2-1|利休の生い立ち|02.利休の生涯|千宗易利休|抛筌斎
- ewatanabe1952

- 2023年6月18日
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全10回 抛筌斎 千宗易 利休

利休の生涯
― 生い立ち ―
❚ 激動の時代に生きた茶人の歩み
「利休の生涯」では、千利休*の生涯を辿り、茶道を大成しながらも自刃に至ったその激動の人生をご紹介します。
利休は、戦国の混乱期にあっても茶の湯に独自の美意識を見出し、「わび茶**」として文化の頂点へと昇華させました。
織田信長*・豊臣秀吉*という二人の天下人に仕えながらも、最期には秀吉の命により自刃。
——―その結末には今も多くの謎が残されています。
しかし、豊臣秀吉との確執によって自害へと追い込まれ、その最期は今日も多くの謎に包まれています。
利休の生い立ちから歩んだ生涯を紐解くことで、茶の湯がいかにして日本文化の核となったかを読み解く手がかりが得られるでしょう。
❚ 生い立ちと茶の道へ

利休は大永二年(1522年)、大坂・堺**の「商家(屋号「魚屋」)」に生まれました。
父は納屋衆(倉庫業)**を営む田中与兵衛(一忠了専)*、母は月岑妙珎*。
幼名は与四郎、本姓は田中。
天文四年(1535年)、堺の鎮守である「大念仏寺**」の築地修理に関する「大念仏寺念仏頭人差帳**」の寄進者の中に―今市町 与次郎殿せん―と記されており、すでに十四歳にして堺の町衆社会における活動の記憶が確認できる。
十七歳の頃、堺の茶匠・北向道陳*の門を叩き茶の湯を学びはじめ、まもなく堺の茶の第一人者であった武野紹鷗*の門人となりました。
また茶の湯と並行して、利休は禅にも深く帰依することになります。
大徳寺九十世/大林宗套*、大徳寺百七世/笑嶺宗訢*に参じて禅旨を学び、二十歳前後には出家して「宗易」の法名**を授かりました。
❚ 利休の名は――

法名「宗易」の初見は天文十三年(1544年)二月の「千宗易会**」と「松屋会記**」に記されています。
しかし「松屋会記」は後世の編集によるものであり、しかも現存するのは転写本であるためその確実性には疑問が残り、確実な証拠としては慎重に扱う必要があります。
また「宗易」の教授者としては大徳寺九十世/大林宗套および大徳寺百七世/笑嶺宗訢の両者があげられるが詳細は不詳。
❚ 堺の町と茶文化

当時の堺は「町人の都」として全盛を極めており、国際貿易と文化が栄え、町全体が――茶の湯――を楽しむ風土を形成していました。
堺衆の中の代表的な茶人としては津田宗達*と津田宗及*の父子をはじめ利休の師である武野紹鷗の娘婿である今井宗久*らとともに茶人「宗易」の名も並び称される存在となっていきます。
利休は、商家の出身でありながらも、茶の湯の探求と革新に努め、やがて後世に語り継がれる大茶人へと成長していくこととなる。
❚ 堺の町が育んだ才と信仰
利休は商家の子として堺に生まれ、茶の湯と禅に出会いながら、町人文化の中でその才を開花させていきました。
そして堺の町全体が育んだ茶の湯文化のなかで、利休は師の教えを受けつつ自らの美意識を研ぎ澄まし、やがて一時代を築く大茶人としての道を歩み始めることとなります。
❚ 次回は…
次回は「2-2|信長と利休|02.利休の生涯」と題し、織田信長との出会いが利休に与えた影響と、両者の関係性について紹介していきます。
登場人物
千利休|せん・りきゅう
……… 天下三宗匠|千家開祖|抛筌斎|千宗易|1522年―1591年
織田信長|おだ・のぶなが
……… 。
豊臣秀吉|とよとみ・ひでよし
……… 天下人|関白|太閤|1536年―1598年
田中与兵衛(一忠了専)
……… 。
月岑妙珎|
………
北向道陳|きたむきどうちん
……… 。
武野紹鷗|たけの・じょうおう
………
大林宗套|だいりん・そうとう
………
笑嶺宗訢|しょうれい・そうきん
………
津田宗達|つだ・そうたつ
………
津田宗及|つだ・そうぎゅう
………
今井宗久|いまい・そうきゅう
………
用語解説
わび茶|わびちゃ
………
大坂・堺|おおさか・さかい
納屋衆|なやしゅう
……… 倉庫業・荷扱いなどを担った堺の有力町人層。商人階級の中核を担った。
大念仏寺|
………
大念仏寺念仏頭人差帳|
……… 堺の町民が記録された寄進帳。利休の活動の初出史料の一つ。
千宗易会|
………
松屋会記|まつやかいき
……… 茶会記録の一種。利休や当時の茶人たちの活動が記録される。
