9-2|数寄者の功績 ~茶道を救った男たち~|第9回 茶の湯の救世主|明治時代|茶道の歴史
- ewatanabe1952

- 2023年1月18日
- 読了時間: 4分
全10回 茶道の歴史

第9回 茶の湯の救世主 (2/5)
― 明治時代 (1868年―1912年) ―
❚ 数寄の心が文化をつないだ
茶の湯は、誰によって近代へと受け継がれたのでしょうか?
大名に代わって文化を支えたのは、新時代を切り拓く実業家たちの美意識と情熱でした。
茶室を再建し、茶会を開き、道具を守る——。
今回は、明治時代の危機にあって茶道を再生へと導いた「数寄者」の存在に注目します。
❚ 新たな担い手「数寄者」の登場

明治時代に入って茶道は深刻な衰退期を迎えることとなりました。
そんな中で救世主として現れたのが、明治以降に台頭した「数寄者」と呼ばれる実業家や財界人たちでした。
とりわけ著名なのが『益田鈍翁*』です。
益田鈍翁は三井財閥の中心的人物でありながら、茶の湯を深く愛し、その発展と保存に生涯を捧げました。
また、同時期に茶道の再生に大きな貢献をしたのが、『井上馨*』です。
明治政府の外務卿などを歴任しながら、伝統文化の保護にも情熱を注ぎました。
井上馨は、奈良・東大寺四聖坊にあった茶室『八窓庵*』が取り壊され、風呂の薪として売られようとしていたところを耳にし、三十円でこれを購入し、東京・鳥居坂の自邸へと移築しました。
そして明治二十年(1887年)、その完成披露に「明治天皇」が行幸したことで、明治以降に衰退していた茶の湯に再び注目が集まりました。
❚ 守る、伝える、つなげる

「数寄者」たちは、その莫大な財力をもとに、美術品としての茶道具を集めるだけでなく、茶室を再建し、茶会を開き、茶道の世界に実践者として深く関わることで、その存続と再興を実現したのです。
財界人、政治家、文化人たちが一体となって伝統を再生しようとするこの動きこそ、現代に続く近代茶道の基盤となりました。
❚ 茶の湯をつないだ「こころ」
武士が去り、時代が変わっても、茶の湯の灯は消えませんでした。
それを守り育てたのは、新しい時代を担った数寄者たちの手でした。
道具を残し、精神を継ぎ、場をつくる――。
彼らの美意識と行動力が、茶道を近代へと導いたのです。
次回は、そうして築かれた近代茶道がどのようにして「教育」や「国際交流」に展開していったのかを見ていきましょう。
登場人物
益田鈍翁
……… 三井財閥|実業家|数寄者|孝|1848年―1938年
井上馨
……… 政治家|実業家|1836年―1915年
明治天皇
……… 第百二十二代天皇|1852年―1912年
用語解説
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数寄者
―すきしゃ―
茶道・香道・和歌・書画などの風雅な趣味を深く愛し、造詣を持つ人物を指します。特に茶の湯においては、単なる愛好者にとどまらず、道具の選定やしつらい、もてなしの精神に至るまで、洗練された美意識と教養を備えた人が数寄者と称されます。千利休や織田有楽斎、松平不昧などがその代表で、数寄者の精神は、現代の茶人にも大きな影響を与え続けています。
益田鈍翁
―ますだ・どんのう―
1848年―1938年。実業家・数寄者として明治から昭和初期にかけて活躍した人物で、本名は益田孝。三井物産の初代社長として近代経済界を支える一方、茶道・書画・能楽などの文化保護にも尽力しました。とくに茶の湯では独自の審美眼と収集で知られ、「近代数寄者の祖」と称されます。多くの名物道具を伝世し、近代茶道の復興と美術振興に大きな足跡を残しました。
井上馨
―いのうえ・かおる―
1836年―1915年。幕末から明治にかけて活躍した政治家。長州藩出身で、明治政府では外務・大蔵・内務大臣などを歴任。欧化政策を推進し、鹿鳴館の建設でも知られる。一方で茶道や芸術にも理解が深く、数寄者としても文化人との交流を重ねました。政治と文化の両面で近代日本の形成に大きな影響を与えた人物です。
八窓庵
―はっそうあん―
奈良・東大寺四聖坊にあった茶室。明治時代に井上馨が取り壊されそうになったのを買い取り、東京に移築。茶道再興の象徴的な存在となった。
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