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- ★1-2|樂焼とは|樂吉左衛門|茶碗師|千家十職|
千家十職 ■ 樂家|樂吉左衛門|茶碗師 ■ 樂焼とは ❚ 樂焼とは 「樂焼(らくやき)は、千家十職の茶碗師・樂吉左衛門家によって450年以上にわたり一子相伝で継承されてきた特別な焼物です。他の焼物とは異なる独自の製法によって作られ、その技術の詳細は門外不出の秘伝とされています。樂焼の制作は、茶の湯の精神と深く結びついており、その技法は時代を超えて守り続けられています。 手捏ね製法 樂焼は、轆轤を使用せず、手と箆だけで成形する「手捏ね」という方法で作られます。この技法によって、茶碗には機械的な均一性がなく、人の手の温もりを感じさせる柔らかい造形が生まれます。また、手捏ねの成形は、茶碗を持ったときの手の収まりや口当たりの良さを考慮しながら行われるため、茶の湯における「用の美」を体現したものとなります。 焼成方法 樂焼は、一般的な磁器や陶器とは異なり、約750℃~1,100℃の比較的低温で焼成される「軟質施釉陶器」に分類されます。 この焼成方法により、樂焼独特の柔らかさと温かみのある風合いが生まれます。 黒樂製法 樂茶碗は天正九年(1581年)から天正十四年(1586年)ごろに樂家初代/樂長次郎によって創始されたとされています。その製法は非常に独特であり、以下の工程を経て完成します。 初期の製法としては素焼後に加茂川(京都市)の黒石からつくられた鉄釉をかけて陰干し、乾いた後にまた「釉薬」を掛けるといった工程を十数回繰り返します。 その後、1,000度程度で焼成し「釉薬」が溶けたところを見計らって窯から引き出し急冷し、釉薬が黒く変色することで黒樂特有の深みのある黒色が生まれます。 この急冷による焼成方法が樂焼独特の美しい釉調と質感を生み出しています。 赤樂製法 赤樂茶碗は、樂家二代・樂常慶によって創始されたとされ、樂焼のもう一つの代表的な技法です。黒樂とは異なる工程を経て焼かれます。 赤樂は「聚樂土」と呼ばれる土が使用され、この土は、樂焼の発祥地である聚樂第周辺の土を指し、焼成後に独特の赤色を帯びる特徴があります。 この胎土聚樂土を素焼きし,透明の釉薬を施し、その後、約800度の低温で焼成することで胎土の赤みが際立つ独特の風合いを生み出します。 赤樂は、黒樂に比べて柔らかく温かみのある印象を持ち、茶席において季節や趣向に応じて使い分けられます。 このように、樂焼の製法は450年以上にわたって変わることなく受け継がれ、現在も樂吉左衛門の手によって、伝統的な方法で一碗一碗、丁寧に作られています。樂焼は、日本独自の文化であり、茶の湯の精神を体現する茶碗として、今日も多くの茶人に愛され続けています。 ❙ 樂と楽 。
- ★1-3|長次郎焼とは|樂吉左衛門|樂家|茶碗師|千家十職|
千家十職 ■ 樂家|樂吉左衛門|茶碗師 ■ 長次郎とは ❚ 長次郎焼とは ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
- 1-4|樂家歴代|樂吉左衛門|樂家|茶碗師|千家十職|
千家十職 ■ 樂家|樂吉左衛門|茶碗師 ■ 樂家|歴代 ❚ 樂家|歴代 ■ 樂家|元祖 ■ 阿米也 ~あめや~ 生没年不詳 享年不詳 樂家初代/長次郎の父と伝わる。 陶工技術から渡来人とされ樂家では元祖と位置付けされる。 ■ 長次郎の妻の祖父 ■ 田中宗慶 ~たなか・そうけい~ 天文四年(1535年) ― 文禄四年(1595年) 六十歳 長次郎の妻の祖父。 千利休と親交。 豊臣秀吉より、金印の「樂」と「天下一焼物師」の称号を拝領。 ■ 樂家|初代 ■ 長次郎 ~ちょうじろう~ 生年不詳 ― 天正十七年(1589年) 享年不詳 阿米也の子と伝えられる。名は長次郎。 千利休の創意を受けて「樂茶碗」を創案。 ■ 樂家|田中家 ■ 庄左衛門・宗味 ~しょうざえもん・そうみ~ 生没年不詳 享年不詳 田中宗慶の子として生まれ、樂家二代/樂常慶とは兄弟。名を庄左衛門。 娘が長次郎の妻となる。 ■ 樂家|二代 ■ 樂常慶 ~らく・じょうけい~ 生没年不詳 ― 寛永十二年(1635年) 享年不詳 田中宗慶の次男として生まれる。名を与次。 赤黒の二釉に加え、白釉「香炉釉」を創案。 樂家二代/樂常慶より、樂家では当主が「吉左衛門」を名乗ることとなる。 親交のあった本阿弥光悦より 、暖簾「樂焼 御ちやわん屋」を 賜ったとされる 。 ■ 樂家|三代 ■ 樂道入(ノンコウ) ~らく・どうにゅう~ 慶長四年(1599年) ― 明暦二年(1656年) 五十八歳 樂家二代/樂常慶の長男として生まれる。名を吉兵衛。 通称をノンコウ。 後世「樂家随一の名工」と称される。 ■ 樂家|四代 ■ 樂一入 ~らく・いちにゅう~ 寛永十七年(1640年) ― 元禄九年(1696年) 五十七歳 樂家三代/樂道入(ノンコウ)の長男として京都に生まれる。名を佐平衛。 元禄四年(1691年)、家督を譲り隠居。 隠居後、「一入」と号す。 ■ 樂家|五代 ■ 樂宗入 ~らく・そうにゅう~ 寛文四年(1664年) ― 享保元年(1716年) 五十三歳 江戸時代の豪商であった尾形宗謙の末弟である雁金屋/尾形三右衛門の子として生まれ、のちに樂家四代/樂一入の養子となる。名を平四郎。 元禄四年(1691年)、五代樂吉左衛門を襲名。 宝永五年(1708年)、家督を譲り隠居。 表千家六代/覚々斎原叟宗左より「宗」の一字を授かり、隠居後、「宗入」と号す。 尾形宗謙の子である尾形光琳、尾形乾山とは従弟にあたる ■ 樂家|六代 ■ 樂左入 ~らく・さにゅう~ 貞享二年(1685年) ― 元文四年(1739年) 五十五歳 大和屋嘉兵衛の次男として生まれ、のちに樂家五代/樂宗入の婿養子となる。名を惣吉。 宝永五年(1708年)、六代樂吉左衛門を襲名。 享保十三年(1728年)、長男に家督を譲り隠居。 表千家七代如心斎天然宗左より「左」の一字を授かり、隠居後、「左入」と号す。 表千家七代如心斎天然宗左より表千家の皆伝を許可される。 ■ 樂家|七代 ■ 樂長入 ~らく・ちょうにゅう~ 正徳四年(1714年) ― 明和七年(1770年) 五十六歳 樂家六代/樂左入の長男として京都に生まれる。名を惣吉。 享保十三年(1728年)、七代樂吉左衛門を襲名。 宝暦十二年(1762年)、長男に家督を譲り隠居。 隠居後、「長入」と号す。 後嗣の長男(樂家八代/樂得入)が病弱であったため隠居後も長男の作陶を支える。 ■ 樂家|八代 ■ 樂得入 ~らく・とくにゅう~ 延享二年(1745年) ― 安永三年(1774年) 三十歳 樂家七代/樂長入の長男として京都に生まれる。名を惣吉。 宝暦十二年(1762年)、八代樂吉左衛門を襲名。 明和七年(1770年)、弟に家督を譲り隠居。隠居後「佐兵衛」と名乗る。 生まれつき体が病弱であり、若くして病死したために作品は極めて少ない。 ■ 樂家|九代 ■ 樂了入 ~らく・りょうにゅう~ 宝暦六年(1756年) ― 天保五年(1834年) 七十九歳 樂家七代/樂長入の次男として京都に生まれる。名を惣次郎。 兄である樂家八代/樂得入が病弱であったため 明和七年(1770年)、十五歳の若さで九代樂吉左衛門を襲名。 文化八年(1811年)、次男に家督を譲り隠居。 表千家九代/了々斎曠叔宗左より「了」の一字を授かり、隠居後、「了入」と号す。 後世、「樂家中興の祖」と称される。 ■ 樂家|十代 ■ 樂旦入 ~らく・たんにゅう~ 寛政七年(1795年) ― 安政元年(1854年) 五十九歳 樂家九代/樂了入の次男として京都に生まれる。名を市三郎。 文化八年(1811年)、十代樂吉左衛門を襲名。 弘化二年(1845年)、家督を譲り隠居。 表千家十代/吸江斎祥翁宗左より「宗旦」の「旦」の一字を授かり、隠居後、「旦入」と号す。 ■ 樂家|十一代 ■ 樂慶入 ~らく・けいにゅう~ 文化十四年(1817年) ― 明治三十五年(1902年) 八十六歳 丹波国の酒造家・小川直八の三男として生まれ、のちに樂家十代/樂旦入の婿養子となる。名を惣吉。 弘化二年(1845年)、十一代樂吉左衛門を襲名。 明治四年(1871年)、長男に家督を譲り隠居。 隠居後、「慶入」と号す。 ■ 樂家|十二代 ■ 樂弘入 ~らく・こうにゅう~ 安政四年(1857年) ― 昭和七年(1932年) 七十六歳 樂家十一代/樂慶入の長男として京都に生まれる。名を小三郎。 明治四年(1871年)、十二代樂吉左衛門を襲名。 大正八年(1919年)、長男に家督を譲り、滋賀県石山の別邸に隠居。 隠居後、「弘入」と号す。 ■ 樂家|十三代 ■ 樂惺入 ~らく・せいにゅう~ 明治二十年(1887年) ― 昭和十九年(1944年) 五十三歳 樂家十二代/樂弘入の長男として京都に生まれる。名を惣吉。 大正八年(1919年)、十三代樂吉左衛門を襲名。 表千家十二代/惺斎敬翁宗左より「惺」の一字を授かり「惺入」と号す。 ■ 樂家|十四代 ■ 樂覚入 ~らく・かくにゅう~ 大正七年(1918年) ― 昭和五十五年(1980年) 六十二歳 樂家十三代/樂惺入の長男として京都に生まれる。名を慶喜。 昭和二十一年(1946年)、十四代樂吉左衛門を襲名。 昭和五十一年(1976年)、無形文化財保持者に認定。 昭和二十三年(1978年)、「財団法人樂美術館」を設立。 没後、表千家御家元より「覚入」の号を諡号。 ■ 樂家|十五代 ■ 樂直入 ~らく・じきにゅう~ 昭和二十九年(1949年) ― 年(年) ―歳 樂家十四代/樂覚入の長男として生まれる。名を光博。 昭和五十六年(1981年)、十五代樂吉左衛門を襲名。 平成十三年(2001年)、京都府文化賞功労賞を受賞。 平成十九年(2007年)、京都市文化功労賞を受賞。 令和元年(2019年)、長男に家督を譲り、隠居。 隠居後、「直入」と号す。 ■ 樂家|当代 ■ 樂吉左衛門 ~らく・きちざえもん~ 昭和五十六年(1981年) ― 年(年) ―歳 樂家十五代/樂直入の長男として京都に生まれる。名を篤人。 令和元年(2019年)、十六代樂吉左衛門を襲名。
- 1-5|樂家年表|樂吉左衛門|樂家|茶碗師|千家十職|
千家十職 ■ 樂家|樂吉左衛門|茶碗師 ■ 樂家|年表 ❚ 樂家|年表 1535年 (天文四年) 田中宗慶生まれる★ 1589年 (天正十七年) 樂家初代・長次郎没す▼ 1595年 (文禄四年) 田中宗慶没す▼ 1599年 (慶長四年) 樂道入(ノンコウ)生まれる★ 1635年 (寛永十二年) 樂家二代・樂常慶没す▼ 1640年 (寛永十七年) 樂一入生まれる★ 1656年 (明暦二年) 樂家三代・樂道入(ノンコウ)没す▼ 1664年 (寛文四年) 樂宗入生まれる★ 1685年 (貞享二年) 樂左入生まれる★ 1696年 (元禄九年) 樂家四代・樂一入没す▼ 1714年 (正徳四年) 樂長入生まれる★ 1716年 (享保元年) 樂家五代・樂宗入没す▼ 1739年 (元文四年) 樂家六代・樂左入没す▼ 1745年 (延享二年) 樂得入生まれる★ 1756年 (宝暦六年) 樂了入生まれる★ 1770年 (明和七年) 樂家七代・樂長入没す▼ 1774年 (安永三年) 樂家八代・樂得入没す▼ 1795年 (寛政七年) 樂旦入生まれる★ 1817年 (文化十四年) 樂慶入生まれる★ 1834年 (天保五年) 樂家九代・樂了入没す▼ 1854年 (安政元年) 樂家十代・樂旦入没す▼ 1857年 (安政四年) 樂家十二代/樂弘入生まれる★ 1887年 (明治二十年) 樂家十三代/樂惺入生まれる★ 1902年 (明治三十五年) 樂家十一代/樂慶入没す▼ 1918年 (大正七年) 樂家十四代/樂覚入生まれる★ 1932年 (昭和七年) 樂家十二代/樂弘入没す▼ 1944年 (昭和十九年) 樂家十三代/樂惺入没す▼ 1949年 (昭和二十九年) 樂家十五代/樂直入生まれる★ 1980年 (昭和五十五年) 樂家十四代/樂覚入没す▼ 1981年 (昭和五十六年) 樂家十六代/樂吉左衛門生まれる★ 2019年 (令和元年) 十六代楽吉左衛門を襲名▲
- 2-1|永楽家とは|永楽善五郎|永楽家|土風炉・焼物師|千家十職|
千家十職 ■ 永楽家|永楽善五郎|土風炉・焼物師 ■ 永楽家とは ❚ 永楽家とは 永楽家~えいらくけ~とは、千家十職の内の一家で焼物を業とする職家。 仁清写、色絵、交趾など多彩な焼物を、千家の美意識に基づいた高度な技法で制作し、茶道具としての機能性と芸術性を兼ね備えた作品を生み出しています。 茶の湯の精神とともに歩み、千家好みの焼物を代々にわたり手がけてきたその技は、時代を経てもなお洗練され、伝統を守りながら新たな美を創造し続けています。 ❚ 永楽家のあゆみ 祖先はもともと大和国・西京(現材の奈良市西ノ京)に住む「土風炉師」であり、奈良の春日社(春日大社)の斎器(供御器)を制作していたと伝えられています。 永楽家初代/西村宗禅(生年不詳-1558)は千家開祖/抛筌斎千宗易利休(1522-1591)の師である堺の武野紹鷗(1502-1555)の依頼で「紹鷗好み」の茶の湯用土風炉を制作したことをきっかけに土風炉造りを家業とし、晩年には「土風炉師/善五郎」を名乗るようになります。 永楽家二代/西村宗善(生年不詳-1594)は大阪/堺に住んでいましたが、永楽家三代/西村宗全(生年不詳-1623)以降は京都に定着し、茶の湯文化の発展とともに名声を高めていきました。 特に永楽家三代/西村宗全(生年不詳-1623)は細川三斎(1563-1646)や小堀遠州(1579-1647)らの大名茶人の支持を得ており、小堀遠州の用命を受けた際に「宗全」の銅印を拝領。この「宗全印」は以降、永楽家九代/西村宗巌(生年不詳-1779)まで作品に用いられました。 ❚ 永楽の名 永楽家が千家に出仕するようになったの、は永楽家十代/永楽了全(1770-1841)以降だと考えらています。それ以前、永楽家は「西村」の姓を名乗っていましたが明治時代(1868-1912)に「永楽」の姓を名乗るようになります。 永楽という名は、中国明王朝時代(1368-1644)の優れた陶磁器を焼いた永楽帝時代(1402-1424)に由来し、永楽家十代/永楽了全以降は「永楽」の姓を名乗り、茶陶の制作に取り組むようになりました。 永楽家十一代/永楽保全(1795-1854)は文政十年(1827年)に、紀州藩十代藩主/徳川治寶(1771-1853)の別邸「西浜御殿」の御庭焼開窯を任され、その作品を賞して「河濱支流~かひんしりゅう~」の金印と「永楽」の銀印を拝領。 以降、この「永楽」の印を用いると共に永楽家十二代/永楽和全(1823-1896)の代から「永楽」姓を正式に名乗ることとなる。また歴代を遡って永楽家十代/永楽了全と永楽家十一代/永楽保全も「永楽」の名で呼ばれています。 ❚ 河濱支流とは 「河濱支流~かひんしりゅう~」という言葉は中国における陶磁器に関する最古の記述の一つである『史記』に由来します。 「瞬陶(ス)(二) 河濱(二)(一) 器皆不(二)苦歪(一) ―訳― 聖王・瞬が河のほとりで陶を焼いたところ、器はすべて歪まなかった この故事にちなみ、陶芸の理想を示す語として「河濱支流」と名づけられました。 「河濱」は陶を焼いた地、「支流」はその技と精神を受け継ぐ意を表しています。 ❚ 樂家とのすみわけ 千家十職の中には同じく茶碗を作る茶碗師「樂家/樂吉左衛門」が存在しますが永楽家は主に「伝世品の写し」などを作っており、樂焼のみを専門とする樂家とは住み分けがなされています。 このため、永楽家の作品には、樂焼以外の多様な技法が取り入れられており、歴代の永楽善五郎によって茶陶の美が研ぎ澄まされてきました。 ❚ まとめ 永楽家は、千家十職の土風炉・焼物師として、茶道の発展に欠かせない存在であり続けています。 その歴史は、武野紹鷗や千家開祖/抛筌斎千宗易利休の時代から連綿と続き、今日に至るまで、千家の茶の湯とともに歩んできました。 時代の流れに応じた変化を遂げながらも、受け継がれる技と精神は、今もなお茶の湯の世界で輝き続けています。
- ★2-2|土風炉/焼物師とは|永楽善五郎|永楽家|土風炉・焼物師|千家十職|
千家十職 ■ 永楽家|永楽善五郎|土風炉・焼物師 ■ 土風炉/焼物師とは ❚ 土風炉/ 焼物師とは ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
- 2-3|永楽家歴代|永楽善五郎|永楽家|土風炉・焼物師|千家十職|
千家十職 ■ 永楽家|永楽善五郎|土風炉・焼物師 ■ 永楽家|歴代 ❚ 永楽家|歴代 ■ 永楽家|初代 ■ 西村宗禅 ~にしむら・そうぜん~ 生年不詳 ― 永禄元年(1558年) 享年不詳 大和国西京西村に居住。 春日大社の供御器を制作。 ■ 永楽家|二代 ■ 西村宗善 ~にしむら・そうぜん~ 生年不詳 ― 文禄三年(1594年) 享年不詳 永楽家初代/西村宗禅の子として生まれる。 大坂・堺に移住。 ■ 永楽家|三代 ■ 西村宗全 ~にしむら・そうぜん~ 生没年不詳 ― 元和九年(1623年) 享年不詳 永楽家二代/西村宗善の子として生まれる。 大坂・堺を離れ京都に移住。 小堀遠州より「宗全」の銅印を拝領。 以後、九代まで「宗全印」を用いる。 ■ 永楽家|四代 ■ 西村宗雲 ~にしむら・そううん~ 生没年不詳 ― 承応二年(1653年) 享年不詳 ― ■ 永楽家|五代 ■ 西村宗筌 ~にしむら・そうせん~ 生没年不詳 ― 元禄十年(1697年) 享年不詳 ― ■ 永楽家|六代 ■ 西村宗貞 ~にしむら・そうてい~ 生没年不詳 ― 寛保元年(1741年) 享年不詳 ― ■ 永楽家|七代 ■ 西村宗順 ~にしむら・そうじゅん~ 生没年不詳 ― 延享元年(1744年) 享年不詳 千家に近い上京に移住。― ■ 永楽家|八代 ■ 西村宗圓 ~にしむら・そうえん~ 生没年不詳 ― 明和六年(1769年) 享年不詳 ― ■ 永楽家|九代 ■ 西村宗巌 ~にしむら・そうがん~ 生没年不詳 ― 安永八年(1779年) 享年不詳 ― ■ 永楽家|十代 ■ 永楽了全 ~えいらく・りょうぜん~ 明和七年(1770年) ― 天保十二年(1841年) 七十二歳 永楽家九代/西村宗厳の子として生まれる。 茶陶にも携わる。 天明八年(1788年)、「天明の大火」に罹災。 文化十四年(1817年)十一月、隠居。表千家九代/了々斎曠叔宗左より「了全」を拝領。 文政十年(1827年)、紀州徳川家の偕楽園焼に出仕。 ■ 永楽家|十一代 ■ 永楽保全 ~えいらく・ほぜん~ 寛政七年(1795年) ― 嘉永七年(1854年) 六十歳 沢井家の子。 永楽家十代/永楽了全の養子。 文化十四年(1817年)、家督を継承し、永楽家十一代を襲名。 明治四年(1871年)、「西村」姓から「永樂」姓に改姓。 文政十年(1827年)七月、越前守/藤原光寧から「保全」の名を受ける。 天保十四年(1843年)、家督を長男に譲り隠居し「善一郎」と名乗る。 嘉永四年(1851年)、近江国大津の琵琶湖畔に「湖南窯」を開窯。 嘉永五年(1852年)、高槻藩主/永井直輝候に召されて「高槻窯」開窯。 「幕末京焼の三大名工」と謳われる。 ■ 永楽家|十二代 ■ 永楽和全 ~えいらく・わぜん~ 文政六年(1823年) ― 明治二十九年(1896年) 七十四歳 永楽家十一代/永楽保全の長男として生まれる。 永楽家十三代/永楽宗三郎/回全の義兄。 天保十四年(1843年)、家督を継承し、永楽家十二代を襲名。 慶応元年(1865年)頃より「和全」の号を使用。 明治四年(1871年)、家督を長男に譲り隠居し「善一郎」と名乗る。 同年の「戸籍法」の制定により、正式に性を「永楽」とする。 明治十五年(1882年)、京都東山に「菊谷窯」を開窯。 ■ 永楽家|十三代 ■ 西山藤助/曲全 ~にしやまとうすけ・きょくぜん~ 文政二年(1819年) ― 明治十六年(1883年) 六十五歳 八歳の頃より永楽家十一代/永楽保全に養われ、永楽家十一代/永楽保全と永楽家十二代/永楽和全の二代にわたり「轆轤師」として仕える。 ― ■ 永楽家|十三代 ■ 永楽宗三郎/回全 ~えいらくそうざぶろう・かいぜん~ 天保五年(1834年) ― 明治九年(1876年) 四十二歳 塗師・佐野長寛の次男として生まれる。 弘化四年(1847年)、永楽家十一代/永楽保全の養子。 永楽家十二代/永楽和全の義弟。 分家し「西村宗三郎」と名乗る。 ■ 永楽家|十四代 ■ 永楽得全 ~えいらく・とくぜん~ 嘉永六年(1853年) ― 明治四十二年(1909年) 五十七歳 永楽家十四代/永楽和全の長男として生まれる。 明治四年(1871年)、家督を継承し、永楽家十四代を襲名。 明治十五年(1882年)、京都東山に「菊谷窯」を開窯。 ■ 永楽家|十四代室 ■ 永楽妙全 ~えいらく・みょうぜん~ 嘉永五年(1852年) ― 昭和二年(1927年) 七十六歳 京都長岡京市に生まれる。 二十歳の時に永楽家十四代/永楽得全に嫁ぐ。 明治四十三年(1910年)、三井高保より「悠」の印を拝領。 大正三年(1914年)、三井八郎右衛門高棟翁より「妙全」の号と一軸を賜る。 ■ 永楽家|十五代 ■ 永楽正全 ~えいらく・しょうぜん~ 明治十三年(1880年) ― 昭和七年(1932年) 五十三歳 永楽家十四代/永楽正全の甥。 永楽家十四代室/永楽妙全の甥。 建仁寺四世/竹田黙雷より「正全」の号を拝領。 三井高棟より「正全」印を拝領。 ■ 永楽家|十六代 ■ 永楽即全 ~えいらく・そくぜん~ 大正六年(1917年) ― 平成十年(1998年) 八十歳 永楽家十五代/永楽正全の長男として京都に生まれる。 昭和十年(1935年)、家督を継承し、永楽家十六代を襲名。 昭和十一年(1936年)、三井八郎右衛門高棟翁の大磯城山荘内に「城山窯」を築窯。 昭和十二年(1937年)、三井八郎右衛門高棟翁から陶用の「銀印」を賜る。 昭和十八年(1943年)、「工芸技術保存資格者」に認定。 昭和三十五年(1960年)、「京都伝統陶芸家協会」を結成。 昭和四十六年(1971年)、表千家十三代/即中斎無盡宗左より「陶然軒」の席号を授かる。 平成十年(1998年)、長男に家督を譲り隠居し、「即全」と号す。 ■ 永楽家|十七代 ■ 永楽而全 ~えいらく・じぜん~ 昭和十九年(1944年) ― 年(年) ―歳 永楽家十六代/永楽即全の長男として京都に生まれる。 昭和四十三年(1968年)、東京芸大大学院工芸科を修了 平成十年(1998年)一月一日、家督を継承し、永楽家十七代を襲名。 平成十六年(2004年)、表千家十四代/而妙斎宗左より「紘康庵」の号を賜る。 令和三年(2021年)、家督を譲り隠居し、「而全」と号す。 ■ 永楽家|十八代|当代 ■ 永楽善五郎 ~えいらく・ぜんごろう~ 昭和47年(1972年) ― 年(年) ―歳 昭和四十七年(1972年)、京都に生まれる。 平成十一年(1999年)、東京藝術大学美術研究科修士課程日本画専攻終了 令和三年(2021年)、家督継承し、永楽家十八代を襲名。 茶陶の制作のみならず土風炉の再興に取り組む。
- 2-4|永楽家年表|永楽善五郎|永楽家|土風炉・焼物師|千家十職|
千家十職 ■ 永楽家|永楽善五郎|土風炉・焼物師 ■ 永楽家|年表 ❚ 永楽家|年表 1558年 (永禄元年) 永楽家初代/西村宗禅没す▼ 1594年 (文禄三年) 永楽家二代/西村宗善没す▼ 1623年 (元和九年) 永楽家三代/西村宗全没す▼ 1653年 (承応二年) 永楽家四代/西村宗雲没す▼ 1697年 (元禄十年) 永楽家五代/西村宗筌没す▼ 1741年 (寛保元年) 永楽家六代/西村宗貞没す▼ 1744年 (延享元年) 永楽家七代/西村宗順没す▼ 1769年 (明和六年) 永楽家八代/西村宗圓没す▼ 1770年 (明和七年) 永楽家十代/永楽了全生まれる★ 1779年 (安永八年) 永楽家九代/西村宗巌没す▼ 1795年 (寛政七年) 永楽家十一代/永楽保全生まれる★ 1819年 (文政二年) 永楽家十三代/西山藤助・曲全生まれる★ 1823年 (文政六年) 永楽家十二代/永楽和全生まれる★ 1834年 (天保五年) 永楽家十三代/永楽宗三郎・回全生まれる★ 1841年 (天保十二年) 永楽家十代/永楽了全没す▼ 1852年 (嘉永五年) 永楽家十四代室/永楽妙全生まれる★ 1853年 (嘉永六年) 永楽家十四代/永楽得全生まれる★ 1854年 (嘉永七年) 永楽家十一代/永楽保全没す▼ 1876年 (明治九年) 永楽家十三代/永楽宗三郎・回全没す▼ 1880年 (明治十三年) 永楽家十五代/永楽正全生まれる★ 1883年 (明治十六年) 永楽家十三代/西山藤助・曲全没す▼ 1896年 (明治二十九年) 永楽家十二代/永楽和全没す▼ 1909年 (明治四十二年) 永楽家十四代/永楽得全没す▼ 1917年 (大正六年) 永楽家十六代/永楽即全生まれる★ 1927年 (昭和二年) 永楽家十四代室/永楽妙全没す▼ 1932年 (昭和七年) 永楽家十五代/永楽正全没す▼ 1944年 (昭和十九年) 永楽家十七代/永楽而全生まれる★ 1972年 (昭和四十七年) 永楽家十八代/永楽善五郎生まれる★ 1998年 (平成十年) 永楽家十六代/永楽即全没す▼
- 3-1|大西家とは|大西清右衛門|大西家|釜師|千家十職|
千家十職 ■ 大西家|大西清右衛門|釜師 ■ 大西家とは ❚ 大西家とは 大西家とは、千家十職の内の一家で鋳物を業とする職家。 大西家の釜は、時代ごとの茶道の美意識に寄り添いながらも、伝統的な鋳造技法を継承し、千家の茶の湯にふさわしい形や意匠を追求してきました。 釜は茶の湯の根幹を支える道具のひとつであり、その造形の美しさと実用性を兼ね備えた作品は、茶会の趣を大きく左右します。 大西家は、茶の湯の発展とともに技術を磨き、千家好みの茶釜を代々にわたり制作してきました。 時代の変遷を経ながらも、伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在として今日に至ります。 ❚ 大西家のあゆみ 大西家の家祖は山城国/南山城広瀬村(現在の京都府南山城村大字田山小字広瀬)の出身で、当初は「広瀬」姓を名乗っていました。 この地は京都府唯一の村で京都府と滋賀県、三重県、奈良県の四県境に位置し、古くから鋳物師の里として知られていました。 大西家のはじまりは大西家初代/大西浄林(1590-1663)が二人の弟達と京へ上洛し、三条釜座の座人になったこといなります。 三条釜座は、当時の京における釜師の中心地であり、茶の湯釜の製作を担う重要な役割を担っていました。大西家初代/大西浄林はここで技を磨きながら名声を高め、その技をもって茶の湯の世界に深く関わるようになります。 以後、大西家四代/大西浄頓(1645-1700)以降、大西家九代/大西浄元(1749-1811)を除き、代々の当主は「清右衛門」の名を継承し、千家十職の釜師として表千家・裏千家・武者小路千家の各家に茶の湯釜を納め続けました。 大西家の釜は、単なる道具ではなく、茶の湯の精神そのものを映す芸術品として高く評価されています。千家十職の釜師として茶道と深く結びつき伝統を守りながらも時代の感性を取り入れ、鋳物師としての誇りと美意識を今に伝えています。 ❚ 大西清右衛門美術館 大西家は京都市中京区三条釜座に工房を構え、代々受け継がれてきた伝統の技を今に伝えています。 併設の「大西清右衛門美術館」では、歴代の茶の湯釜や関連資料を展示し、釜師の歩みとその技を広く紹介しています。伝統を守りながらも、今日の茶人の感性や要望に応じた作品づくりに努め、茶の湯文化の継承と発展に貢献しています。 [所 在 地] 〒604-8241 京都市中京区三条通新町西入る釜座町18-1 [連 絡 先] 075-221-2881 [公式 HP] http://www.seiwemon-museum.com/
- ★3-2|釜とは|大西清右衛門|大西家|釜師|千家十職|
千家十職 ■ 大西家|大西清右衛門|釜師 ■ 釜とは ❚ はじめに ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ❚ 釜とは ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
- 3-3|大西家歴代|大西清右衛門|大西家|釜師|千家十職|
千家十職 ■ 大西家|大西清右衛門|釜師 ■ 大西家|歴代 ❚ 大西家|歴代 ■ 大西家|初代 ■ 大西浄林 ~おおにし・じょうりん~ 天正十八年(1590年) ― 寛文三年(1663年) 七十三歳 山城国南山城広瀬村の出身。 大西浄久の兄 江戸大西家/大西定林の父 「広瀬」姓から「大西」姓に改姓 ■ 大西家|二代 ■ 大西浄清 ~おおにし・じょうせい~ 文禄三年(1594年) ― 天和二年(1682年) 八十八歳 大西家初代/大西浄林の弟。 大西浄久の兄 江戸大西家/大西定林の父 大西家歴代随一の名工と称される。 ■ 大西家|三代 ■ 大西浄玄 ~おおにし・じょうげん~ 寛永七年(1630年) ― 貞享元年(1684年) 五十四歳 大西家二代/大西浄清の長男として京都に生まれる。 ■ 大西家|四代 ■ 大西浄頓 ~おおにし・じょうとん~ 天保二年(1645年) ― 元禄十三年(1700年) 五十五歳 大西家三代/大西浄玄の長男として京都に生まれる。 ■ 大西家|五代 ■ 大西浄入 ~おおにし・じょうにゅう~ 天保四年(1647年) ― 正徳六年(1716年) 六十九歳 。 ■ 大西家|六代 ■ 大西浄元 ~おおにし・じょうげん~ 元禄二年(1689年) ― 宝暦十二年(1762年) 七十三歳 大西家四代/大西浄頓の子として京都に生まれる。 この頃から千家に出仕。 大西家九代/大西浄元と区別して「古浄元」と呼称される。 ■ 大西家|七代 ■ 大西浄玄 ~おおにし・じょうげん~ 享保五年(1720年) ― 天明三年(1783年) 六十三歳 大西家六代/大西浄元の子として京都に生まれる。 他の浄元と区別し「くろ玄」と呼称される。 「大西家中興の祖」と称される。 ■ 大西家|八代 ■ 大西浄本 ~おおにし・じょうほん~ 延享四年(1747年) ― 天明五年(1785年) 三十八歳 大西家七代/大西浄玄の子として京都に生まれる。 諡「浄本」。 ■ 大西家|九代 ■ 大西浄元 ~おおにし・じょうげん~ 寛延二年(1749年) ― 文化八年(1811年) 六十二歳 奥平善四郎の子として信濃国に生まれる。 表千家八代/啐啄斎件翁宗左の勧めで大西家の養子となり家督を継承。 「古浄元」や「浄玄」と区別し「佐兵衛浄元」と呼称される。 ■ 大西家|十代 ■ 大西浄雪 ~おおにし・じょうせつ~ 安永六年(1777年) ― 嘉永五年(1852年) 七十五歳 大西家九代/大西浄元の長男として京都に生まれる。 奥平了保の兄。 表千家九代/了々斎曠叔宗左より「浄雪」の号を授かる。 表千家十代/吸江斎祥翁宗左より「弄鋳軒」の号を授かる。 大西家随一の学者として称される。 ■ 大西家|十一代 ■ 大西浄寿 ~おおにし・じょうじゅ~ 文化五年(1808年) ― 明治八年(1875年) 六十七歳 森家の子。 大西家十代/大西浄雪の養子。 表千家11代碌々斎宗左より「浄寿」の号を授かる。 ■ 大西家|十二代 ■ 大西浄典 ~おおにし・じょうてん~ 天保十二年(1841年) ― 明治二年(1869年) 二十八歳 [父]大西家十一代/大西浄寿の長男として京都に生まれる。 ■ 大西家|十三代 ■ 大西浄長 ~おおにし・じょうちょう~ 慶応二年(1866年) ― 昭和十八年(1943年) 七十七歳 [父]大西家十二代/大西浄典と[母]樂家十一代/樂慶入の長女・みねの長男として京都に生まれる。 表千家12代惺斎宗左より「浄長」の号を授かる。 ■ 大西家|十四代 ■ 大西浄中 ~おおにし・じょうちゅう~ 明治二十一年(1888年) ― 昭和三十五年(1960年) 七十二歳 大西家十三代/大西浄長の長男として京都に生まれる。 昭和元年(1926年)、家督を継承し、大西家十四代を襲名。 表千家13代即中斎宗左より「中」の一字を授かって「浄中」と諡されました。 ■ 大西家|十五代 ■ 大西浄心 ~おおにし・じょうしん~ 大正十三年(1924年) ― 平成十四年(2002年) 七十八歳 大西家十四代/大西浄中の長男として生まれる。 昭和三十五年(1960年)、家督を継承し、大西家十五代を襲名。 ■ 大西家|十六代|当代 ■ 大西清右衛門 ~おおにし・せいうえもん~ 昭和三十六年(1961年) ― 年(年) ―歳 大西家十五代/大西浄心の長男として京都に生まれる。 大阪芸術大学彫刻科卒業。 平成五年(1993年)、家督を継承し、大西家十六代を襲名。 平成十年(1998年)十月、「大西清右衛門美術館」開館。
- 3-4|大西家年表|大西清右衛門|大西家|釜師|千家十職|
千家十職 ■ 大西家|大西清右衛門|釜師 ■ 大西家|年表 ❚ 大西家|年表 1590年 (天正十八年) 大西家初代/大西浄林生まれる★ 1594年 (文禄三年) 大西家二代/大西浄清生まれる★ 1630年 (寛永七年) 大西家三代/大西浄玄生まれる★ 1645年 (寛永二十二年) 大西家四代/大西浄頓生まれる★ 1647年 (正保四年) 大西家五代/大西浄入生まれる★ 1663年 (寛文三年) 大西家初代/大西浄林死去▼ 1682年 (天和二年) 大西家二代/大西浄清死去▼ 1684年 (貞享元年) 大西家三代/大西浄玄死去▼ 1689年 (元禄二年) 大西家六代/大西浄元生まれる★ 1700年 (元禄十三年) 大西家四代/大西浄頓死去▼ 1716年 (正徳六年) 大西家五代/大西浄入死去▼ 1720年 (享保五年) 大西家七代/大西浄玄生まれる★ 1747年 (延享四年) 大西家八代/大西浄本生まれる★ 1749年 (寛延二年) 大西家九代/大西浄元生まれる★ 1762年 (宝暦十二年) 大西家六代/大西浄元死去▼ 1777年 (安永六年) 大西家十代/大西浄雪生まれる★ 1783年 (天明三年) 大西家七代/大西浄玄死去▼ 1785年 (天明五年) 大西家八代/大西浄本死去▼ 1808年 (文化五年) 大西家十一代/大西浄寿生まれる★ 1811年 (文化八年) 大西家九代/大西浄元死去▼ 1841年 (天保十二年) 大西家十二代/大西浄林生まれる★ 1852年 (嘉永五年) 大西家十代/大西浄雪死去▼ 1866年 (慶応二年) 大西家十三代/大西浄長生まれる★ 1869年 (明治二年) 大西家十二代/大西浄林死去▼ 1875年 (明治八年) 大西家十一代/大西浄寿死去▼ 1888年 (明治二十一年) 大西家十四代/大西浄中生まれる★ 1924年 (大正十三年) 大西家十五代/大西浄心生まれる★ 1943年 (昭和十八年) 大西家十三代/大西浄長死去▼ 1960年 (昭和三十五年) 大西家十四代/大西浄中死去▼ 1961年 (昭和三十六年) 大西家当代/大西清右衛門生まれる★ 2002年 (平成十四年) 大西家十五代/大西浄心死去▼
- 4-1|奥村家とは|奥村吉兵衛|奥村家|表具師|千家十職|
千家十職 ■ 奥村家|奥村吉兵衛|表具師 ■ 奥村家とは ❚ 奥村家とは 奥村家とは、千家十職の内の一家で表具を業とする職家。 奥村家の表具は、茶室のしつらえを整えるために欠かせない存在です。 千家の美意識に基づいた意匠と技法によって制作され、掛軸の装飾だけでなく、書や絵の保存・保護の役割を果たし、茶会の趣を演出します。 茶の湯の発展とともに技術を磨き続けてきた奥村家は、時代を超えて伝統の技法を守りながら、千家好みの表具を作り続けています。 その作品は、簡素の中に品格を宿し、茶の湯の世界に欠かせない存在となっています。 ❚ 奥村家のあゆみ 奥村家の遠祖は、近江国谷の庄に居住した武士・奥村三郎定道(生没年不詳)と伝えられています。 奥村三郎定道は小谷城の浅井家に仕えましたが、天正元年(1573年)八月の「姉川の合戦」で浅井家が滅亡したのち浪人となりました。 その子、奥村源六郎定次(生没享年不詳)は長男の奥村源子郎(生没享年不詳)を加賀/前田家に出仕させ摂津守定光と名乗り、「関ヶ原の合戦」で武功をたて加賀藩士となりました。 一方、次男の奥村家初代/吉右衛門清定(1618-1700)は武士を離れ、京都に上って「小川通上立売上ル」に住み、母方の家職を継いで表具師として独立。 この吉右衛門清定が奥村家の初代とされ承応三年(1654年)の三十七歳の時に表具屋を開業したこの年が奥村家の創業の年としています。 また現在の地「釜座/夷川上ル亀屋町」の住まいは明治時代になってからとされています。 奥村家二代/奥村吉兵衛(休意)(1643-1719)は表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)の取りなしにより、紀州徳川家の御用達を努め、奥村家の基礎を確立。 その後、数代に渡り男子が夭折。跡取りには恵まれず、代々婿養子を郷里の北近江より迎え、家を継いでいます。 奥村家六代/奥村吉兵衛(休栄)(1795-1837)は奥村家の功績をまとめるために調査を重ね、家系図はもちろん、歴代の表具作成の記録などを文書化。 奥村家八代/奥村吉兵衛(蒿庵)(1804-1867)は歴代の中でも最も名手といわれる一方、国学、儒学に通じ、尊皇攘夷派の学者や志士と深く交わりを持った人物とされる。しかし明治維新後の文明開化により茶道が衰退し、他の職家と共に奥村家も困難な時代を迎えることとなる。 その後、奥村家九代/奥村吉兵衛(1841-1908)は、この困難な時代に名跡を継ぎ、奥村家の建て直しに尽力。 以降も千家の信頼を受けながら、今日までその技と伝統を守り続けています。
- ★4-2|表具とは|奥村吉兵衛|奥村家|表具師|千家十職|
千家十職 ■ 奥村家|奥村吉兵衛|表具師 ■ 表具とは ❚ まとめ ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ❚ 表具とは ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
- 4-1|奥村家歴代|奥村吉兵衛|奥村家|表具師|千家十職|
千家十職 ■ 奥村家|奥村吉兵衛|表具師 ■ 奥村家|歴代 ❚ 奥村家|歴代一覧 ■ 奥村家|初代 ■ 奥村吉右衛門清定 ~おくむら・きちえもん・きよさだ~ 元和四年(1618年) ― 元禄十三年(1700年) 八十三歳 奥村定次の次男として生まれる。 正保三年(1646年)、京都へ上洛、承認へ転業。 承応三年(1654年)、母方の家職を継ぎ、表具屋業を開業。 屋号「近江屋吉兵衛」を名乗る。 ■ 奥村家|二代 ■ 奥村吉右衛門休意 ~おくむら・きちえもん・きゅうい~ 嘉永二十年(1643年) ― 享保四年(1719年) 七十七歳 奥村家初代/奥村吉右衛門清定の長男として生まれる。 紀州徳川家の表具御用達を務める。 元禄十一年(1698年)、表千家への出入りを許される。 以後、当主は「吉兵衛」を名乗る ■ 奥村家|三代 ■ 奥村吉右衛門休誠 ~おくむら・きちえもん・きゅうせい~ 寛文八年(1668年) ― 寛保三年(1743年) 七十六歳 奥村家二代/奥村吉右衛門休意の長男として生まれる。 ■ 奥村家|四代 ■ 奥村吉五郎 ~おくむら・きちごろう~ 元文二年(1737年) ― 天明元年(1781年) 四十五歳 田辺家の子。 奥村家三代/奥村吉右衛門休誠の婿養子。 奥村家三代/奥村吉右衛門休誠の長女・ギンの夫。 ■ 奥村家|五代 ■ 奥村吉兵衛了誠 ~おくむら・きちべえ・りょうせい~ 宝暦五年(1755年) ― 文政八年(1825年) 七十一歳 松井家の子。 奥村家三代/奥村吉右衛門休誠の婿養子。 奥村家三代/奥村吉右衛門休誠の長女・ギンの後夫。 天明八年(1788年)、「天明の大火」に罹災。 ■ 奥村家|六代 ■ 奥村吉兵衛休栄 ~おくむら・きちべえ・きゅうえい~ 安永九年(1780年) ― 嘉永元年(1848年) 六十九歳 宮部家の子。 奥村家四代/奥村吉五郎の婿養子。 奥村家四代/奥村吉五郎の娘・カメの夫。 ■ 奥村家|七代 ■ 奥村吉次郎休音 ~おくむら・きちじろう・きゅうおん~ 寛政七年(1795年) ― 天保八年(1837年) 四十三歳 奥村家六代/奥村吉兵衛休栄の婿養子。 奥村家六代/奥村吉兵衛休栄の娘・イクの夫。 印判を使いはじめる。 ■ 奥村家|八代 ■ 奥村吉兵衛蕎庵 ~おくむら・きちべえ・きょうあん~ 文化元年(1804年) ― 慶応三年(1867年) 六十四歳 「表具の達人」と称される。 ■ 奥村家|九代 ■ 奥村吉兵衛 ~おくむら・きちべえ~ 天保十二年(1841年) ― 明治四十一年(1908年) 六十八歳 奥村家八代/奥村吉兵衛蕎庵の子として京都に生まれる。 釜座通夷川に転居。 ■ 奥村家|十代 ■ 奥村吉次郎 ~おくむら・きちじろう~ 明治二年(1869年) ― 昭和十九年(1944年) 七十六歳 奥村家九代/奥村吉兵衛の長男として生まれる。 明治四十一年(1908年)、家督を継承し、奥村家十代を襲名。 ■ 奥村家|十一代 ■ 奥村吉兵衛一道 ~おくむら・きちべえ・いちどう~ 明治三十四年(1901年) ― 昭和六十二年(1987年) 八十七歳 奥村家十代/奥村吉次郎の長男として生まれる。 ■ 奥村家|十二代 ■ 奥村吉兵衛 ~おくむら・きちべえ~ 昭和九年(1934年) ― 2019年(年) ―歳 奥村家十一代/奥村吉兵衛の長男として生まれる。 昭和三十五年(1960年)より家元に出仕。 昭和六十一年(1986年)、家督を継承し、奥村家十二代を襲名。 ■ 奥村家|十三代|当代 ■ 奥村吉兵衛 ~おくむら・きちべえ~ 昭和九年(1934年) ― 年(年) ―歳 平成二十八年(2016年)、家督を継承し、奥村家十三代を襲名。
- 4-4|奥村家年表|奥村吉兵衛|奥村家|表具師|千家十職|
千家十職 ■ 奥村家|奥村吉兵衛|表具師 ■ 奥村家|年表 ❚ 奥村家|年表 1618年 (元和四年) 奥村家初代/奥村吉右衛門清定生まれる★ 1643年 (嘉永二十年) 奥村家二代/奥村吉右衛門休意生まれる★ 1668年 (寛文八年) 奥村家三代/奥村吉右衛門休誠生まれる★ 1700年 (元禄十三年) 奥村家初代/奥村吉右衛門清定死去▼ 1719年 (享保四年) 奥村家二代/奥村吉右衛門休意死去▼ 1737年 (元文二年) 奥村家四代/奥村吉五郎生まれる★ 1743年 (寛保三年) 奥村家三代/奥村吉右衛門休誠死去▼ 1755年 (宝暦五年) 奥村家五代/奥村吉兵衛了誠生まれる★ 1780年 (安永九年) 奥村家六代/奥村吉兵衛休栄生まれる★ 1781年 (天明元年) 奥村家四代/奥村吉五郎死去▼ 1795年 (寛政七年) 奥村家七代/奥村吉次郎休音生まれる★ 1804年 (文化元年) 奥村家八代/奥村吉兵衛蕎庵生まれる★ 1825年 (文政八年) 奥村家五代/奥村吉兵衛了誠死去▼ 1837年 (天保八年) 奥村家七代/奥村吉次郎休音死去▼ 1841年 (天保十二年) 奥村家九代/奥村吉兵衛生まれる★ 1848年 (嘉永元年) 奥村家六代/奥村吉兵衛休栄死去▼ 1867年 (慶応三年) 奥村家八代/奥村吉兵衛蕎庵死去▼ 1869年 (明治二年) 奥村家十代/奥村吉次郎生まれる★ 1901年 (明治三十四年) 奥村家十一代/奥村吉兵衛一道生まれる★ 1908年 (明治四十一年) 奥村家九代/奥村吉兵衛死去▼ 1934年 (昭和九年) 奥村家十二代/奥村吉兵衛生まれる★ 1944年 (昭和十九年) 奥村家十代/奥村吉次郎死去▼ 1987年 (昭和六十二年) 奥村家十一代/奥村吉兵衛一道死去▼
- 5-1|黒田家とは|黒田正玄|黒田家|竹細工・柄杓師|千家十職|
千家十職 ■ 黒田家|黒田正玄|竹細工・柄杓師 ■ 黒田家とは ❚ 黒田家とは 黒田家とは、千家十職の内の一家で竹細工を業とする職家。 黒田家の作品は、千家の美意識と茶の湯の機能美を兼ね備え、シンプルながらも洗練された造形が特徴で竹の質感や節の使い方に細心の注意を払い、一つひとつの道具に風格と趣を持たせています。 茶の湯の発展とともに技術を磨き、代々「千家好み」の竹細工を制作してきた黒田家の作品は、時代を越えて伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在となっています。 ❚ 茶の湯と竹 黒田家は茶杓、柄杓をはじめ台子、香合、花入など竹を用いた茶道具を製作する職家です。 千家十職の一つとして、代々その技術を継承し、茶の湯の美意識に即した作品づくりを続けてきました。 竹は古くから茶の湯において欠かせない素材であり、「わび茶」を完成させた武野紹鷗(1502-1555)は自ら竹の茶杓を削り、千家開祖/抛筌斎千宗易利休(1522-1591)も「尺八」「園城寺(一重切)」「よなが(二重切)」などの竹花入を手がけ、「泪」「ゆがみ」などの茶杓を削ったことで知られています。 名匠の手による竹の茶杓は金属や象牙の杓のものをしのぐ価値を持つようになり、その後の茶人たちは千家開祖/抛筌斎千宗易利休にならい、自ら「竹を切り」、「茶杓を削り」、竹の道具を作る文化を広めました。 これにより、竹と茶の湯の関係は一層深まり、「竹花入」「籠花入」「茶杓」「籠炭斗」「竹蓋置」「香合」「水指」「菓子器」など、多岐にわたる茶道具が生み出されていきました。 ❚ 黒田家のあゆみ 黒田家初代/黒田正玄(1578-1653)は、元は武士で、丹羽長重(1571-1637)に仕えていましたが、関ヶ原の戦いにおいて丹羽長重が西軍についたことで改易となり浪人となる。これを機に剃髪し、大津に移り住み、竹細工師として生計を立てるようになります。 その高い技術は評判を呼び、遠州流開祖/小堀遠州(1579-1647)からの注文を受け、茶の湯や江戸幕府とのつながりを構築。 また千家との関係がはじまったのは黒田家三代/黒田正玄(1656-1717)の時代と伝えられ、表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)の御用を勤めたのがその契機とされています。以後、黒田家は千家御用達の竹細工師として地位を確立し、将軍家にも納めるようになります。 ❚ 明治以降の黒田家 黒田家八代/黒田正玄(1809-1869)までは将軍家御用柄杓師として努めるが次代の黒田家九代/黒田正玄(1837-1859)が早世。 急遽婿養子となった黒田家十代/黒田正玄(1825-1900)が家督を継ぐも明治維新の動乱期と重なり、庇護者である幕府が崩壊、茶の湯も衰退する中、家業の保持に苦心することとなる。 その後、黒田家十一代/黒田正玄(1869-1911)も早世し、黒田家十二代/黒田正玄(1880-1973)は周囲の支援を得ながら、戦中・戦後の困難な時代を経ながらも、黒田家は周囲の支援を得て竹細工の伝統を守り抜きました。 黒田家は、竹のもつ柔らかな表情と力強さを生かした茶道具を代々手がけ、茶の湯に欠かせない職家としてその名を残しています。 茶杓や柄杓をはじめとする竹細工の技術は今も息づき、千家の美意識とともに受け継がれています。
- ★5-2|竹細工とは|黒田正玄|黒田家|竹細工・柄杓師|千家十職|
千家十職 ■ 黒田家|黒田正玄|柄杓・竹細工師 ■ 竹細工とは ❚ はじめに ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ❚ 竹細工とは ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
- 5-3|黒田家歴代|黒田正玄|黒田家|竹細工・柄杓師|千家十職|
千家十職 ■ 黒田家|黒田正玄|竹細工・柄杓師 ■ 黒田家|歴代 ❚ 黒田家|歴代 ■ 黒田家|初代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 天正六年(1578年) ― 承応二年(1653年) 七十六歳 越前国黒田郡の出身。 二十三歳の頃、剃髪して「正玄」と改名。 近江国大津で竹細工をはじめる。 ■ 黒田家|二代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 寛永二年(1625年) ― 貞享四年(1687年) 六十三歳 黒田家初代/黒田正玄の三男として生まれる。 三代徳川家光の御用柄杓師を務める。 了応二年(1653年)、家督を継承し、黒田家二代を襲名。 ■ 黒田家|三代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 明暦二年(1656年) ― 享保四年(1717年) 六十二歳 黒田家二代/黒田正玄の長男として生まれる。 五代徳川綱吉の御用柄杓師を務める。 宝暦元年(1704年)、長男・弥吉に家督を譲り隠居。 隠居後、「正斎」と号す。 この頃より千家に出入りする。 ■ 黒田家|四代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 元禄五年(1692年) ― 享保十六年(1731年) 四十歳 黒田家三代/黒田正玄の長男として生まれる。 五代徳川綱吉の御用柄杓師を務める。 宝暦元年(1704年)、家督を継承し、黒田家四代を襲名。 ■ 黒田家|五代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 宝永五年(1708年) ― 安永七年(1778年) 七十一歳 黒田家四代/黒田正玄の養子。 八代徳川吉宗の御用柄杓師を務める。 北小路室町に移る。 ■ 黒田家|六代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 延享四年(1747年) ― 文化十一年(1814年) 六十八歳 黒田家五代/黒田正玄の次男として生まれる。 三十一歳の時に家督を継承し、黒田家六代を継承。 十代徳川家治の御用柄杓師を務める。 天明八年(1788年)、「天明の大火」に罹災。 ■ 黒田家|七代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 明和五年(1768年) ― 文政二年(1819年) 五十二歳 井上家の子。 黒田家六代/黒田正玄の養子。 文化十二年(1815年)、家督を継承し、黒田家七代を襲名。 十一代徳川家斉の御用柄杓師を務める。 ■ 黒田家|八代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 文化六年(1809年) ― 明治二年(1869年) 六十一歳 黒田家七代/黒田正玄の長男として生まれる。 十二代徳川家慶の御用柄杓師を務める。 文政二年(1819年)、家督を継承し、黒田家八代を襲名。 ■ 黒田家|九代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 天保八年(1837年) ― 安政六年(1859年) 二十三歳 黒田家八代/黒田正玄の養子。 ■ 黒田家|十代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 文政八年(1825年) ― 明治三十三年(1900年) 七十六歳 黒田家八代/黒田正玄の婿養子。 明治二年(1869年)、家督を継承し、黒田家十代を襲名 明治十四年(1881年)、長男に家督を譲り隠居。 ■ 黒田家|十一代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 明治二年(1869年) ― 明治四十四年(1911年) 四十三歳 黒田家十代/黒田正玄の長男として生まれる。 黒田宗傳の兄。 明治十六年(1883年)、家督を継承し、黒田家十一代を襲名。 ■ 黒田家|十二代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 明治十三年(1880年) ― 昭和四十八年(1973年) 九十四歳 黒田家十一代/黒田正玄の室。 昭和十八年(1943年)、「政府認定/技術保存資格者」に認定。 昭和四十一年(1966年)、家督を譲る。 ■ 黒田家|十三代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 昭和十一年(1936年) ― 平成二十九年(2017年) 八十一歳 早稲田大学第一文学部卒業 昭和四十一年(1966年)、家督を継承し、黒田家十三代を襲名。 平成二十六年(2014年)一月、長女に家督を譲り、自身は剃髪し「弄竹斉玄督」と号す。 ■ 黒田家|十四代|当代 ■ 黒田正玄 ~くろだ・しょうげん~ 昭和四十二年(1967年) ― 年(年) ―歳 黒田家十三代/黒田正玄の長女として生まれる。 平成十八年(2006年)より千家に出仕。 平成二十六年(2014年)、家督を継承し、黒田家十四代を襲名。 黒田家初の女性当主。
- 5-4|黒田家年表|黒田正玄|黒田家|竹細工・柄杓師|千家十職|
千家十職 ■ 黒田家|黒田正玄|竹細工・柄杓師 ■ 黒田家|年表 ❚ 黒田家|年表 1578年 (天正六年) 黒田家初代/黒田正玄 生まれる★ 1625年 (寛永二年) 黒田家二代/黒田正玄 生まれる★ 1653年 (承応二年) 黒田家初代/黒田正玄 死去▼ 1656年 (明暦二年) 黒田家三代/黒田正玄 生まれる★ 1687年 (貞享四年) 黒田家二代/黒田正玄 死去▼ 1692年 (元禄五年) 黒田家四代/黒田正玄 生まれる★ 1708年 (宝永五年) 黒田家五代/黒田正玄 生まれる★ 1717年 (享保四年) 黒田家三代/黒田正玄 死去▼ 1731年 (享保十六年) 黒田家四代/黒田正玄 死去▼ 1747年 (延享四年) 黒田家六代/黒田正玄 生まれる★ 1768年 (明和五年) 黒田家七代/黒田正玄 生まれる★ 1778年 (安永七年) 黒田家五代/黒田正玄 死去▼ 1809年 (文化六年) 黒田家八代/黒田正玄 生まれる★ 1814年 (文化十一年) 黒田家六代/黒田正玄 死去▼ 1819年 (文政二年) 黒田家七代/黒田正玄 死去▼ 1825年 (文政八年) 黒田家十代/黒田正玄 生まれる★ 1837年 (天保八年) 黒田家九代/黒田正玄 生まれる★ 1859年 (安政六年) 黒田家九代/黒田正玄 死去▼ 1869年 (明治二年) 黒田家十一代/黒田正玄 生まれる★ 1869年 (明治二年) 黒田家八代/黒田正玄 死去▼ 1880年 (明治十三年) 黒田家十二代/黒田正玄 生まれる★ 1900年 (明治三十三年) 黒田家十代/黒田正玄 死去▼ 1911年 (明治四十四年) 黒田家十一代/黒田正玄 死去▼ 1936年 (昭和十一年) 黒田家十三代/黒田正玄 生まれる★ 1967年 (昭和四十二年) 黒田家当代/黒田正玄 生まれる★ 1973年 (昭和四十八年) 黒田家十二代/黒田正玄 死去▼ 2017年 (平成二十九年) 黒田家十三代/黒田正玄 死去▼

















