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10-1|飛来家とは|飛来一閑|飛来家|一閑張細工師|千家十職|

千家十職



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■ 飛来家|飛来一閑|一閑張細工師 ■

飛来家とは






飛来家とは

飛来家~ひきけ~とは、千家十職の内の一家でわが国における漆工芸の一種「一閑張~いっかんばり~」の創始者であり、一閑張細工を業とする職家。



一閑張とは、木地に和紙を何層にも張り重ね、漆を塗って仕上げる技法で、軽量ながら堅牢な作りと独特の質感を持ち、その風合いが茶の湯の「わび・さび」の美意識にふさわしいとして高く評価され、茶の湯の世界で重用されてきました。



飛来家の一閑張は、茶室の雰囲気に溶け込む上品な意匠や、漆の優雅な光沢が特徴で、千家好みの茶道具として代々制作が続けられています。

時代の移り変わりの中でも伝統の技法を守り、茶の湯の世界に欠かせない存在として現在に受け継がれています。



飛来家では飛来家十一代/飛来一閑(1791-1872)の頃より、通称「才右衛門~さいうえもん~」とし、剃髪後に「一閑」を名乗るのがしきたりとなる。









飛来家のあゆみ

飛来家の祖は、現在の中国・浙江省杭州の西湖畔にある霊隠寺の僧で、明末の動乱を避けて寛永年間(1624年~1644年)に日本へ渡来した人物と伝えられています。

出身地の「飛来峰」にちなみ「飛来」を姓としました。



大徳寺百七十世/清巌宗渭(1588–1662)を通じて、千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578–1658)に引き立てられ、千家近くの小川頭に家を構え、一閑張細工を始めたといわれます。



千家三代/咄々斎元伯宗旦は一閑張の独特の風合いが茶の湯(わび茶)の美意識にふさわしいとして高く評価し、自身の指導のもと約80種に及ぶ茶道具の製作を依頼したとされる。

また茶事に招く際は常に懐石なしの「飯後御入来」で案内したところから、千家三代/咄々斎元伯宗旦より「飯後軒~はんごけん~」の軒号を与えられ、これを機に千家出仕の一閑張細工師 として仕えるようになる。











❚ 飛来家の発展と受難

飛来家五代/飛来一閑(生年不詳-1741)の頃からは茶筅や羽箒、円座、草履など、多様な細工物や用具も手掛けるようになります。しかし飛来家六代/飛来一閑(生年不詳-1746)から飛来家八代/飛来一閑(生年不詳-1753)までは当主が相次いで早世し、家業の維持が困難な時期を迎えることとなります。



さらに天明八年(1788年)一月の「天明の大火」により、千家の職方の多くが被災。

飛来家も罹災し、家譜や初代以来の作品・印判・墨蹟など貴重な資料の大半を焼失しました。

この時に千家三代/咄々斎元伯宗旦が書き記した「一閑由来記」もこのとき失われています。



その後、飛来家十代/飛来一閑(1757-1830)をはじめ飛来家中興の祖とも呼ばれた飛来家十一代/飛来一閑(1791-1872)が飛来家の再興に尽力。











❚ 近代から現代へ

飛来家十四代/飛来一閑(1894-1977)は後継者となるべく育てた二人の息子を太平洋戦争で失うという悲運に見舞われましたが、婿養子として迎えた飛来家十五代/飛来一閑(1926-1981)が家を継ぎました。



飛来家十五代/飛来一閑は大成を目前に急逝しましたが、その志を受け継いだ娘が飛来家十六代/飛来一閑(1963-)として家業を継承し、現在も夫とともに家業を守り続けています。



飛来家は、四百年にわたり千家十職の一角として一閑張の技を伝承し、茶の湯の美意識を今に伝える重要な職家です。











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茶道具|中古道具市
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