特集|千家とは?|はじめの一歩|茶道入門ガイド
- ewatanabe1952

- 2022年12月26日
- 読了時間: 4分
更新日:10月17日
はじめの一歩

■ 特 集 ■
千家とは?
❚ はじめに
この度は「茶道プラス(310plus.com)」へご訪問いただき、誠にありがとうございます。
特集記事では、これから茶道をはじめる方に向けて、「はじめの一歩」となる基本の知識を、やさしくわかりやすく解説しています。
本ページでは、茶道を学ぶ上で重要な要素のひとつである「千家」について、初心者の方にもイメージしやすい形でご紹介します。また、すでに茶道に親しんでいる方にとっても、基本を振り返るきっかけとして活用いただける内容です。
まずは気軽に、茶道の世界をのぞいてみてください。
❚ 千家とは?
千家(せんけ)とは、千利休(1522-1591)を祖とし息子の千少庵(1546-1614)、孫の千宗旦(1578-1658)の三代を通じて確立された茶家。
千利休の提唱した茶道の思想や美意識、茶室・作法のあり方を受け継ぎ、後世に伝える家系として知られています。
―広義における「千家」― 広義には開祖の千利休、息子の千少庵、孫の千宗旦の三代に加え、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家そのものも含めて「千家」と呼ぶ場合があります。 茶道プラスでは、千利休、千少庵、千宗旦の三代を「千家」とし、表千家・裏千家・武者小路千家を「三千家」としてご紹介しています。
千利休の没後は長男の千道安(1546-1607)が千家の家督を継承し堺千家をつぎましたが一代にて消滅。
次男・千少庵は京にて家を継ぎ、千家の系譜を整えました。さらに孫の千宗旦が後を受け、今日の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の基礎を築くこととなります。
こうして、千利休の血筋と家系は息子の千少庵、孫の千宗旦の手によって継承され、茶道史における重要な家系として確立されました。
❚ 長男・千道安のあゆみ
千道安は、千利休と先妻の宝心妙樹(生没年不詳)の長男として生まれる。
母宝心妙樹が亡くなり、父千利休が宗恩(?-1600)と再婚すると徐々に父千利休との確執が生まれ、一度千家を離れるが後に父千利休とは和解。
しかし後世「剛の道安」と「柔の少庵」と称されるように後妻の宗恩の連れ子である同い年の千少庵とは折り合いがつかず、生涯茶会においても同席をすることもなかったと伝わっています。
利休没後は千家の家督を継承し本家の堺千家を継ぐ。しかし千道安の没後に堺千家は途絶えることとなり、堺千家の系譜はここで終わることとなります。
❚ 養子(次男)・千少庵のあゆみ
千少庵(せん しょうあん)は、千利休の後妻である宗恩の連れ子でのちに千利休の養子となり、千利休の娘お亀(生没年不詳)を室としました。
千利休の切腹後、豊臣秀吉による利休一族への厳しい処分の中、千少庵も一時期幽閉されますが、のちに赦免され、京都で茶の湯の拠点を再興し混乱期の千家を守りました。
千少庵は利休の「侘び茶」の精神を受け継ぎながらも、自身の時代に合わせて茶室や作法整え尽力。
また千少庵は京都の茶人たちから「めんよ(名誉)の数寄者」と評された人物で、早くから利休の後継者として高く評価されていたことがうかがえます。
千少庵は利休没後の混乱期に千家を守り抜き、のちに茶道が再び発展する礎を築いた重要な人物とされています。
❚ 千宗旦のあゆみ
千宗旦(せん そうたん)は、千少庵の息子で千利休の孫にあたります。
若い頃から茶の湯に親しみ、利休の思想を深く理解した人物でした。宗旦は父少庵から千家を継ぎ、京都の地で茶道を大きく発展させました。
宗旦は、豪華さを排した質素で静謐な茶室を好み、「侘び」の美意識をさらに徹底しました。
また武家社会の変化の中でも、精神性を重視した茶の湯を守り続け、長男宗拙を加賀藩前田家に、次男宗守を高松松平家に、三男宗左を紀州徳川家に、四男宗室を加賀藩前田家に仕えさせ千家の名を絶やさず再び広く知らしめることに尽力しました。
宗旦の四人の息子のうち、長男を除く三人が表千家、裏千家、武者小路千家を建立し「三千家」と呼ばれる三つの家元へと発展していきます。
❚ まとめ
千家とは、千利休、千少庵、千宗旦の三代にわたる家系を指します。
千利休没後に一次途絶えることとなった千家を受け継いだ千少庵、さらに千宗旦によって三千家の基礎が築かれました。
三代にわたる千家の系譜の継承は、茶道発展の礎として重要な過程を示すこととなります。


