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  • 4-4|奥村家年表|奥村吉兵衛|奥村家|表具師|千家十職|

    千家十職 ■ 奥村家|奥村吉兵衛|表具師 ■ 奥村家|年表 ❚ 奥村家|年表 1618年 (元和四年) 奥村家初代/奥村吉右衛門清定生まれる★ 1643年 (嘉永二十年) 奥村家二代/奥村吉右衛門休意生まれる★ 1668年 (寛文八年) 奥村家三代/奥村吉右衛門休誠生まれる★ 1700年 (元禄十三年) 奥村家初代/奥村吉右衛門清定死去▼ 1719年 (享保四年) 奥村家二代/奥村吉右衛門休意死去▼ 1737年 (元文二年) 奥村家四代/奥村吉五郎生まれる★ 1743年 (寛保三年) 奥村家三代/奥村吉右衛門休誠死去▼ 1755年 (宝暦五年) 奥村家五代/奥村吉兵衛了誠生まれる★ 1780年 (安永九年) 奥村家六代/奥村吉兵衛休栄生まれる★ 1781年 (天明元年) 奥村家四代/奥村吉五郎死去▼ 1795年 (寛政七年) 奥村家七代/奥村吉次郎休音生まれる★ 1804年 (文化元年) 奥村家八代/奥村吉兵衛蕎庵生まれる★ 1825年 (文政八年) 奥村家五代/奥村吉兵衛了誠死去▼ 1837年 (天保八年) 奥村家七代/奥村吉次郎休音死去▼ 1841年 (天保十二年) 奥村家九代/奥村吉兵衛生まれる★ 1848年 (嘉永元年) 奥村家六代/奥村吉兵衛休栄死去▼ 1867年 (慶応三年) 奥村家八代/奥村吉兵衛蕎庵死去▼ 1869年 (明治二年) 奥村家十代/奥村吉次郎生まれる★ 1901年 (明治三十四年) 奥村家十一代/奥村吉兵衛一道生まれる★ 1908年 (明治四十一年) 奥村家九代/奥村吉兵衛死去▼ 1934年 (昭和九年) 奥村家十二代/奥村吉兵衛生まれる★ 1944年 (昭和十九年) 奥村家十代/奥村吉次郎死去▼ 1987年 (昭和六十二年) 奥村家十一代/奥村吉兵衛一道死去▼

  • 5-1|黒田家とは|黒田正玄|黒田家|竹細工・柄杓師|千家十職|

    千家十職 ■ 黒田家|黒田正玄|竹細工・柄杓師 ■ 黒田家とは ❚ 黒田家とは 黒田家とは、千家十職の内の一家で竹細工を業とする職家。 ​ 黒田家の作品は、千家の美意識と茶の湯の機能美を兼ね備え、シンプルながらも洗練された造形が特徴で竹の質感や節の使い方に細心の注意を払い、一つひとつの道具に風格と趣を持たせています。 茶の湯の発展とともに技術を磨き、代々「千家好み」の竹細工を制作してきた黒田家の作品は、時代を越えて伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在となっています。 ❚ 茶の湯と竹 黒田家は茶杓、柄杓をはじめ台子、香合、花入など竹を用いた茶道具を製作する職家です。 千家十職の一つとして、代々その技術を継承し、茶の湯の美意識に即した作品づくりを続けてきました。 ​ 竹は古くから茶の湯において欠かせない素材であり、「わび茶」を完成させた武野紹鷗(1502-1555)は自ら竹の茶杓を削り、千家開祖/抛筌斎千宗易利休(1522-1591)も「尺八」「園城寺(一重切)」「よなが(二重切)」などの竹花入を手がけ、「泪」「ゆがみ」などの茶杓を削ったことで知られています。 名匠の手による竹の茶杓は金属や象牙の杓のものをしのぐ価値を持つようになり、その後の茶人たちは千家開祖/抛筌斎千宗易利休にならい、自ら「竹を切り」、「茶杓を削り」、竹の道具を作る文化を広めました。 これにより、竹と茶の湯の関係は一層深まり、「竹花入」「籠花入」「茶杓」「籠炭斗」「竹蓋置」「香合」「水指」「菓子器」など、多岐にわたる茶道具が生み出されていきました。 ​❚ 黒田家のあゆみ 黒田家初代/黒田正玄(1578-1653)は、元は武士で、丹羽長重(1571-1637)に仕えていましたが、関ヶ原の戦いにおいて丹羽長重が西軍についたことで改易となり浪人となる。これを機に剃髪し、大津に移り住み、竹細工師として生計を立てるようになります。​ その高い技術は評判を呼び、遠州流開祖/小堀遠州(1579-1647)からの注文を受け、茶の湯や江戸幕府とのつながりを構築。 また​千家との関係がはじまったのは黒田家三代/黒田正玄(1656-1717)の時代と伝えられ、表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)の御用を勤めたのがその契機とされています。以後、黒田家は千家御用達の竹細工師として地位を確立し、将軍家にも納めるようになります。 ​​ ❚ 明治以降の黒田家 黒田家八代/黒田正玄(1809-1869)までは将軍家御用柄杓師として努めるが次代の黒田家九代/黒田正玄(1837-1859)が早世。 急遽婿養子となった黒田家十代/黒田正玄(1825-1900)が家督を継ぐも明治維新の動乱期と重なり、庇護者である幕府が崩壊、茶の湯も衰退する中、家業の保持に苦心することとなる。 ​その後、黒田家十一代/黒田正玄(1869-1911)も早世し、黒田家十二代/黒田正玄(1880-1973)は周囲の支援を得ながら、戦中・戦後の困難な時代を経ながらも、黒田家は周囲の支援を得て竹細工の伝統を守り抜きました。 ​ 黒田家は、竹のもつ柔らかな表情と力強さを生かした茶道具を代々手がけ、茶の湯に欠かせない職家としてその名を残しています。 茶杓や柄杓をはじめとする竹細工の技術は今も息づき、千家の美意識とともに受け継がれています。

  • 5-3|黒田家歴代|黒田正玄|黒田家|竹細工・柄杓師|千家十職|

    千家十職 ■ 黒田家|黒田正玄|竹細工・柄杓師 ■ 黒田家|歴代 ❚ 黒田家|歴代 ■ 黒田家|初代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 天正六年(1578年) ― 承応二年(1653年) 七十六歳 越前国黒田郡の出身。 二十三歳の頃、剃髪して「正玄」と改名。 近江国大津で竹細工をはじめる。 ■ 黒田家|二代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 寛永二年(1625年) ― 貞享四年(1687年) 六十三歳 黒田家初代/黒田正玄の三男として生まれる。 三代徳川家光の御用柄杓師を務める。 了応二年(1653年)、家督を継承し、黒田家二代を襲名。 ■ 黒田家|三代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 明暦二年(1656年) ― 享保四年(1717年) 六十二歳 黒田家二代/黒田正玄の長男として生まれる。 五代徳川綱吉の御用柄杓師を務める。 宝暦元年(1704年)、長男・弥吉に家督を譲り隠居。 隠居後、「正斎」と号す。 この頃より千家に出入りする。 ■ 黒田家|四代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 元禄五年(1692年) ― 享保十六年(1731年) 四十歳 黒田家三代/黒田正玄の長男として生まれる。 五代徳川綱吉の御用柄杓師を務める。 宝暦元年(1704年)、家督を継承し、黒田家四代を襲名。 ■ 黒田家|五代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 宝永五年(1708年) ― 安永七年(1778年) 七十一歳 黒田家四代/黒田正玄の養子。 八代徳川吉宗の御用柄杓師を務める。 北小路室町に移る。 ■ 黒田家|六代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 延享四年(1747年) ― 文化十一年(1814年) 六十八歳 黒田家五代/黒田正玄の次男として生まれる。 三十一歳の時に家督を継承し、黒田家六代を継承。 十代徳川家治の御用柄杓師を務める。 天明八年(1788年)、「天明の大火」に罹災。 ■ 黒田家|七代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 明和五年(1768年) ― 文政二年(1819年) 五十二歳 井上家の子。 黒田家六代/黒田正玄の養子。 文化十二年(1815年)、家督を継承し、黒田家七代を襲名。 十一代徳川家斉の御用柄杓師を務める。 ■ 黒田家|八代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 文化六年(1809年) ― 明治二年(1869年) 六十一歳 黒田家七代/黒田正玄の長男として生まれる。 十二代徳川家慶の御用柄杓師を務める。 文政二年(1819年)、家督を継承し、黒田家八代を襲名。 ■ 黒田家|九代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 天保八年(1837年) ― 安政六年(1859年) 二十三歳 黒田家八代/黒田正玄の養子。 ■ 黒田家|十代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 文政八年(1825年) ― 明治三十三年(1900年) 七十六歳 黒田家八代/黒田正玄の婿養子。 明治二年(1869年)、家督を継承し、黒田家十代を襲名 明治十四年(1881年)、長男に家督を譲り隠居。 ■ 黒田家|十一代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 明治二年(1869年) ― 明治四十四年(1911年) 四十三歳 黒田家十代/黒田正玄の長男として生まれる。 黒田宗傳の兄。 明治十六年(1883年)、家督を継承し、黒田家十一代を襲名。 ■ 黒田家|十二代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 明治十三年(1880年) ― 昭和四十八年(1973年) 九十四歳 黒田家十一代/黒田正玄の室。 昭和十八年(1943年)、「政府認定/技術保存資格者」に認定。 昭和四十一年(1966年)、家督を譲る。 ■ 黒田家|十三代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 昭和十一年(1936年) ― 平成二十九年(2017年) 八十一歳 早稲田大学第一文学部卒業 昭和四十一年(1966年)、家督を継承し、黒田家十三代を襲名。 平成二十六年(2014年)一月、長女に家督を譲り、自身は剃髪し「弄竹斉玄督」と号す。 ■ 黒田家|十四代|当代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 昭和四十二年(1967年) ― 年(年) ―歳 黒田家十三代/黒田正玄の長女として生まれる。 平成十八年(2006年)より千家に出仕。 平成二十六年(2014年)、家督を継承し、黒田家十四代を襲名。 黒田家初の女性当主。

  • 5-4|黒田家年表|黒田正玄|黒田家|竹細工・柄杓師|千家十職|

    千家十職 ■ 黒田家|黒田正玄|竹細工・柄杓師 ■ 黒田家|年表 ❚ 黒田家|年表 1578年 (天正六年) 黒田家初代/黒田正玄 生まれる★ 1625年 (寛永二年) 黒田家二代/黒田正玄 生まれる★ 1653年 (承応二年) 黒田家初代/黒田正玄 死去▼ 1656年 (明暦二年) 黒田家三代/黒田正玄 生まれる★ 1687年 (貞享四年) 黒田家二代/黒田正玄 死去▼ 1692年 (元禄五年) 黒田家四代/黒田正玄 生まれる★ 1708年 (宝永五年) 黒田家五代/黒田正玄 生まれる★ 1717年 (享保四年) 黒田家三代/黒田正玄 死去▼ 1731年 (享保十六年) 黒田家四代/黒田正玄 死去▼ 1747年 (延享四年) 黒田家六代/黒田正玄 生まれる★ 1768年 (明和五年) 黒田家七代/黒田正玄 生まれる★ 1778年 (安永七年) 黒田家五代/黒田正玄 死去▼ 1809年 (文化六年) 黒田家八代/黒田正玄 生まれる★ 1814年 (文化十一年) 黒田家六代/黒田正玄 死去▼ 1819年 (文政二年) 黒田家七代/黒田正玄 死去▼ 1825年 (文政八年) 黒田家十代/黒田正玄 生まれる★ 1837年 (天保八年) 黒田家九代/黒田正玄 生まれる★ 1859年 (安政六年) 黒田家九代/黒田正玄 死去▼ 1869年 (明治二年) 黒田家十一代/黒田正玄 生まれる★ 1869年 (明治二年) 黒田家八代/黒田正玄 死去▼ 1880年 (明治十三年) 黒田家十二代/黒田正玄 生まれる★ 1900年 (明治三十三年) 黒田家十代/黒田正玄 死去▼ 1911年 (明治四十四年) 黒田家十一代/黒田正玄 死去▼ 1936年 (昭和十一年) 黒田家十三代/黒田正玄 生まれる★ 1967年 (昭和四十二年) 黒田家当代/黒田正玄 生まれる★ 1973年 (昭和四十八年) 黒田家十二代/黒田正玄 死去▼ 2017年 (平成二十九年) 黒田家十三代/黒田正玄 死去▼

  • 6-1|駒澤家とは|駒澤利斎|駒澤家|指物師|千家十職|

    千家十職 ■ 駒澤家|駒澤利斎|指物師 ■ 駒澤家とは ❚ 駒澤家とは 駒澤家~こまざわけ~とは、千家十職の内の一家で指物を業とする職家。 駒澤家の指物は、木の質感を生かした繊細な細工と、無駄のない端正な意匠が特徴です。 釘を使わず、木と木を組み合わせて構築する高度な技術によって、機能性と美しさを兼ね備えた作品を生み出しています。千家の茶の湯の精神に基づき、茶室の空間や道具の調和を考慮しながら、品格ある指物を制作し続けています。 駒澤家は、茶の湯の発展とともに技術を磨き、千家好みの指物を代々にわたり制作してきました。 その作品は、時代の変遷を経ながらも、伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在として今日に受け継がれています。 ❚ 駒澤家のあゆみ 駒澤家は表千家の近くの小川通寺ノ内下ル射場町に居を構え、延宝年間(1673年-1681年)以来、代々「指物」を業としてきました。 木地台子、長板、棚物、卓、木地水指、文庫硯蓋、茶箱、炭台、行灯、炉縁、菓子器、莨盆など、茶の湯に関わる多種多様な木地道具を手掛けてきた記録が残っています。 ​ 安永九年(1780年)、刊行の「茶器価録」上巻には前述の他にも桑や竹の台子、利休形四方棚、袋棚、丸卓をはじめ曲水指、屏風など九十七点が記載されており、さらに表千家九代/了々斎曠叔宗左(1775-1825)の時代に書かれた記録には「指物師/利斎」の道具百六十六点が値段と共に記載されるなど、その製作数と種類の豊富さが際立っています。 ​これらの道具は「利休形」を基本とし、千家と密接な関係を持ちながら歴代の御家元の「御好物」として製作されたもので、寸法・材質・意匠などに関する資料は代々駒澤家に受継がれて今日に至っています。 ​​ ​ ❚ 駒澤家の系譜 駒澤家は駒澤家初代/駒澤宗源(生没年不詳)が延宝年間(1673-1681)に指物業を始めたことを起源とされています。 千家との関係がはじまったのは駒澤家二代/駒澤宗慶(1628-1693)からで、千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の注文により、指物を製作してからと伝えられています。 本格的に千家出入り指物師となったのは駒澤家四代/駒澤利斎(1673-1746)からで、表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)の知遇を得て、千家出入りの「茶方指物師」として指名され「利斎」の名を賜りました。以後、駒澤家の歴代当主は「利斎」を襲名しています。 ​ 駒澤家の系譜については従来、「利斎」を名乗った時を「駒澤家/初代」とし、以降の当主を二代、三代、四代・・と数え、宗源、宗慶、長慶の三代を家祖として考えられていました。 しかし草間直方(1753-1831)が著した「茶器名物図」によると「指物師利斎家系之事」の条に「千家出入職、正徳、享保年覚々斎取立破申」との記述があり、正徳年間(1711年-1716年)から享保年間(1716年-1736年)にかけて表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)に取り立てられて千家職方に任ぜられたとされており、また同時に宗慶を「初代利兵衛」、理右衛門を「二代利斎」との記述があり、駒澤家の家系に関する異説が確認できる。 今日では駒澤家は歴代についての考え方を過去帳にのっとり整理されている。 ​ ❚ 駒澤家の今 ​江戸時代(1603-1868)後期に活躍した駒澤家七代/駒澤利斎(1770-1855)は指物だけではなく塗師としても一流の腕を持ち、黒田家八代/黒田正玄(1809-1869)や飛来家十一代/飛来一閑(1791-1872)らと合作を作るなど意欲的に製作を行い、長寿にも恵まれ「駒澤家中興の祖」と称されています。 ​ しかし、その後の駒澤家では当主が大成する前に早世する不運が続き、駒澤家十三代/駒澤利斎()は七十歳まで生きたものの晩年に授かった息子に先立たれると言う悲劇に見舞われました。 駒澤家十三代/駒澤利斎の死後、妻であった浪江(のちの駒澤家十四代/駒澤利斎(1909-1977))は娘・千代子を後継者とするべく家業の継承を決意するが、千代子が昭和三十六年(1961年)に早世し、自身も昭和五十二年(1977年)に死去。以後、今日に至るまで名跡は長く空席となっています。 しかし駒澤家十四代/駒澤利斎の甥であり、駒澤家の後見人であった吉田一三(生年不詳-2022)の息子・吉田博三が後継者として修業を積み駒澤家の技術を受け継ぐべく研鑽を続けている。 ​ 駒澤家は、千家の指物師として確固たる地位を築き、代々茶の湯のための木工道具を制作してきました。利休形を基本としながらも、各時代の千家の御好物に応じた作品を生み出し、茶道具の歴史とともに歩んできました。 名跡の空白期間を経ても、駒澤家の技術と精神は脈々と受け継がれ、今なお茶の湯の美意識を支える重要な職家であり続けています。

  • 6-3|駒澤家歴代|駒澤利斎|駒澤家|指物師|千家十職|

    千家十職 ■ 駒澤家|駒澤利斎|指物師 ■ 駒澤家|歴代 ❚ 駒澤家|歴代 ■ 駒澤家|初代 ■ 宗源 ~そうげん~ 生年不詳 ― 江戸初期 享年不詳 延宝年間(1673年-1681年)頃に指物を業としたと伝えられている。 ■ 駒澤家|二代 ■ 宗慶 ~そうけい~ 寛永五年(1628年) ― 元禄六年(1693年) 六十六歳 ―。 ■ 駒澤家|三代 ■ 長慶 ~ちょうけい~ 生年不詳 ― 貞享三年(1686年) 享年不詳 。 ■ 駒澤家|四代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 延宝元年(1673年) ― 延享三年(1746年) 七十四歳 駒澤家三代/長慶の婿養子。 千家に出入りの「茶方指物師」となる。 表千家六代/覚々斎原叟宗左より「利斎」の号を授かる。 四代より駒澤家では「利斎」を名乗る。 ■ 駒澤家|五代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 宝永四年(1707年) ― 明和元年(1764年) 五十八歳 駒澤家四代/駒澤利斎の子として生まれる。 表千家七代/如心斎天然宗左より「リ斎」の書を授かる。 以後、駒澤家では小判型の「り」の印判と家紋の「梅鉢紋」を用いる。 ■ 駒澤家|六代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 元文四年(1739年) ― 享和三年(1803年) 六十五歳 駒沢家五代/駒澤利斎の長男として生まれる。 天明八年(1788年)、「天明の大火」に罹災。 隠居後、「春斎」と号し塗物も手掛ける。 ■ 駒澤家|七代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 明和七年(1770年) ― 安政二年(1855年) 八十六歳 駒澤家六代/駒澤利斎の婿養子。 塗師「春斎」としても活躍。 「駒澤家中興の祖」と称される。 ■ 駒澤家|八代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 寛政八年(1796年) ― 弘化三年(1846年) 五十歳 駒沢家六代/駒澤利斎の実子・十次郎の長男として生まれる。 天保十一年(1840年)、家督を継承し、駒沢家八代を襲名。 ■ 駒澤家|九代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 文政二年(1819年) ― 文久二年(1862年) 四十四歳 駒澤家七代/駒澤利斎の子として生まれる。 ■ 駒澤家|十代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 天保十二年(1841年) ― 慶応二年(1866年) 二十六歳 駒澤家八代/駒澤利斎の長男として生まれる。 文久二年(1862年)、家督を継承し、駒沢家十代を襲名。 生来病弱のため早世。 ■ 駒澤家|十一代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 嘉永三年(1852年) ― 明治三十五年(1902年) 五十一歳 駒澤家後見人/岡本喜助の子として生まれる。 駒澤家十代/駒澤利斎の婿養子。 ■ 駒澤家|十二代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 明治九年(1876年) ― 明治二十九年(1896年) 二十一歳 駒澤家十一代/駒澤利斎の長男として生まれる。 駒澤家十三代/駒澤利斎の兄。 ■ 駒澤家|十三代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 明治十六年(1883年) ― 昭和二十七年(1952年) 七十歳 駒澤家十一代/駒澤利斎の次男として生まれる。。 駒澤家十二代/駒澤利斎の弟。 駒澤家十四代/駒澤利斎の夫。 明治三十六年(1903年)、家督を継承し、駒澤家十三代を襲名。 ■ 駒澤家|十四代 ■ 駒澤利斎 ~こまざわ・りさい~ 明治四十二年(1909年) ― 昭和五十二年(1977年) 六十九歳 駒澤家十三代/駒澤利斎の妻。 夫、長男、長女とも没したため四十四歳の時に駒澤家十四代を襲名。 ■ 駒澤家|後見人 ■ 吉田一三 ~よしだ・かずみ~ 年(年) ― 年(2022年) ―歳 駒澤家十四代/駒澤利斎の甥。 ■ 駒澤家|次代 ■ 吉田博三 ~よしだ・ひろみ~ 年(年) ― 年(年) ―歳 駒澤家後見人/吉田一三の長男として生まれる。 駒澤家次代(十五代)を襲名すべく修行に励む。

  • 6-4|駒澤家年表|駒澤利斎|駒澤家|指物師|千家十職|

    千家十職 ■ 駒澤家|駒澤利斎|指物師 ■ 駒澤家|年表 ❚ 駒澤家|年表 1628年 (寛永五年) 駒澤家二代/宗慶生まれる★ 1686年 (貞享三年) 駒澤家三代/長慶死去▼ 1673年 (延宝元年) 駒澤家四代/駒澤利斎生まれる★ 1693年 (元禄六年) 駒澤家二代/宗慶死去▼ 1707年 (宝永四年) 駒澤家五代/駒澤利斎生まれる★ 1746年 (延享三年) 駒澤家四代/駒澤利斎死去▼ 1739年 (元文四年) 駒澤家六代/駒澤利斎生まれる★ 1764年 (明和元年) 駒澤家五代/駒澤利斎死去▼ 1770年 (明和七年) 駒澤家七代/駒澤利斎生まれる★ 1796年 (寛政八年) 駒澤家八代/駒澤利斎生まれる★ 1803年 (享和三年) 駒澤家六代/駒澤利斎死去▼ 1841年 (天保十二年) 駒澤家十代/駒澤利斎生まれる★ 1846年 (弘化三年) 駒澤家八代/駒澤利斎死去▼ 1852年 (嘉永三年) 駒澤家十一代/駒澤利斎生まれる★ 1862年 (文久二年) 駒澤家九代/駒澤利斎死去▼ 1866年 (慶応二年) 駒澤家十代/駒澤利斎死去▼ 1876年 (明治九年) 駒澤家十二代/駒澤利斎生まれる★ 1896年 (明治二十九年) 駒澤家十二代/駒澤利斎死去▼ 1909年 (明治四十二年) 駒澤家十四代/駒澤利斎生まれる★ 1902年 (明治三十五年) 駒澤家十一代/駒澤利斎死去▼ 1952年 (昭和二十七年) 駒澤家十三代/駒澤利斎死去▼ 1977年 (昭和五十二年) 駒澤家十四代/駒澤利斎死去▼

  • 7-1|土田家とは|土田友湖|土田家|袋師|千家十職|

    千家十職 ■ 土田家|土田友湖|袋師 ■ 土田家とは ❚ 土田家とは 土田家~つちだけ~とは、千家十職の内の一家で仕服(仕覆)などの袋物を業とする職家。 その千家十職の一つである土田家は、三千家御用達の「袋師」として「仕覆」「帛紗」などをはじめ代々家元の「御好物」などの制作を業とする職家です。​ 土田家の仕覆は、茶器や茶道具を包み込むだけでなく、その美しさを引き立てる役割も果たします。 使用される裂地は、古くから伝わる名物裂をはじめ、時代ごとの美意識に即したものが選ばれ、一針一針丁寧に仕立てられます。仕覆の紐や結び方に至るまで、茶の湯のしつらえにふさわしい細やかな工夫が施され茶道具としての品格を高めています。 土田家は、茶の湯の発展とともに技術を磨き、千家好みの袋物を代々にわたり制作してきました。 その作品は、時代の変遷を経ながらも、伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在として知られています。 ❚ 土田家のあゆみ 土田家の祖先は江州(現在の滋賀県)蒲生郡土田村出身で侍の土田七大夫(生没年不詳)と伝えられています。後に初代彦根藩主/井伊兵部大輔直政(1561-1602)に仕官し、代々鉄砲組頭をめた家柄と伝えられています。 ​​ 土田家初代/土田友湖(1689-1765)は本来武士の家の跡取りであったが実母の早世により、継母の子である籐兵衛(生没年不詳)に家督を譲り、武士を廃業。その後、土田家初代/土田友湖は京に出て「越後屋半兵衛」と名乗り京都・上京で西陣の仲買を営んでいました。 やがて生来の器用さを生かし、近隣に住む亀岡家二代/亀岡二得(生没年不詳)の子である亀岡宗理(生年没不詳)のもとへ熱心に通い「袋物」の技術を学び、奥義・秘伝一切を伝授され、これを機に仲買人を辞め「袋師」として独立。 ​​ ❚ ​亀岡家 亀岡家の初代/亀岡二得(生没年不詳)は春日大社の田楽法師として京都・上京に住み、茶入袋(仕服)や袋物の名手として知られました。 千家開祖/千宗易利休(1522-1591) や細川三斎(1563-1646)にも愛され、多くの袋物を仕立てたと伝えられています。 その子である亀岡家二代/亀岡二得も孫の亀岡家三代/亀岡宗理も茶道に精通。 亀岡家三代/亀岡宗理は弟子の土田家初代/土田友湖に家業のすべてを譲り、袋師を廃業して伊勢国久居藩/籐堂家の茶頭となります。以後、亀岡家は久居藩の茶道頭を代々努めています。 ​​ ❚ 土田家の継承 土田家では土田家五代/土田友湖(1779-1825)までは主に茶入袋(仕服)を制作していましたが、その後は帛紗や角帯など、茶道で用いられる裂地や繊維関係の制作も手掛けるようになりました。 また土田家では二代目以降、当主の通称は「半四郎」とし、隠居して剃髪後に「友湖」を名乗る習慣が確立しました。 ​ ​土田家は、茶の湯に欠かせない袋物の技術を今に伝える職家として、千家の茶道具にふさわしい袋物を制作し続けています。 その伝統と技は、四百年を経た今日もなお、変わらず受け継がれています。

  • 7-3|土田家歴代|土田友湖|土田家|袋師|千家十職|

    千家十職 ■ 土田家|土田友湖|袋師 ■ 土田家|歴代 ❚ 土田家|歴代 ■ 土田家|初代 ■ 土田友湖 ~~ 元禄二年(1689年) ― 明和二年(1765年) 七十七歳 土田七太夫の長男として生まれる。 袋師・亀岡宗理より家職を継承。 表千家六代/覚々斎原叟宗左の引き立てにより千家袋師となる。 表千家七代/如心斎天然宗左より「友湖」の号を授かる。 ■ 土田家|二代 ■ 土田友湖/半四郎 ~~ 享保十七年(1732年) ― 宝暦七年(1757年) 二十六歳 土田家初代/土田友湖の子として生まれる。 父在世中に早世。 ■ 土田家|三代 ■ 土田友湖/半四郎 ~~ 延享四年(1747年) ― 天明四年(1784年) 三十八歳 丁字家嘉兵衛の長男として生まれる。 土田家二代/土田友湖の養子。 養父に続き自身も早世。 ■ 土田家|四代 ■ 土田友湖/鶴寿院貞松 ~~ 享保四年(1719年) ― 享和元年(1801年) 八十二歳 土田家初代/土田友湖の娘として生まれる。。。 ■ 土田家|五代 ■ 土田友湖/半四郎 ~~ 安永八年(1779年) ― 文政八年(1825年) 四十七歳 土田家三代/土田半四郎の長男として京都に生まれる。 二十歳の時に土田家の家督を継承し、土田家五代を襲名。 帛紗の制作もはじめる。 ■ 土田家|六代 ■ 土田友湖/半四郎 ~~ 文化元年(1804年) ― 明治十六年(1883年) 八十歳 土田家五代/土田半四郎の子として生まれる。 書画に優れ家系秘伝書を遺す。 還暦の元治元年(1864年)、「蛤御門の変」にて再び家屋を焼失。 ■ 土田家|七代 ■ 土田友湖/半四郎 ~~ 天保七年(1836年) ― 明治四十四年(1911年) 七十六歳 土田家六代/土田半四郎の婿養子。 ■ 土田家|八代 ■ 土田友湖/半四郎 ~つちだはんしろう~ 文久二年(1862年) ― 明治四十四年(1911年) 五十歳 土田家七代/土田半四郎の婿養子。 土田家十代/土田友湖浄雪院妙要の夫。 ■ 土田家|九代 ■ 土田友湖/半四郎 ~~ 明治二十六年(1893年) ― 大正三年(1914年) 二十二歳 [父]土田家八代/土田仙之助と[母]土田家十代/浄雪院妙要の次男として京都に生まれる。 土田家九代/土田友湖の兄 兄を早世で失い土田家の家督を継承し土田家九代を襲名するが自身も早世。 ■ 土田家|十代 ■ 土田友湖/浄雪院妙要 ~つちだ・じょせついんみょうよう~ 万延元年(1860年) ― 昭和十五年(1940年) 六十三歳 土田家七代/土田半四郎の長女として京都に生まれる。 土田家八代/土田友湖の室。 長男と次男が早世。三男の土田家七代/土田友湖は幼少であったため家業断絶の危機を迎えるが自身が土田家十一代を襲名。 ■ 土田家|十一代 ■ 土田友湖/半四郎 ~~ 明治三十七年(1904年) ― 昭和四十年(1965年) 六十三歳 [父]土田家八代/土田仙之助と[母]土田家十代/浄雪院妙要の三男として京都に生まれる。 土田家九代/土田友湖の弟。 昭和十五年(1940年)、家督を継承し土田家十一代を襲名。 ■ 土田家|十二代 ■ 土田友湖/照雪友湖 ~~ 昭和十四年(1939年) ― 令和四年(2022年) 八十二歳 土田家十一代/土田半四郎の次男として京都に生まれる。 中学卒業と同時に表千家の玄関(内弟子)として通う。 昭和三十五年(1960年)、家元へ出仕。 昭和四十年(1965年)、家督を継承し、土田家十二代を襲名。 ■ 土田家|十三代|当代 ■ 土田半四郎 ~~ 昭和四十三年(1968年) ― 年 (年) ―歳 土田家十二代/土田半四郎の長男として京都に生まれる。

  • 7-4|土田家年表|土田友湖|土田家|袋師|千家十職|

    千家十職 ■ 土田家|土田友湖|袋師 ■ 土田家|年表 ❚ 土田家|年表 1689年 (元禄二年) 土田家初代/土田友湖生まれる★ 1719年 (享保四年) 土田家四代/土田友湖/鶴寿院貞松生まれる★ 1732年 (享保十七年) 土田家二代/土田友湖/半四郎生まれる★ 1747年 (延享四年) 土田家三代/土田友湖/半四郎生まれる★ 1765年 (明和二年) 土田家初代/土田友湖死去▼ 1757年 (宝暦七年) 土田家二代/土田友湖/半四郎死去▼ 1784年 (天明四年) 土田家三代/土田友湖/半四郎死去▼ 1801年 (享和元年) 土田家四代/土田友湖/鶴寿院貞松死去▼ 1779年 (安永八年) 土田家五代/土田友湖/半四郎生まれる★ 1825年 (文政八年) 土田家五代/土田友湖/半四郎死去▼ 1804年 (文化元年) 土田家六代/土田友湖/半四郎生まれる★ 1836年 (天保七年) 土田家七代/土田友湖/半四郎生まれる★ 1860年 (万延元年) 土田家十代/土田友湖/浄雪院妙要生まれる★ 1862年 (文久二年) 土田家八代/土田友湖/半四郎生まれる★ 1893年 (明治二十六年) 土田家九代/土田友湖/半四郎生まれる★ 1904年 (明治三十七年) 土田家十一代/土田友湖/半四郎生まれる★ 1939年 (昭和十四年) 土田家十二代/土田友湖/照雪友湖生まれる★ 1965年 (昭和四十年) 土田家十一代/土田友湖/半四郎死去▼ 1968年 (昭和四十三年) 土田家十三代/土田半四郎生まれる★ 1911年 (明治四十四年) 土田家七代/土田友湖/半四郎死去▼ 土田家八代/土田友湖/半四郎死去▼ 1914年 (大正三年) 土田家九代/土田友湖/半四郎死去▼ 1940年 (昭和十五年) 土田家十代/土田友湖/浄雪院妙要死去▼ 2022年 (令和四年) 土田家十二代/土田友湖/照雪友湖死去▼

  • 8-3|中川家歴代|中川浄益|中川家|金物師|千家十職|

    千家十職 ■ 中川家|中川浄益|金物師 ■ 中川家|歴代 ❚ 中川家|歴代 ■ 中川家|初代 ■ 中川紹益 ~なかがわ・しょうえき~ 永禄二年(1559年) ― 元和八年(1622年) 六十四歳 越後高田佐味郷の出身。 「紹益」と号す。 ■ 中川家|二代 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 文禄二年(1593年) ― 寛文十年(1670年) 七十八歳 中川家初代/中川紹益の長男として京都に生まれる。 金森宗和の娘の夫。 表千家四代/逢源斎江岑宗左の申しつけにより、二代以降、中川家では「浄益」を名乗る。 。 ■ 中川家|三代 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 正保三年(1646年) ― 享保三年(1718年) 七十三歳 中川家二代/中川浄益の長男として京都に生まれる。 歴代随一の名工と称される。 砂張の製法を発見。 ■ 中川家|四代 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 万治元年(1658年) ― 宝暦十一年(1761年) 百三歳 菊亭公より「友寿」の号を賜りました。 長寿であり、三人の息子の内、長男と次男は家督を継ぐことなく逝去。 ■ 中川家|五代 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 享保九年(1724年) ― 寛政三年(1791年) 六十八歳 中川家四代/中川浄益の三男として京都に生まれる。 ■ 中川家|六代 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 明和三年(1766年) ― 天保四年(1833年) 六十八歳 中川家五代/中川浄益の長男として京都に生まれる。。 天明八年(1788年)一月、天明の大火に罹災し、家財をはじめ古文書類を焼失。 寛政三年(1791年)、家督を継承し中川家六代を襲名。 表千家の出仕を禁じられる。 ■ 中川家|七代 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 寛政八年(1796年) ― 安政六年(1859年) 六十四歳 中川家六代/中川浄益の長男として京都に生まれる。 飛来一閑の三女・九満の夫。 天明八年(1788年)一月、天明の大火に罹災し、家財をはじめ古文書類を焼失。 「砂張打物の名人」とも称される。 ■ 中川家|八代 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 文政十三年(1830年) ― 明治十年(1877年) 四十八歳 麻田佐左衛門の子として生まれる 中川家七代/中川浄益の婿養子。 万延元年(1860年)、徳川将軍家の御数寄屋御用達となる。 明治初年に「株式会社浄益社」を設立。 ■ 中川家|九代 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 嘉永二年(1849年) ― 明治四十四年(1911年) 六十三歳 中川家八代/中川浄益の長男として京都に生まれる。。 ■ 中川家|十代 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 明治十三年(1880年) ― 昭和十五年(1940年) 六十一歳 中川家九代/中川浄益の長男として京都に生まれる。 二十歳前後の「日露戦争」の後、満州へ赴き酒屋を開業。 父の他界に伴い帰国し、中川家の家督を継承。 ■ 中川家|十一代 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 大正九年(1920年) ― 平成二十年(2008年) 八十八歳 中川家十代/中川浄益の長男として京都に生まれる。 昭和十五年(1940年)、家督を継承し、中川家十一代を襲名。 ■ 中川家|空位 ■ 中川浄益 ~なかがわ・じょうえき~ 年(年) ― 年(年) ―歳 現在空位。

  • 8-4|中川家年表|中川浄益|中川家|金物師|千家十職|

    千家十職 ■ 中川家|中川浄益|金物師 ■ 中川家|年表 ❚ 中川家|年表 1559年 (永禄二年) 中川家初代/中川紹益生まれる★ 1593年 (文禄二年) 中川家二代/中川浄益生まれる★ 1622年 (元和八年) 中川家初代/中川紹益死去▼ 1646年 (正保三年) 中川家三代/中川浄益生まれる★ 1658年 (万治元年) 中川家四代/中川浄益生まれる★ 1670年 (寛文十年) 中川家二代/中川浄益死去▼ 1718年 (享保三年) 中川家三代/中川浄益死去▼ 1724年 (享保九年) 中川家五代/中川浄益生まれる★ 1761年 (宝暦十一年) 中川家四代/中川浄益死去▼ 1766年 (明和三年) 中川家六代/中川浄益生まれる★ 1791年 (寛政三年) 中川家五代/中川浄益死去▼ 1796年 (寛政八年) 中川家七代/中川浄益生まれる★ 1830年 (文政十三年) 中川家八代/中川浄益生まれる★ 1833年 (天保四年) 中川家六代/中川浄益死去▼ 1849年 (嘉永二年) 中川家九代/中川浄益生まれる★ 1859年 (安政六年) 中川家七代/中川浄益死去▼ 1880年 (明治十三年) 中川家十代/中川浄益生まれる★ 1877年 (明治十年) 中川家八代/中川浄益死去▼ 1911年 (明治四十四年) 中川家九代/中川浄益死去▼ 1920年 (大正九年) 中川家十一代/中川浄益生まれる★ 1940年 (昭和十五年) 中川家十代/中川浄益死去▼ 2008年 (平成二十年) 中川家十一代/中川浄益死去▼

  • 9-1|中村家とは|中村宗哲|中村家|塗師|千家十職|

    千家十職 ■ 中村家|中村宗哲|塗師 ■ 中村家とは ❚ 中村家とは 中村家~なかむらけ~とは、千家十職の内の一家で棗、香合などの塗物(漆芸)を業とする職家。 ​​ 中村家の漆芸は、深みのある漆の光沢と、繊細で格調高い意匠が特徴である。漆塗りは単なる装飾のみならず、器物の強度や手触りにも関わる重要な工程であり、実用性と美の調和を求められる茶の湯において欠かせない技法とされています。 中村宗哲の名を冠する塗物は、茶席において格式を備えた道具として高く評価され、茶の湯の発展とともに技を磨き続けてきました。 中村家の作品は、時代を経てもなお伝統の技法を守り、茶の湯の世界に欠かせぬ存在として今日に受け継がれています。 ❚ 中村家のあゆみ 中村家の祖は中村家元祖/覚法源想信士(生年不詳-1654)と伝えられ、その父は豊臣政権の三中老のひとり、中村一氏(生年不詳-1600)の家臣であったと伝えられています。 中村家三代/中村宗哲(1699-1776)の後室の家伝によると中村家元祖/覚法源想信士は慶長二十年(1615年)「大阪夏の陣の合戦をうとみ、京都の武者小路へ隠栖した」と伝えられる。 また中村家の過去張には慶長十五年(1610年)没の「肇智妙春信女」の戒名が記されており、これが「中村家元祖/覚法源想信士」の母と推測される。 中村家元祖/覚法源想信士はかつて豊臣秀吉(1536-1598)に仕えた武士であり、茶の湯にも親しんでいたと考えられる。徳川家の世となって以降は豊臣家との関わりを公には語らず、市中の山居の趣を持つ武者小路に居を構え、静かに茶の湯を嗜み余生を送ったと伝わっている。 その息子である中村家初代/中村宗哲(1617-1695)は元和三年(1617年)に生まれ、のちに塗師としての道を歩み、千家に仕えるようになる。 中村家元祖/覚法源想信士は承応三年(1654年)に没し、室である「月山秀悦信尼」は貞亨三年(1686年)九十歳でその生涯を終えました。 ❚ 武者小路千家と中村家 千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の次男(後の武者小路千家四代/似休斎一翁宗守)は中村家初代/中村宗哲の娘婿となり、「吉岡甚右衛門」と名乗り塗師を営んでいました。 しかし父である千家三代/咄々斎元伯宗旦から茶家の後嗣を望まれたため吉岡家を出て千家に復し、その際に塗師としての家業を八兵衛(後の中村家初代/中村宗哲)に譲ることとなります。 中村家三代/中村宗哲()の後室の伝によると以下のように伝える。 「一翁(宗守)の娘を塗師織、吉文字屋号共附属にて初代宗哲(八兵衛)妻に致され候なり。」 この縁を象徴するものとして、当時到来した四方手水鉢があり「武者小路千家」と「中村家」の庭にそれぞれ一対として現存しています。 また、かっては福島正則(1561-1624)を祀る「福守稲荷」が中村家に祀られていたが今日は武者小路千家に祀られており、両家の深い関りを今に伝えています。 ❚ 中村家の役割 中村家の祖中村家は初代の頃より蒔絵を施した家具や調度品などの塗物を手がけ、優れた塗師として名を広める。 江戸時代(1603-1868)の後期には、茶道具の専門性を高め、棗や香合を中心とした「千家好み」の塗物制作に特化し、明治時代(1868-1912)以降は茶道具専門の「型物塗師」としての制作に特化し、千家好みの塗物を手がける職家としての地位を確立しました。 中村家は代々千家に仕え、茶の湯の伝統を支える塗師としてその技を絶やさず、代々の宗哲が伝統の継承に尽力してきた。 現代の中村宗哲もまた、伝統技法を守りながら現代の感性を取り入れ、茶道具としての実用美と芸術性を兼ね備えた作品を制作しています。 四百年にわたり、千家に仕え、茶の湯の精神を映す塗師としての役割を果たしてきた中村家は、今もなお茶の湯の美意識を支える重要な職家です。

  • 9-3|中村家歴代|中村宗哲|中村家|塗師|千家十職|

    千家十職 ■ 中村宗哲 ■ 中村家|歴代 ❚ 中村家|歴代 ■ 中村家|初代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 元和三年(1617年) ― 元禄八年(1695年) 七十九歳 武者小路千家四代/似休斎一翁宗守の養父。 娘婿であった武者小路千家四代/似休斎一翁宗守が千家にもどったために塗師業を継承。 ■ 中村家|二代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 寛文十一年(1671年) ― 宝永三年(1706年) 三十六歳 中村家二代/中村宗哲の子として京都に生まれる。 豊田八郎兵衛の名で御所出入りとなる。 二十五歳にて父を亡くし中村家の家督を継承。 ■ 中村家|三代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 元禄十三年(1699年) ― 安永五年(1776年) 七十七歳 中村家三代/中村宗哲の子として京都に生まれる。 幼少にて両親を亡くしたため、幼くして中村家の家業を継承。 七事式の制定に参画。 ■ 中村家|四代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 享保十一年(1726年) ― 寛政三年(1791年) 六十四歳 中村家三代/中村宗哲の婿養子。 一時家を出て別宅にて「八郎兵衛」の名で塗師業を営む。 「八郎兵衛宗哲」とも称される。 御所御用を務める。 ■ 中村家|五代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 明和元年(1764年) ― 文化八年(1811年) 四十八歳 医師・青沼家の子 十五歳で中村家四代/中村宗哲の養子となり家添いの娘・こうの夫となる。 天明八年(1788年)一月、「天明の大火」に罹災。 寛政四年(1792年)、家督を継承し、中村家五代を襲名。 ■ 中村家|六代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 寛政四年(1792年) ― 天保十年(1839年) 四十六歳 中村家五代/中村宗哲の次男として京都に生まれる。 文化十二年(1815年)、家督を譲り、以降は「八郎兵衛」を名乗る。 ■ 中村家|七代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 寛政十年(1798年) ― 弘化三年(1846年) 四十九歳 中村家五代/中村宗哲の次男として生まれる。 中村家六代/中村宗哲の弟。 文化十二年(1815年)、家督を継承し中村家七代を襲名。 天保十四年(1843年)、尾州家御用をつとめ「得玄」の号を拝領。 ■ 中村家|八代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 文政十一年(1828年) ― 明治十七年(1884年) 五十七歳 中村家七代/中村宗哲の長男として生まれる。 弘化三年(1846年)、家督を継承し、中村家八代を襲名。 ■ 中村家|九代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 安政三年(1856年) ― 明治四十四年(1911年) 五十六歳 棟梁/松崎家の長男として生まれる。 中村家八代/中村宗哲の婿養子。 ■ 中村家|十代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 文久二年(1862年) ― 大正十五年(1926年) 六十五歳 中村家八代/中村宗哲の四女として生まれる。 中村家九代/中村宗哲の妻。 中村家九代/中村宗哲の逝去後、後嗣であった長男の中村哲太郎も家業を退く。 表千家十二代/惺斎敬翁宗左より「尼塗り」として務めるようにとお力添えがあり家業を継承。 ■ 中村家|九代宗哲・十代尼宗哲の長男 ■ 中村哲太郎 ~なかむら・てつたろう~ 生没年不詳 [父]中村家九代/中村宗哲と[母]中村家十代/中村宗哲の長男として生まれる。 中村家十一代/中村尼宗哲の兄。 一時中村家の家督を継承するが間もなく家業を退き「一哲」と号す。 ■ 中村家|十一代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 明治三十二年(1899年) ― 平成五年(1993年) 九十五歳 中村家九代/中村宗哲の次男として京都に生まれる。 中村哲太郎の弟。 飛来家の孫・エツの夫。 十六歳で千家へ出仕。 大正十四年(1925年)より家督を継承。 昭和六十年(1985年)、八十七歳で隠居。 以後「元斎宗哲」として俳句画賛を楽しむ。 ■ 中村家|十二代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 昭和七年(1932年) ― 平成十七年(2005年) 七十三歳 中村家十一代/中村宗哲の長女として京都に生まれる。 昭和六十一年(1986年)、中村家十二代を襲名。 千家十職における初の女性当主。 三人の娘とともに「漆器/哲工房」を創設。 ■ 中村家|十三代|当代 ■ 中村宗哲 ~なかむら・そうてつ~ 昭和四十年(1965年) ― 年(年) ―歳 [父]三代/諏訪蘇山と[母]中村家十二代/中村宗哲の次女として生まれる。 四代/諏訪蘇山の姉。 平成十八年(2006年)十月に家元へ初出仕。 同年中村家十三代を襲名。

  • 9-4|中村家年表|中村宗哲|中村家|塗師|千家十職|

    千家十職 ■ 中村家|中村宗哲|塗師 ■ 中村家|年表 ❚ 中村家|年表 1617年 (元和三年) 中村家初代/中村宗哲生まれる★ 1671年 (寛文十一年) 中村家二代/中村宗哲生まれる★ 1695年 (元禄八年) 中村家初代/中村宗哲死去▼ 1699年 (元禄十三年) 中村家三代/中村宗哲生まれる★ 1706年 (宝永三年) 中村家二代/中村宗哲死去▼ 1726年 (享保十一年) 中村家四代/中村宗哲生まれる★ 1764年 (明和元年) 中村家五代/中村宗哲生まれる★ 1776年 (安永五年) 中村家三代/中村宗哲死去▼ 1791年 (寛政三年) 中村家四代/中村宗哲死去▼ 1792年 (寛政四年) 中村家六代/中村宗哲生まれる★ 1798年 (寛政十年) 中村家七代/中村宗哲生まれる★ 1828年 (文政十一年) 中村家八代/中村宗哲生まれる★ 1839年 (天保十年) 中村家六代/中村宗哲死去▼ 1846年 (弘化三年) 中村家七代/中村宗哲死去▼ 1856年 (安政三年) 中村家九代/中村宗哲生まれる★ 1862年 (文久二年) 中村家十代/中村宗哲生まれる★ 1884年 (明治十七年) 中村家八代/中村宗哲死去▼ 1899年 (明治三十二年) 中村家十一代/中村宗哲生まれる★ 1911年 (明治四十四年) 中村家九代/中村宗哲死去▼ 1926年 (大正十五年) 中村家十代/中村宗哲死去▼ 1932年 (昭和七年) 中村家十二代/中村宗哲生まれる★ 1965年 (昭和四十年) 中村家当代/中村宗哲生まれる★ 1993年 (平成五年) 中村家十一代/中村宗哲死去▼ 2005年 (平成十七年) 中村家十二代/中村宗哲死去▼

  • 10-1|飛来家とは|飛来一閑|飛来家|一閑張細工師|千家十職|

    千家十職 ■ 飛来家|飛来一閑|一閑張細工師 ■ 飛来家とは ❚ 飛来家とは 飛来家~ひきけ~とは、千家十職の内の一家でわが国における漆工芸の一種「一閑張~いっかんばり~」の創始者であり、一閑張細工を業とする職家。 一閑張とは、木地に和紙を何層にも張り重ね、漆を塗って仕上げる技法で、軽量ながら堅牢な作りと独特の質感を持ち、その風合いが茶の湯の「わび・さび」の美意識にふさわしいとして高く評価され、茶の湯の世界で重用されてきました。 飛来家の一閑張は、茶室の雰囲気に溶け込む上品な意匠や、漆の優雅な光沢が特徴で、千家好みの茶道具として代々制作が続けられています。 時代の移り変わりの中でも伝統の技法を守り、茶の湯の世界に欠かせない存在として現在に受け継がれています。 飛来家では飛来家十一代/飛来一閑(1791-1872)の頃より、通称「才右衛門~さいうえもん~」とし、剃髪後に「一閑」を名乗るのがしきたりとなる。 ​ ❚ 飛来家のあゆみ 飛来家の祖は、現在の中国・浙江省杭州の西湖畔にある霊隠寺の僧で、明末の動乱を避けて寛永年間(1624年~1644年)に日本へ渡来した人物と伝えられています。 出身地の「飛来峰」にちなみ「飛来」を姓としました。 大徳寺百七十世/清巌宗渭(1588–1662)を通じて、千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578–1658)に引き立てられ、千家近くの小川頭に家を構え、一閑張細工を始めたといわれます。 千家三代/咄々斎元伯宗旦は一閑張の独特の風合いが茶の湯(わび茶)の美意識にふさわしいとして高く評価し、自身の指導のもと約80種に及ぶ茶道具の製作を依頼したとされる。 また茶事に招く際は常に懐石なしの「飯後御入来」で案内したところから、千家三代/咄々斎元伯宗旦より「飯後軒~はんごけん~」の軒号を与えられ、これを機に千家出仕の一閑張細工師 として仕えるようになる。 ❚ 飛来家の発展と受難 飛来家五代/飛来一閑(生年不詳-1741)の頃からは茶筅や羽箒、円座、草履など、多様な細工物や用具も手掛けるようになります。しかし飛来家六代/飛来一閑(生年不詳-1746)から飛来家八代/飛来一閑(生年不詳-1753)までは当主が相次いで早世し、家業の維持が困難な時期を迎えることとなります。 さらに天明八年(1788年)一月の「天明の大火」により、千家の職方の多くが被災。 飛来家も罹災し、家譜や初代以来の作品・印判・墨蹟など貴重な資料の大半を焼失しました。 この時に千家三代/咄々斎元伯宗旦が書き記した「一閑由来記」もこのとき失われています。 その後、飛来家十代/飛来一閑(1757-1830)をはじめ飛来家中興の祖とも呼ばれた飛来家十一代/飛来一閑(1791-1872)が飛来家の再興に尽力。 ❚ 近代から現代へ 飛来家十四代/飛来一閑(1894-1977)は後継者となるべく育てた二人の息子を太平洋戦争で失うという悲運に見舞われましたが、婿養子として迎えた飛来家十五代/飛来一閑(1926-1981)が家を継ぎました。 飛来家十五代/飛来一閑は大成を目前に急逝しましたが、その志を受け継いだ娘が飛来家十六代/飛来一閑(1963-)として家業を継承し、現在も夫とともに家業を守り続けています。 飛来家は、四百年にわたり千家十職の一角として一閑張の技を伝承し、茶の湯の美意識を今に伝える重要な職家です。

  • 10-2|一閑張細工とは|飛来一閑|飛来家|一閑張細工師|千家十職|

    千家十職 ■ 飛来家|飛来一閑|一閑張細工師 ■ 一閑張細工とは ❚ 一閑張細工師とは その千家十職の一つである飛来家は、三千家御用達の「一閑張細工師」として「棗」「香合」「盆」などをはじめ代々家元の「御好物」などの制作を業とする職家です。​ ​ 飛来家の一閑張は、軽量ながらも堅牢な作りが特徴で、独特の質感と風合いが茶の湯の道具として高く評価されています。また、茶室の雰囲気に溶け込む上品な意匠や、漆仕上げによる優雅な光沢が魅力とされています。 茶の湯の発展とともに技術を磨き、千家好みの一閑張茶道具を代々にわたり制作してきました。 その作品は、時代の変遷を経ながらも、伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在となっています。 ❚ 一閑張細工とは 一閑張とは、日本の伝統工芸である紙漆細工の一種で、茶道具の世界にも深く関わる技法です。 竹や木などの骨組みに和紙を幾重にも貼り重ね、漆で仕上げることで、軽くて丈夫な器や籠を生み出します。 その起源にはいくつかの説がありますが、最も有力とされるのが千家十職の一人。飛来家初代/飛来一閑(1599-1675)が伝えた技法に由来します。 飛来家初代/飛来一閑は、中国・明から渡来した漆工で、京都に住して木地や紙器の制作を行いました。飛来家初代/飛来一閑の手掛けた紙漆細工は特に優れており、「一閑塗」と呼ばれたといわれます。千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)に愛用されたことから茶の湯の世界に広まり、やがて「一閑張」として知られるようになりました。 一方で、農村部で竹籠や笊に和紙を貼り、柿渋を塗って補強した「閑張り」があり、これは「農閑期の閑な時に作られた張り物」という意味で、やがて京都の茶文化への憧れから「一閑張り」とも呼ばれるようになったとされます。 ❚ 紙漆細工と紙胎・張抜の技法 一閑張は「紙胎漆器」という技法に基づいています。 漆器というと木地に漆を塗った「木胎漆器」が一般的ですが、素地に何を使うかによって以下のように名称が変わります。 紙胎漆器 ★一閑張細工★ 和紙を貼り重ねて漆を塗る。 木胎漆器 ★一般漆器★ 木地に漆を塗る。 陶胎漆器 陶器の上に漆を塗る。 籃胎漆器 竹籠に漆を塗る。 飛来一閑の技法は紙胎漆器で、和紙を重ねた素地に漆を塗るものでした。その後、「張抜き」と呼ばれる木型を抜く技法が加わり、「一閑塗」と「張抜き」という二つの言葉が融合して「一閑張」と呼ばれるようになったと伝えられています。 漆器の制作は本来、素地師・塗師・加飾師と分業されますが、飛来一閑は素地づくりから仕上げまで一貫して手掛けたともいわれ、その独自性が千家三代/咄々斎元伯宗旦の目に留まったと考えられています。 今日では「一閑張り」といえば柿渋を使った民芸的な籠や器を指しますが、飛来一閑の一閑張細工は純然たる漆工芸であり、柿渋を用いない点が大きく異なります。 今日でも、飛来家の当主がこの伝統的な紙胎漆器の技法を継承し、千家十職の流れを受け継ぐ品々を制作しています。 ❚ 飛来一閑張細工の特徴と京漆器との関わり 飛来一閑の作品は、木地に和紙を張り、その上に一度だけ漆を塗るという極めて簡潔な手法で知られています。千家三代/咄々斎元伯宗旦が愛したといわれる「ざんぐり(大まかで素朴な肌合い)」の風趣があり、これが「侘び・寂び」の美に通じるものとして評価されました。 当時の京都では、京漆器が主流でした。京漆器は生地が薄く軽やかで、黒漆を重ね、蒔絵などの華やかな装飾を施すのが特徴です。その中で、飛来一閑の紙胎漆器は素朴でありながら品格のある趣を放ち、京漆器の世界に新風をもたらしました。 後に飛来家は千家十職の一つとして定められ、中村宗哲が華やかな京漆器、飛来一閑が紙胎漆器による侘びの表現を担いました。 ❚ 閑張り・一貫張り 一方で、庶民の暮らしの中でも「閑張り」と呼ばれる技法がありました。 農家で竹籠や笊に和紙を貼り、上から柿渋を塗ったもので、農閑期の暇な時に作られたことからこの名がつきました。もともとは養蚕や製茶のための実用品でしたが、やがて日用品や家具にも応用されるようになりました。 使用と修繕を重ねるうちに、柿渋の効果で強度が増し、「一貫目 (約3.75kg)の重さにも耐える」として「一貫張り」と呼ばれるようになったともいわれます。 これが「一閑張り」と混同されて広まったため、今日では両者の区別が曖昧になっています。 また文学作品にも登場し、夏目漱石(1867-1916)の「坊っちゃん」や江戸川乱歩(1894-1965)の作品の中に「一閑張りの机」が描かれるなど、四国地方を中心に「一貫張り」として広まった民芸品としても知られています。 ❚ 技法 一閑張の製作は、素地の組み立てから仕上げまで、すべて手作業で行われます。 一般的な工程は次の通りです。 1.骨組みを作る 竹や木を組んで形を整える(紙紐や型を用いることもある)。 2.和紙を貼る 糊を使って和紙を何層にも貼り重ね、乾かす。 3.塗装を施す 柿渋や漆を塗って防水性・強度を高める。 4.装飾を加える 書や絵を貼り、さらに渋を重ねて独特の風合いを出す。 この工程によって、紙とは思えないほどの堅牢さと軽さが生まれます。 柿渋は防水や防虫の効果を持ち、使うほどに色艶が増すため、実用性と美しさを兼ね備えています。 仕上げには、渋塗りの上から漆をかけたり、彩色や模様貼りを施すなど、用途や地域によって多様な表現が見られます。 ❚ 地域ごとの特色と発展 一閑張の技法は京都を起点として全国に広まり、各地で独自の発展を遂げました。 京一閑張 (京都) 飛来一閑の流れを継ぎ、茶道具や菓子器などに洗練された意匠を見せる。 会津張り (福島県) 柿渋で仕上げる民芸的な温かみが特徴で、実用性が高い。 讃岐一閑張(香川県) 竹籠に和紙を重ねた素朴な風合いで、生活道具として広く親しまれてきた。 このように、一閑張は「実用と美の融合」を大切にし、暮らしの中で使われながら育てられる工芸として各地で息づいています。 ❚ 一閑張の美と現代の継承 一閑張は、紙と柿渋という身近な素材を生かした「用の美」を体現する工芸です。 使うほどに深みを増す風合いと、職人の手仕事による温もりが魅力であり、茶道においても「侘び・寂び」の精神を象徴する器として重用されています。 近年では、古布や英字新聞、手漉き紙を用いたモダンな作品も登場し、伝統技法と現代感覚が融合した新たな表現が生まれています。日用品として、また芸術作品としても、一閑張は今なお多くの人々に愛されています。 現代では、飛来家による京漆器系の一閑張細工と、民芸としての柿渋一閑張りの二つの流れが存在しています。前者は茶道具としての高い芸術性を持ち、後者は民の生活に根ざした「用の美」を象徴します。 紙と漆という限られた素材から、侘び寂びの美を生み出す飛来一閑張細工。その精神は、今もなお京都の工房に息づき、千家の茶の湯とともに静かに受け継がれています。

  • 10-3|飛来家歴代|飛来一閑|飛来家|一閑張細工師|千家十職|

    千家十職 ■ 飛来家|飛来一閑|一閑張細工師 ■ 飛来家|歴代 ❚ 飛来家|歴代 ■ 飛来家|初代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 萬暦六年(1578年) ― 明暦三年(1657年) 八十歳 中国浙江省杭州西湖畔飛来峰の出身。 内乱を逃れるために寛永年間(1624-44)に来日。 漆芸技法のひとつ「一閑張」を創始。 ■ 飛来家|初代飛来一閑の長女 ■ 岸田ゆき ~きしだ・ゆき~ 生年不詳 ― 天正十七年(1590年) 享年不詳 初代飛来一閑の長女として生まれる。 岸田喜右衛門に嫁ぐ。 飛来家との区別のため岸一閑と称す。 ■ 飛来家|二代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 生年不詳 ― 天和三年(1683年) 享年不詳 初代飛来一閑の長男として生まれる。 近江安土に移り住む。 家業に関わったかは不明。 ■ 飛来家|三代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 生年不詳 ― 正徳五年(1715年) 享年不詳 初代飛来一閑の長男として。 智恵光院通下立売付近に居を構え、屋号を笹屋と称す。 ■ 飛来家|四代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 生年不詳 ― 享保八年(1733年) 享年不詳 出自は不明。 千家への出入を許される。 ■ 飛来家|五代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 生年不詳 ― 寛保元年(1741年) 享年不詳 ― ■ 飛来家|六代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 生年不詳 ― 延享三年(1746年) 享年不詳 ― ■ 飛来家|七代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 生年不詳 ― 寛延三年(1750年) 享年不詳 飛来家六代/飛来一閑の長男として生まれる。 飛来家七代/飛来一閑の兄。 早世。 ■ 飛来家|八代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 生年不詳 ― 宝暦三年(1753年) 享年不詳 飛来家六代/飛来一閑』の次男として生まれる 飛来家七代/飛来一閑の弟。 家督継承後三年で早世。 ■ 飛来家|九代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 生年不詳 ― 天明八年(1788年) 享年不詳 飛来家六代/飛来一閑の娘婿養子。 上京区出水通油小路西入ルに居を移す。 天明の大火により屋敷や家伝などを焼失。 ■ 飛来家|十代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 宝暦七年(1757年) ― 文政十三年(1830年) 六十歳 飛来家九代/飛来一閑の子として生まれる。 三十二歳頃に家督を継ぐ。 飛来家の復興に尽力。 十代以降、当主は「才右衛門」号「一閑」と称す。 ■ 飛来家|十一代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 寛政三年(1791年) ― 明治五年(1872年) 八十二歳 文政元年(1818年)、飛来家十一代を襲名。 名工であり、飛来家中興の祖と称される。 ■ 飛来家|十二代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 文政四年(1821年) ― 明治三十年(1897年) 七十六歳 飛来家十一代/飛来一閑の三男として生まれる。 兄の早世のため嘉永二年(1849年)、飛来家十二代を襲名。 ■ 飛来家|十三代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 安政六年(1859年) ― 大正二年(1913年) 五十五歳 飛来家十一代/飛来一閑の長男の子として生まれる。 明治二十八年(1895年)、飛来家十三代を襲名。 ■ 飛来家|十四代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 明治二十七年(1894年) ― 昭和五十二年(1977年) 八十四歳 飛来家十三代/飛来一閑の長男として生まれる。 後嗣であった二人の実子が戦死。 ■ 飛来家|十五代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 大正十五年(1926年) ― 昭和五十六年(1981年) 五十六歳 飛来家十四代/飛来一閑の婿養子。 飛来家十四代/飛来一閑の娘である飛来敏子の夫。 飛来家十四代/飛来一閑の二子が戦死のため家督を継承。 襲名後四年で亡くなる。 ■ 飛来家|十六代|当代 ■ 飛来一閑 ~ひき・いっかん~ 昭和三十八年(1963年) ― 年(年) 歳 飛来家十五代/飛来一閑の長女として生まれる。 昭和六十二年(1987年)より千家へ出仕。 昭和六十三年(1988年)、飛来家十六代を襲名。

  • 10-4|飛来家年表|飛来一閑|飛来家|一閑張細工師|千家十職|

    千家十職 ■ 飛来家|飛来一閑|一閑張細工師 ■ 飛来家|年表 ❚ 飛来家|年表 1578年 (萬暦六年) 飛来家初代/飛来一閑生まれる★ 1590年 (天正十七年) 飛来家初代飛来一閑の長女/岸田ゆき死去▼ 1657年 (明暦三年) 飛来家初代/飛来一閑死去▼ 1683年 (天和三年) 飛来家二代/飛来一閑死去▼ 1715年 (正徳五年) 飛来家三代/飛来一閑死去▼ 1733年 (享保八年) 飛来家四代/飛来一閑死去▼ 1741年 (寛保元年) 飛来家五代/飛来一閑死去▼ 1746年 (延享三年) 飛来家六代/飛来一閑死去▼ 1750年 (寛延三年) 飛来家七代/飛来一閑死去▼ 1753年 (宝暦三年) 飛来家八代/飛来一閑死去▼ 1757年 (宝暦七年) 飛来家十代/飛来一閑生まれる★ 1788年 (天明八年) 飛来家九代/飛来一閑死去▼ 1791年 (寛政三年) 飛来家十一代/飛来一閑生まれる★ 1821年 (文政四年) 飛来家十二代/飛来一閑生まれる★ 1830年 (文政十三年) 飛来家十代/飛来一閑死去▼ 1859年 (安政六年) 飛来家十三代/飛来一閑生まれる★ 1872年 (明治五年) 飛来家十一代/飛来一閑死去▼ 1894年 (明治二十七年) 飛来家十四代/飛来一閑生まれる★ 1897年 (明治三十年) 飛来家十二代/飛来一閑死去▼ 1913年 (大正二年) 飛来家十三代/飛来一閑死去▼ 1926年 (大正十五年) 飛来家十五代/飛来一閑生まれる★ 1963年 (昭和三十八年) 飛来家当代/飛来一閑生まれる★ 1977年 (昭和五十二年) 飛来家十四代/飛来一閑死去▼ 1981年 (昭和五十六年) 飛来家十五代/飛来一閑死去▼

  • 1-2|点前道具|点前の際に用いる主要な道具|茶道具一覧|茶道具辞典

    茶道具辞典 ■ 茶道具一覧 ■ 点前道具 ❚ 目次 01.点前道具 02.点前道具一覧 03.点前道具一覧 ―消耗品― ❚ 01.点前道具とは 茶道における点前道具とは、一服の茶を点てるために使用される道具を指します。 点前道具の代表的な道具とその特徴をご紹介いたします。 ❚ 02.点前道具一覧 ※順不同 茶碗 読み:ちゃわん 茶を飲むための器で産地や焼き方によって分類され、「唐物茶碗」、「高麗茶碗」、「楽焼」、「和物茶碗」などの種類があります。 茶杓 読み:ちゃしゃく 茶入や薄茶器から抹茶をすくい、茶碗に入れるための匙です。 多くは竹製ですが、木製や象牙製のものも存在します。 茶入 読み:ちゃいれ 濃茶用の抹茶を入れるための小さな器で、陶器製のものが多く、象牙の蓋が付けられることもあります。 茶入には「唐物茶入」「瀬戸茶入」「国焼茶入」「島物茶入」などがあり、形状も「文琳」、「茄子」「瓢箪」「鶴首」「大海」など多様です。 また茶入を包む袋は「仕覆」と呼ばれます。 棗 読み:なつめ 薄茶用の抹茶を入れる、蓋付きの容器です。 薄器とも呼ばれ、主に木製で漆塗りのものが多く、蒔絵や螺鈿で装飾されたものもあり、形状は「中次形」と「棗形」に大別されます。 水指 読み:みずさし 茶釜に水を足したり、茶碗や茶筅を清めるための水を入れておく器です。 陶磁器製が主流ですが、木製、漆塗、金属、ガラス製など、季節や棚、その他合わせる道具に応じて使い分けられます。 蓋置 読み:ふたおき 釜の蓋や柄杓を置くために使用する道具で、金属、陶磁器、木、竹などの素材があります。竹製の蓋置が多く、竹の節の位置により炉用と風炉用に使い分けられます。 棚物 読み:たなもの 四畳半以上の茶席において、道具畳に水指、薄茶器、柄杓、蓋置などの茶道具を飾り置く棚の総称です。これを用いて行う棚点前も存在し、各流派の宗匠の御好みによって、素材や形状、飾り方に多様性があります。 皆具 読み:かいぐ 水指、柄杓、建水、蓋置の基本的な茶道具四器を総称して「皆具」と言います。 同じ素材、同じ柄のもので統一され、台子や長板に配置されます。 建水 読み:けんすい 点前の際、茶碗を清めた湯や水を捨てるための容器で、「水こぼし」とも呼ばれます。 最も格が低い道具とされ、客人の目につきにくい場所に設置されます。 素材は唐銅などの金属製のほか、陶磁器、木製など多様で、「七種建水」と呼ばれる代表的な形状として、「大脇差」「差替」「棒の先」「鉄盥」「鎗の鞘」「瓢箪」「餌畚」があります。 炭道具 読み:すみでまえ 炭点前に使用される道具一式を指します。 炭斗、火箸、羽箒、鐶、釜敷、灰器、灰匙などが含まれ、これらは炭斗に他の道具を収め、炭点前を行い、炭火の維持や温度管理などを行います。 ❚ 03.点前道具一覧 ―消耗品― ※順不同 茶筅|茶筌 読み:ちゃせん|ちゃせん 濃茶を練ったり、薄茶を点てるために用いる、竹製の道具です。使用される竹の種類には、白竹、煤竹、青竹などがあり、茶の点前に欠かせない存在です。 茶巾 読み:ちゃきん 点前の途中で茶碗を拭いて清めるために使用する布です。奈良晒などの麻布が一般的に用いられ、茶席の清潔さを保つ役割を果たします。 柄杓 読み:ひしゃく 湯や水を汲み取るための、柄のついた竹製の道具で「月形」と「指通」があり、特に「月形」は炉用と風炉用に分かれます。

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