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- 7-4|職家の役割 ~三千家を支える職人技~|第7回 茶道の飛躍|江戸時代 (前期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第7回 茶道の飛躍 [4/4] ■ 江戸時代 (1603年―1868年) |前期 ❚ 茶道具の美は誰によって支えられてきたのか 茶の湯は、誰が“道具の美”を支えてきたのでしょうか。 利休の時代から続く「好み」を受け継ぎ、手業で時代の茶道を支えてきた職人たち。 今回は、茶道具をつくる「職家」の役割と、その伝統をたどります。 ❚ 利休の審美眼と職人の技 日本独自の 「茶室*」 という空間で行われる茶道においては、「季節」や道具の「取り合せ」「作法」が重視されます。 それらがすべて調和するためには、「茶道具」に実用性と美的感性の両面で高い完成度が求めらます。 千利休は、自らの美意識に基づき、独特の風合いを持つ道具を選びました。 たとえば 『樂家初代/長次郎*』 が焼いた黒樂茶碗や、京釜師『辻与次郎』による釜などは、利休の「わび」の精神を体現する茶道具として知られています。 その後、千家三代/千宗旦もまた、祖父の千利休の茶風を受け継ぐべく、多くの職人に直接指導を行い、「利休好み」の道具が継承されるよう尽力しました。 ❚ 御好に応える「千家十職」 「茶道具」を制作する職人の特徴は、一般的な工芸作家とは異なり、 家元の好み(御好)* を忠実に継承し、代々にわたって形・色・技法を伝えていることにあります。 今日では、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家それぞれの御家元の好みに応じた道具を製作する職家たちが存在し、その中でも三千家の道具制作を担う十の家が 「千家十職*」 と呼ばれて活躍しています。 「千家十職」は、茶の湯の発展における“ものづくり”の中核を担う存在であり、各分野の名工たちは今日に至るまで、研鑽を重ねながら伝統の技を守り続けています。 ❚ 道具に宿る精神と美意識 千利休の時代から続く職家たちの手仕事は、今日の茶道文化を静かに支え続けています。 一碗の茶に込められる美と精神を、道具というかたちで表現する職人たちの姿。 次回は、その“道具”の背後にある素材や意匠の意味について掘り下げてまいります。 登場人物 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|天下三宗匠|茶道の大成者 辻与次郎 ……… 釜師|鋳物師|天下一與次郎|生没年不詳 長次郎 ……… 千家十職|茶碗師|樂家初代|生年不詳―1739年 千家三代/千宗旦 ……… 千家三代|咄々斎|元伯宗旦|わび宗旦|1578年―1658年― 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―ちゃしつ― 茶室は、茶の湯の精神を体現する特別な空間です。簡素で静謐な佇まいの中に、もてなしの心と季節の趣が凝縮されています。にじり口や躙口、床の間など、限られた空間に込められた美意識は、一期一会の茶会に深い余韻を与えます。 長次郎 ―ちょうじろう― 生年不詳―1589。樂焼の創始者。千利休の指導のもとに侘茶にふさわしい茶碗を作り出した名陶工。朝鮮系の出自とされ、手捏ねによる独自の造形と黒釉・赤釉の深い味わいが特徴。樂茶碗は茶の湯に革新をもたらし、その精神は樂家により代々継承されている。茶陶の源流を築いた人物である。 御好 ―おこのみ― 茶人が好んだ道具や意匠のこと。特に千家の家元の「御好」は、流儀の理念や茶風を体現するものとして職家により再現・継承されている。 千家十職 ―せんけじっしょく― 表千家・裏千家の家元に仕える十の職家。茶碗師・釜師・塗師・指物師・表具師など多分野にわたり、家元の「御好」を形にする茶道具の制作を担う。 0 ――
- 8-1|茶の遊芸化 ~茶が町衆のものへ~|第8回 茶の湯の遊芸化|江戸時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第8回 茶の湯の遊芸化 [1/6] ■ 江戸時代 (1603年―1868年) |後期 ❚ 茶の湯はなぜ“遊び”になったのか 茶の湯は、なぜ“遊び”へと変化していったのでしょうか。 かつての精神性を離れ、広く町人に浸透していった新たな茶の姿。 今回は、江戸後期における茶の湯の「遊芸化」の実態とその背景をたどります。 ❚ 庶民の間に広がった茶の湯 江戸時代(1603年–1868年)の中期に入ると、茶の湯は武家や公家、豪商のものから、より広い町人階層へと広がりを見せるようになります。 その広がりとともに茶の湯は次第に「遊びを楽しむ芸能」として捉えられ、いわゆる「茶の湯の遊芸化」が進行していきました。 この変化によって、茶の湯の間口は大きく広がる一方、本来、村田珠光が説いた 「わび・さび*」 の精神は徐々にその純粋性を失っていくことになります。 たとえば、美しい石灯籠を「完璧すぎる」という理由で意図的に打ち欠いたり、割れて継いだ茶碗を過剰に珍重するなど、大衆には理解し難い極端な振る舞いが目立つようになりました。 こうした風潮は、形式ばかりを重んじ、精神性をおろそかにする傾向を強め、茶の湯本来の精神性からの乖離を招くことになります。 ❚ 茶人が変人と呼ばれる時代 その結果、庶民のあいだでは 「茶人*」 という言葉が「変人」や「風変わりな人物」を指す隠語として使われるようになり、茶の湯は風流ではあってもやや滑稽な存在としても捉えられるようになっていきました。 この 「茶の湯の遊芸化*」 は、文化の大衆化という意味では一定の成果を収めつつも、精神性の劣化という側面をあわせ持つ、茶道史上の大きな転換点でもあったのです。 ❚ それでも続いた「茶のある暮らし」 精神性を失い、形式のみが先行するようになった茶の湯。 それでも、人々の手によって「茶のある暮らし」は次代へとつながっていきます。 次回は、この混沌の時代を越えて、再び“茶の心”を取り戻そうとした復興の動きに焦点を当てます。 登場人物 村田珠光 ……… 僧|1423年―1502年|わび茶の祖 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― わび・さび ―わび・さび― わびさびは、日本の美意識を象徴する概念で、簡素・静寂・不完全の中に深い美しさを見出します。「わび」は質素な中に心の豊かさを求め、「さび」は時の移ろいに宿る風情を愛でる心。茶道をはじめとする日本文化の根幹を成す思想です。 茶人 ―ちゃじん― 本来は茶道を修めた人を指すが、江戸後期には「変わり者」「風流人」を揶揄する言葉としても用いられるようになった。 茶の湯の遊芸化 ―ちゃのゆのゆうげいか― 茶道が芸道や精神修養の側面から離れ、娯楽や見せ物として消費されていく過程。江戸中期以降、町人層の間で流行し、茶の湯の本来の意味が変容していった。 0 ―― 0 ――
- 8-2|三千家の役割 ~家元制度の確立~|第8回 茶の湯の遊芸化|江戸時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第8回 茶の湯の遊芸化 [2/6] ■ 江戸時代 (1603年―1868年) |後期 ❚ 広がる茶の湯と秩序の必要性 茶の湯は、どうやって“道”としての形を整えていったのでしょうか。 広がる人気のなか、秩序と精神を取り戻すために生まれた仕組み。 今回は、「家元制度」の確立と三千家の役割を中心に、近世茶道の礎をたどります。 ❚ 家元制度の誕生と三千家の確立 江戸時代後期、町衆文化がますます活発になると、茶の湯を学ぶ人々も急増し、それに伴い「教授者」と「門弟」という関係性がより明確に整備されていきました。 この流れの中で誕生・定着したのが、今日の伝統芸能にも広く見られる 「家元制度*」 です。 なかでも 「三千家 (表千家・裏千家・武者小路千家)*」 は、この家元制度を確立し、その中心的役割を担うことで、秩序ある稽古体制を築き、茶の湯の精神的回帰を導きました。 それにより、遊芸化しつつあった茶の湯も、本来の「道」のあり方を取り戻し、名主・商人といった各地の人々の習い事として、日本全国に広く普及していくことになります。 またこの過程において、今日の茶道の理念として知られる 『和敬清寂*』 という標語が体系化され、点前や茶会の作法も流派ごとに整備が進みました。 これが、今日に続く「茶道」としての完成を意味する大きな一歩となります。 ❚ 広間での稽古と七事式の考案 さらに、弟子の増加とともに、従来の小間茶室による少人数制の「茶事」では対応が難しくなったため、大広間で複数の門弟を一斉に指導する「広間での稽古法」が必要となります。 このニーズに応えるかたちで、表千家七代/如心斎と弟の裏千家八代/又玄斎の門下であった 『江戸千家開祖/川上不白*』 らによって、 「七事式*」 が考案されました。 このようにして、茶道は都市部だけでなく、農村や地方都市にも広がる“文化としての茶の湯”へと成熟していくのです。 ❚ 三千家が築いた近世茶道の礎 秩序なき広がりに精神を与え、道としての軌道を築いた家元制度。 三千家の活動が、今日の茶道の礎を築いたことは間違いありません。 次回は、町衆文化の中で育まれたもう一つの茶の風景、文化文政の町人茶道を見ていきます。 登場人物 表千家七代/如心斎 ……… 表千家七代|御家元|天然宗左|1705年―1751年|表千家六代覚々斎の長男 裏千家八代/又玄斎 ……… 裏千家八代|御家元|一燈宗室|1719年―1771年|表千家七代/如心斎の弟 江戸千家開祖/川上不白 ……… 江戸千家開祖|御家元|1719年―1807年|川上六太夫の次男 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 家元制度 ―いえもとせいど― 家元制度は、日本の伝統芸道において流派の継承と統率を担う仕組みです。茶道では家元が教義・作法・道具の選定などを統括し、門弟に伝授します。代々の家元が守り伝えることで、芸の精神と技が正しく受け継がれていきます。 三千家 ―さんせんけ― 千利休の曾孫にあたる三人の兄弟が創設した三つの千家流派(表千家・裏千家・武者小路千家)の総称。江戸中期以降、町人層に広がる茶の湯を体系化し、作法や点前に違いはあるが、侘びの理念を共通に持ち、日本の茶道文化の中心的存在となっている。 和敬清寂 ―わけいせいじゃく― 茶道の根本理念を表す四字。「和 (和合)」「敬 (敬意)」「清 (清浄)」「寂 (静謐)」を重んじる心構え。亭主と客が心を通わせ、清らかな空間で静謐なひとときを分かち合う、この理念が茶の湯の根本にあります。 川上不白 ―かわかみ・ふはく― 戸千家の開祖。表千家七代/如心斎の高弟として茶道を学ぶ。如心斎の命により江戸に下り、武家や町人にも広く茶の湯を伝え、江戸千家の基礎を築きました。質素を重んじる如心斎の「徹底したわび茶」の精神を継承しつつ、江戸の風土や文化に即した実践的な茶風を確立。『不白筆記』や『茶話指月集』などの著書を通じて、教えを後世に伝えました。茶は人と人との和合を深めるものと説き、身分や形式にとらわれない自由な茶の在り方を提唱しました。 七事式 ―しちじしき― 八畳以上の「茶室(広間)」で一度に5人以上で行うのが原則とし、従来からある「茶カブキ」「廻り炭」「廻り花」を整備し「且座」「花月」「一二三」「員茶」を加えた七種類の式作法が考案されました。この七事式の制定は「茶室(小間)」での茶を中心とした「わび茶」に「茶室(広間)」での茶の要素を取り込もうとした結果であると考えられる。 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 8-3|探求心の広がり ~学ぶ茶人たち~|第8回 茶の湯の遊芸化|江戸時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第8回 茶の湯の遊芸化 [3/6] ■ 江戸時代 (1603年―1868年) |後期 ❚ 茶道は“学問” 茶の湯は、どうやって“学問”としても発展していったのでしょうか。 道具を知り、精神を深め、文化を残す——。 今回は、江戸後期における茶道の研究と精神探求の歩みをたどります。 ❚ 茶道具と精神性の探求 江戸時代(1603年–1868年)後期になると、茶会を催すだけでなく、茶道具や精神性を深く探求する動きが活発になります。 その中心となったのが、出雲・松江藩の藩主であった 『松平不昧*』 です。 松平不昧は大名でありながら茶の湯の道に深く通じ、自らの門下であった酒井宗雅らに茶道を伝えたほか、自らデザインした茶道具を制作させるなど、美意識の実践にも努めました。 また、自身の所持した名物道具をもとに、図入りの名物茶道具集『 古今名物類聚(全18冊)*』 を実費で出版し、「大名物」「名物」など、それまで曖昧だった道具の格付けを体系化しようと試みました。 さらに身分を越えて、大坂の豪商である 鴻池善右衛門家* や 加島屋久右衛門家* の茶会にも積極的に参加し、町人階層とともに茶の湯文化を支えた点も特筆されます。 ❚ 全国に広がる「学ぶ茶人」 この時代、茶を学び、研究・実践したのは大名ばかりではありません。 大阪の 『草間直方*』 は茶器名物を収集・研究し、 『茶器名物類彙*』 を著し、茶道の記録と体系化に大きく貢献しました。 また、江戸の豪商『仙波太郎兵衛』や、伊勢の豪商『竹川竹斎』ら、全国各地で「学ぶ茶人」が現れ、茶の湯の学問的側面を発展させていきました。 ❚ 精神性の探求と「一期一会」 そしてこの時代、道具以上に茶道の“精神性”に注目した人物として知られるのが、彦根藩主であり江戸幕府の大老も務めた 『井伊直弼*』 です。 井伊直弼は「井伊宗観」の茶号で知られ、政治家としての立場を持ちながらも生涯で二百回以上の茶会に亭主・客として参加。 また自身の藩窯 「湖東焼*」 の育成にも尽力し、さらには茶道の心得を記した『茶湯一会集』を著しました。 この書に記された有名な言葉が ❝ 一期一会 ❞ その時の茶会は一生に一度きりの出会いである―――。 そう心得て、亭主も客も心を尽くして臨むべきだという思想は、茶道の精神を象徴する言葉として今日にも受け継がれています。 ❚ 茶道は“文化”であり“哲学”へ 道具にこだわるだけでなく、精神を究め、書として後世に伝えた人々。 茶の湯は、文化・哲学・美意識を含む学問としても高みへと至りました。 次回は、明治維新を迎える中、近代の茶道がどのように存続と変化を遂げたかを探ります。 登場人物 松平不昧 ……… 不昧流開祖|松江藩主|越前松平家七代|治郷|1751年―1818年 酒井宗雅 ……… 姫路藩主|酒井家二代|忠以|1756年―1790年 草間直方 ……… 茶人|儒学者|1753年―1831年 仙波太郎兵衛 ……… 江戸豪商|運送業|生没年不詳 竹川竹斎 ……… 伊勢豪商|両替商|1809年―1882年 井伊直弼 ……… 江戸幕府大老|彦根藩十六代藩主|井伊宗鑑|1815年―1860年|俳諧の祖 用語解説 0 ―― 0 ―― 松平不昧 ―まつだいら・ふまい 1751年―1818年。出雲松江藩の第七代藩主で、号を「不昧」と称し、茶人としても高名です。藩政改革に尽力する一方で、茶道に深い造詣を持ち、「不昧流」を確立。名物道具の蒐集や茶会の記録を通じて茶の湯文化の復興と体系化に貢献しました。数寄を政治と調和させた、近世随一の大名茶人です。 古今名物類聚 ―ここんめいぶつるいじゅ― 松平不昧が自身の蔵品をもとに刊行した名物茶道具の図鑑。分類と図解により、茶道具の評価基準を体系化しようとした画期的な書。 鴻池善右衛門家 ―こうのいけ・ぜんえもん・け― 大坂の豪商・鴻池家の当主に代々襲名される名で、特に初代善右衛門(鴻池新六、1584–1655)は、近世初期の代表的な両替商・酒造業者として知られます。堺商人の系譜を引き、武士にも匹敵する財力と文化的教養を備え、茶の湯や能楽などの保護にも尽力しました。茶道具の収集にも熱心で、茶人との交流を深めたことで、数寄者としても名を残しました。 加島屋久右衛門家 ―かじまや・きゅうえもん・け― 江戸時代の大坂を代表する豪商のひとつで、米穀・金融業を中心に巨万の富を築きました。特に幕末には幕府の御用達商人として活躍し、政治的にも影響力を持ちました。文化面でも貢献が大きく、茶道や書画の保護・蒐集にも熱心で、数寄者としての評価も高い家系です。町人文化の担い手として、近世商人の理想像を体現した一族といえます。 草間直方 ―くさまなおかた― 1753年―1831年。江戸時代中期の茶人・儒者であり、武士でありながら町人文化にも深い関心を寄せた人物です。特に茶道においては表千家・川上不白と親交を持ち、不白の教えを受けつつ、独自の視点で茶の精神を記録しました。 茶器名物図彙 ―ちゃきめいぶつずい― 草間直方によって著された茶道具名物集。古今の名器・逸品を絵と解説でまとめ、茶人たちの研究資料として重宝された。 井伊直弼 ―いい・なおすけ― 1815年―1860年。室町時代後期の連歌師・俳諧師で、蕉風俳諧に先立つ「俳諧の祖」と称される人物です。堺を拠点に活躍し、宗祇や心敬の流れを汲みながらも、自由で洒脱な作風を確立しました。『宗鑑発句集』などの著作で知られ、後の俳諧や茶の湯文化にも大きな影響を与えました。和歌・連歌の格式を離れ、庶民的な感覚を取り入れたその姿勢は、近世文芸の礎とも言えます。 湖東焼 ―ことうやき― 江戸時代後期に近江国(現在の滋賀県東近江市周辺)で焼かれた陶磁器で、井伊直弼や近江商人の支援を受けて発展しました。京焼の技法を取り入れた繊細な絵付けや、上品で洗練された意匠が特徴です。色絵・染付・金彩など多彩な表現を持ち、茶道具や食器としても高く評価されました。明治以降衰退しましたが、現在も一部で復興の動きがあり、その美術的価値が再認識されています。 0 ―― 0 ――
- 8-4|一期一会とは ~利休の言葉とその本質~|第8回 茶の湯の遊芸化|江戸時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第8回 茶の湯の遊芸化 [4/6] ■ 江戸時代 (1603年―1868年) |後期 ❚ 茶会に宿る精神 たった一度の茶会、たった一度の出会い――。 そのひとときを大切にする心とは、どこから生まれたのでしょうか。 今回は、「一期一会」という言葉に込められた千利休の教えと、その精神の継承を見つめます。 ❚ 利休の教えに宿る「一期一会」 『井伊直弼*』 が 『茶湯一会集*』 の中で 記した 「一期一会*」 。 この言葉は今日でも広く知られていますが、もともとは千利休が茶会に臨む際の心得として弟子に説いていた精神に基づいています。 その源泉となるのが、千利休の高弟であり豪商でもあった山上宗二が、天正十六年(1588年)に記した茶道の秘伝書 『山上宗二記*』 の一節です。 この中の「茶湯者覚悟十躰」に、次のような利休の言葉が記されています。 ❝ 「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏ベシ」 訳) 路地に入ってから出るまでの茶会は、まるで一生に一度しかない出会いであるかのように、亭主を敬い畏れ、心を尽くして臨むべきである ❞ この一節が「一期一会」の原型とされ、茶の湯におけるもっとも大切な精神として今日にも語り継がれているのです。 ❚ 井伊直弼が言葉に託した精神 この千利休の精神を、あらためて近世に明確な言葉として示したのが井伊直弼でした。 井伊直弼は著書『茶湯一会集』の中で「一期一会」の四文字を明確に記し、人生における茶会の尊さをあらためて説き直しました。 ❝ 「その日、その席、その人との出会いは、二度と巡ってこないかもしれない」 ❞ この謙虚で真摯な姿勢こそが、茶道の根底を成すものであり、現代の私たちにも深い気づきを与えてくれるのです。 ❚ 「一期一会」に込められた永遠の教え 茶室の中で交わされる一碗の茶に、すべての心を尽くす――。 「一期一会」は、千利休の教えを受け継ぎ、井伊直弼によって言葉として結実した、茶道の精神の核といえる考え方です。 その心は、今も私たちの人との出会いや日々の暮らしに、静かに寄り添い続けています。 登場人物 井伊直弼 ……… 江戸幕府大老|彦根藩十六代藩主|井伊宗鑑|1815年―1860年|俳諧の祖 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年|天下三宗匠|茶道の大成者 山上宗二 ……… 豪商|茶人|1544年―1590年|千利休の高弟 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 井伊直弼 ―いい・なおすけ― 1815年―1860年。室町時代後期の連歌師・俳諧師で、蕉風俳諧に先立つ「俳諧の祖」と称される人物です。堺を拠点に活躍し、宗祇や心敬の流れを汲みながらも、自由で洒脱な作風を確立しました。『宗鑑発句集』などの著作で知られ、後の俳諧や茶の湯文化にも大きな影響を与えました。和歌・連歌の格式を離れ、庶民的な感覚を取り入れたその姿勢は、近世文芸の礎とも言えます。 茶湯一会集 ―ちゃとういちえしゅう― 井伊直弼(1815–1860)が著した茶道書で、茶の湯における心得や精神を簡潔に記しています。中でも「一期一会」の語を明確に説いたことで知られ、茶会はその一瞬に全力を尽くすべき貴重な出会いであると説きました。実践的な心得と精神性が平易な文体でまとめられており、現代の茶人にも広く親しまれています。直弼の深い茶道観をうかがえる貴重な著作です。 一期一会 ―いちごいちえ― 「一生に一度の出会い」という意味を持ち、茶道において特に重んじられる言葉です。どの茶会も二度と同じものはなく、亭主と客が心を尽くしてその瞬間に向き合うことの大切さを教えています。千利休の精神を受け継ぎ、江戸時代には井伊直弼が『茶湯一会集』でその意義を説きました。茶道に限らず、人との出会いや日々の出来事を大切にする日本人の美意識を象徴する思想です。 山上宗二記 ―やまのうえそうじき― 千利休の高弟、『山上宗二』が記した茶道の心得書で、安土桃山時代の茶の湯を知る上で極めて重要な資料です。利休の教えや道具に対する考え方、茶の湯の精神を率直に綴っており、「茶湯者覚悟十体」などは茶人の心構えを示す代表的な一文とされています。宗二の個性的な視点と当時の茶風を伝える内容は、現在も茶道の学びにおいて貴重な指針となっています。 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 8-5|茶道の世界進出 ~茶のおもてなし~|第8回 茶の湯の遊芸化|江戸時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第8回 茶の湯の遊芸化 [5/6] ■ 江戸時代 (1603年―1868年) |後期 ❚ 畳を離れ、椅子とテーブルで点てる茶 茶の湯は、どのようにして“世界に開かれた文化”へと進化したのでしょうか。 畳の上を離れ、椅子とテーブルで――。 今回は、立礼式の誕生と、茶道の世界進出への第一歩をたどります。 ❚ 新しい茶会形式「立礼式」の誕生 今日では全国各地でさまざまな茶会が開催されていますが、その中でも、場所を選ばず、椅子とテーブルで行える茶会形式が 『立礼式*』 です。 この画期的な形式を考案したのが、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した「裏千家十一代/玄々斎」でした。 「裏千家十一代/玄々斎」は、武家や公家のみならず広く町人階級や外国人にも茶の湯を開放しようとした先駆者であり、従来の畳の上での作法にとらわれない新しい茶会の形を追求していきました。 ❚ 博覧会で披露された「点茶盤」の点前 とりわけ、明治時代に入り日本が近代国家へと移行し、西洋文化の影響が高まる中で、畳文化に馴染みのない外国人にも茶の湯を体験してもらえるよう、椅子とテーブルを用いた 「点茶盤*」 を考案。 そして明治五年(1872年)、京都で開催された 『第一回京都博覧会*』 の茶会において、「点茶盤」を用いた立礼式の点前を披露しました。 これは、茶道が世界へと開かれていく大きな一歩であり、今日でも国際舞台において茶の湯でもてなす際の一つの形として定着することになりました。 ❚ 「おもてなし」の心を保ちながら 茶道はこのようにして、時代の変化に応えながらも、「一碗のお茶を通して心を通わせる」という本質を失うことなく、柔軟に進化を続けてきたのです。 立礼式に象徴されるように、茶道は環境や文化を越え、今もなお進化を続けています。 形式を変えても、その核にある「おもてなし」の心は変わりません。 茶道は世界の中で、“日本文化の魂”として静かにその存在感を放ち続けているのです。 登場人物 裏千家十一代/玄々斎 ……… 裏千家十一代|御家元|精中宗室|1810年―1877年|松平乗友の子 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 立礼式 ―りゅうれいしき― 明治時代に『裏千家十一代/玄々斎』によって考案された、椅子とテーブルを用いる茶道の点前形式です。正座が難しい人や海外の賓客にも茶の湯を楽しんでもらうために工夫されたもので、伝統の精神を保ちながらも、形式にとらわれない柔軟な茶の在り方を体現する点前として、多様な場面で親しまれています。今日では各流派により、さまざまな形式の立礼棚が考案され、学校茶道や国際交流の場で広く用いられています。 点茶盤 ―てんちゃばん― 点茶盤は、椅子に座って茶を点てる立礼式のために考案されたテーブル型の点前台で、茶道の近代化と国際化を象徴する道具です。明治時代、『裏千家十一代/玄々斎』によって立礼式とともに創案され、茶の湯をより多くの人々に開かれたものとしました。携帯可能で、椅子席の茶会や野点にも適しており、現代では学校茶道や国際交流、展示茶会などで広く使用されています。 第一回京都博覧会 ―きょうとはくらんかい― 明治6年(1873年)に京都・西本願寺、建仁寺、知恩院を会場として開催された、日本初の博覧会のひとつです。京都府が主催し、工芸・美術・産業の振興と西洋文明への対応を目的として開かれました。蒔絵や陶磁器、染織などの伝統工芸品が展示され、全国から注目を集めました。会場では茶の湯の公開も行われ、裏千家十一代・玄々斎が立礼式を披露したことでも知られています。近代日本の文化発信の礎となった博覧会です。 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 8-6|煎茶の登場 ~もう一つの茶文化~|第8回 茶の湯の遊芸化|江戸時代 (後期)|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第8回 茶の湯の遊芸化 [6/6] ■ 江戸時代 (1603年―1868年) |後期 ❚ もう一つの“お茶”が広がるとき 茶の湯とは異なる“もうひとつの茶文化”とは? 煎じて飲む、新しいお茶のかたち。 今回は、江戸時代後期に誕生した「煎茶」とその広がりをたどります。 ❚ 永谷宗円が確立した新たな製茶法 江戸時代(1603年–1868年)の後期になると、「茶の湯」とは異なる新しい茶の楽しみ方として 「煎茶*」 が登場します。 元文三年(1738年)、京都・宇治の農民であった永谷宗円は、十五年の歳月をかけて新たな製茶法を研究。 その結果、蒸した茶葉を揉んで乾燥させる 「青製煎茶製法*」 を確立しました。 この製法により、渋みが少なく、香り高いお茶「煎茶」が誕生し、従来の抹茶とは異なる新たな嗜好品として注目されるようになります。 ❚ 江戸の町に広まる「天下一の煎茶」 その後、永谷宗円はこの煎茶を江戸へと運び、茶商である山本勘兵衛に販売を委託しました。 山本勘兵衛はその味わいに感銘を受け、「天下一」の号をつけて販売を開始。 煎茶は江戸の町人層を中心に評判を呼び、瞬く間に広まっていきます。 さらに天保六年(1835年)、山本山六代「嘉兵衛徳翁」が宇治・小倉の木下家にて 「玉露*」 の製茶法を考案。 この技術革新により、より繊細で旨味のある煎茶が登場し、「茶の湯」とは異なるかたちで日本中に茶文化が普及することとなりました。 ❚ 日常に寄り添う「煎茶道」の確立 この流れに連動して 「煎茶道*」 も確立し、庶民にとってより身近で自由な茶の文化として、現在まで根強く親しまれています。 「茶の湯」が格式と精神性を重んじた文化であったのに対し、「煎茶」はより日常に寄り添い、庶民の暮らしの中で広がっていきました。 時代に応じた飲み方と楽しみ方をもつ「煎茶」の誕生は、日本の茶文化をより豊かに、多様なものへと導いていったのです。 次回は、明治維新という大きな転換点を迎える中で、茶道がいかにして存続と変化を遂げたのかを見ていきます。 登場人物 千利休 ……… 千家開祖|抛筌斎 千宗易(利休)|1522年-1591年 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 青製煎茶製法 ―あおせいせんちゃせいほう― 永谷宗円が考案した煎茶の製法。摘んだ茶葉を蒸して揉み、乾燥させることで、鮮やかな緑色とさわやかな香味を引き出す製茶技術。 玉露 ―ぎょくろ― 天保年間に誕生した高級煎茶。直射日光を遮って育てた新芽を使用し、旨味が強く渋みが少ないのが特徴。現代でも高級茶の代名詞となっている。 煎茶道 ―せんちゃどう― 煎茶を用いた独自の茶道。抹茶の茶道とは異なり、急須で茶を淹れる所作や道具の美しさを重視し、江戸後期以降に文人文化とともに発展。 0 ―― 0 ――
- 9-1|失われた茶の湯 ~明治維新と茶の衰退~|第9回 茶の湯の救世主|明治時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第9回 茶の湯の救世主 [1/5] ■ 明治時代 (1868年―1912年) ❚ 文明開化の波に消えかけた茶の湯 文明開化* の時代、茶の湯はなぜ姿を消しかけたのでしょうか? 時代の波に飲まれながらも、再興の希望は失われなかった——。 大名文化から町人文化へ、そして近代化の荒波のなか、茶の湯は大きな試練に直面しました。 今回は、明治時代における茶の衰退と、その先に見えた再生の兆しをたどります。 ❚ 明治維新による価値観の転換 江戸幕府の崩壊と 明治維新* を契機に、日本は急速な西欧化と近代化を迎えました。 これにより、それまで日本文化の中核にあった茶の湯もまた、大きな転換点を迎えることとなります。 衰退の大きな要因となったのは、茶の湯を支えてきた「大名」や「武士」の没落です。 これにより経済的・文化的な支援基盤を失い、茶道そのものが存続の危機に立たされました。 また、西洋の生活様式や思想が急速に広まり、日本文化全体への関心が低下。 茶室、茶道具、作法といった文化の一つひとつが「時代遅れ」とされる風潮が強まりました。 実際、明治四年(1871年)には姫路・酒井家の由緒ある茶道具が売りに出されたものの、ほとんど買い手がつかず、仏像や書画も二束三文で売却されるという悲惨な状況が記録されています。 ❚ 再興のための努力 このような状況の中でも、茶道界は再興の道を模索していました。 とくに『裏千家十三代/圓能斎』は、一時東京へ居を移し、当時の有力財界人と交流しながら茶道の存在を再認識させる努力を続けました。 さらに、三千家の御家元たちも教育界との連携を進め、「女性の教養」として茶道を学校教育(教養科目)に取り入れる動きが始まりました。 こうして茶道は「遊芸」から「教養」へと立ち位置を変えていくのです。 この時代にはまた、 「立礼式*」 の導入や、和洋折衷の点前様式の模索など、現代につながる数々の工夫と発明がなされました。 ❚ “こころ”としての再出発 大きな衰退を経験しながらも、茶道はこの明治時代をきっかけに、再び“日本のこころ”として復活の兆しを見せ始めたのです。 明治という変革の時代に、一度は衰退の淵に立たされた茶の湯。 しかしその陰で、伝統を守り、未来へとつなぐ人々の努力がありました。 茶道は“教養”として新たな意義を得ながら、現代の文化として息を吹き返します。 次回は、この再興を支えた人物たちの功績をたどります。 登場人物 裏千家十三代/圓能斎 ……… 裏千家十三代|御家元|鉄中宗室|1872年―1924年|裏千家十二代/又玅斎の長男 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 文明開化 ―ぶんめいかいか― 明治維新以後に急速に進んだ日本の近代化・西洋化を象徴する言葉です。政治・教育・衣食住・風俗などあらゆる分野において西洋の制度や文化が導入され、鉄道の開通、ガス灯の普及、洋装の広まりなどがその象徴とされました。従来の生活様式や価値観が大きく変化し、伝統と革新が交錯する中で、新たな国民意識と文化の形成が進められました。文明開化は近代国家への第一歩を示す時代の象徴です。 明治維新 ―めいじいしん― 幕末から明治初期にかけて行われた日本の政治・社会の大変革で、1868年の王政復古を契機に始まりました。江戸幕府が倒れ、天皇中心の中央集権国家が築かれたことで、封建制度が廃止され、近代国家への道が開かれました。地租改正・廃藩置県・四民平等などの政策が進められ、西洋文明の導入とともに日本は急速な近代化を遂げました。明治維新は、日本の歴史における転換点とされています。 立礼式 ―りゅうれいしき― 明治時代に『裏千家十一代/玄々斎』によって考案された、椅子とテーブルを用いる茶道の点前形式です。正座が難しい人や海外の賓客にも茶の湯を楽しんでもらうために工夫されたもので、伝統の精神を保ちながらも、形式にとらわれない柔軟な茶の在り方を体現する点前として、多様な場面で親しまれています。今日では各流派により、さまざまな形式の立礼棚が考案され、学校茶道や国際交流の場で広く用いられています。 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 9-2|数寄者の功績 ~茶道を救った男たち~|第9回 茶の湯の救世主|明治時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第9回 茶の湯の救世主 [2/5] ■ 明治時代 (1868年―1912年) ❚ 数寄の心が文化をつないだ 茶の湯は、誰によって近代へと受け継がれたのでしょうか? 大名に代わって文化を支えたのは、新時代を切り拓く実業家たちの美意識と情熱でした。 茶室を再建し、茶会を開き、道具を守る——。 今回は、明治時代の危機にあって茶道を再生へと導いた「数寄者」の存在に注目します。 ❚ 新たな担い手「数寄者」の登場 明治時代に入って茶道は深刻な衰退期を迎えることとなりました。 そんな中で救世主として現れたのが、明治以降に台頭した「数寄者」と呼ばれる実業家や財界人たちでした。 とりわけ著名なのが 『益田鈍翁*』 です。 益田鈍翁は三井財閥の中心的人物でありながら、茶の湯を深く愛し、その発展と保存に生涯を捧げました。 また、同時期に茶道の再生に大きな貢献をしたのが、 『井上馨*』 です。 明治政府の外務卿などを歴任しながら、伝統文化の保護にも情熱を注ぎました。 井上馨は、奈良・東大寺四聖坊にあった茶室 『八窓庵*』 が取り壊され、風呂の薪として売られようとしていたところを耳にし、三十円でこれを購入し、東京・鳥居坂の自邸へと移築しました。 そして明治二十年(1887年)、その完成披露に「明治天皇」が行幸したことで、明治以降に衰退していた茶の湯に再び注目が集まりました。 ❚ 守る、伝える、つなげる 「数寄者」たちは、その莫大な財力をもとに、美術品としての茶道具を集めるだけでなく、茶室を再建し、茶会を開き、茶道の世界に実践者として深く関わることで、その存続と再興を実現したのです。 財界人、政治家、文化人たちが一体となって伝統を再生しようとするこの動きこそ、現代に続く近代茶道の基盤となりました。 ❚ 茶の湯をつないだ「こころ」 武士が去り、時代が変わっても、茶の湯の灯は消えませんでした。 それを守り育てたのは、新しい時代を担った数寄者たちの手でした。 道具を残し、精神を継ぎ、場をつくる――。 彼らの美意識と行動力が、茶道を近代へと導いたのです。 次回は、そうして築かれた近代茶道がどのようにして「教育」や「国際交流」に展開していったのかを見ていきましょう。 登場人物 益田鈍翁 ……… 三井財閥|実業家|数寄者|孝|1848年―1938年 井上馨 ……… 政治家|実業家|1836年―1915年 明治天皇 ……… 第百二十二代天皇|1852年―1912年 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 数寄者 ―すきしゃ― 茶道・香道・和歌・書画などの風雅な趣味を深く愛し、造詣を持つ人物を指します。特に茶の湯においては、単なる愛好者にとどまらず、道具の選定やしつらい、もてなしの精神に至るまで、洗練された美意識と教養を備えた人が数寄者と称されます。千利休や織田有楽斎、松平不昧などがその代表で、数寄者の精神は、現代の茶人にも大きな影響を与え続けています。 益田鈍翁 ―ますだ・どんのう― 1848年―1938年。実業家・数寄者として明治から昭和初期にかけて活躍した人物で、本名は益田孝。三井物産の初代社長として近代経済界を支える一方、茶道・書画・能楽などの文化保護にも尽力しました。とくに茶の湯では独自の審美眼と収集で知られ、「近代数寄者の祖」と称されます。多くの名物道具を伝世し、近代茶道の復興と美術振興に大きな足跡を残しました。 井上馨 ―いのうえ・かおる― 1836年―1915年。幕末から明治にかけて活躍した政治家。長州藩出身で、明治政府では外務・大蔵・内務大臣などを歴任。欧化政策を推進し、鹿鳴館の建設でも知られる。一方で茶道や芸術にも理解が深く、数寄者としても文化人との交流を重ねました。政治と文化の両面で近代日本の形成に大きな影響を与えた人物です。 八窓庵 ―はっそうあん― 奈良・東大寺四聖坊にあった茶室。明治時代に井上馨が取り壊されそうになったのを買い取り、東京に移築。茶道再興の象徴的な存在となった。 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 9-3|大師会とは ~日本文化を守った茶会~|第9回 茶の湯の救世主|明治時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第9回 茶の湯の救世主 [3/5] ■ 明治時代 (1868年―1912年) ❚ 茶会が文化を支える場に 茶の湯は、どのようにして“文化保存”の場となったのでしょうか。 園遊会形式で開催された壮大な茶会が、日本の美術や精神文化を守りました。 一服の茶を媒介に、書画・仏教・工芸が一堂に会した空間。 今回は、明治の「大師会」から、茶の湯と文化保護の歩みをひもときます。 ❚ 益田鈍翁と文化保存の茶会 明治時代、数寄者と呼ばれる実業家や政財界人たちの尽力により、茶道は再興の道を歩み始めました。 その中心人物のひとりが、三井財閥の中核を担った益田鈍翁です。 益田鈍翁は、茶道をはじめとする日本文化を保存・発展させる活動に情熱を注ぎ、とくに仏教美術や書画などを取り入れた大規模な茶会を開催しました。 その代表例が、明治二十九年(1896年)に開催された 『大師会*』 です。 きっかけは、彼が入手した弘法大師 『空海*』 の 『崔子玉座右銘*』 の古写本でした。 これは江戸時代の名絵師 『狩野探幽*』 が秘蔵していたとされる名品であり、仏教と文化を結ぶ象徴的な遺品でもありました。 ❚ 二大茶会の成立とその意義 この大師会は『空海』の命日である3月21日にあわせ、自邸で催された茶会でありながら、従来のような少人数での開催ではなく、多くの招待客を一度に迎える 「大寄茶会*」 として実施されました。 国内における最高峰の逸品、名品の展示と茶の湯を融合した新たな形式は大きな話題を呼び、政財界の名士たちがこぞって出席。 ❝ 招かれなければ面目が立たぬ ❞ とまで言われるほどの影響力を持ち、茶道は文化の中心として再び光を放つこととなりました。 一方、西の京都では、江戸時代初期の芸術家 『本阿弥光悦*』 を偲ぶ 『光悦会*』 が、鷹峯の「光悦寺」にて春に開催されるようになります。 こうして、東の大師会、西の光悦会は、文化と美を守る茶会として定着。今日でも続く日本を代表する二大茶会として多くの茶人たちに親しまれています。 ❚ 美と精神をつなぐ一碗 文化は一朝一夕には守れません。 大師会に集った人々は、茶の湯を通じて美術や精神文化の再評価を促しました。 一碗のお茶に、仏教の思想や美の記憶が宿る――。 次回は、こうした明治の動きが、教育や外交の場にまで広がり、現代へとつながる茶道の新しい展開へと進んでいく様子を見ていきましょう。 登場人物 益田鈍翁 ……… 三井財閥|実業家|数寄者|孝|1848年―1938年 空海 ……… 真言宗開祖|弘法大師|774年―835年|高野山「金剛峯寺」建立|遣唐使 狩野探幽 ……… 絵師|1602年―1674年 本阿弥光悦 ……… 芸術家|陶芸家|刀剣鑑定家家|1558年―1637年 用語解説 0 ―― 0 ―― 大師会 ―たいしかい― 明治二十七年(1894) に三井物産の創始者であり茶人でもある『益田孝』は江戸時代(1603-1868)初期の絵師『狩野探幽』が秘蔵していたという弘法大師『空海』の『崔子玉座右銘』一巻を入手。明治二十九年(1896)の弘法大師『空海』の命日(3月21日)に自宅にて『大師会』を開催。その後「三渓園」「畠山美術館」「護国寺」と会場を移しながら、昭和49年(1974)より「根津美術館」に引き継がれ現在でも毎年春に開催されています。 空海 ―くうかい― 774年―835年。真言宗の開祖であり、「弘法大師」の名で親しまれる高僧。唐に留学し密教を修得、帰国後に高野山を開いた。文化的側面にも長け、茶の種子や製法を持ち帰ったとされ、日本の茶文化の起源の一人とされる。 崔子玉座右銘 ―さいしぎょくざゆうめい― 中国後漢時代の文人『崔瑗(崔子玉/さいしぎょく)』によって記された格言集で、処世訓や人生訓を簡潔な文で綴った作品。「善は急げ、悪は遅らせよ」「心を正しくして行いを慎め」など、日常の行動指針となる言葉が多数含まれています。唐代以降、日本にも伝わり、武士や文人、茶人たちにも愛読されました。道徳と教養を備えるための手引きとして、今なお読み継がれています。 大寄茶会 ―おおよせちゃかい― 多人数を招いて行う大規模な茶会で、茶の湯本来の「一客一亭」の精神から派生した形式です。明治以降に広まり、寺院や美術館、公園などの広い会場で、不特定多数の来場者を対象に開催されます。複数の流派や席主が点前を披露し、参加者は自由に席を巡り茶の湯を体験できます。格式にとらわれず初心者も参加しやすいため、茶道の普及や地域文化の振興に寄与しています。 狩野淡幽 ―かのう・たんゆう― 江戸時代前期を代表する絵師で、狩野永徳の孫にあたります。15歳で徳川将軍家に仕え、御用絵師として二条城・名古屋城・江戸城などの障壁画を多数手がけました。雄大で洗練された構図、抑制の効いた筆致により、「探幽様式」と称される独自の美を確立しました。水墨画ややまと絵の技法を融合させたその作風は、狩野派の中でもとりわけ高く評価され、後世の絵師たちに大きな影響を与えました。 本阿弥光悦 ―ほんあみ・こうえつ― 江戸時代初期の芸術家・文化人で、書・陶芸・漆芸・茶の湯など多彩な分野で才能を発揮しました。刀剣鑑定の家系に生まれ、寛永の三筆に数えられる名筆家でもあります。徳川家康から洛北・鷹峯の地を拝領し、芸術村「光悦村」を築いて多くの職人と共に創作活動を行いました。楽焼茶碗や蒔絵に見られる独創性と美意識は、のちの琳派にも影響を与え、日本美術史に大きな足跡を残しました。 光悦会 ―こうえつかい― 江戸時代(1603-1868)初期の芸術家『[芸術家]本阿弥光悦(1558-1637)』を偲ぶと共に関西茶道界の力を誇示しようとしていた『[茶道具商]土橋嘉兵衛(生没年不詳)」『[茶道具商]山中定次郎(1866-1936)』らを世話役に『[実業家]馬越化生(1844-1933)』『[実業家/数寄者]益田孝[鈍翁](1848-1938)』『[実業家]三井孝弘松風庵(1849-1919)』などの賛助を得て大正四年(1915)『[実業家]三井孝弘松風庵(1849-1919)』を会長にして発足。現在では11月11日~13日の日程で東京、京都、大阪、名古屋、金沢の五都美術商が世話役となり開催されています。 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 9-4|数寄者の茶会 ~茶のおもてなし~|第9回 茶の湯の救世主|明治時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第9回 茶の湯の救世主 [4/5] ■ 明治時代 (1868年―1912年) ❚茶の湯が“社交”の場となるまで 茶の湯は、誰によって“社交”の場として広がっていったのでしょうか。 数寄の心を持った実業家たちが、自らの手で新たな茶会文化を築いていきます。 格式と柔軟さをあわせ持つ茶事は、人と文化をつなぐ大きな力となりました。 今回は、和敬会や十八会をはじめとする、数寄者たちの茶の湯の展開をたどります。 ❚和敬会の創設と展開 明治時代には大師会や光悦会のように、数寄者たちによる多様な茶会が催されていました。 その中でも注目すべき存在が、明治三十三年(1900年)に創設された 『和敬会*』 です。 この和敬会は、「松浦詮」を中心に、わずか十六名の数寄者が会員として結成されました。 各会員が持ち回りで釜を懸け、茶事を行うという形式は、格式と親しみが調和した特別な茶会として人気を博しました。 初期の会員には、以下のような財政界の重鎮たちが名を連ねています: ❝ ・石黒况翁 ……… 軍医総監|1845年―1941年 ・安田善次郎 ……… 安田財閥創始者|1838年―1921年 ❞ その後、さらなる茶道愛好家として ❝ ・益田鈍翁 ……… 三井財閥|1848年―1938年 ・高橋箒庵 ……… 実業家|1861年―1937年 ・三井高保 ……… 実業家|1850年―1922年 ・馬越化生 ……… 実業家|1844年―1933年 ・団琢磨 ……… 実業家|1858年―1932年 ❞ なども加わり、明治から大正時代末にかけて、長きにわたり活動が続けられました。 このように『和敬会』は茶道を通じて経済人たちの交流と文化支援の場となり、明治以降の日本文化を支える基盤となっていったのです。 ❚関西へ広がる十八会 また、同時期の明治三十五年(1902年)には、関西の数寄者十八名による『十八会』も発足し、関東・関西をまたぐ茶の湯文化の広がりが見られるようになります。 こうした茶会は、単なる趣味にとどまらず、「おもてなし」と「文化振興」の両輪を担う存在として、大きな役割を果たしていきました。 ❚茶会が育んだ“現代のかたち” 数寄者たちが築いた茶会のかたちは、単なる贅沢でも権威の象徴でもなく、「文化の共有空間」としての茶道を実現しました。 現代の茶会に見られる寛ぎと格式の融合は、彼らが残した“おもてなし”の精神の継承でもあります。 次回は、近代教育や外交の場へ広がっていく茶道の姿を見ていきましょう。 登場人物 松浦詮 ……… 政治家|肥前国平戸藩十二代藩主|1840年―1908年|明治天皇の又従兄弟。 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 和敬会 ―わけいかい― 松浦詮を中心に結成された茶会グループ。明治33年発足。十六名の会員が持ち回りで釜をかけ、茶事を催した。財政界人が中心となり文化的意義を持った。 十八会 ―じゅうはちかい― 明治35年に結成された関西の数寄者による茶会。18名のメンバーにより構成され、和敬会と並んで茶道文化の裾野を広げた。 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 9-5|美術館の役割 ~数寄者の終焉~|第9回 茶の湯の救世主|明治時代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第9回 茶の湯の救世主 [5/5] ■ 明治時代 (1868年―1912年) ❚ 展示される茶道具、その背景にあるもの かつては“数寄の心”によって活躍した実業家たち。 その蒐集した名品はいま、美術館に静かに眠っています。 茶室で使われ、もてなしの道具として命を吹き込まれていた茶道具は、いつしか「展示される文化財」となっていきました。 今回は、数寄者の歩みとともに受け継がれた茶道具と、美術館が担った文化継承の役割を見ていきましょう。 ❚ 数寄者が収集した美の精華 明治時代(1868年―1912年)、茶道文化の再興に大きな貢献を果たしたのが、数寄者と呼ばれる政財界の有力者たちでした。 その中心的存在であった益田鈍翁をはじめ、数多くの数寄者たちは茶の湯に深い関心を寄せ、美術品や茶道具の名品を収集しました。 やがて彼らが収集した名品の数々は、それぞれの意志や家族の手によって各地の 美術館 に収蔵され、今日では誰もが鑑賞できる形で一般公開されるようになりました。 ❚ 美術館に息づく数寄の精神 代表的な美術館とその創設者は以下の通りです。 三井記念美術館 https://www.mitsui-museum.jp/ ⇒『益田鈍翁』 ……… 三井財閥|1848年―1938年 畠山記念館 https://www.hatakeyama-museum.org/ ⇒『畠山即翁』 ……… 荏原製作所創業者|1881年―1971年 野村美術館 https://nomura-museum.or.jp/ ⇒『野村得庵』 ……… 野村財閥|1878年―1945年 根津美術館 https://www.nezu-muse.or.jp/ ⇒『根津青山』 ……… 東武・南海電鉄|1860年―1940年 五島美術館 https://www.gotoh-museum.or.jp/ ⇒『五島慶太 』 ……… 東京急行電鉄創業者|1882年―1959年 藤田美術館 https://fujita-museum.or.jp/ ⇒『小林逸翁』 ……… 阪急グループ創業者|1873年―1957年 香雪美術館 https://www.kosetsu-museum.or.jp/ ⇒『村山香雪』 ……… 朝日新聞創業者|1850年―1933年 三渓園 https://www.sankeien.or.jp/ ⇒『原三渓』 ……… 実業家|1868年―1939年 これらの施設に収蔵されている数々の茶道具や書画は、かつて数寄者たちが実際に茶会で使用した道具ばかりです。 当時は「茶会に招かれた者しか見ることができない美」であったものが、現代では美術館を通じて誰もが鑑賞できる文化財となりました。 ❚ ガラス越しの道具が語るもの しかし一方で、これらの名品がガラスケースの中に収められているという事実は、数寄者が生きた時代の終焉を意味しています。 実用の中で命を吹き込まれていた茶道具たちは、今ではガラスの内側に収まり「観賞される美術品」として静かに保存される存在へと変わっていきました。 これは同時に、かつて盛んに行われていた数寄者による私的な茶会の衰退をも象徴する出来事といえるでしょう。 ❚ 名品が語る未来への継承 数寄の美が生きた時代は、実業家の情熱とともに過ぎ去りました。 けれども、彼らが守り抜いた名品の数々は、いまも美術館という新たな茶室の中で静かに語りかけています。 「道具は人とともにあってこそ」――その教えを思い出しつつ、文化を未来へ伝える意味を見つめ直したいものです。 次回は、近代国家の中で茶道がどのように教育や外交の場へと広がっていったのかを見ていきましょう。 登場人物 益田鈍翁 ……… 三井財閥|実業家|数寄者|孝|1848年―1938年 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 五島慶太 ―ごとう・けいた― 1882年―1959年。東急グループの創設者として知られる実業家で、鉄道・百貨店・不動産など多角的な事業を展開し、戦後の都市インフラ整備に大きく貢献しました。一方で、東洋美術への深い関心から書画・陶磁器・仏像などの名品を蒐集し、生涯にわたり文化保護に尽力しました。その遺志により設立された五島美術館(東京・上野毛)は、茶道具を含む貴重なコレクションを展示し、多くの文化人に親しまれています。 益田鈍翁 ―ますだどんのう― 1848年―1938年。実業家・数寄者として明治から昭和初期にかけて活躍した人物で、本名は益田孝。三井物産の初代社長として近代経済界を支える一方、茶道・書画・能楽などの文化保護にも尽力しました。とくに茶の湯では独自の審美眼と収集で知られ、「近代数寄者の祖」と称されます。多くの名物道具を伝世し、近代茶道の復興と美術振興に大きな足跡を残しました。 畠山即翁 ―はたけやま・そくおう― 1881年―1971年。実業家・茶人・美術蒐集家として知られ、本名は畠山一清。実業界で活躍する一方、茶の湯を深く愛し、書画・陶磁・刀剣など東洋古美術の収集に力を注ぎました。自身のコレクションをもとに、東京・白金台に畠山記念館を設立し、茶道文化の保存と普及に大きく貢献しました。数寄者としての審美眼と文化への情熱は、近代における茶道と美術の架け橋となりました。 野村得庵 ―のむら・とくあん― 1878年―1945年。大阪の実業家・茶人・数寄者で、本名は野村徳七(二代目)。財界で成功を収める一方、茶の湯や能楽、書画に深い造詣を持ち、名品の蒐集と文化振興に尽力しました。特に茶道では独自の審美眼と精神性で知られ、近代数寄者の代表的人物とされています。大阪・中之島に設立された野村美術館は、彼の蒐集品を公開する場として、今なお多くの茶人や美術愛好家に親しまれています。 根津青山 ―ねづ・せいざん― 1860年―1940年。明治から昭和にかけて活躍した実業家・茶人・文化人で、鉄道事業をはじめ多くの産業振興に貢献しました。茶道や書画、古美術に深い造詣を持ち、自邸に設けた「根津美術館」(東京・南青山)は、東洋美術の名品を収蔵・公開する場として今も高い評価を受けています。数寄者としても知られ、茶の湯を通じて日本文化の保存と普及に尽力しました。近代の財界人文化人の代表的人物です。 原三渓 ―はら・さんけい― 1868年―1939年。横浜の実業家・茶人・美術蒐集家で、本名は原富太郎。生糸貿易で財を成し、その資金をもとに日本・中国の古美術品を多数蒐集しました。茶の湯にも深く通じ、数寄者として名高く、文化財の保護や支援にも尽力しました。横浜に構えた邸宅「三溪園」は、京都や鎌倉の名建築を移築した広大な庭園で、現在は一般公開されています。芸術と自然を融合させた功績は、今も高く評価されています。 村山香雪 ―むらやま・こうせつ― 1853年―1938年。朝日新聞の創業者であり、近代を代表する実業家・茶人・美術蒐集家です。中国・日本の書画、陶磁器、仏教美術などに深い造詣を持ち、優れた審美眼で数多くの名品を蒐集しました。そのコレクションは、神戸市の香雪美術館に所蔵・公開され、文化財の保存と普及に大きく貢献しています。近代数寄者の一人として、茶道や芸術文化の継承にも尽力しました。 小林逸翁 ―こばやしいつおう― 1873年―1957年。阪急電鉄や宝塚歌劇団を創設した実業家・小林一三の雅号で、近代日本を代表する数寄者の一人です。実業の傍ら茶道や能楽、美術に深い関心を寄せ、文化振興にも大きく貢献しました。大阪・池田に建てた自邸「雅俗山荘」は数寄屋建築の名作として知られ、現在は逸翁美術館として多くの美術品を公開しています。茶の湯と芸術を愛した逸翁の精神は、今も多くの人々に受け継がれています。
- 10-1|茶道の転換 ~教養としての茶道~|第10回 近代茶道の幕開け|大正時代~現代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第10回 近代茶道の幕開け [1/3] ■ 大正時代 ~ 現代 ❚ 数寄から教養へ、茶道の新たな道 茶の湯は、どのようにして“近代化”されたのでしょうか。 数寄者の時代から教育の場へ―茶道の転換期―。 近代日本が西洋化とともに迎えた文化的転換期の中で、茶道はそのかたちを大きく変えていきます。 今回は、女性教育の一環として茶道が取り入れられ、社会的役割を拡大していった近代茶道のはじまりをたどります。 ❚ 数寄者の衰退と、流儀茶道の再興 昭和十五年(1940年)頃を境に、かつて明治から昭和初期にかけて隆盛を誇った「数寄者」の茶の湯は次第に衰退の兆しを見せはじめます。 その一方で、 三千家* の御家元を中心とする流儀の茶道は着実に勢いを取り戻しはじめていました。 その様子を象徴する出来事のひとつが、昭和十五年に催された 『利休居士三百五十年遠忌*』 です。 この法要では、三千家の協力により「追善法要」と「茶会」が開催され、全国から多くの門弟や愛好者が参列しました。 ❚ 教育の場に広がる茶道の精神 特に注目すべき点は、遠忌法要の参列者の多くが“女性”だったという点です。 これは明治以降、女性教育の一環として茶道が教養カリキュラムに組み込まれたことに由来します。 当時、政府による欧化政策のなかで「良妻賢母」を育てるための教養として茶道や華道が推奨され、学校教育や女学校での必修科目としても取り入れられていました。 ❚ 文化としての地位の確立 この動きはやがて戦後にも続き、茶道は“教育文化”としての地位を確立していくことになります。 戦後の混乱期を乗り越えてもなお、三千家をはじめとする各流派は順調に門弟を増やし、日本の伝統文化として国内外に広く認知される存在となっていきました。 今日では、茶道は老若男女を問わず学ばれる芸道となり、「日本文化の象徴」としてその存在感を世界に示し続けています。 ❚ 静かに世界へと広がる一碗の道 戦乱と近代化の時代においても、茶道は「学ぶ文化」として命をつなぎました。 女性教育を通じて家庭に、そして学校に浸透した茶の湯は、やがて国を越え、世界の舞台へと歩みを進めていきます。 その歩みは、静かでありながら確かな“日本の美の伝承”として、今日も続いています。 次回は、茶道がどのように国際交流や世界文化の中で位置づけられていったのか、その広がりと可能性を見ていきましょう。 登場人物 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 三千家 ―さんせんけ― 千利休の曾孫にあたる三人の兄弟が創設した三つの千家流派(表千家・裏千家・武者小路千家)の総称。江戸中期以降、町人層に広がる茶の湯を体系化し、作法や点前に違いはあるが、侘びの理念を共通に持ち、日本の茶道文化の中心的存在となっている。 利休居士三百五十年遠忌 ―りきゅうこじさんびゃくごじゅうねんえんき― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ――
- 10-2|献茶 ~献茶が大衆を魅了~|第10回 近代茶道の幕開け|大正時代~現代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第10回 近代茶道の幕開け [2/3] ■ 大正時代 ~ 現代 ❚ 祈りから、万人の文化へ 茶の湯は、どのようにして“万人のもの”へと広がっていったのでしょうか。 神仏への祈りから始まった「献茶」が、やがて人々を惹きつける文化行事へと発展していきます。 格式を保ちつつも開かれたその茶の場は、茶道が広く親しまれる契機となりました。 今回は、明治以降の献茶式と大規模茶会の歩みをたどります。 ❚ 北野天満宮から始まる献茶の伝統 明治十三年(1880年)、京都 『北野天満宮*』 で初めての正式な 「献茶式*」 が執り行われました。 この行事を皮切りに、神仏にお茶を献じる「献茶」は全国に広がり、やがて大衆を巻き込む大規模な文化行事として定着していきます。 中でも注目されるのが、明治三十一年(1898年)に行われた『豊太閤三百年忌祭』です。 京都・東山の「豊国廟」における献茶式を中心に、京都市内の四十カ所あまりの寺社を会場として、二十日以上にわたり茶会が開催されました。 ❚ 一万人を魅了した「昭和北野大茶湯」 その後も大規模な催しは続き、昭和十一年(1936年)には、 『北野大茶湯*』 から数えて三百五十年の節目を記念し、 『昭和北野大茶湯*』 が開催されました。 これにあわせ、 十月八日から五日間にわたり、 北野天満宮をはじめ、京都・鷹峯の 『光悦寺*』 、紫野の 『大徳寺*』 など、市内三十カ所以上で連日茶会が開かれ、参加者は一万人を超えました。 またこの際の茶席では、益田鈍翁、 『根津青山*』 など著名な数寄者や茶道具商、家元社中らが席主(亭主)を務めるという豪華な顔ぶれでした。 ❚ ラジオ中継と全国への広がり さらに、昭和十五年(1940年) 四月二十一日から四日間にわたり 『利休居士三百五十年遠忌*』 が大々的に開催されました。 四月二十一日の献茶式はラジオ中継され全国へと発信され、翌日からの三日間は『大徳寺』山内七カ所の茶席にて茶会が行われ、延べ五千人以上の参列者を迎えたと伝えられます。 また同時開催された講演会には、学生やサラリーマンなどの一般市民が多数詰めかけ、満員御礼の盛況ぶりでした。 ❚ 大衆化した茶道文化の原点 このように、明治から昭和にかけての「献茶」や「大茶会」は、茶の湯が特権階級だけのものではなくなり、万人に開かれた文化として根づいていった歴史的な契機であったといえます。 神仏への祈りから始まった「献茶」は、やがて民衆と茶の湯をつなぐ橋となりました。 ラジオ中継や全国的な参加を通じて、茶道は格式を保ちながらも“人々のもの”として広がっていきました。 次回は、戦後における茶道の国際化と現代に至る展開を見ていきましょう。 登場人物 益田鈍翁 ……… 三井財閥|実業家|数寄者|孝|1848年―1938年 根津青山 ……… 実業家|嘉一郎|1860年―1940年 用語解説 0 ―― 0 ―― 0 ―― 0 ―― 根津青山 ―ねづ・せいざん― 1860年―1940年。明治から昭和にかけて活躍した実業家・茶人・文化人で、鉄道事業をはじめ多くの産業振興に貢献しました。茶道や書画、古美術に深い造詣を持ち、自邸に設けた「根津美術館」(東京・南青山)は、東洋美術の名品を収蔵・公開する場として今も高い評価を受けています。数寄者としても知られ、茶の湯を通じて日本文化の保存と普及に尽力しました。近代の財界人文化人の代表的人物です。 光悦寺 ―こうえつじ― 京都市北区鷹峯にある日蓮宗の寺院で、江戸初期の芸術家・本阿弥光悦が徳川家康から土地を拝領し、芸術村「光悦村」を築いた地に創建されました。光悦の没後、彼を偲んで建てられた寺であり、茶室「大虚庵」など数寄屋建築が点在します。自然と調和した庭園や紅葉の名所としても知られ、書・陶芸・蒔絵など光悦の芸術精神を今に伝える場所として、多くの人々に親しまれています。 利休居士三百五十年遠忌 ―りきゅうこじさんびゃくごじゅうねんえんき― 昭和15年(1940年)、千利休の没後350年を記念して三千家が合同で開催した大規模な追善法要および茶会。近代茶道復興の象徴的な出来事とされる。 大徳寺 ―だいとくじ― 京都市北区紫野に位置する臨済宗大徳寺派の大本山。1315年に大燈国師『宗峰妙超』によって創建。 応仁の乱で一度荒廃しましたが、『一休宗純』によって再興。 境内には20以上の塔頭寺院があり、龍源院、高桐院、大仙院、黄梅院、瑞峯院などが一般公開されています。 特に、三門「金毛閣」は千利休が二階部分を増築したことで知られてる。 献茶式 ―けんちゃしき― 神仏に抹茶を点てて奉納し、感謝や祈願の心を捧げる茶道の儀式です。起源は古く、茶の湯の精神と信仰が融合した厳粛な行事として、寺社などで執り行われます。三千家の家元が奉仕することも多く、点前や道具、装束なども格式を重んじたものが用いられます。献茶の後には一般参列者向けの呈茶席が設けられることもあり、茶道の神聖性と文化的意義を広く伝える場となっています。 北野大茶湯 ―きたのおおちゃのゆ― 天正十五年(1587年)、京都・北野天満宮で豊臣秀吉が催した大規模な茶会。身分や階級を問わず多くの人々に茶が振る舞われたことで知られ、茶の湯の民衆化を象徴する。 昭和北野大茶湯 ―しょうわきたのだいちゃのゆ― 昭和十一年(1936年)、豊臣秀吉の「北野大茶湯」350年を記念して開催された大茶会。京都市内各所で百を超える茶席が設けられた。 北野天満宮 ―きたのてんまんぐう―京都市上京区にある神社で、947年に創建。 学問の神様として知られる『菅原道真』を御祭神とし、全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社。 境内には約1,500本の梅が植えられ、2月下旬から3月中旬にかけて見頃を迎えます。 また、毎月25日には「天神市」と呼ばれる縁日が開催され、多くの参拝者で賑わいます。
- 10-3|茶の湯と生きる ~あとがき~|第10回 近代茶道の幕開け|大正時代~現代|茶道の歴史
全10回 茶道の歴史 ■ 第10回 近代茶道の幕開け [3/3] ■ 大正時代 ~ 現代 ❚ 茶の湯は“生き方”である 千年の時をこえて、日本人のこころに寄り添い続けてきた茶の湯。 その歴史を振り返るとき、私たちはただ道具や作法を学ぶのではなく、ひとつの“生き方”に触れているのかもしれません。 今回は、茶道の本質とこれからの可能性について、改めて思いを馳せます。 ❚ 歴史をたどることは、心の軌跡を知ること 全10回にわたってお届けしてきた「茶道の歴史」は、古代の薬用茶から、武家・町人の嗜み、数寄者の美意識、そして現代に至るまで、日本茶道の変遷とその背景をひも解いてきました。 古代中国に起源をもつ「茶」が、日本に伝わり、「わび・さび」「和敬清寂」といった精神文化と結びつくことで、やがて日本独自の“茶道”として確立されます。 その過程では、僧侶・武士・町人・女性・実業家など、多様な立場の人々が茶の湯を支え、育ててきた歴史があります。 今日において茶道は、日本を代表する伝統文化の一つとして、国内外の多くの愛好者や研究者に受け継がれ、学ばれています。 しかし、同時にグローバル化やネット社会の急速な発展により、「一過性の情報」や「形式の模倣」が横行し、本質的な人間関係や文化の深みが見えづらくなる時代でもあります。 そのような現代だからこそ、茶道がもたらす「一期一会」の精神、目の前の一客との出会いを大切にする心、そして静けさと対話を尊ぶ時間**の価値は、これまで以上に意味をもってくるのではないでしょうか。 ❚ 茶道が示す“生きる姿勢” 茶道には、「和敬清寂」に表されるように、人を敬い、和をもって交わり、自然や道具を慈しみ、心を静かに保つという、日本人の美徳と文化が凝縮されています。 これは単なる趣味ではなく、“生きる姿勢”としての文化であり、未来に向けてなお一層の意義を持つものであるといえるでしょう。 これからの茶道は、決して格式や作法に縛られるものではなく、多様性を受け入れつつ本質を守り、次世代へとつなげていく場であり続けることが求められます。 ❚ 茶道は、未来への文化です 私たちは、茶の湯を通じて、過去と現在、そして未来を結ぶ心の文化に触れ、ネット社会の喧騒に対する“心の静寂”という新しい価値を見出すことができると確信しています。 本連載「茶道の歴史」をご覧いただき、誠にありがとうございました。 歴史は道具や人物の記録だけでは語りきれません。 そこに込められた“心”こそが、茶道の真の財産であり、未来に伝えるべき灯火です。 皆さまとともに、これからの茶道を見つめ続けていければ幸いです。
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茶道の歴史 ■ 茶道年表 ■ 前期|利休没以前 ❚ 目次 紀元前 飛鳥時代 奈良時代 平安時代 鎌倉時代 室町時代 安土桃山時代 資料(PDF)|無料ダウンロード ❚ 紀元前 神農時代 (紀元前2700年頃) 古代中国の神話において神農大帝*が数百種類もの草を、自らの身体で試した際に解毒に「荼(だ)」と呼ばれる植物を用いたと伝えられる。 漢王朝時代 (紀元前206年―紀元前220年) 古代の医学書「神農本草経*」に神農大帝の神話の中で「茶」が薬として記述される。 漢王朝時代 (紀元前206年―8年) 紀元前59年頃。文学者の王褒が主人が奴隷を買うために両者の間で交された契約文章「僮約」の中に「茶」に関する具体的な記述があり「茶」を飲む習慣が中国の西南部に位置する四川省付近ではじまったことがわかる。 ❚ 飛鳥時代 592 ―710 年 (年) ― ❚ 奈良時代 710―794 729年 (天平元年) 一条兼良*が著した「公事根源」の中に聖武天皇*が催した宮中行事「季御読経*」において、僧侶に対して引茶*がふるまわれたという記録が残される。 中国/唐代 (618年―907年) 760年頃。文筆家の陸羽*によって茶書「茶経*」が著される。 本書は世界最古の茶に関する書物とされ茶の産地、製法、道具に至るまで詳細に記されている。 ❚ 平安時代 794―1192 初期 平安時代初期、中国・唐へ派遣された遣唐使*や伝教大師・最澄*、弘法大師・空海*らが最新の学問や仏典とともに「茶」とその種子を日本へ持ち帰ったと伝えられている。(※諸説あり) 初期 比叡山のふもとにある日吉社の禰宜・祝部行丸は、天正十年(1582年)に記した「日吉社神道秘密記*」の中で、伝教大師・最澄が唐からの帰国後、比叡山の麓に茶園を開いたことを記している。この記述は、日本における茶の栽培に関する最古級の記録の一つとされている。 808年 (大同三年) 平安京の内裏東北隅に茶園が設けられ、造茶師が置かれていたという記録がある。 815年 (弘仁六年) 勅撰史書「日本後紀*」の弘仁六年(815年)四月二十二日の条には嵯峨天皇*が近江の韓崎(現:滋賀県大津市唐崎)へ行幸した際、梵釈寺の大僧都・永忠*より、茶を煎じて振舞われた旨が記されている。この記述がわが国の公式史書においてはじめて「茶」が登場した例とされる。 また嵯峨天皇は行幸の2ヶ月後に「近江」「丹波」「播磨」など、都(京都)の周辺国に茶の木を植えさせたうえで、茶の献上を求めたという。 894年 (寛平六) 遣唐使の廃止。唐の文化的影響から距離を取り、独自の国風文化*を築きはじめるたことを象徴するもので、同時に「茶」もまた、次第に人々の関心から遠のいていくこととなる。十世紀以降の「茶」は季御読経などに限られた儀式の中でしか用いられなくなり、「茶」の歴史も一時的に停滞することとなる。 903年 (延喜三年) 菅原道真*が自らの詩文をまとめた漢詩集「菅家後集*」において、自身が大宰府に左遷された際、「茶」を飲んだという一節が残されている。 950年 (天暦四年) 宇多天皇が亡くなる数日前に宝物類を倉に納めた際の目録「仁和寺御室御物実録*」に茶道具が記される。 1016年 (長和五年) 藤原道長*は、病を患った際に薬として茶を服したと伝えられている。 1191年 (建久二年) 臨済宗開祖の栄西*は、中国・宋に渡り、禅宗とともに「抹茶の喫茶法」や「製茶の技術」を学び、帰国後、筑前国・背振山において宋より持ち帰った「茶の種(実)」を植え、日本における本格的な茶の栽培を始める。 ❚ 鎌倉時代 1192―1333 1207年 (承元元年) 華厳宗の僧・明恵上人*は、栄西より茶種を贈られ、京都・栂尾の高山寺に植えたと伝わる。 1211年 (文治五年) 栄西によって「喫茶養生記*」が著される。本書は日本最古の茶に関する専門書で、上下二巻から成り、茶の効能や製法、薬効について仏教医学的な観点から詳述されている。特に、茶が健康を保つための飲料であることを強調し、武士や僧侶に対してその重要性を説いた内容は、後の茶文化の発展に大きな影響を与えた。 1214年 (建保二年) 栄西が鎌倉・寿福寺の住職を務めていた際、二日酔いに苦しんでいた将軍・源実朝*に呼び出され、加持祈祷を行うとともに「一服の茶」を勧めた。その際、栄西は、茶の効能を説いた著書「喫茶養生記」を献上し、源実朝はその一碗を飲むやいなや体調がたちまち回復したと伝えられている。 1239年 (延応元年) 1月16日。西大寺*の僧・叡尊*が西大寺復興の感謝を込めて鎮守八幡に供茶した行事の余服茶を多くの衆僧に振る舞った。この行いが八百年近く連綿と受け継がれ、今日も西大寺にて4月、10月の年2回にわたり行われている茶儀「大茶盛*」の由来とされている。 1283年 (弘安六年) 鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」に、牛飼いが僧侶の飲む茶に興味を示した際の話がみえる。 この記述により、茶が寺院社会、武家社会から一般民衆にも広がりを見せたことが暗示される。 1330年 (元徳二年) 鎌倉幕府の執権である金沢貞顕の書状において「鎌倉では唐物を使った茶がたいへん流行している」との記述が見られる。 1323年 (至治三年) 昭和五十一年(1976年)。韓国の全羅南道新安郡の沖で発見された沈没船調査において、中国から朝鮮半島を経由して日本に向かう外洋帆船の沈没船より、約2万点に及ぶ陶磁器が発見。 「至治三年(1323年)六月一日」と記された荷札をはじめ、のちの茶の湯で重要視される「茶入」「花入」「天目」などの茶道具が数多く含まれており、当時すでに「茶の湯」に適した道具が大量に輸入されていたことが明らかとなる。 またこの船は東福寺再建のため元に派遣され、帰途の1323年に中国の慶元から日本の博多に向かっていた貿易船だったことが判明している。 ❚ 室町時代 1336―1573 1336年 (建武三年) 11月7日。室町幕府は政治方針を定めた法令『建武式目』の中で「闘茶は贅沢で危険な集まりである」として闘茶や茶寄合などの群飲逸遊を禁止。しかし闘茶の人気は衰えずその後も100年以上にわたり続けられることとなる。 1403年 (応永十年) この頃に成立されたとされる喫茶を主題とした往来物『喫茶往来*』の中で「茶会」の語がはじめて登場する。 1450年 (宝徳二年) 臨済宗の歌僧・正徹*が著した歌論書「正徹物語*」の中で当時の茶人たちを「茶数寄」「茶飲み」「茶くらい」の三つに分類し描かれる。 1476年 (文明八年) 能阿弥*、相阿弥*らの同朋衆*によって、東山御殿内の装飾(座席飾り・諸道具など)に関する記録をまとめた聞書「君台観左右帳記*」が成立。 1481年 (文明十三年) わび茶の祖・村田珠光*は、一休宗純*に参禅し、印可証明として中国・宋代の臨済宗の僧で、「碧巌録*」を著した圜悟克勤*の墨跡*を与えられる。 1482年 (文明十四年) 足利幕府八代将軍・足利義政*は「東山山荘*(のちの銀閣寺)」の東求堂*内に茶室の原型とされる「同仁斎*」を造営。 1522年 (大永二年) 茶祖・千利休生まれる。 1528年 (享禄元年) 武野紹鴎は、当時、歌学の権威であった公家・三条西実隆の弟子となり、 のちに藤原定家*の歌論書『詠歌大概*』授けられる。 1533年 (天文二年) 奈良の塗師・松屋久政が茶会記を集成した「松屋会記*」を起筆。その後、二代久好・三代久重によって慶安三年(1650年)まで書き継がれる。 1548年天文十七年) 堺の豪商・天王寺屋の初代津田宗達が茶会記を集成した「天王寺屋会記*」を起筆。その後、二代宗及、三代宗凡によって天正十八年(1590年)まで書き継がれる。 1565年 (永禄八年) 松永久秀は、奈良の多聞山城で開いた茶に千利休らを招き、天下一の名物と称された「九十九髪茄子の茶入」を用いる。 1568年 (永禄十一年) 足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、権威の確立を図る一環として「名物狩り」を実行し、今井宗久所持の「松島の茶壺」や「紹鴎茄子茶入」、松永久秀所持の「九十九髪茄子茶入」などの名物茶器を献上させる。 ❚ 安土桃山時代 1573―1603 1582年 (天正十年) 千利休が京都・山崎にある妙喜庵*内に茶室『待庵*(国宝)』を建立。 六月二日。「本能寺の変」により織田信長が自害。 1585年 (天正十三年) 10月。豊臣秀吉*は京都御所において正親町天皇に茶を献じる「禁中茶会*」を執り行い、千利休も茶頭として出仕。またその際、正親町天皇から「利休」の居士号を賜り、利休は天下一の宗匠としての地位を確立。 1586年 (天正十四年) 1月6日。年頭の参内に際し、豊臣秀吉は黄金茶室*を禁中に移し、茶会を催し、その際、千利休が茶頭を努める。 また松屋会記*の10月13日条には、奈良の中坊源吾の朝会において「宗易形ノ茶ワン」と記があり、おそらくこの記述が「樂茶碗(長次郎茶碗)」の初見とされる。 1587年 (天正十五年) 10月1日。豊臣秀吉は、京都の北野寺社(北野天満宮)*において「北野大茶湯」を挙行。 1588年 (天正十六年) 利休の高弟山上宗二、『山上宗二記』を著す。 1589年 (天正十七年) 12月5日。千利休が修復を寄進した大徳寺山門「金毛閣」が完成。 同時に三門の楼上に「利休の木像」が安置され、落慶法要を営む。 1591年 (天正十九年) 2月28日。豊臣秀吉の勅命により、千利休が聚楽屋敷で自刃。 千家は一家離散となり、利休の養息・千家二代/千少庵*は会津の蒲生氏郷*のもとに蟄居を命じられる。 1594年 (文禄三年) 千少庵。徳川家康と蒲生氏郷のとりなしで 豊臣秀吉に許されて京に戻り、千家を再興。 資料|無料ダウンロード 本ページにてご紹介いたしました「茶道の歴史|前期 (利休没前)」をPDF資料としてまとめましたのでダウンロード後(無料)、お稽古やご自身の修練にご活用いただければ幸いです。 以下に「茶の歴史|年表」及び「喫茶の変革|年表」を PDF資料としてまとめましたので、こちらもダウンロード後(無料)、お稽古やご自身の修練にご活用いただければ幸いです。 ◆無料ダウンロード資料をご利用いただく際の注意点◆ 1.はじめに ・本サイトにて掲載しております解説文章につきましては、サイト運営者が茶道の修練にあたり、個人的にまとめた解説文章となっておりますので個人的な見解や表現なども含まれていることを事前にご理解ください。 2.個人利用の範囲内でご使用ください ・ダウンロードいただいた資料は、個人利用(学習・修練・お稽古場での利用など)の非営利目的に限りご利用いただけます。 ・本資料(文章、デザイン含む)の一部または全部を、許可なく転載、複製、加工、修正、販売することを固く禁じます。 3..内容の正確性について ・掲載情報には十分注意を払っておりますが、その内容の正確性や最新性は保証しておりません。 ・各流派や各文献によって、その解釈や文言、年代などの記載内容に差異が生じる場合があります。 ・本資料をご活用される場合は皆様が修練なさっています先生などにご確認の上、自己の責任においてご活用ください。 4..免責事項 ・通信環境やご利用の端末によっては、ダウンロードが正常に行えない場合や、データ破損、誤作動などが発生する可能性があります。 ・本資料のご利用によって生じた、いかなるトラブルや損害についても、当方は一切の責任を負いかねます。 5.同意 本資料をダウンロードいただいた時点で、上記の内容にご理解、ご同意いただいたものとさせていただきます。
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茶道の歴史 ■ 茶道年表 ■ 後期|利休没以後 ❚ 目次 江戸時代 明治時代 大正時代 昭和時代 平成時代 令和時代 資料(PDF)|無料ダウンロード ❚ 江戸時代 1603―1868 1614年 (慶長十九年) 千少庵が没し、息子の千家三代/千宗旦*が千家の家督を相続。 1618年 (元和四年) 織田有楽*が京都・建仁寺*の正伝院*に茶室「如庵*(国宝)」を建立。 1642年 (寛永十九年) 表千家四代/江岑宗左*、紀州徳川家に茶頭として出仕。 1646年 (正保三年) 千宗旦の隠居に伴い。三男の表千家四代/江岑宗左*が千家の家督を相続し、表千家*の基礎を固める。 1653年 (承応二年) 千宗旦、再び隠居(又隠居)して、もとの隠居の二畳を「今日庵*」と命名し、又隠居の家に四畳半を建てて「又隠」と命名。 四男の裏千家四代/仙叟宗室*は、「今日庵」を継承し、裏千家*の基礎を固める。 1654年 (享保八年) 中国・福建省から渡来した隠元禅師*が茶葉に熱湯を注ぐ「淹茶法(煎茶)」を伝える。 ― (―年) 年不詳。次男の武者小路千家四代/一翁宗守*は一時期、千家を離れ、塗師の吉岡家に養子に入っていたが兄弟の勧めにより千家に戻り、武者小路に千家を興す。 1666年 (寛文三年) 江岑宗左は父・千宗旦からの千利休の点前、作法、道具、茶室などの言い伝えを受け継ぎ、多くの聞書を書き残し、「江岑夏書」としてまとめ後世に遺す。 1723年 (享保八年) 表千家六代/覚々斎は、徳川八代将軍・吉宗より「桑原茶碗(唐津茶碗)」を拝領。 1734年 (享保十九年) 煎茶道の始祖とされる売茶翁高遊外*が、京都・東山にに通仙亭を構え売茶活動をはじめる。 1738年 (元文三年) 京都・宇治の農民であった永谷宗円は十五年の歳月をかけ新しい煎茶製法となる「青製煎茶製法*」を確立。 1739年 (元文四年) 「利休居士百五十回忌法要」が挙行される。 1740年 (元文五年) 表千家七代/如心斎、利休居士百五十回忌に際し、大徳寺・聚光院*に茶室「閑隠*」を寄進。 1741年 (寛保元年) 江戸中期に茶の湯の遊芸化を憂慮した、表千家七代/如心斎、裏千家八代/一燈宗室*らが相談し、茶の湯の精神、技術をみがくために新しい稽古法として七事式*を制定。 1789年 (寛政元年) 「利休居士二百回忌追法要」が挙行される。 表千家八代/啐啄斎は天明の大火(1788)で焼失した千家を復興し、利休居士二百回忌の茶事を催す。 1822年 (文政五年) 表千家九代/了々斎は、紀州徳川家十代/徳川治宝の御成りを迎えた際、紀州徳川家より、「武家門」を拝領。この門は現在も表千家の表門として構えられ、多くの門人を迎え入れている。 1835年 (天保六年) 山本山六代/山本嘉兵衛により、玉露の製法が発明される。 1836年 (天保7年) 表千家十代・吸江斎は、幼少で家元を継いだため、表千家に伝わる真台子の点前の皆伝は一時、九代・了々斎から紀州徳川家十代・徳川治宝に預けられていた。その後、表千家十代/吸江斎は徳川治宝より皆伝を授けられ、利休以来の茶の湯の正統を継承することとなる。 1853年 (嘉永6年) 日本茶輸出の開拓者と呼ばれた大浦慶は出島在留のオランダ人テキストルに嬉野茶の販路開拓を持ちかけ、3年後にイギリスからの注文を取り日本茶を輸出。 ❚明治時代 1868―1912 1872年 (明治五年) 裏千家十一代/玄々斎*は第一回京都博覧会*に際し、より多くの人へと開かれた茶の湯を伝えるために立礼式*の茶の湯を考案。 1875年 (明治八年) 跡見学園の創立者である跡見花蹊*が女子教育の一環として茶道をとりいれる。 1880年 (明治十三年) 1月13日。表千家十一代/碌々斎が京都・北野寺社(北野天満宮)において、菅原道真公の御神前にお茶を献じる。この献茶式が近代茶道における献茶のはじまりとされている。 1887年 (明治二十年) 2月。京都御所御苑内にて、第16回京都博覧会「新古美術会」が開催。その会場で北三井家九代・三井高朗*と十代・三井高棟*が亭主となり、表千家十一代/碌々斎の点前で明治天皇への献茶が行われました。 1890年 (明治二十三年) 「利休居士三百回忌追法要」が挙行される。 1896年 (明治二十九年) 3月21日。実業家の・益田鈍翁により、茶会「大師会」が発足。 1898年 (明治三十一年) 実業家で茶園経営者の高林謙三が「高林式茶葉租揉機」を考案。 従来の手揉みの前半を機械に頼る半機械製茶の時代が到来。茶葉の生産量を増やし、茶葉の普及と茶業界の発展に大きく貢献。 田中仙樵により、大日本茶道学会*が創立。 1901年 (明治三十四年) 「第五回パリ万国博覧会」に「日本茶」と「台湾茶」が出展される 1905年 (明治三十八年) 表千家不審庵再度焼失。 1906年 (明治39年) 米国ボストン美術館の日本美術部長も務めた文人の岡倉天心*が日本の茶道を中心に日本の精神性や美意識、文化などを世界に向けて紹介した『THE BOOK OF TEA* (邦題:『茶の本』)』をニューヨークの出版社より出版。 ❚ 大正時代 1912―1926 1915年 (大正四年) 本阿弥光悦*の遺徳を偲ぶための茶会「光悦会*」が発足。例年11月11日から13日にかけて京都・鷹峯の光悦寺で開催。春に催される東京の「大師会」と秋に開催される「光悦会」は普段は美術館などに収まるような名品の数々が用いられるため多くの茶人に愛される二大茶会とされる。 また大阪三越において千家出入りの十の職家により「十職展」が開催。この展示会以降「千家十職」の呼称が用いられる。 ❚ 昭和時代 1926―989 1933年 (昭和八年) 千家出入りの十の職家(千家十職)により『十備会』が結成。 1936年 (昭和十一年) 天正十五年(1587)、京都「北野寺社(北野天満宮)」にて開催された「北野大茶湯(1587)」の三百五十年を記念し同所にて「豊公北野大茶湯三百五十年記念大茶会(昭和北野大茶湯)」が開催される。 1940年 (昭和十五年) 4月21日から四日間にわたり、「利休居士三百五十回忌法要」が挙行。 1940年 (昭和十五年) 裏千家の門流を統括する組織として「茶道裏千家淡交会」(1953年に社団法人認可)を設立。 1942年 (昭和十七年) 表千家十三代/即中斎により、茶道の全国の普及を目的に「表千家同門会*」を設立。 1955年 (昭和三十年) 「表千家同門会」海外初の「ハワイ支部」を設立。 1955年 (昭和三十年) 裏千家「茶道研修所(現:裏千家学園 茶道専門学校)」を設立。 1980年 (昭和五十五年) 烏龍茶ブームを受け、烏龍茶の飲料化に成功。缶入り烏龍茶の販売がはじまる。 1985年 (昭和六十年) 10年の研究開発を経て緑茶の飲料化に成功。缶入り煎茶の販売がはじまる ❚ 平成時代 1989― 1990年 (平成二年) 「利休居士四百回忌法要」挙行 京都国立博物館にて『特別展覧会四百回忌/千利休展』開催 開閉可能なペットボトルの開発により、緑茶ペットボトルの販売がはじまる 2000年 (平成十二年) 冬場の消費拡大のため、暖め可能なペットボトルの販売がはじまる。 ❚ 令和時代 2019― 年 (年) ― 資料|無料ダウンロード 本ページにてご紹介いたしました「茶道の歴史|後期 (利休没後)」をPDF資料としてまとめましたのでダウンロード後(無料)、お稽古やご自身の修練にご活用いただければ幸いです 以下に「茶の歴史|年表」及び「喫茶の変革|年表」を PDF資料としてまとめましたので、こちらもダウンロード後(無料)、お稽古やご自身の修練にご活用いただければ幸いです。 ◆無料ダウンロード資料をご利用いただく際の注意点◆ 1.はじめに ・本サイトにて掲載しております解説文章につきましては、サイト運営者が茶道の修練にあたり、個人的にまとめた解説文章となっておりますので個人的な見解や表現なども含まれていることを事前にご理解ください。 2.個人利用の範囲内でご使用ください ・ダウンロードいただいた資料は、個人利用(学習・修練・お稽古場での利用など)の非営利目的に限りご利用いただけます。 ・本資料(文章、デザイン含む)の一部または全部を、許可なく転載、複製、加工、修正、販売することを固く禁じます。 3..内容の正確性について ・掲載情報には十分注意を払っておりますが、その内容の正確性や最新性は保証しておりません。 ・各流派や各文献によって、その解釈や文言、年代などの記載内容に差異が生じる場合があります。 ・本資料をご活用される場合は皆様が修練なさっています先生などにご確認の上、自己の責任においてご活用ください。 4..免責事項 ・通信環境やご利用の端末によっては、ダウンロードが正常に行えない場合や、データ破損、誤作動などが発生する可能性があります。 ・本資料のご利用によって生じた、いかなるトラブルや損害についても、当方は一切の責任を負いかねます。 5.同意 本資料をダウンロードいただいた時点で、上記の内容にご理解、ご同意いただいたものとさせていただきます。
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茶道辞典 ■ 千家 ■ 千家とは ❚ 千家とは 千家~せんけ~とは、千家開祖/抛筌斎千宗易利休(1522-1591)を祖とし息子の千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)、孫の千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の三代を通じて確立された茶家のことを指します。 千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)の提唱した茶道の思想や美意識、茶室・作法のあり方を受け継ぎ、後世に伝える家系として知られています。 注釈 広義においてはこの三代に加え、後の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)も含めて「千家」と称されることがありますが、茶道プラスでは前述の三代を「千家」とし、その後に分かれた三家を「三千家」として区別しています。 千家開祖/抛筌斎千宗易利休の没後は長男の堺千家/千道安紹安(1546-1607)が、本家である堺千家の家督を継承するが後嗣ぎがなく一代にて断絶。 次男の千家二代/千少庵宗淳が京都の千家(京千家)を再興し、さらに孫の千家三代/咄々斎元伯宗旦が後を継ぎ、のちの三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の礎を築きました。 こうして、千家開祖/抛筌斎千宗易利休の血筋と家系は千家二代/千少庵宗淳、千家三代/咄々斎元伯宗旦を経て受け継がれ、茶道史における重要な家系として確立されました。 千家開祖/抛筌斎千宗易利休の提唱した茶道の思想や美意識、茶室・作法のあり方はこの三代によって体系化され、後世の茶の湯文化の基盤となりました。 すなわち、千家とは千家開祖/抛筌斎千宗易利休、千家二代/千少庵宗淳、千家三代/咄々斎元伯宗旦の三代にわたって茶道の理念を継承し、三千家の成立へとつながる道を築いた家系を指します。 この三代の系譜は、茶道発展の礎をなす極めて重要な茶家といえる。 ❚ 千家|歴代一覧 ■ 千家|開祖 ■ 抛筌斎 千宗易 利休 ~ほうせんさい・せんそうえき・りきゅう~ 大永二年(1522年) ― 天正十九年(1591年) 六十九歳 千家開祖/抛筌斎千宗易利休は、茶道を精神文化として完成させた日本茶道史上最も重要な茶人です。堺の商人の家に生まれ、若くして茶の湯を学び、武野紹鴎に師事しました。 それまでの豪華な茶の湯を簡素で静寂を重んじる「侘び茶」へと昇華し、茶室や道具、所作にまで美と意味を与えました。 織田信長に茶頭として仕えたのち、豊臣秀吉にも重用されましたが、やがて秀吉の怒りに触れ、天正十九年(1591年)に切腹を命じられ生涯を閉じました。 その生涯は権威に屈せず茶の道を貫いた象徴であり、利休の理念は三千家を通じて今日の日本文化や日本人の美意識にも深く息づいています。 ■ 堺千家 ■ 千道安 紹安 ~せんどうあん・しょうあん~ 天文十五年(1546年) ― 慶長十二年(1607年) 六十一歳 堺千家/千道安紹安は、千家開祖/抛筌斎千宗易利休と先妻の宝心妙樹(生没年不詳)の長男として生まれる。[母]宝心妙樹が亡くなり、[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休が[養母]宗恩(?-1600)と再婚すると徐々に確執が生まれ、一度千家を離れるが後に和解。 しかし後世「剛の道安」と「柔の少庵」と称されるように[養母]宗恩の連れ子である同い年の[義弟]千家二代/千少庵宗淳とは折り合いがつかず、生涯茶会においても同席をすることもなかったと伝わっています。 千家開祖/抛筌斎千宗易利休没後は本家の堺千家を継承。しかし堺千家/千道安紹安の没後に堺千家は途絶えることとなり、堺千家の系譜は一代で終わることとなる。 ■ 千家|二代 ■ 千少庵宗淳 ~せんしょうあん・そうじゅん~ 天文十五年(1546年) ― 慶長十九年(1614年) 六十八歳 千家二代/千少庵宗淳は、[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の後妻である宗恩の連れ子で、のちに[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の養子となり、[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の娘・お亀(生没年不詳)を室としました。 [父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の切腹後、豊臣秀吉による利休一族への厳しい処分の中、千家二代/千少庵宗淳も一時期幽閉されるが、のちに赦免。京都で茶の湯の拠点を再興し混乱期の千家を守りました。 千家二代/千少庵宗淳は[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の「侘び茶」の精神を受け継ぎながらも、自身の時代に合わせて茶室や作法整え尽力。 また千家二代/千少庵宗淳は京都の茶人たちから「めんよ(名誉)の数寄者」と評された人物で、早くから[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の後継者として高く評価されていたことがうかがえます。 千家二代/千少庵宗淳は[父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休没後の混乱期に千家を守り抜き、のちに茶道が再び発展する礎を築いた重要な人物とされています。 ■ 千家|三代 ■ 咄々斎 元伯宗旦 ~とつとつさい・げんぱくそうたん~ 天正六年(1578年) ― 万治元年(1658年) 八十一歳 千家三代/咄々斎元伯宗旦は、[父]千家二代/千少庵宗淳の息子で[祖父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の孫にあたります。若い頃から茶の湯に親しみ、利休の思想を深く理解した人物でした。千家三代/咄々斎元伯宗旦は[父]千家二代/千少庵宗淳から千家を継ぎ、京都の地で茶道を大きく発展させました。千家三代/咄々斎元伯宗旦は、豪華さを排した質素で静謐な茶室を好み、「侘び」の美意識をさらに徹底しました。また武家社会の変化の中でも、精神性を重視した茶の湯を守り続け、[長男]宗拙を加賀藩前田家に、[次男]宗守を高松松平家に、[三男]宗左を紀州徳川家に、[四男]宗室を加賀藩前田家に仕えさせ千家の名を絶やさず再び広く知らしめることに尽力。宗旦の四人の息子のうち、長男を除く三人が表千家、裏千家、武者小路千家を建立し「三千家」と呼ばれる三つの家元へと発展していきます。 ■ 千少庵宗淳の次男 ■ 山科宗甫 ~やましな・そうほ~ 生年不詳 ― 寛文六年(1666年) 享年不詳 [父]千家二代/千少庵宗淳の次男で[兄]千家三代/咄々斎元伯宗旦宗旦の弟。 ❚ まとめ 千家の歩みは、茶道の精神そのものの歴史といえるでしょう。 千家開祖/抛筌斎千宗易利休が築いた「侘び茶」の思想は、作法を超えて人の在り方を映す哲理でした。その志は、千家二代/千少庵宗淳、千家三代/咄々斎元伯宗旦へと受け継がれ、三代によって真の「茶の道」が確立。千家開祖/抛筌斎千宗易利休が示した精神を千家二代/千少庵宗淳が守り、千家三代/咄々斎元伯宗旦が形として整えたことで、茶の湯は表千家・裏千家・武者小路千家の三千家へと広がりました。 今日、私たちが茶の湯に感じる「和敬清寂」の心や一碗に宿る美意識は、この千家三代の歩みによって培われたものです。彼らが遺した精神は、今も静かに、そして力強く生き続けています。
- 0-2|千家開祖|抛筌斎|千宗易利休|1522-1591|千家|人物名鑑
人物名鑑 ■ 千家 ■ 抛筌斎|千宗易利休|1522-1591 ❚ 千利休とは? 千家開祖/千宗易利休(1522-1591)は、今日の茶道の基礎を築いた最も著名で茶道の歴史を語る上で最重要の茶人です。 千利休はそれまでの貴族や武家などの絢爛豪華な「茶」を、簡素で自然な美を尊び、静けさや調和を重んじる「侘び茶」として完成させました。 書院や会所で行われていた喫茶を、茶室という小さな空間へ移し、点前を行う道具の選定から制作、また「茶を点てる」、「懐石を食す」、その所作のひとつひとつに意味を持たせました。 こうして千利休は茶を通じて精神を整える「道」として茶道を大成させたことで知られています。 ❚ 千利休のあゆみ 千家開祖/千宗易利休は大坂・堺の商人の家に生まれ、若い頃から茶の湯に親しみ、当時の名茶人である武野紹鴎(1502-1555)に師事して茶道の技法や精神を学びました。 室町末期から安土桃山時代にかけて、茶の湯は武士や豪商の間で広まり、精神修養や社交の場として重要視されました。 千家開祖/千宗易利休はその中で、茶室の空間や道具の設えに独自の美学を持ち込み、茶道を単なる飲み物の嗜みから、心を整える文化として完成させました。 千家開祖/千宗易利休 は織田信長(1534-1582)に茶頭として仕え、茶の湯を通じて信長の政治や文化活動にも関わり、信長没後には豊臣秀吉(1537-1598)に仕えました。 しかし、徐々に千利休の存在や権威が拡大するとともに主君である秀吉との関係は次第に修復不可能な関係となり、やがてある事件を基に秀吉の逆鱗に触れ、天正十九年(1591年)、千家開祖/千宗易利休は切腹を命じられその生涯を閉じることとなります。 この悲劇的な最期は、 千家開祖/千宗易利休 の茶道が当時の政治や文化と深く結びついていたことを示しています。 資料によると 千家開祖/千宗易利休 は当時としては大柄(約180cm)で人柄は寡黙で洞察力に富み、礼節を重んじる人物として語られています。 また華美や権威を求めず、茶の精神に基づいた生活と作法を大切にしまし、指導は厳格でありながら、相手の個性や状況に応じた柔軟な配慮も行ったと伝えられています。 ❚ 千利休の茶道 千家開祖/千宗易利休は茶道における「わび・さび」の美学を確立しました。 茶室の設え、掛物や花、道具の選び方、所作や挨拶に至るまで、すべてに意味と精神性を持たせ、茶を通じて心を整える文化を完成させました。 千家開祖/千宗易利休の思想は、孫の千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)の三人の息子により建立された「表千家・裏千家・武者小路千家」の三千家を通じて今日に受け継がれ、日本文化全体の礼節や美意識、生活様式に大きな影響を与えています。 千家開祖/千宗易利休の教えは、茶道だけでなく、芸術、建築、生活文化にも息づき、今日の日本人の価値観や美意識に深く根付いています。 ❚ まとめ 千家開祖/千宗易利休は、茶道を完成させ、日本文化の精神的基盤に大きな足跡を残した茶人です。 織田信長や豊臣秀吉に仕えながらも、茶道の精神と美学を貫いた生涯は、波乱に満ちたものでした。 寡黙で礼節を重んじ、簡素で自然な美を愛した千家開祖/千宗易利休の思想は、今日でも茶道を通じて受け継がれています。 千家開祖/千宗易利休が大切にした「侘び」の心は、日本文化の精神性と豊かさを象徴する存在として、現代においても深い影響を与え続けています。 ■ 千利休をもっと学ぶにはコチラ >>> ■
- 0-3|千家二代|少庵宗淳|1546-1614|千家|人物名鑑
人物名鑑 ■ 千家 ■ 二代|少庵宗淳|1546-1614 ❚ 花押|署名 ❚ 出自 [父]宮王三郎三入(生没享年不詳)と[母]千宗恩(生年不詳-1600)との間に生まれる。 その後、[母]千宗恩が[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休と再婚したことにより、千家の養子となり、以後は千家の一員として育てられる。 しかし千家二代/千少庵宗淳(1546-1614)は幼少の頃より先天的な病により片足に障害を抱えており、また、同年代でありながら千家本家の[義兄]千道安紹安(1546-1607)がいたことなども影響し、千家内での立場が弱かった事実が後世の歴史史料より確認されている。 その後、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の娘である[妻]亀(喜室宗桂信女)(生年不詳-1587)を娶り、天正六年(1578年)には長男である修理(のちの千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658))が生まれる。 生 没 享 年 生年:天文十五年(1546年) 没年:慶長十九年(1614年) 九月七日 享年:六十九歳 出 生 父:宮王三郎三入 母: 千宗恩 養父:千家開祖/抛筌斎千宗易利休 名 幼名:猪 之助 名:四郎左衛門 / 宗淳 号:少庵 通称:めん よ(名誉)の数寄者 兄 弟 義兄:千道安紹安 室 [養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の六女[妻]亀(喜室宗桂信女) 子 長男:修理(のちの千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658) 次男:山科宗甫(生年不詳-1666) 長女 :ねい(生没享年不詳) ❚ 師事・門下 師 事 茶道 [養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休 参禅 大徳寺百四十世/蘭叔宗秀(生年不詳-1599) 門 下 千家十職:樂家/田中宗慶(1535-1595) 連歌師:里村昌琢(1574-1636) 釜師:辻家二代/辻与二郎(1546-1614) 釜師:京名越家開祖/名越浄味(生年不詳-1638) 釜師:西村家開祖/西村道仁(1504-1555) ❚ 生涯・事績 天正八年(1580年)頃に上洛し大徳寺門前に屋敷を構えました。 その後の同十三年(1585年)、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の入居によって京都・二条堀川衣棚に転居します。しかし同十八年(1590年)に発生した大洪水によって再び本法寺前に移り住むこととなる。 [養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休や[義兄]千道安紹安と同様に[関白]豊臣秀吉(1536-1598)の茶頭として仕え、茶の湯の普及と発展に尽力。 その活躍は高く評価され、「めんよの(名誉)数寄者」と称される。 やがて天正十九年(1591年)、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休が[関白]豊臣秀吉の命により切腹すると、高弟であった会津の[武将]蒲生氏郷(1556-1595)を頼って会津若松へ逃れ、鶴ヶ城に身を潜めました。その後、三年の年月を経て、文禄三年(1594年)に[将軍]徳川家康(1543-1616)や[武将]蒲生氏郷の嘆願により赦免され京へ戻ることが許される。 帰京後、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の遺愛の茶道具の返還を受け京都・本法寺前の地に四百五十石を賜り、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の旧跡であった「不審庵」を再興。 さらに文禄四年(1595年)の初秋には大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544-1595)に「利休」号の解義を求めるなど茶の湯の精神をさらに深く追究していきました。 赦免後は茶匠としての活動を盛んに行い、大徳寺の名僧たち―大徳寺百十一世/春屋宗園(1529-1611)、大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)、大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞(1544-1595)、大徳寺百四十一世/雲英宗偉(1559-1603)―らと詩歌や俳諧を通じて親交を結びました。 特に[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の高弟であった[武将]肥後細川家初代/細川三斎忠興(1563-1646)からは篤い庇護を受けたと伝えられる。 しかし千家二代/千少庵宗淳はわずか数年で隠居し、家督を[長男]修理(のちの千家三代/咄々斎元伯宗旦)に譲り、その後は生涯どこにも「仕官」することなく、茶の湯に専心して愉しんだという。 ❚ 堺千家と京千家 [義兄]千道安紹安が堺の千家本家(堺千家)の家督を継承するが、後嗣を得ないまま早世したため断家。 その後、京都の千家(京千家)を継いだ千家二代/千少庵宗淳が千家の再興を果たす。 [義兄]千道安紹安の茶が「剛(動)」と評されたのに対して千家二代/千少庵宗淳の茶は「柔(静)」と称され[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の精神をより穏やかに受け継いだといわれています。 ❚ 号 大徳寺百十一世/春屋宗園から「少」の字を含む「扁額(斎号)」を授かり、これにより「千少庵」と名乗るようになる。 ❚ 茶室 [養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の切腹後、[武将]蒲生氏郷に匿われていた時期に福島県会津若松市に茶室『麟閣』を創建。後に赦免を受けて京都に戻ったのちも、この茶室は大切に使用され続けたという。 ❚ 御好み [養父]千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)との合作をはじめ[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の精神を受け継いだ「わび」の趣を重んじた茶道具を好んでいる。 その作風は後世にも大きな影響を与え、「御好茶道具」や「書付道具」として多くの茶道具が伝えられている。 ❚ 辞世の句 以下の辞世の句を遺している。 「末期一喝・倒破牢関・活機転去・緑水青山」 ―現代訳― 死の間際に迷いを断ち切る一喝を放ち、生死の執着を完全に断ち、悟りの境地へと自由に旅立つ。そこには、何の束縛もない、ただ青い山と緑の水が広がるのみである。 辞世の句は、茶の湯の精神と禅の教えを体現したものであり、最期まで静かに、そして自由に生きることの大切さを示していると考えられます。 ❚ まとめ 千家二代/少庵宗淳の歩みには、逆境の中でも茶の道を守り抜いた強い意志が感じられます。 幼くして病を抱え、また[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の実子ではないという立場にありながらも、決して道を見失うことなく、静かに茶の湯と向き合い続けました。 [養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の切腹という大きな試練ののち、会津での隠遁を経て赦免を受けた千家二代/少庵宗淳は千家の再興に尽力。その姿は、失われかけた家の灯を再びともすような、静かな情熱に満ちていました。 千家二代/少庵宗淳が不審庵を再興したことは、単なる家の再建ではなく、[養父]千家開祖/抛筌斎千宗易利休の精神をもう一度現世に息づかせる行為であったといえるでしょう。 その穏やかで静かな茶風こそが、後に[息子]千家三代/咄々斎元伯宗旦へと受け継がれ、今日に続く三千家の精神的な礎となっています。 千家二代/少庵宗淳の生涯は、名誉や権勢を求めることなく、ただひたすらに茶の心を守り抜いた生き方でした。その静かな決意と温かな人間味は、今なお茶の湯を学ぶ私たちに、道を極めるということの本当の意味を教えてくれます。



















