴重な史料となります。 この書物は上下二巻構成で ❝ ・上巻: “茶” の効能や服薬との関係 ・下巻:医学的観点からの喫茶法 ❞ が中国医学の知識と仏教思想に基づいて詳述されており、冒頭には次のような一文があります。 ❝ ―原文― 茶 養生 仙薬** 延齢妙術 ―現代訳― 茶は身体を養う仙人の薬であり、長寿を保つ不思議な術である。 ❞ この言葉には、 “茶” が単なる嗜好品ではなく、生命を養う薬としての側面をもって重んじられていたことが表れています。 ❚ 禅と喫茶の融合 『喫茶養生記』には当時の中国の医学文献が多数引用されており、仏教・医学・食養生の知見を統合した実用的な書でもありました。 なかでも、 禅宗** の修行における “茶” の役割は極めて重要視されていました。 長引く仏道修行のなかで、眠気を防ぎ、精神を安定させるための “茶” の効用は、禅宗において非常に重要なものであり、喫茶は禅の修行法の一環でもあったのです。 ❚ 武士へと広がる文化の芽 栄西はこの書を当時の 鎌倉幕府** 第三代 将軍** ・ 源実朝* に献上し、武士階級にも茶の有用性を伝えようとしました。 それはやがて、 “茶” が仏教の枠を超えて広まり、武士社会や一般層へも浸透するきっかけともなっていきます。 このようにして、日本における “喫茶文化” は、鎌倉時代(1185年-1333年)という武家政権の新時代にふさわしく、 “禅の精神” とともに静かに、そして力強く根づいていくこととなります。 ❚ 書と種が遺したもの 静けさとともに心を整える喫茶の作法は、やがて “茶道” として洗練されていきます。 その原点は、一人の禅僧がもたらした “書” と “種” にありました。 次回は、 “茶” がどのように薬としても重用され、日常に取り入れられていったのか――その変遷をたどっていきます。 登場人物 栄西 1141年―1215年|明庵栄西|僧|臨済宗開祖|「建仁寺」開山| 源実朝 1192年―1219年|鎌倉幕府三代将軍|源頼朝の子| 用語解説 喫茶養生記 ―きっさようじょうき― 1211年に『栄西』によって著された日本最古の茶専門書。茶の効能、製法、薬効などを仏教医学的観点から記し、武士や僧侶に茶の重要性を説いた。上下二巻構成。 臨済宗 ―りんざいしゅう― 栄西 ―えいさい― 1141年―1215年。鎌倉時代初期の臨済宗の開祖であり、日本に本格的な禅宗を伝えた僧侶です。2度にわたって宋に渡り、禅の教えとともに茶の種子と喫茶の習慣を日本に持ち帰りました。著書『喫茶養生記』では茶の効能を説き、茶文化の発展にも大きく貢献しました。建仁二年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して「建仁寺」を建立。 宋 ―そう― 背振山 ―せふりやま― 仙薬 ―せんやく― 禅宗 ―ぜんしゅう― 鎌倉幕府 ―かまくらばくふ― 武将 ―ぶしょう― 源実朝 ―みなもとの・さねとも― 1192年―1219年。鎌倉幕府第三代将軍。源頼朝の子で、政治よりも文化・和歌に深い関心を持ち、歌人としても高名。仏教や漢詩にも通じた教養人であり、『明菴栄西』が著した『喫茶養生記』を献上されたことで知られ、武士階級に茶の効能が伝わる契機となった。
- 3-2|二日酔いの一碗 ~茶の効能と癒し~|第3回 喫茶のはじまり|鎌倉時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第3回 喫茶のはじまり [2/8] ■ 鎌倉時代 (1192年―1333年) ❚ 薬としての茶 一碗の “茶” に、身体を癒す力が宿る――。 鎌倉時代(1185年―1333年)、 “茶” はまだ嗜好品ではなく薬効のある飲み物として飲まれていました。 禅宗** の僧にとっては修行の眠気覚ましに、武士にとっては宴の疲れを癒す妙薬として、静かに一服の仙薬として位置づけられていました。 ❚ 栄西が伝えた抹茶法 鎌倉時代(1185年―1333年)、中国・宋時代(960年―1279年)から日本に伝わった “茶” は、それまでの 団茶** とは異なり、粉末状の 碾茶* や 引茶* が主流となっていきます。 これは湯に溶かして攪拌して飲む形式で、今日の “抹茶” に近い飲み方です。 そしてこの変化は、以後の日本における茶文化において大きな転機となりました。 とくに 臨済宗** の開祖である 栄西* が伝えた “抹茶法**” は、修行中の眠気覚ましや栄養補給の手段として、禅宗の僧侶たちに重宝されました。 やがて茶の飲用は 「清規*」 の中にも 「 茶礼**」 として位置づけられ、修行の一環としての喫茶が広く定着していきます。 また前回の記事でご紹介した、栄西が著した 『喫茶養生記**』 の冒頭の一文、 ❝ ―原文― 茶 養生仙薬 延齢妙術 ―現代訳― 茶は身体を養う仙人の薬であり、長寿を保つ不思議な術である。 ❞ この一文は、 「陰陽五行**」 の思想をもとに、茶の苦味が五臓のバランスを整え、健康と長寿に寄与すると説いており、 “茶” は単なる飲み物ではなく、命を養う薬草として捉えられていたことが推測されます。 また、同書には他に実に多くの薬効が列挙されており、その中には現代医学においても有効性が証明されている成分や効果が少なくありません。 ❚ 源実朝と「一服の茶」 “茶” の薬効が世に広まったきっかけのひとつとして、 鎌倉幕府** 第三代 将軍** ・ 源実朝* との逸話が知られています。 栄西が鎌倉・ 寿福寺** の住職を務めていた建保二年(1214年)、二日酔いに苦しんでいた源実朝に呼び出され、 加持祈祷** とともに “一服の茶” をすすめました。 この際、栄西は “茶” の効能を説いた『喫茶養生記』を献上したとされ、将軍はその一碗を飲むや、たちまち体調が回復したと伝えられています。 この逸話は、 『吾妻鏡**』 にも記録されており、 “茶” の効能が武家社会にも広まりを見せる契機となりました。 ❚ 仙薬としての茶の広がり “茶” はただの飲み物ではなく、心と体を整える 仙薬** として人々に受け入れられていったのです。 この時代の “茶” は、まさに命を支える一滴だったのかもしれません。 体を温め、心を整え、命を支える。 そんな仙薬としての “茶” の姿は、現代の健康志向と響き合います。 鎌倉の修行僧と武士が一碗の “茶” に癒しを求めたように、私たちもまた、 “茶” にそっと身を委ねる時間を大切にしたいものです。 次回は、 “茶” の広がりがもたらした名産地の誕生についてご紹介します。 登場人物 栄西 1141年―1215年|明庵栄西|僧|臨済宗開祖|「建仁寺」開山| 源実朝 1192年―1219年|鎌倉幕府三代将軍|源頼朝の子| 用語解説 禅宗 ―ぜんしゅう― 団茶 ―だんちゃ― 碾茶 ―てんちゃ― 引茶|挽茶 ―ひきちゃ― 臨済宗 ―りんざいしゅう― 栄西 ―えいさい―1141年―1215年。鎌倉時代初期の臨済宗の開祖であり、日本に本格的な禅宗を伝えた僧侶です。2度にわたって宋に渡り、禅の教えとともに茶の種子と喫茶の習慣を日本に持ち帰りました。著書『喫茶養生記』では茶の効能を説き、茶文化の発展にも大きく貢献しました。建仁二年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して「建仁寺」を建立。 喫茶法 ―きっさほう― 清規 ―せいき― 茶礼 ―されい― 喫茶養生記 ―きっさようじょうき―1211年に『栄西』によって著された日本最古の茶専門書。茶の効能、製法、薬効などを仏教医学的観点から記し、武士や僧侶に茶の重要性を説いた。上下二巻構成。 陰陽五行 ―いんようごぎょう― 鎌倉幕府 ―かまくらばくふ― 武将 ―ぶしょう― 源実朝 ―みなもとの・さねとも―1192年―1219年。鎌倉幕府第三代将軍。源頼朝の子で、政治よりも文化・和歌に深い関心を持ち、歌人としても高名。仏教や漢詩にも通じた教養人であり、『明菴栄西』が著した『喫茶養生記』を献上されたことで知られ、武士階級に茶の効能が伝わる契機となった。 寿福寺 ―じゅふくじ― 加持祈祷 ―かじきとう― 吾妻鏡 ―あずまかがみ― 仙薬 ―せんやく―
- 3-3|茶園の広がり ~栂尾から始まる名産地の系譜~|第3回 喫茶のはじまり|鎌倉時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第3回 喫茶のはじまり [3/8] ■ 鎌倉時代 (1192年―1333年) ❚ 茶が根づく “茶” が、土地に根を張る――。 それは、僧たちの手により静かに蒔かれ、やがて名産地として花開いた― “文化の芽” ―でした。 薬としての “茶” が、栽培という実践を通じて人々の暮らしの中に浸透していった 鎌倉時代(1185年―1333年) 。 今回は、その茶園の広がりと名産地誕生の物語をたどります。 ❚ 明恵と宇治茶のはじまり 鎌倉時代(1185年―1333年) 、 “茶” の薬用効果が広く認識されるとともに、 “茶” を飲む習慣は近畿を中心に徐々に全国へと広がっていきました。 特に注目されたのが京都・ 栂尾** の 高山寺** の僧・ 明恵* です。 明恵は 栄西* より譲り受けた “茶” をこの地で栽培し、後の 「宇治茶**」 の基礎を築いたとされています。 さらに この “茶” は明恵の手によって「伊勢国(三重県)」「駿河国(静岡県)」「武蔵国(東京周辺)」へと “茶” の栽培が広がり、今日ではこれらの地はいずれも日本有数の茶の名産地として知られています。 ❚ 大茶盛と叡尊の茶文化 奈良・ 真言律宗** 総本山 「西大寺**」 の第一世長老 「叡尊*」 は、延応元年(1239年)の正月に行われた年始修法の結願日に、西大寺復興の感謝を込めて鎮守八幡神社に供茶した行事の余服の “茶” を多くの衆僧に振る舞いました。 この儀式は、現在も西大寺で行われている 「大茶盛**」 の起源とされています。 この大茶盛の儀式には二つの大きな意義がありました。 ひとつは、 ― 戒律** 復興― を目的とし、 ― 不飲酒戒** ― の実践として、酒盛の代わりに茶盛を行ったこと。 もうひとつに、 ― “ 民衆救済 ”― の 一環として、当時高価な薬とされていた “茶” を 施茶** することで、医療・福祉の実践を示したことです。 ❚ 日本各地へ広がる銘茶の産地 叡尊 が 弘長二年(1262年)二月から八月にかけて鎌倉に下向した際の活動を、弟子の 性海** が綴(つづ)った日記 『関東住還記*』 には 旅の途中で「近江」「守山」「美濃」「尾張」「駿河」「伊豆」などの九カ所で 「諸茶**」 を行ったと記録されています。 しかし、高齢での長旅を考えると、布教や施茶であると同時に、長旅を支える自らの栄養補給や薬用として飲んだ可能性も高いと考えられます。 その後、南北朝時代(1336年―1392年)に 臨済宗** の僧である 虎関師錬* が著した 『異制庭訓往来*』 には、当時の銘茶の産地として「京都各地」「大和」「伊賀」「伊勢」「駿河」「武蔵」が記されています。 これにより、 鎌倉時代(1185年―1333年) 末期から南北朝時代(1336年―1392年)にかけて、寺院を中心とした茶園が関東へと広がり、 “茶” の栽培が普及するとともに、 “茶” を飲む習慣が一般の間にも広がっていったことを示しています。 ❚ 名産地のはじまりと精神文化への移行 “茶” はこの時代を経て、薬草から文化へと姿を変え始めることとなります。 土地に根づいた “茶” の文化は、やがて “道” として総合芸術へと育っていきます。 一粒の “茶” の実が生み出した名産地の広がりは、私たちの一碗の背後にある物語のはじまりでした。 次回は、 “茶” と “禅” の融合がもたらした― “ 精神文化としての喫茶 ” ―についてご紹介します。 登場人物 明恵 1173年―1232年|明恵上人|僧|華厳宗中興の祖|栂尾山「高山寺」開山| 栄西 1141年―1215年|明庵栄西|僧|臨済宗開祖|「建仁寺」開山| 叡尊 1201年―1290年|僧|真言律宗総本山『西大寺』第一世長老|西大寺中興の祖| 性海 生没年不詳|叡尊の高弟| 虎関師錬 1278年―1346年|本覚国師|僧|臨済宗|五山文学の第一人者| 用語解説 栂尾 ―とがのお― 高山寺 ―こうさんじ― 明恵 ―みょうえ― 栄西 ―えいさい― 宇治茶 ―うじちゃ― 真言律宗 ―しんごんりっしゅう― 西大寺 ―さいだいじ― 叡尊 ―えいそん― 大茶盛 ―おおちゃもり― 延応元年(1239年)1月16日、真言律宗総本山『西大寺』の第一世長老『叡尊』が西大寺復興の感謝を込めて鎮守八幡に供茶した行事の余服茶を多くの衆僧に振る舞ったことに由来する茶儀。これらの理念は800年近く受け継がれ、今日も春秋の大茶盛式として4月第2土日と10月第2日曜に開催されています。 戒律の本質である「一味和合」の精神を体現する儀式として、両手で抱え顔が隠れるほどの大きな茶碗を回し飲みし、連客と助け合いながら結束を深める宗教的な茶儀です。 戒律 ―かいりつ― 不飲酒戒 ―ふおんじゅかい― 施茶 ―せちゃ― 性海 ―しょうかい― 関東往還記 ―かんとうおうかんき― 真言律宗総本山『西大寺』の第一世長老『叡尊』が、弘長二年(1262年)に鎌倉へ赴いた際の旅の記録。弟子の『性海』により記されたもので、旅の行程や「諸茶」などが記され、当時の茶文化を知る上での重要史料である。 諸茶 ―もろちゃ― 臨済宗 ―りんざいしゅう― 臨済宗は、中国・宋代の禅僧・臨済義玄を源流とする禅宗の一派で、日本には鎌倉時代初期に栄西によって伝えられました。鎌倉・室町幕府の庇護を受け、五山制度のもと学問や文芸の中心となり、武家文化と深く結びつきました。坐禅や公案による修行で直観的な悟りを目指し、「不立文字」「直指人心」の理念を重視します。茶道にも強い影響を与え、千利休ら茶人は禅の精神を茶の湯の根底に据え、静寂と無駄のない所作に深い精神性を表現しました。 虎関師錬 ―こかん・しれい― 異制庭訓往来 ―いせいていきんおうらい― 南北朝時代に『虎関師錬』によって著された往来物。礼法や知識をまとめた教養書であり、当時の銘茶産地が記されている。寺院を中心とした茶園の広がりや、各地における茶文化の浸透を裏付ける資料のひとつ。
- 3-4|禅と茶の道 ~心を調える喫茶の教え~|第3回 喫茶のはじまり|鎌倉時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第3回 喫茶のはじまり [4/8] ■ 鎌倉時代 (1192年―1333年) ❚ 喫茶の教え “茶” は、ただの飲み物ではなかった――。 それは “禅**” と出会い、深い精神性と結びついていく—。 一服の“茶”に心を調え、己を見つめる。 今回は、禅と 茶が 融合し、喫茶文化として花開いていく姿をたどります。 ❚ 禅苑清規と喫茶法の受容 鎌倉時代(1185年―1333年)、日本における“茶”は“禅”と出会い、精神修養のための道具としての性格を強めながら広がっていきました。 すでにご紹介したように、、 栄西* によってもたらされた 「喫茶法**」 は、単なる薬用にとどまらず、禅の教えと深く結びついた実践でした。 当時の中国・宋時代(960年―1279年)の 禅寺** では、寺院生活の規範を定めた 『禅苑清規*』 が整備されており、その中には 「茶礼**」 に関する詳細な作法や規律も含まれていました。 この『禅苑清規』は、中国・唐時代(618年―907年)の禅僧・ 百丈懐海** が定めたとされる 『百丈清規**』 をもとに、中国・宋時代の 長蘆宗賾** によって編纂されたもので、現存する最古の 清規** として知られています。 『禅苑清規』では、僧侶の日常作法や 叢林** の職制、修行の秩序が厳格に定められ、喫茶は単なる飲食ではなく、心身を清め、修行の一環として位置づけられていました。 こうした教えは、宋の 禅僧** たちによって実践され、日本の禅僧たちにも受け継がれ、茶の文化と禅の精神が深く結びついていく大きな基盤となったのです。 ❚ 禅苑清規の定着 禅僧の 道元* は栄西の弟子 「明全*」 とともに宋へ渡り、四年の修行を経て帰国。 その後、越前に 『永平寺**』 を開創し、 曹洞宗** を広めました。 道元が持ち帰った “禅” の精神と作法は、 “喫茶法” とも融合し、禅院における喫茶の規範を日本に根づかせるきっかけとなりました。 また京都・紫野 『大徳寺**』 の開祖 「宗峰妙超*」 の師である 「南浦紹明*」 も文永四年(1267年)に帰国していることからも前述の “ 禅苑清規 ” が確実に日本へと定着していったことが推測されます。 これらの動きにより、 “ 禅苑清規 ” に基づく “喫茶法” が、日本でも禅宗寺院において自然と受け入れられ、禅と茶は定着していったと考えられます。 ❚ 武士階級への浸透 また “茶” は禅宗寺院と同じく 、鎌倉武士の中にも浸透していきました。 鎌倉幕府 **第三代 将軍** ・ 源実朝* をはじめとする将軍達が茶を嗜んでいたことや 禅宗** の広まりとともに “茶”と“禅” の結びつきはより強固なものとなりました。 その結果 “喫茶法” は精神修養の側面を強めながら日本各地に広がり普及すると共に喫茶文化の確立へとつながっていきます。 このようにして、 “茶”と“禅” は分かちがたく結びつき、日本の精神文化の核をなす存在へと成長していくこととなります。 ❚ 喫茶の思想と茶道の原型 “茶” は心を整える教養として、禅の教えとともに深く根を下ろし、のちの “茶道” の原型となる静かな力を育んでいきました。 “茶” を点て、静かにいただく――その所作の奥にあるのは、己を見つめる時間です。 “禅” とともに育まれた喫茶の思想は、のちの “茶道” の核心に宿り、今もなお私たちの暮らしに静かな光を灯しています。 次回は、喫茶文化が武家から町衆へ広がっていく様子を見ていきます。 登場人物 栄西 1141年―1215年|明庵栄西|僧|臨済宗開祖|「建仁寺」開山| 百丈懐海 749年-814年|大智禅師|僧|洪州宗| 長蘆宗賾 生没年不詳|慈覚大師|僧|雲門宗| 道元 1200年―1253年|僧|高祖承陽大師|曹洞宗の開祖|「永平寺」開山| 明全 1184年―1225年|僧|臨済宗黄龍派| 宗峰妙超 1283年―1338年|大燈国師|僧|臨済宗|「大徳寺」開山| 南浦紹明 1235年-1308年|大応国師|僧|臨済宗| 源実朝 1192年―1219年|鎌倉幕府三代将軍|源頼朝の子| 用語解説 禅 ―ぜん― 栄西 ―えいさい― 喫茶法 ―きっさほう― 禅寺 ―ぜんでら― 禅苑清規 ―ぜんえんしんぎ― 茶礼 ―されい― 百丈懐海 ―ひゃくじょう・えかい― 百丈清規 ―ひゃくじょうせいき― 長蘆宗賾 ―ちょうろ・そうさく― 清規 ―せいき― 叢林 ―そうりん― 禅僧 ―ぜんそう― 道元 ―どうげん― 明全 ―みょうぜん― 永平寺 ―えいへいじ― 曹洞宗の大本山で、『道元』が建長5年(1253年)に開創。坐禅と規律を重んじる修行の場であり、茶を用いた「茶礼」も日常の一部として取り入れられた。 曹洞宗 ―そうとうしゅう― 紫野 ―むらさきのりんざいしゅう― 大徳寺 ―だいとくじ― 京都・紫野に位置する臨済宗大徳寺派の大本山。『宗峰妙超』によって開かれた禅寺であり、のちに千利休ら茶人たちとの交流を通じて茶道文化の中心的存在となる。 宗峰妙超 ―しゅうほう・みょうちょう― 南浦紹明 ―なんぽ・じょうみょう― 南北朝時代に『虎関師錬』によって著された往来物。礼法や知識をまとめた教養書であり、当時の銘茶産地が記されている。寺院を中心とした茶園の広がりや、各地における茶文化の浸透を裏付ける資料のひとつ。 禅宗寺院 ―ぜんしゅうじいん― 鎌倉幕府 ―かまくらばくふ― 将軍 ―しょうぐん― 源実朝 ―みなもとの・よりとも― 禅宗 ―ぜんしゅう―
- 3-5|喫茶の転換期 ~庶民と茶の距離が近づくとき~|第3回 喫茶のはじまり|鎌倉時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第3回 喫茶のはじまり [5/8] ■ 鎌倉時代 (1192年―1333年) ❚ 茶の役割 薬か、それとも嗜好品か――。 “茶” はその役割を変えながら、人々の暮らしの中に静かに浸透していきました。 寺院や武家に限られていた “茶” が、やがて庶民の手にも届くようになる過程には、ある逸話が語り継がれています。 今回は、 “茶” が文化として広まる喫茶の転換期を、物語とともに紐解きます。 ❚ 『沙石集』に見える庶民と茶の接点 鎌倉時代(1185年-1333年) 後期、 “茶” は武家や 禅僧** の間に広く浸透し始めていました。 やがてこの文化は、寺院の外へと少しずつ広がり、民衆の関心を集めるようになります。 その様子は鎌倉時代後期の弘安六年(1283年)に 「無住道暁*」 により 編纂された 仏教説話集**『沙石集**』 に、牛飼いが僧侶の飲む茶に興味を示した一話がみえる。 ある日、牛飼いは禅僧が茶を喫すところを覗き見し ❝ 私にももらえないか? ❞ と禅僧に尋ねたところ禅僧はこう答えます ❝ 茶というのは三つの徳がある薬であり、 その一つは “ 眠気覚まし ” その二つは “ 体内消化 ” その三つは “ 性欲抑制 ” である。 ❞ するとこの話を聞いた牛飼いは ❝ そんな薬は結構です ❞ とその場から立ち去ったといいます。 この逸話は、単なる 寓話** ではなく、薬や修行の補助として限られた場で用いられていた “茶” が、一般民衆の目にも触れるようになっていたことを示す貴重な史料といえます。 つまり 今まで寺院や武家社会に限られていた “茶” が一般民衆の間にも広がっていることを示唆しています。 ❚ 庶民化と茶文化の広がり こうして、 “茶” は “薬” としての実用性と、 “嗜好品” としての楽しみの間を揺れ動きながら、次第に日本全土に広まっていきました。 やがてこの喫茶文化は、室町時代(1336年-1573年)にはいると ― 茶寄合** ― 、 ― 闘茶** ― へと発展し、やがて ―茶の湯文化― の成立へとつながっていくこととなります。 ❚ 一碗に宿る文化の転換点 “茶” が薬から嗜好へと変化する過程には、人々の暮らしと心の移り変わりが映し出されています。 一碗の “茶” が、ただの健康飲料に留まらず、やがて文化や遊びへと昇華していくその軌跡は、私たちの日常にもどこか重なるものがあります。 次回は、 “茶寄合” 、 “闘茶” など、遊芸としての喫茶へと進化する姿をご紹介します。 登場人物 無住道暁 1227年―1312年|大円国師|僧|臨済宗|「長母寺」開山|「沙石集」の著者| 用語解説 禅僧 ―ぜんそう― 無住道暁 ―むじゅう・どうぎょう― 仏教説話集 ―ぶっきょうせつわしゅう― 沙石集 ―しゃせきしゅう― 寓話 ―ぐうわ― 茶寄合 ―ちゃよりあい― 闘茶 ―とうちゃ―
- 3-6|喫茶の様式化 ~鎌倉が育んだ茶の道~|第3回 喫茶のはじまり|鎌倉時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第3回 喫茶のはじまり [6/8] ■ 鎌倉時代 (1192年―1333年) ❚ 茶は心をもてなす文化へ “茶” は “薬” から、心をもてなす文化へと姿を変えていくこととなります。 民衆に広がった一服の “茶” が、やがて武家の嗜みとなり、社交や遊戯の中に取り込まれることで喫茶の様式化が生まれました。 今回は、「喫茶文化」として確立されるまでをたどります。 ❚ 茶の普及と茶の遊戯化 時を経るにつれて、 “薬” としての “茶” は一般民衆にも広まり、次第に嗜好飲料として喫する文化が日常に浸透していきました。 それに伴い “茶” の需要も増し、生産は地域的にも量的にも拡大していきます。 鎌倉時代 (1185年―1333年) 末期には、 “茶” を中心とした集まり 「茶寄合**」 が広く行われ、武士階級の間では喫茶が社交の一手段として重視されるようになりました。 中でも特筆すべきは、 「茶香服**」 や 「闘茶*」 といった遊戯の登場です。 これは、異なる産地の “茶” を飲み比べて ― “銘柄”― を当てるもので、単なる遊びを超えて、 “茶” に対する知識や嗜好を深める文化として発展していきました。 ❚ 精神性と美意識の芽生え こうして、薬用として始まった“茶”は、禅との結びつきを経て、精神性を帯びた ―“茶の湯”― として新たな段階へと歩みを進めていくこととなります。 また、当時盛んだった中国・宋代(960年-1279年)との貿易により、大量にもたらされた 「唐物道具**」 の影響も大きく、日本の茶の湯文化の形成に寄与しました。 茶器 ・ 香炉 などをはじめとする多くの唐物道具に対する美意識もこの頃に芽吹き、後の―“茶の湯”―における美につながっていくこととなります。 ❚ 茶の湯のはじまり この頃には“茶”はもはや、飲むだけのものではなく、それは、精神を磨き、人と人を結ぶ、様式となり、今の“茶道”につながる原点が誕生したことがうかがえます。 一碗の“茶”が、ただの飲み物ではなく、人の心を映し出す“器”となっていく―― そうした精神文化の確立こそが、“茶の湯”のはじまりでした。 次回からは、“茶の湯”がより具体的な作法と空間を持ち、 ― 書院茶湯** ― として発展していく姿をご紹介します。 登場人物 用語解説 茶寄合 ―ちゃよりあい― 茶の湯を目的とした集まりの一つで、格式張らず気軽に催される茶会の形式です。客同士が茶器や茶葉を持ち寄り、道具談義や闘茶、詩歌、点前を楽しみながら、文化的な交流を深める場として行われました。特に室町時代以降、武士や町人の間で広まり、茶の湯が広く普及する契機となった、社交性と遊興性を兼ね備えた茶の集いです。 茶香服|茶歌舞伎 ―ちゃかぶき― 茶歌舞伎ともいう。宋代の中国で流行し、鎌倉時代から室町時代にかけて日本で流行した茶を飲み比べて産地や銘柄を当てる遊戯。 闘茶 ―とうちゃ― 茶香服は、茶を飲み比べて産地や銘柄を当てる遊戯であり、闘茶もこれに類似しますが、「本茶」と「非茶」を識別する競技性の高い形式で、より勝負事としての要素が強く、賞品や罰が伴う賭け事的な側面を持っていました。とくに武士階級を中心に広まり、茶に関する知識や審美眼を競う文化へと発展し、後の茶道の精神性にも影響を与えることとなりました。 唐物道具 ―からものどうぐ― 中国から舶来した茶道具や美術品の総称で、鎌倉時代から室町時代を中心に珍重されました。茶碗・香合・花入・書画などが含まれ、特に宋・元時代の品が高く評価されました。唐物は茶の湯における格式や趣向を示す重要な要素であり、侘び茶の発展とともに国産の道具と対比される存在として、茶人たちの美意識に深く影響を与えました。 茶器 ―ちゃき― 香炉 ―こうろ― 書院茶湯 ―しょいんちゃゆ―



















