9-3|大師会 ~日本文化を守った茶会~|第9回 茶の湯の救世主|明治時代|茶道の歴史
- ewatanabe1952

- 2023年1月17日
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全10回 茶道の歴史

第9回 茶の湯の救世主 (3/5)
― 明治時代 (1868年―1912年) ―
❚ 茶会が文化を支える場に
茶の湯は、どのようにして“文化保存”の場となったのでしょうか。
園遊会形式で開催された壮大な茶会が、日本の美術や精神文化を守りました。
一服の茶を媒介に、書画・仏教・工芸が一堂に会した空間。
今回は、明治の「大師会」から、茶の湯と文化保護の歩みをひもときます。
❚ 益田鈍翁と文化保存の茶会

明治時代、数寄者と呼ばれる実業家や政財界人たちの尽力により、茶道は再興の道を歩み始めました。
その中心人物のひとりが、三井財閥の中核を担った益田鈍翁です。
益田鈍翁は、茶道をはじめとする日本文化を保存・発展させる活動に情熱を注ぎ、とくに仏教美術や書画などを取り入れた大規模な茶会を開催しました。
その代表例が、明治二十九年(1896年)に開催された『大師会*』です。
きっかけは、彼が入手した弘法大師『空海*』の『崔子玉座右銘*』の古写本でした。
これは江戸時代の名絵師『狩野探幽*』が秘蔵していたとされる名品であり、仏教と文化を結ぶ象徴的な遺品でもありました。
❚ 二大茶会の成立とその意義

この大師会は『空海』の命日である3月21日にあわせ、自邸で催された茶会でありながら、従来のような少人数での開催ではなく、多くの招待客を一度に迎える「大寄茶会*」として実施されました。
国内における最高峰の逸品、名品の展示と茶の湯を融合した新たな形式は大きな話題を呼び、政財界の名士たちがこぞって出席。
❝
招かれなければ面目が立たぬ
❞
とまで言われるほどの影響力を持ち、茶道は文化の中心として再び光を放つこととなりました。
一方、西の京都では、江戸時代初期の芸術家『本阿弥光悦*』を偲ぶ『光悦会*』が、鷹峯の「光悦寺」にて春に開催されるようになります。
こうして、東の大師会、西の光悦会は、文化と美を守る茶会として定着。今日でも続く日本を代表する二大茶会として多くの茶人たちに親しまれています。
❚ 美と精神をつなぐ一碗
文化は一朝一夕には守れません。
大師会に集った人々は、茶の湯を通じて美術や精神文化の再評価を促しました。
一碗のお茶に、仏教の思想や美の記憶が宿る――。
次回は、こうした明治の動きが、教育や外交の場にまで広がり、現代へとつながる茶道の新しい展開へと進んでいく様子を見ていきましょう。
登場人物
益田鈍翁
……… 三井財閥|実業家|数寄者|孝|1848年―1938年
空海
……… 真言宗開祖|弘法大師|774年―835年|高野山「金剛峯寺」建立|遣唐使
狩野探幽
……… 絵師|1602年―1674年
本阿弥光悦
……… 芸術家|陶芸家|刀剣鑑定家家|1558年―1637年
用語解説
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大師会
―たいしかい―
明治二十七年(1894) に三井物産の創始者であり茶人でもある『益田孝』は江戸時代(1603-1868)初期の絵師『狩野探幽』が秘蔵していたという弘法大師『空海』の『崔子玉座右銘』一巻を入手。明治二十九年(1896)の弘法大師『空海』の命日(3月21日)に自宅にて『大師会』を開催。その後「三渓園」「畠山美術館」「護国寺」と会場を移しながら、昭和49年(1974)より「根津美術館」に引き継がれ現在でも毎年春に開催されています。
空海
―くうかい―
774年―835年。真言宗の開祖であり、「弘法大師」の名で親しまれる高僧。唐に留学し密教を修得、帰国後に高野山を開いた。文化的側面にも長け、茶の種子や製法を持ち帰ったとされ、日本の茶文化の起源の一人とされる。
崔子玉座右銘
―さいしぎょくざゆうめい― 中国後漢時代の文人『崔瑗(崔子玉/さいしぎょく)』によって記された格言集で、処世訓や人生訓を簡潔な文で綴った作品。「善は急げ、悪は遅らせよ」「心を正しくして行いを慎め」など、日常の行動指針となる言葉が多数含まれています。唐代以降、日本にも伝わり、武士や文人、茶人たちにも愛読されました。道徳と教養を備えるための手引きとして、今なお読み継がれています。
大寄茶会
―おおよせちゃかい―
多人数を招いて行う大規模な茶会で、茶の湯本来の「一客一亭」の精神から派生した形式です。明治以降に広まり、寺院や美術館、公園などの広い会場で、不特定多数の来場者を対象に開催されます。複数の流派や席主が点前を披露し、参加者は自由に席を巡り茶の湯を体験できます。格式にとらわれず初心者も参加しやすいため、茶道の普及や地域文化の振興に寄与しています。
狩野淡幽
―かのう・たんゆう―
江戸時代前期を代表する絵師で、狩野永徳の孫にあたります。15歳で徳川将軍家に仕え、御用絵師として二条城・名古屋城・江戸城などの障壁画を多数手がけました。雄大で洗練された構図、抑制の効いた筆致により、「探幽様式」と称される独自の美を確立しました。水墨画ややまと絵の技法を融合させたその作風は、狩野派の中でもとりわけ高く評価され、後世の絵師たちに大きな影響を与えました。
本阿弥光悦
―ほんあみ・こうえつ―
江戸時代初期の芸術家・文化人で、書・陶芸・漆芸・茶の湯など多彩な分野で才能を発揮しました。刀剣鑑定の家系に生まれ、寛永の三筆に数えられる名筆家でもあります。徳川家康から洛北・鷹峯の地を拝領し、芸術村「光悦村」を築いて多くの職人と共に創作活動を行いました。楽焼茶碗や蒔絵に見られる独創性と美意識は、のちの琳派にも影響を与え、日本美術史に大きな足跡を残しました。
光悦会
―こうえつかい―
江戸時代(1603-1868)初期の芸術家『[芸術家]本阿弥光悦(1558-1637)』を偲ぶと共に関西茶道界の力を誇示しようとしていた『[茶道具商]土橋嘉兵衛(生没年不詳)」『[茶道具商]山中定次郎(1866-1936)』らを世話役に『[実業家]馬越化生(1844-1933)』『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁](1848-1938)』『[実業家]三井孝弘松風庵(1849-1919)』などの賛助を得て大正四年(1915)『[実業家]三井孝弘松風庵(1849-1919)』を会長にして発足。現在では11月11日~13日の日程で東京、京都、大阪、名古屋、金沢の五都美術商が世話役となり開催されています。
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