top of page

2-6|利休の罪因 ~木像の安置~|02.利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

全10回 抛筌斎 千宗易 利休



千利休の人物イラストと掛物「利休の生涯」を組み合わせた構成で、利休の行動の背景と罪の性質を伝える冒頭画像。


利休の生涯

― 利休の罪因 ~木像の安置~ ―






❚ 利休の罪とは何だったのか?

千利休の死罪は茶道史上最大の事件の一つとして知られています。



利休の罪因についてはさまざまな要因を考察することができるが、直接的な罪状としては史料に基づき以下の二点が考えられる。



(壱).『大徳寺**三門**(金毛閣**)に自らの木像を安置した件』

(弐).『茶器売買にかかわる不正(売僧の嫌疑)



しかしながら、これらの罪が切腹**という極刑に値するかについては疑問の余地があり、その他の政治的要因が絡んでいた可能性も指摘されている。



本項では、まず第一の罪因として語られる「(壱).大徳寺三門(金毛閣)に自らの木像を安置した件」の問題を詳しく見ていきます。











❚ (壱).大徳寺三門(金毛閣)に自らの木像を安置した件

ree

大徳寺三門(金毛閣)の楼上**に利休像が安置され、これが豊臣秀吉の怒りを買う決定的な要因になったと考えられています。



大徳寺三門(金毛閣)は豊臣秀吉*をはじめ天皇、公家**、大名などが訪れる場所であり、利休像が祀られた三門には本来、仏像や高僧像を納める格式高い場とされています。



その場所に在世中の俗人の像が安置されることは極めて異例なことで、この行為が豊臣秀吉の強い不興を買ったとされていまる。











❚ 誰が利休像を安置したのか


大徳寺三門(金毛閣)の改修に際し、資金を提供した利休に対し、その恩義に報いるかたちで、大徳寺百十七世/古渓宗陳*が楼上に安置したとされています。













❚ 史料から読み解く秀吉の怒り➀

ree

伊達家**の家臣であった鈴木新兵衛*は京都・一条戻橋**梟首**された首を目にし、その旨を国元の家老**/石母田景頼*に充てた書状に次のように記している。



「茶の湯天下一宗易(利休)、無道の刷い年月連続のうえ、御追放。行方なく候。しかるところに、右の宗易、その身の形を木像にて作り立て、紫野大徳寺に納められ候を、殿下様(秀吉)より召し上され、聚楽の大門もどり橋と申し候ところに、張付けにかけさせられ候。木像の八付、誠に誠に前代未聞の由し、京中において申すことに候。見物の貴賤、際限なく候。右八付の脇に色々の科ども遊ばされ、御札を相立てられ候。おもしろき御文言、あげて計うべからず候。」
訳) 直接の罪状は自身の木像。その木像は秀吉の命により磔にされた。 その他の罪状の逐一が、その脇の高札**に面白おかしく列挙されていた。



この記録から、利休の木像が磔にされ、罪状が高札に滑稽な文面で列記されたという異例の処分がなされたことがわかります。











❚ 史料から読み解く秀吉の怒り➁

ree

公家の勧修寺晴豊が記した日記『晴豊公記』には次のような記述がある。



「大徳寺山門に利休木像つくり、せきだという金剛はかせ、杖つかせ、造り置き候こと、曲事なり。その子細、茶の湯道具新物ども、くわんたいにとりかわし申したるとのことなり」
訳) 木像に雪駄**をはかせ、そのうえ杖までつかせるとは、いかにも俗人をあしらったもので、とても聖なる大徳寺の山門に安置するにはふさわしくない。なにより大徳寺の山門といえば、関白秀吉をはじめ、天皇、公家・諸大名など、歴々の衆が訪れるところであるから、まさしく適正性を欠いた行為と見ざるをえない。



このことから、利休の木像の安置が、豊臣秀吉にとって極めて不敬であったと見なされたことがわかる。



またこの行為は朝廷**や公家からも問題視された可能性も考察できる。












❚ なぜ切腹へ至ったのか

大徳寺山門に自身の木像を安置した行為は、宗教的・形式的な面で――越権行為**――とされ、豊臣秀吉の怒りを買いました。



とはいえ、これは本来、死罪に値するものではなく、あくまで――表向きの罪――に過ぎなかったとする見方もあります。





当時の利休は政権中枢に近く、大名たちの信望を集める存在でもあり、その影響力が秀吉にとって脅威と映った可能性が指摘されています。



また、切腹は武士に科される刑であり、茶人である利休にこの命が下されたことは、異例の判断であり謎を残します。



利休の死は単なる宗教的不敬ではなく、政治的・経済的な背景が複雑に絡んだ末の処断だったと考えられます。











❚ 次回は・・・

次回の「2-7|利休の罪 (弐)|02.利休の生涯」では、利休に下されたとされるもう一つの「罪」とは何であったのか、それがどのような経緯で形成されたのか、史料をもとに多角的に検証していきます。











登場人物


  • 千利休|せん・りきゅう

……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年


  • 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし

……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年


  • 古渓宗陳|

……… (1532–1597):大徳寺117世。利休の最晩年の師であり、肖像画や居士号の伝承に関与。


  • 鈴木新兵衛|

……… (?–?):伊達家家臣。利休の木像の処遇について現地で報告。


  • 石母田景頼|

……… (1559–1625):伊達家家老。新兵衛の報告を受けた人物。


  • 勧修寺晴豊|

……… (1544–1603):公家。『晴豊公記』にて利休事件の記録を残す。











用語解説


  • 大徳寺|

………


  • 三門|

………


  • 金毛閣|

……… 京都の禅寺・大徳寺にある名高い山門。高僧の像を安置する場。


  • 切腹

………


  • 公家

………


  • 一条戻橋

………


  • 梟首|きょうしゅ

……… 首をさらす刑罰。秀吉が利休の首を戻橋に晒した。


  • 家老|

………


  • 高札|こうさつ

……… 罪状などを記した掲示板。利休の木像の脇に設置された。


  • 晴豊公記

………


  • 雪駄|せった

……… 茶人や僧が履く履物。木像に履かせたことで俗人性を強調。


  • 朝廷

………


  • 越権行為

………











商品カテゴリー
茶道具|中古道具市
bottom of page