2-2|信長と利休|02.利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎
- ewatanabe1952

- 2023年6月17日
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全10回 抛筌斎 千宗易 利休

利休の生涯
― 信長と利休 ―
❚ 信長と利休

元亀四年(1573年)、織田信長*は室町幕府**十五代将軍/足利義昭*を追放し、室町幕府を滅ぼし織田政権を確立。
同年、織田信長は再上洛**の際に堺の掌握を図り、堺の町衆たちには大きな動揺が走ることとなります。
この時、今井宗久*はいち早く織田信長に帰属し、織田政権の信任を得ることに成功しました。
しかし一方で、堺衆の中にはこれに反発する動きも見られ、町全体が揺れ動く局面となりました。
織田信長が今井宗久を召した背景には、今井宗久が所持していた名物**茶入「紹鴎茄子**」の存在があったと考えられます。
織田信長はこの茶入を通じて、自らの権威を茶の湯の世界にも示し、茶の湯を政治的象徴として活用しようとした意図があったと推察されます。
堺の有力茶人であった津田宗及*に前後して千利休**も織田信長の茶匠として召し抱えられ、こうして三名は「天下の三宗匠**」と呼ばれることとなります。
❚ 天下三宗匠の茶人
織田信長の茶の湯には京都の茶人であった不住庵梅雪*らも参仕していたが今井宗久、津田宗及、千利休の三名は特に優遇されました。
三宗匠は茶の湯を――武家の権威を象徴する文化――として発展させ、織田信長の統治と権威づけに貢献する役割を果たすこととなります。
利休はこの時期に茶の湯をさらに研ぎ澄まし、政治と文化の狭間で重要な役割を担うようになります。
織田信長との出会いは、その後の豊臣秀吉*のもとで「わび茶**」の完成へとつながる大きな一歩となります。
❚ 不審庵と宗恩・少庵の上洛

利休は天正八年(1580年)、京都・紫野**の臨済宗**大徳寺**門前に屋敷を構え、後妻の千宗恩*とその連れ子である千少庵宗淳*を上洛させます。
この屋敷には、四畳半の座敷を設け、そこに『不審庵**』の額を掲げたといわれています。
この「不審庵」こそが、のちの千家の根幹となる茶室の原型であり、利休の茶の思想が空間として体現されたものとされています。
❚ 大茶人へのはじまり
織田信長のもとで利休は、茶の湯を文化と権威の象徴として扱われる中、天下三宗匠の一人として確固たる地位を築きました。
この時期に茶の湯の形式は洗練され、後の「わび茶」完成の礎が築かれていきます。
織田信長の死を迎えてもなお、利休の道は豊臣秀吉のもとで続いていくこととなります。
❚ 次回は・・・
次回の「2-3|秀吉との対立|02.利休の生涯」では、豊臣秀吉との親交や仕官後の動向をたどりながら、利休が政権の中枢でどのように茶の湯を実践し、その中でどんな思想を貫いたのかを見ていきます。
登場人物
織田信長|おだ・のぶなが
……… 。
足利義昭|あしかが・よしまさ
………
今井宗久|
……… 。
津田宗及|
……… 。
千利休|せん・りきゅう
……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年
不住庵梅雪|
……… 。
豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし
……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年
千宗恩|
……… 。
千少庵宗淳|
……… 。
用語解説
室町幕府|
……… 。
上洛|
……… 京都へ上ること。
名物|
……… 。
紹鷗茄子茶入
……… 武野紹鷗ゆかりの名物茶器。織田信長が入手を望んだ。
天下三宗匠|
……… 信長に重用された三人の茶人。今井宗久・津田宗及・千宗易を指す。
わび茶|
……… 。
京都紫野|
……… 。
臨済宗|りんざいしゅう
……… 。
大徳寺|だいとくじ
……… 。
不審庵|ふしんあん
……… 。
