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2-7|利休の罪因 ~売僧の嫌疑~|02.利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎

全10回 抛筌斎 千宗易 利休


千利休の人物イラストと掛物「利休の生涯」を組み合わせた構成で、諸説に基づく利休の最期を読み解く冒頭画像。


利休の生涯

― 利休の罪因 ~売僧の嫌疑~ ―






❚ 利休の罪とは何だったのか?

千利休*の死罪は茶道史上最大の事件の一つとして知られています。



利休の罪因についてはさまざまな要因を考察することができるが、直接的な罪状としては史料に基づき以下の二点が考えられる。



(壱).『大徳寺**三門**(金毛閣**)に自らの木像を安置した件』

(弐).『茶器売買にかかわる不正(売僧の嫌疑)



しかしながら、これらの罪が切腹**という極刑に値するかについては疑問の余地があり、その他の政治的要因が絡んでいた可能性も指摘されている。



本項では、第二の罪因として語られる「(弐).茶器売買にかかわる不正」の問題を詳しく見ていきます。











❚ (弐).茶器売買にかかわる不正の件

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利休が切腹を命じられた罪因として、もうひとつ挙げられるのが『茶器売買にかかわる不正』です。



これは樂焼(長次郎焼)**をはじめとする利休自らが企画や制作した茶道具を自身の立場を利用し高値で取引し、その収益を得ていたという行為。



その行為が豊臣秀吉*の怒りを買う要因のひとつであったとされる。









❚ 史料から読み解く秀吉の怒り➀

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この一件についても以下の2つの史料よりその史実の存在を裏付けることができる。


■ その1 ―――――

公家**勧修寺晴豊*が記した日記『晴豊公記**』には次のように記されている。



「その仔細は茶湯道具の新物などをも緩怠**に取換はし」 訳) その仔細**は、茶湯道具の新物などをも不正に取引したことにある。





■ その2 ―――――

興福寺**多聞院**の住職/多聞院英俊*の日記『多聞院日記**』の天正十九年(1591)二月二十八日の条には次のように記されている。



「スキ者の宗益 今暁切腹り了ンヌト。近年新儀ノ道具ドモ用意シテ 高値二売ル。マイスの頂上ナリトテ 以テノ外。関白殿御立腹」 ――数寄者**の宗易**、今暁**腹切りおわんぬと。近年新儀の道具ども用意して高値にて売る。売僧**の頂上なりとて、以ての外、関白殿**立腹―― 訳) 数寄者の宗易、今暁、腹切り終えたり。近年、新儀の道具を用意し、高値にて売る。売僧**の極みなりとして、関白殿、激怒せらる。



以上の2つの史料には共通して――茶器(茶道具)の不正売買――について問題視されていたことが記されています。











❚ 単なる――売買――ではすまない恐怖

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前項で述べた茶器の不正売買において問題とされたのは、単に高額での取引そのものであったとは以下のことからも考えられない。


  • 高値であっても、利休が売る茶器であれば確実に売れるという――絶対的な信頼性――が確立していたこと

  • 門弟たちを通じて、利休が独占的ともいえる販売体制を築いていたこと


これらは、千利休が文化的のみならず経済的にも極めて強い影響力と権威を有していたことの証左であり、町衆をはじめとする広範な支持層の中で、利休が――カリスマ**――的な存在として認識されていたことを物語っています。



しかし、そのような影響力は、天下人の豊臣秀吉にとってはすでに――許容することのできない影響力――に達していた可能性があり、利休の存在は政治的にも脅威と映っていたと考察することができまる。













❚ 解決できないミステリー

このように、前項・本項の史料からも明らかなように、『(壱) 大徳寺三門(金毛閣)への自身の木像安置』および『(弐) 茶器売買に関する不正行為』という二つの事由は、千利休の罪状として確実に記録されているものです。



一方で、利休の死には以下のような政治的・個人的背景が関係していたのではないかとする説も、数多く存在します。




  • 豊臣秀吉との茶の湯に対する考えの相違

  • 豊臣秀吉の嫉妬

  • 豊臣秀吉が利休の四女:吟*妾**に臨んだが、それを利休が拒否したこと

  • 利休の権力が増大しすぎたことへの豊臣秀吉の恐怖心

  • 朝鮮出兵**への反対、批判

  • 豊臣秀長*派(大政所派)と淀君*石田三成*派の政権争いに巻き込まれた



とりわけ利休の庇護者であった豊臣秀長の死後に石田三成が台頭し、その影響力によって利休が排除されたとする見解は、近年注目されています。



このように、千利休の死の背景には未解明の点が多く残されており、今後の研究によってさらなる真相の解明が期待されます。












❚ 次回は・・・

次回の「2-8|利休の死後|02.利休の生涯」では、利休の死後、その精神と茶の湯の教えがどのように門弟や千家に引き継がれていったのか、孫の千宗旦以後の動きとあわせてご紹介します。











登場人物


  • 千利休|せん・りきゅう

……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年


  • 豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし

……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年


  • 勧修寺晴豊

……… (1544–1603):公家。『晴豊公記』にて詳細な記録を残す。


  • 多聞院英俊

……… (1518–1596):興福寺多聞院の住職。日記に利休の最期を記す。


  • 吟|

………


  • 豊臣秀長

……… (1540–1591):秀吉の実弟。利休の重要な後ろ盾。


  • 淀君|

………


  • 石田三成|

……… (1560–1600):豊臣政権の実務官僚。利休排斥に関与したとの説あり。











用語解説


  • 大徳寺

………


  • 三門

………


  • 金毛閣

………


  • 樂焼

………


  • 公家

………


  • 晴豊公記

………


  • 緩怠

………


  • 仔細

………


  • 興福寺

………


  • 多聞院

………


  • 多聞院日記

………


  • 数寄者

………


  • 宗易(宗益)

………


  • 今暁

………


  • 売僧|ばいそう

………


  • 関白殿

………


………


  • 朝鮮出兵

………

商品カテゴリー
茶道具|中古道具市
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