2-4|秀吉との対立|02.利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎
- ewatanabe1952

- 2023年6月15日
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全10回 抛筌斎 千宗易 利休

利休の生涯
― 秀吉との対立 ―
❚ 秀吉との対立

天正十五年(1587年)、豊臣秀吉*は京都・北野天満宮**にて「北野大茶湯**」を盛大に催し、千利休*はその主管を努めました。
しかしこの頃から利休と豊臣秀吉との関係には徐々に亀裂が生じることとなり、後ろ盾であった豊臣秀長*の死後は、利休の影響力は急速に衰えるようになります。
天正十九年(1591年)、ついに利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れ、大坂・堺への蟄居**処分を命じられます。
(※罪因については次項にて詳述します)
❚ 助命嘆願と切腹命令

利休の堺への蟄居に際し、前田家初代/前田利家*をはじめとする多くの有力大名や門弟たちは赦免**を嘆願します。
特に利休の高弟であった古田織部*や細川三斎*らは奔走ましたが豊臣秀吉の意思は固く、赦されることはありませんでした。
その後、利休は京都へ呼び戻され、聚楽第**の屋敷で切腹を命じられます。
この際、豊臣秀吉は多くの門弟たちによる利休奪還の恐れを警戒し、上杉影勝*の軍勢に屋敷を取り囲ませたという。
❚ 一条戻橋の光景

利休の最期は単なる処刑では終わらず、利休の首は京都・一条戻橋**にて梟首**され、さらにその首は賜死の一因となった大徳寺***の金毛閣***の三門**に設置された「利休像」に踏ませる形で晒されたたという。
この処遇は、利休の存在がいかに秀吉の権威を脅かすものとなっていたか、またそれを排除するための強烈な――見せしめ――として、歴史に記される出来事となりました。
こうして、茶道史において最も大きな影響を与えた千利休の生涯は閉じることとなるが、その精神と「わび茶**」の理念は、利休の弟子たちによって脈々と受け継がれ現在に至る。
❚ 大きすぎた権力
「わび茶」を完成させ、茶の湯を一つの美学として昇華させた千利休は、やがてその精神性ゆえに権力と衝突し、壮絶な最期を迎えることとなります。
その死は、文化と政治が深く絡み合う戦国時代**の特異な構造を象徴しています。
しかし利休の精神と茶の湯の理念は、子や弟子たちによりその後も力強く受け継がれていくこととなります。
❚ 次回は・・・
次回の「2-5|居士号|02.利休の生涯」では、利休が授けられた「居士号」について、その仏教的意義や当時の社会的意味を踏まえて考察し、利休が精神的にどのような境地に至っていたのかをご紹介します。
登場人物
豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし
……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年
千利休|せん・りきゅう
……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年
豊臣秀長|
……… (1540–1591):秀吉の弟。利休の最大の後ろ盾であった。
前田利家|
……… (1539–1599):加賀藩主。利休の助命を嘆願した大名の一人。
古田織部|
……… (1544–1615):利休七哲の一人。利休の死後、その精神を受け継いだ。
細川三斎|
……… (1563–1646):同じく利休七哲の一人。のちに利休の追善に努める。
上杉景勝|
……… (1556–1623):五大老の一人。利休邸包囲の命を受けたとされる。
用語解説
北野天満宮
……… 。
北野大茶湯
1587年に秀吉が開催した大規模な茶会。利休が主管。
蟄居|ちっきょ
……… 家から出ることを禁じる謹慎処分。利休は堺に籠居を命じられた。
赦免|
………
一条戻橋|
………
梟首|きょうしゅ
……… さらし首。見せしめとして行われる処刑の一形態。
大徳寺
……… 。
金毛閣
……… 。
山門
……… 。
金毛閣
……… 。
山門
……… 。
わび茶
……… 。
戦国時代
……… 。

