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9-1|中村家とは|中村宗哲|中村家|塗師|千家十職|

千家十職



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■ 中村家|中村宗哲|塗師 ■

中村家とは






❚ 中村家とは

中村家~なかむらけ~とは、千家十職の内の一家で棗、香合などの塗物(漆芸)を業とする職家。


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中村家の漆芸は、深みのある漆の光沢と、繊細で格調高い意匠が特徴である。漆塗りは単なる装飾のみならず、器物の強度や手触りにも関わる重要な工程であり、実用性と美の調和を求められる茶の湯において欠かせない技法とされています。



中村宗哲の名を冠する塗物は、茶席において格式を備えた道具として高く評価され、茶の湯の発展とともに技を磨き続けてきました。

中村家の作品は、時代を経てもなお伝統の技法を守り、茶の湯の世界に欠かせぬ存在として今日に受け継がれています。











❚ 中村家のあゆみ

中村家の祖は中村家元祖/覚法源想信士(生年不詳-1654)と伝えられ、その父は豊臣政権の三中老のひとり、中村一氏(生年不詳-1600)の家臣であったと伝えられています。



中村家三代/中村宗哲(1699-1776)の後室の家伝によると中村家元祖/覚法源想信士は慶長二十年(1615年)「大阪夏の陣の合戦をうとみ、京都の武者小路へ隠栖した」と伝えられる。

また中村家の過去張には慶長十五年(1610年)没の「肇智妙春信女」の戒名が記されており、これが「中村家元祖/覚法源想信士」の母と推測される。



中村家元祖/覚法源想信士はかつて豊臣秀吉(1536-1598)に仕えた武士であり、茶の湯にも親しんでいたと考えられる。徳川家の世となって以降は豊臣家との関わりを公には語らず、市中の山居の趣を持つ武者小路に居を構え、静かに茶の湯を嗜み余生を送ったと伝わっている。



その息子である中村家初代/中村宗哲(1617-1695)は元和三年(1617年)に生まれ、のちに塗師としての道を歩み、千家に仕えるようになる。

中村家元祖/覚法源想信士は承応三年(1654年)に没し、室である「月山秀悦信尼」は貞亨三年(1686年)九十歳でその生涯を終えました。











❚ 武者小路千家と中村家

千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の次男(後の武者小路千家四代/似休斎一翁宗守)は中村家初代/中村宗哲の娘婿となり、「吉岡甚右衛門」と名乗り塗師を営んでいました。



しかし父である千家三代/咄々斎元伯宗旦から茶家の後嗣を望まれたため吉岡家を出て千家に復し、その際に塗師としての家業を八兵衛(後の中村家初代/中村宗哲)に譲ることとなります。



中村家三代/中村宗哲()の後室の伝によると以下のように伝える。



「一翁(宗守)の娘を塗師織、吉文字屋号共附属にて初代宗哲(八兵衛)妻に致され候なり。」


この縁を象徴するものとして、当時到来した四方手水鉢があり「武者小路千家」と「中村家」の庭にそれぞれ一対として現存しています。

また、かっては福島正則(1561-1624)を祀る「福守稲荷」が中村家に祀られていたが今日は武者小路千家に祀られており、両家の深い関りを今に伝えています。











❚ 中村家の役割

中村家の祖中村家は初代の頃より蒔絵を施した家具や調度品などの塗物を手がけ、優れた塗師として名を広める。

江戸時代(1603-1868)の後期には、茶道具の専門性を高め、棗や香合を中心とした「千家好み」の塗物制作に特化し、明治時代(1868-1912)以降は茶道具専門の「型物塗師」としての制作に特化し、千家好みの塗物を手がける職家としての地位を確立しました。


中村家は代々千家に仕え、茶の湯の伝統を支える塗師としてその技を絶やさず、代々の宗哲が伝統の継承に尽力してきた。

現代の中村宗哲もまた、伝統技法を守りながら現代の感性を取り入れ、茶道具としての実用美と芸術性を兼ね備えた作品を制作しています。



四百年にわたり、千家に仕え、茶の湯の精神を映す塗師としての役割を果たしてきた中村家は、今もなお茶の湯の美意識を支える重要な職家です。











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茶道具|中古道具市
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