2-1|永楽家とは|永楽善五郎|永楽家|土風炉・焼物師|千家十職|
- ewatanabe1952

- 2023年9月29日
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千家十職

■ 永楽家|永楽善五郎|土風炉・焼物師 ■
永楽家とは
❚ 永楽家とは
永楽家~えいらくけ~とは、千家十職の内の一家で焼物を業とする職家。
仁清写、色絵、交趾など多彩な焼物を、千家の美意識に基づいた高度な技法で制作し、茶道具としての機能性と芸術性を兼ね備えた作品を生み出しています。
茶の湯の精神とともに歩み、千家好みの焼物を代々にわたり手がけてきたその技は、時代を経てもなお洗練され、伝統を守りながら新たな美を創造し続けています。
❚ 永楽家のあゆみ
祖先はもともと大和国・西京(現材の奈良市西ノ京)に住む「土風炉師」であり、奈良の春日社(春日大社)の斎器(供御器)を制作していたと伝えられています。
永楽家初代/西村宗禅(生年不詳-1558)は千家開祖/抛筌斎千宗易利休(1522-1591)の師である堺の武野紹鷗(1502-1555)の依頼で「紹鷗好み」の茶の湯用土風炉を制作したことをきっかけに土風炉造りを家業とし、晩年には「土風炉師/善五郎」を名乗るようになります。
永楽家二代/西村宗善(生年不詳-1594)は大阪/堺に住んでいましたが、永楽家三代/西村宗全(生年不詳-1623)以降は京都に定着し、茶の湯文化の発展とともに名声を高めていきました。
特に永楽家三代/西村宗全(生年不詳-1623)は細川三斎(1563-1646)や小堀遠州(1579-1647)らの大名茶人の支持を得ており、小堀遠州の用命を受けた際に「宗全」の銅印を拝領。この「宗全印」は以降、永楽家九代/西村宗巌(生年不詳-1779)まで作品に用いられました。

❚ 永楽の名
永楽家が千家に出仕するようになったの、は永楽家十代/永楽了全(1770-1841)以降だと考えらています。それ以前、永楽家は「西村」の姓を名乗っていましたが明治時代(1868-1912)に「永楽」の姓を名乗るようになります。
永楽という名は、中国明王朝時代(1368-1644)の優れた陶磁器を焼いた永楽帝時代(1402-1424)に由来し、永楽家十代/永楽了全以降は「永楽」の姓を名乗り、茶陶の制作に取り組むようになりました。
永楽家十一代/永楽保全(1795-1854)は文政十年(1827年)に、紀州藩十代藩主/徳川治寶(1771-1853)の別邸「西浜御殿」の御庭焼開窯を任され、その作品を賞して「河濱支流~かひんしりゅう~」の金印と「永楽」の銀印を拝領。
以降、この「永楽」の印を用いると共に永楽家十二代/永楽和全(1823-1896)の代から「永楽」姓を正式に名乗ることとなる。また歴代を遡って永楽家十代/永楽了全と永楽家十一代/永楽保全も「永楽」の名で呼ばれています。
❚ 河濱支流とは
「河濱支流~かひんしりゅう~」という言葉は中国における陶磁器に関する最古の記述の一つである『史記』に由来します。
「瞬陶(ス)(二) 河濱(二)(一) 器皆不(二)苦歪(一) ―訳― 聖王・瞬が河のほとりで陶を焼いたところ、器はすべて歪まなかった
この故事にちなみ、陶芸の理想を示す語として「河濱支流」と名づけられました。
「河濱」は陶を焼いた地、「支流」はその技と精神を受け継ぐ意を表しています。

❚ 樂家とのすみわけ
千家十職の中には同じく茶碗を作る茶碗師「樂家/樂吉左衛門」が存在しますが永楽家は主に「伝世品の写し」などを作っており、樂焼のみを専門とする樂家とは住み分けがなされています。
このため、永楽家の作品には、樂焼以外の多様な技法が取り入れられており、歴代の永楽善五郎によって茶陶の美が研ぎ澄まされてきました。
❚ まとめ
永楽家は、千家十職の土風炉・焼物師として、茶道の発展に欠かせない存在であり続けています。
その歴史は、武野紹鷗や千家開祖/抛筌斎千宗易利休の時代から連綿と続き、今日に至るまで、千家の茶の湯とともに歩んできました。
時代の流れに応じた変化を遂げながらも、受け継がれる技と精神は、今もなお茶の湯の世界で輝き続けています。


